日記

2024/09/25

東京国際映画祭のラインナップが発表されたばかりだが、こちらは明日からバンクーバー国際映画祭が始まる。私はアーロン・シンバーグ「A Different Man」、マシュー・ランキン「Universal Language」、ジャック・オーディアール「Emilia Pérez」をおさえている。ちょっと出遅れてしまったので、はじめひとつしかチケットを予約できていなかったが、こまめにサイトをチェックしていたらキャンセル空きが出て残りふたつも滑り込めた。とくに、クロージング作品の「Emilia Pérez」を見に行けるというのは、お祭りという観点から見てだいぶうれしい。今年のカンヌでパルムドールを取ったショーン・ベイカー「Anora」についてはまだ粘っているところだ。

チケットはひとつ約20ドルで、こっちで普通のシネコンに行くよりやや高いが、物価を考えると日本よりお得感がある。コーヒー、ビール、映画と、私の好きなコンテンツがどれも良心的な価格でアベイラブルというのは大変ありがたいが、これにはもっともらしい理由がある。(1)私が基本的には西洋かぶれで、(2)日本では舶来品が割高で、(3)こちらでは適正料金になっている、というわけだ。なんというか、輸入品としてのみ愛好していた諸カルチャーに、本場で触れられることには新鮮なおどろきがある。

バンクーバーに来ておひとり時間が倍増したので、VIFFでなくてもタガが外れたように映画を見ている。学部1年の春みたいだ。孤独に対するセルフケアとして、私が知っているものの筆頭が映画鑑賞なのだろう。

2024/09/18

天気が良かったので、朝から支度をしてブロードウェイ駅まで出かけてきた。Elysian Coffeeでナイトロのコールドブリューを飲む。これがたいそう美味かった。窒素ガスを加えたナイトロはビールで有名(レフトハンドのMilk Stoutとか)だが、コーヒーもあるというのはこっちに来るまで知らなかった。クリーミーな口当たりで、苦みが抑えられ、甘みと酸味が際立っている感じがする。ダウンタウンにTimbertrainという、ナイトロで有名な別のコーヒー屋もあるので近い内に行くつもりだ。

天気が良い日は屋外で作業するのにハマっている。今日はElysianから歩いてチャールソン公園までやってきた。フォールス川をまたいでダウンタウン南端と向き合った、大きな公園だ。開放的なドッグランがあり(こちらのドッグランは広いので、フェンスすらないことが多い)、小籔と丘と遊具がある。歩道沿いにベンチがいくつもあるので、そのひとつでPeacocke (2021)の美的価値論を読んでいた。水辺なので、日陰だとちょっと寒いが、日向はフィールグッドだった。川をまたいだ向こう側には高層ビル群が立ち並んでいるが、さらに向こうの山々が見えるよう、景観保存のあれがあるらしい。ビルの隙間に山頂が気持ち程度見えているだけなので、これで美的に満足できる人がいるというのは信じがたいのだが。

午後、歩いて駅の反対側に移動し、33 Acres Brewingのタップルームに立ち寄った。日本でもよく見かける、黒い丸や太極図のラベルが目立つビール屋だ。洒落た雰囲気の店内で、IPAとチップスを添えてさらに2時間ほど作業した。大きいテーブルがあり、平日昼間はかなり空いていたので、ビール屋で作業というのはけっこうありかもしれない。NirvanaというIPAは無難によかったが、7.0度を24oz(約700ml)というのはちょっと肝臓に来た。こっちに来てから家では飲酒しないようになったので、ややアルコールに弱くなっている気がする。返すべきメールを返し、推敲すべきドラフトを推敲するなどした。

49mlのアルコールにいくらかやられた頭で、No Frillsに立ち寄り食料品を買った。万物が高いバンクーバーにしては、噂通り、お買い得商品の多いスーパーだ。いろいろ買ったが、4.5kgというバカみたいな量のじゃがいもが5ドルだったのを見て、後先考えずに買った。海外に行くとみんな芋を食い出すというのはこういうことか。

後先考えずに買ったので、帰り道で腕がおしまいになった。夜はミネストローネスープを作って飲んだが、じゃがいもは1個/4.5kgしか使わなかった。

2024/09/09

バンクーバーに降り立ち12日が経過した。日々いろんなことを学んでいる。

昨日、Airbnbの仮住まいから定住するシェアハウスに越してきた。昨日今日とあちこちに買い出しに行っている。あれもこれも(とくに外食が)白目剥くぐらい高いが、IKEAは良心的な価格で胸にじーんと来た。ハロウィンに向けてか、まだ日本では流通していない👻のマグカップがあったので、値段も見ずに即決した。

しかし、家でコーヒーを飲むことは少なそうだ。カナダにはTim Hortonsという、スタバを凌ぐ人気のコーヒーチェーン店があるのだが、そこでそこそこ美味くて熱いホットコーヒーが2ドル以下で売っているからだ。しかも、うちから徒歩4分の位置にあるティミーは24時間営業ときた。

UBCには手続きで一回顔を出した。巨大なキャンパスだ。モダンできれいだが、日吉以来、三田、駒場とクラシカルなキャンパスにばかり通っていたのでなんだかそわそわする。あちこちに入れるIDが発行されたらまたゆっくり見に行くつもりだ。裏にヌーディストビーチがあるらしい。

今期は授業には出ないので、実のところUBCに行く必要性もそんなにはない。今学期の後半(UBCは実質4学期制みたいな感じ)にはDomの芸術哲学の授業があるので、それは聴講しようと思っている。ところで、まだサイトにニュースが出ていないが、今月のMothersill LectureでJames Shelleyが来るらしい。Domもそうだが、自分にとっての哲学的スターたちがこの距離にいるというのはいまだに実感がない。Domと三人で絶対に写真を取ってもらおうと心に決めている。

2024/08/01

これは私がかなり確信を持っていることだが、たいていの動物の求愛行動において、求愛される側が経験するのは美ではなく恐怖である。クジャクの羽根についている模様が目の表象ではないとは信じがたいし、あの多数の目を差し向けられることから恐怖が生じないとは信じがたい。イレギュラーなサイズやデザインや動きに腰が抜けて動けなくなる、というのはごく自然な説明であるように思われる。求愛される側の動物が、人間とまったく同じ意味において美的経験をしていることが判明したら、私はびっくりするだろう。

2024/07/29

美は十分条件さえ得られればよく、醜は必要条件さえ得られればよい、という思いつきを得た。一般的に言って、「これなしにはポジティブなものにならない」とか、「これがあると即ネガティブなものになる」といった話をしてもむなしいだけだろう。

2024/07/02

私は、いわゆる直面原理(美的判断はfirst-handな経験ベースじゃなきゃダメ)に反対している。見たり聞いたりしていない絵画や音楽について美的判断をくだせるし、その判断がふつうに正しい場面もある。この直観をなかなか共有してもらえない場面があるので、ここにいくらかまとめておこう。(一部を除いて、私はShelley (2023)の考えを共有している。)

まず、十分に精巧な複製や写真を通して美的判断を下せることは、誰も否定すべきではない。first-hand経験じゃなきゃダメというので、居合わせなきゃダメというのを意味するならば、録音された音楽の美的性格について私はなにも判断できていないことになる。これは信じがたい帰結であり、現に私は録音を通して音楽作品の質や意味について判断できている(そして幸運にもその一部は作品について真である)。

直面原理は、複製へのアクセスを直面としてカウントし、戦線を撤退すべきである。言葉による作品記述を通して、美的判断を行うのはどうか。この場合も、事情は複製を通した美的判断とあまり変わらないように思われる。イヴ・クラインのモノクローム絵画について、サイズ、塗られている色を十分に細かく伝えられたら、たとえ写真すら見たことがなかったとしても、私にはそれが落ち着いていて瞑想的だと判断できる。より複雑な作品の場合、より詳細な記述が必要になることは言うまでもないが、記述を通した美的判断が原理的に不可能になると考えるべき理由はない。小説や映画の場合、あらすじの記述を通してどんな美的性格を持った作品なのか(喜劇的なのか悲劇的なのか)判断でき、その判断が正しい場合もある、というのはよりもっともらしい。

〈非美的性質の記述がいくら詳細でも、そこから美的性格を結論することはできない〉というシブリーの非推論性テーゼは誇張されている。細い曲線が、優美かもしれないし弱々しいかもしれないのはその通りだが、これは与えられている記述が粗いことを示しているに過ぎない。たしかに、演繹的に結論できるような一般原理はないかもしれない。それでも、詳細な記述は美的性格についてのアブダクションを行うのに十分かもしれないし、そうやって導かれた結論は作品について正しいかもしれない。シブリーは、それが原理的に無理だというだけの根拠を欠いている。

直面原理は複製や記述ベースの美的判断が可能であることは認めつつ、そんな仕方でくだされた判断は不確かで信用ならないものにしかなりえず、作品について偽である見込みが高いと言いはるかもしれない。しかし、直面さえすれば確かで信用でき、作品について真である見込みが高い判断をくだせると考えるべき理由がない。不注意でなにかを見落としたり、考えが及ばない可能性はfirst-handな経験にも伴う。むしろ、十分な複製や記述を通した経験のほうが、自分でコントロールできる要素が多い分、ゆっくりじっくり精査することができるだろう。

直面原理は、さらに戦線を撤退し、詳細な記述を読むこともまた直面としてカウントするべきだろう。このすでにかなり譲歩的な直面原理ですら、私は間違っていると思う。信頼できる筋から「グランド・キャニオンは壮大だ」と伝えられた私は、それが信頼できる相手である限りで、言われたことを信じない理由を持たない。私は、外国や海底や宇宙や体内や過去にある見たこともない事物について、人に伝えられた事柄の多くを信じており、それは私の知識の一部を形成している。私は会ったこともないが織田信長という人物の気性や行いについて知っており、同様に、行ったこともないがグランド・キャニオンの壮大さについて知っている(ことごとく全面的に知っているわけではない、というのはどちらもそうだ)。

芸術作品や観光地についておすすめされるとき、私がそのおすすめに従って作品や観光地にアクセスするとしたら、それは伝達された美的判断を共有して自分の知識の一部としたからにほかならない。そうでないとしたら、つまりそれが美しい絵画であったり風景であることを私自身がまだ信じていないのだとしたら、私がなにに動機づけられてアクセスしようとするのか理解できない。まとめると、証言を通した美的判断すら可能なので、直面原理はいよいよ疑わしい。

最後に、直面抜きの美的判断は、直面に伴うより肝心で楽しい美的経験を欠いているので、不毛だと言われるかもしれない(グエンとかナナイの路線)。不毛かどうかともかく、証言ベースの美的判断が楽しい美的経験を欠いていること自体は否定するまでもない。それはもう当初の問題(first-handな経験ベースじゃなきゃ美的判断はできないのか)とは無関係である。

私のなかでは、直面原理の否定は倍速鑑賞の肯定とある程度繋がっている(2022/05/22などを参照)。美的判断は程度問題であり、倍速で見たからといって、美的判断の主体として不適格になるわけではない。倍速で見ようが見まいが、作品について正しいことを言えるかもしれないし、間違ったことを言うかもしれない。楽しみが減る、というのはこの際認めることにしよう(前は、変にここを守ろうとしていた節がある)。

直面原理の肯定も、倍速鑑賞の否定も、根底には「ちゃんとした鑑賞」をめぐるマウントがいくらか含まれているように思う。これは分からないでもない。私だって、『『百年の孤独』を代わりに読む』なんて読んでいる暇があったら、いいから『百年の孤独』を読めと言いたくなる。もっとも、『『百年の孤独』を代わりに読む』は『百年の孤独』の解説書みたいな性格のものでもないだが。これは、『『百年の孤独』を代わりに読む』に直面することなく知ったことだ。

2024/06/04

美術品にトマト投げつけたりスプレー吹きかける類の環境活動家にはみんなこりごり飽きているのだが、当人たちが全く飽きておらず、瓜二つの風貌に瓜二つの形相を浮かべた連中の写真がタイムラインに流れてくるたび、ようやるわと感心の念を抱くようになった。

あのデカデカと命令文をプリントしたアホらしいTシャツで人前に出られるというだけでたいした胆力と言うべきだが、あの演技掛かった口上を淀みも恥じらいなく披露できる度胸は、少なくとも私にはない。あの手のキマっている人間の表情、とりわけ口元には、なかなかすごみがある。

一般的に、人間や人間の文化よりも動物や自然環境のほうが重要だ、と述べる人にはなにか屈折した心理を感じてしまう。カジュアルに、「犬や猫が幸せなら人間は絶滅してもいい」と考えている人は、一定数いるのだろう。ジョークとしての笑どころもいまいち分からないが、みじめな幼少期を過ごしたという以外に、本気でそう信じるに至る道筋も分からない。

そういえば、ようやくリニューアルオープンした横浜美術館でやっているトリエンナーレも、行かずじまいになりそうだ。巷のレポートでは政治的なあれこれを訴えかける類の作品だらけなので、行かなくて正解だろう。破壊者も破壊者なら、創作者も創作者なわけだ。これはなかなか皮肉が効いている。

2024/04/30

渋谷はやることなすこと醜悪な街で、その近年の集大成がSHIBUYA TSUTAYAのリニューアルである。もともと、渋コレやら渋谷遺産やら、間接的な文化破壊に余念がなかったが、ついにレンタルをまるごとやめてしまった。かくゆう私もここ数年は買い支え(借り支え?)をしていなかったわけなので文句を言う立場にはないのだが、それにしたってあんまりではないか。聞くところによると、新SHIBUYA TSUTAYAはシェアオフィスやらカフェやら、席を時間貸しする類のフロアが下から上までびっしり詰まっているらしいので、いよいよ本格的にレンタル席屋さんへとかじを切ったらしい。金のない田舎者は地べた以外に座る場所もない、それが現在の渋谷である。

2024/04/18

寡聞にして知らなかったが、日常美学の方面では、「ネガティブ美学[negative aesthetics]」を提唱する人たちがいるんだとか。SEPをつまみ読みした感じ、Katya MandokiとArnold Berleantの本がそれぞれ美的にネガティブなものにちょっと触れているといった程度で、とても運動といえるような盛り上がりは見せていないものの、ちゃんと注目している人がいるというのはいいことだ。

SEPの著者であるYuriko Saitoは、「ネガティブ美学」における重要ポイントを次のようにまとめている。美しいものの経験は、私たちを実生活から切り離し、観照[contemplation]のうちに置く。カントが、美的判断の第一の契機として無関心性を取り上げたように、美の経験は、伝統的にこういう「うっとり経験」として語られてきた。一方、美的に悪いものの経験はそうではない。 

個人レベルでは、シミのついたシャツを洗濯してアイロンをかけたり、ワインをこぼして汚れたカーペットをきれいにしたり、リビングルームの壁を塗り替えたり、室内で魚を調理した後には窓を開けて新鮮な空気を取り入れたり、ゲストルームを片付けたり、見やすくするために書類を整えたりする[…]コミュニティーのレベルでは、目障りな廃墟のような建造物が取り壊されたり、改装されたり、汚らしい地域が清掃されたり、工場の悪臭や乱雑な看板を排除するための条例が作られたりする。 

美的にネガティブなものは、私たちにいろいろやらせる。美しいものは、ただうっとり見ていればいいのだが、醜いものはどうにかしなければならない。ポジティブな美的経験は悩み事からの解放感を伴うが、ネガティブな美的経験は悩み事そのものである。この非対称性こそが、美的にネガティブなものを興味深く、しかし扱いにくい主題としている。

ざっと見た感じ、美的にネガティブなものについて語っている人たちは、基本的にみんな経験主義者だ。つまり、不快感ありきで、ネガティブなものは行為や創造性を駆り立てる。これは、いつか反論を組んでみたい見解だ。

2024/02/22

『哀れなるものたち』を見てきた。だいぶと気に入ったのだが、ちょっと検索しただけでも解釈違いがあちこちに見られて、むずむずを楽しめる。私と異なる解釈(およびそのもとでの評価)をしているレビューには、以下が含まれる。

2024/01/31

博士論文の公開審査会。半分以上が英語でのやり取りという、だいぶとしんどい戦いだったが、どうにか論文を守り切れたらしい。これで、4月からDr. Senを名乗れるようになった。長年取り組んできたことが一段落ついたと言えば感慨深いが、やるべきだったことを終え、次にやるべきことに向かうだけとも言える。

2023/12/27

ひとまず博論を終えたので美的価値論に着手しているが、2022/02/21の日記にも書いた通り、この主題について書かれた文章たちを必ずしもいい気分で読めていない自分がいる。快楽主義の検討など哲学哲学したところはよいのだが、どの書き手もここぞというときにオープンマインドネスや多様性や個性や人とのつながりの大切さについて、道徳の教科書じみた文体に落ち込んでしまう。自分がそういう段落をひねり出すところを想像するだけでうげっとするので、あんまり向いていないんじゃないかという気すらしてくる。

しかし、段々とやりたいことも明確にもなってきた。ポスドクではネガティブな美的価値について考えようと思っている。

2023/11/20

一日中自転車で駆け回り、どうにか博士論文を提出した。

10時に駒場へ行き、体裁について質問する。ここ数ヶ月、ろくに運動していなかったので、松見坂に登ってくところで心臓ちぎれるかと思った。「Categorizing Art (芸術をカテゴライズする) 銭 清弘」という情報を背表紙にも載せる必要があるのだが、横文字をどうすればいいのかガイドラインに書いてないのだ情報さえそれならなんでもいい、とのことだったので、ピューッと淡島通りを駆け抜け、三茶のアクセアへ。背表紙は、データさえあればやってくれるとのことだったので、Wi-Fiのあるコメダ珈琲に移動し、もろもろ作り、Web入稿する。エビカツパンでかすぎて胃袋ちぎれるかと思った。隣席のカップルの女性の方が、「知り合いの東大生男子2人中2人が女装しているので、東大生男子はみな女装する」という無理な一般化を試みていた。隣に反例がいるぞ。

一旦帰宅し、製本を待つ。麻雀MJで連勝したので、運気が高まっていることを感じる。完成即回収できるように、告げられた時間の30分前には世田谷公園で日向ぼっこをしていた。店頭に赴き、受け取ろうとしたところで先方のちょいミス(背表紙から私の名前が抜けていた)があり、裁断して綴じなおすことに。最終日でもないし、明日駒場に出直すかな、と思っていたが、自転車をかっとばしてギリギリ間に合うぐらいのタイミングで仕上がった。ピューッと淡島通りを駆け抜け、駒場についたのが15:58。教務課の方には「うっ」という顔をさせてしまったが、どうにか受理してもらえた。修論ですら、なんかの書類不備で二度ぐらい修正依頼があったのを思い出せば、一発クリアはなかなかすごいことだ。

やれやれということで、生協でベッカーの『アート・ワールド』と、澤田直『フェルナンド・ペソア伝』を買ってきた。前者は博論でまったく触れなかったが、審査でなんか言われそうなので手に取った。序文を読んだだけだが、あんまり組織化されていないようなだらだら文体で、しんどそうな本だった。後者は単純にペソアが好きなので、そしてようやく研究と関係ない本を読む余裕を手に入れたので。こちらも序文を読んだだけだが、はるかに絡みやすそうな本だった。

駒場からの帰り道、電話しながら大号泣している男性とすれ違った。人間があんなに悲しみ、苦しんでいるのを見たのはひさびさだったので、ちょっと面食らった。今日はゴキゲンだが、いつか私もあのレベルの悲しみに突き落とされる日が来るのだろうか。まぁ、赤の他人である私にできることはなにもないし、少なくとも今日の私はゴキゲンなので、酒屋で高いクラフトビールを買って帰宅した。

2023/11/08

勉強会での思いつきで、芸術作品かどうかは程度問題ではないか(つまり、より芸術なのである、より芸術ではないというのが意味を成すのではないか)という話を振ったが、案外いい線いっているかもしれない。少なくとも、artisticという形容詞にmoreやlessをつけるのはそんなに違和感がないし、どれぐらいartisticかというのと独立に端的にbeing an artという性質はないと考えることで、細々とした問題がいろいろ解消されるような気がしている。

とりわけ、クラスター説を採用した場合には、このことは自然に認められるはずだ。F1, ..., Fnというリストになにが入るのか、そのうち何個以上を満たせば十分芸術になるのかはともかく、この特徴づけはより多くの性質を満たしたより芸術らしい芸術と、一部だけを満たしたより芸術らしくない芸術があることを示唆している。美しいし、知的に挑戦的だし、創造的な作品は、ただ美しいだけの作品よりも、より芸術なのだ。制度説を採用した場合にも、制度的な確立度合いや規模は明らかに程度を認めるものだし、したがって芸術かどうかも程度問題になるはずだろう。

念のため、これは「芸術である」の記述的用法であって評価的用法ではない。より芸術であるものが良い作品であるとは限らないし、より芸術でない作品が悪い芸術であるとは限らない。機能には、いくつ持つかという観点だけでなく、うまく果たせるかという観点があり、良さに関連しそうなのは主に後者だからだ。

だからなんだ、というのが、いまのところ唯一の障壁だ。

2023/11/05

だいぶ前にDVDを仕入れて、たっぷり熟成させた『アンダーグラウンド 完全版』に着手した。5時間あるので、一日1話見ていくつもりだったが一気見してしまった。3時間版でも、私がこれまでFilmarksで満点をつけてきた映画のひとつだ。いい映画は長ければその分さらに良い。したがって、5時間版も満点である。証明おわり。

関係ないが、長い映画と言えば、先日Amazon Primeに『サタンタンゴ』がやってきたというのではてブがちょっと盛り上がっていた。長い映画好きとしてはうれしいニュースだ。4時間を超えてくる映画は、一日をそれに費やすぐらいの覚悟がないと気持ち的に着手できない(3時間半だとそんなことない)ので、見たものはどれも思い出深い。

博論の仕上げ作業に飽き飽きとしていたので、良い気分転換になった。

2023/10/31

デイミアン・チャゼルの『バビロン』がNetflixに来ていたので見た。私の嫌いなタイプの映画ばかり作る監督だと思っていたので、ふつうに好みの映画だったのはちょっと意外だった。

感想はFilmarksに書いたので関係ない話をするが、「映画愛」というのは考えてみればけっこう興味深い主題だ。絵や小説の愛好家が絵画愛や文学愛をこれ見よがしに掲げることは、相対的に少ないような気がする(音楽愛、というのは考えることすらなかなか難しい)。フェリーニやゴダールに典型的だが、映画というものを礼賛せずにはいられないこってりとしたオタクが多いのだ。それは、映画が比較的若いメディウムであり、いまだに弁護を要するからか。集団制作や集団鑑賞の一体感に由来するのか。はたまた、暗闇でスクリーンを見上げるという、畏怖の身体動作に由来するのか。映画好きは、映画という抽象的な存在者をたしかに認めており、そこに崇高さを見出している点で、独特な集団だと思う。

映画を肯定することのなかには、たいてい、人生を肯定することが含まれている。同じ物語芸術でも、演劇や小説にこのような側面はあまりないような気がする。胸糞の悪いバッドエンドをいくつも見てきたはずなのに、総体として映画というものを考えたときに、こってりとしたオタクたちはかなりのオプティミストになる。いや、真のペシミストには2〜3時間座って映画を見ることなど難しいのかもしれない。

2023/10/17

霜降り明星の二人が好きでYouTubeやラジオを追っているが、今日の粗品の動画はなかなか考えさせられた。キンプリの件で届いた誹謗中傷に応えていくという、粗品がたまにやっているタイプの動画だが、誹謗中傷がほんとうに度を越していておぞましかった。こんなのまでお笑いにパッケージングできているのはひとえに粗品の力量と言うべきだが、こうでもしないと一人では抱えきれないほど負の言葉を押し付けられる立場というのはさすがに気の毒だ。私は粗品に近い方のおちゃらけたメンタリティであり、あれこれおちょくりたくなる性分なのだが、揶揄という言語行為がもはやまったく許容されないインターネットになりつつあるように思う。

DMを送っているジャニーズファンは、少なからず10代の子供なのだろう。相手がどれだけ邪悪でも、「死ね」とか「殺す」といった言葉を投げつけないようになることが、大人になることの一部であると思わずにはいられない。これはどちら落ち度があるかや、ことの発端がどちらなのかとは関係がない。人はいつか死ぬということを忘れている間だけ生きていられる。死を思い出させること以上に邪悪な、言葉をつかった暴力というのは、私にはちょっと思いつかない。

2023/10/15

実家に凱旋するたびコツコツとピアノを練習しつづけ、そこそこ上達してきた。ショパンの前奏曲第4番と、サティのグノシエンヌ第1番は通しで弾けるようになった。いまはジムノペディ第1番と月の光を練習している。後者の、16分のところはキャパシティを超えているので、とりあえずその前までマスターしようと思っている。ピアノは練習すりゃ上達するし、上達すりゃ目標が達成されるので、精神衛生上うれしいな。

2023/10/06

Normativity』おおむね読み終えた。最終章によれば、ought文(指令態)は、否定的な評価的性質であり、「種Kとしての欠陥である[defective]」から分析できる。すなわち、「xはVすべきだ」は、「Vしないと、xの属するKに照らして欠陥のあるメンバーになる」であり、欠陥は回避されるべきだからこそ、「xはVすべき」は真である。したがって、トースターはパンを焼けるべきであり、パンを焼けないならば欠陥トースターになってしまい、人は他人を助けるべきであり、助けないならば欠陥人間になってしまう(それぞれ、しかるべき状況下で)。

欠陥のあるメンバーのいるタイプのKかつそれらのみが指令生成種[directive-generating kind]であり、トースターや人間はこの意味で指令生成種だが、小石や雲はそうではないとされる。欠陥を抱えたメンバーであることは、種が機能種である場合には機能を果たせないメンバーであることに相当するが、ほかにもいくつかパターンがある。ビーフステーキトマトは、成熟時には大きく美味しいものであるべきであり、そうでなければ欠陥のあるビーフステーキトマトである。トラは、五体満足で健康であるべきであり、そうでなければ欠陥のあるトラである。

まだ十分には理解できていないが、たいそう面白い本だった。ポスドクの研究では、重要な参考文献のひとつになりそうだ。

2023/09/21

博論執筆のクールダウンとしてJudith Jarvis Thomson『Normativity』(2008)を読んでいるが、めーっちゃくちゃ楽しい本だ。主題も文体も私の好みど真ん中で、絶対にこういう本を書きたいと思わされる。

メタ倫理学の本だが、Thomsonは倫理学が道徳哲学に尽きるものではないことを強調している。この本の主題は、「Aは良い」「AはVすべきだ」といった評価的・規範的言明の分析であり、善い行いや義務に関連したそれらに限られない。moralには興味ないが、metaethicsには興味あるという私みたいな人にはかなりおすすめの一冊だ。(Analysis短くまとまった要約論文もあるので、これだけでも中心的なアイデアはつかめる。)

まだ2章まで読んだだけだが、Thomsonの主張はわかりやすく、ミニマルだが挑発的なものだ。すなわち、端的なbeing goodないしgoodnessという性質は存在しない。「このトースターは良い」という文は、良さという性質の帰属ではないのだ。Thomsonの見解はおおむねPeter Geachによるattributive/predicativeな形容詞の区別に乗っかったものであり、goodが限定的形容詞であることに依拠している。「(端的に)good」という性質は存在せず、存在するのは「なんらかの種や観点に照らしてgood」といった性質たちだけなのだ。「トースターとして良い」とは、トースターとしての機能をうまく果たせている(つまりうまくトーストできる)ということであり、同様のモデル、模範、パラダイムは、さまざまな種や観点と結びついている。後半では、当為[ought]まわりも、この「〜として良い」性質で還元できることを示すつもりらしい。

Thomsonは節を小刻みに分けており、話をかなり追いやすい。反復や対句が多用されていて、小難しい英語表現はことごとく排除されている。出てくる例もトースターやテニス選手や小石といったアイテムたちばかりで、哲学の本を読んでいるとは思えないドライブ感がある。論理が自分で自分を語っているというか、著者が透明というか、AIが書いているような文体だ。あんまり褒めている感じがしないかもしれないが、私はずっとこういう透明な文体にあこがれている。本書の元になった講演はYouTubeで聞けるが、喋りの感じも書き方に似ていて小気味よい。かなり大げさにアクセントをつけてくれる喋り方なので、リスニングにも良い。読んでないが、Judith Jarvis Thomsonと言えば、中絶の権利についての応用哲学と、トロッコ問題の刷新で有名な人だ。いやはや多才で驚く。

ところで、まったく同じ主題を、もう少し美学寄りにやっていたのがSibleyだ。SibleyもGeachの区別にハマっていて、「美しい」が限定的か述定的かというトピックについて書いていた。なんで知っているかと言うと、私の訳している章だからだ。Geachの検討に関しては、SibleyはThomsonよりもだいぶ踏み込んでいたと思うのだが、残念ながらThomsonには見つけてもらえなかったようだ。後期Sibleyのアイデアは、博論が終わったらちゃんと検討しようと思っているネタのひとつだ。

2023/09/16

ちいかわはもう長いこと島セイレーン編をやっているが、いつのまにかこうワンピースみたいな構成が当たり前になってしまった。つまり、大きなクエストとそれに沿った起承転結から成る物語構成だ。この感じを見るに、物語を作ることは、物語に抗うことよりはるかに容易なのだろうと再確認させられる。なんか小さくてかわいいやつの1ページ完結漫画を作り続けることは、相当難しいらしい。

好き好きなのだろうが、私は栗まんじゅうが丁寧なつまみで日本酒をきゅっとやるのが見たいだけなので、当面のあいだ物語クエストが優先されるのは残念だ。初心を忘れたと非難するのは容易だが、物語に抗うことのしんどさは私もよく分かっているので、非難はフェアではないだろう

2023/08/31

大学でバンドをやっていたころ、ライブ本番でも楽譜見てるメンバーにあきれていたのだが、考えてみれば、あれは責めるようなことではなくて、カルチャーの違いだったのかもしれない。特にホーンの人たちはほとんどが吹奏楽部あがりだったのだが、そっちの方面では本番でも楽譜を見ながらやるのが当たり前なのだろう。軽音楽部あがりのわれわれとは、そのふるまいの構成するダサさが、ほとんど共有できなかったのも無理はない。

しかし、やっているのがファンクだという事実は、私の側の美的プロファイルをより正当なものとして支持するだろう。James Brownがカンペで歌詞を見ていたり、Maceo Parkerが楽譜台を置いていたら、私ならengageする気をだいぶ削がれるだろう。結局のところ、音楽ライブをただ耳になにかを届ける事業として理解しているのがお門違いなのだ。

人前で演奏する曲ぐらい暗譜してこいという私のこの反感は、原稿読み上げ型の学会発表への反感とも通底している。結局のところ、それらはライブであるとはどういうことか、すなわち人前に立ち、人の時間を使ってパフォーマンスするとはどういうことかを、あんまりよく分かっていないんじゃないかと思ってしまう。

2023/08/14

博論一日5000字チャレンジ、14日目。7/31時点の分量から5万7000字ほど増えた。このペースでいけば、月末にはきっかり20万字に到達するだろう。よくやっているほうだ非常勤の成績評価をやったり、シンプルに遊んでいて執筆していない日があるわりには。この2週間でだいぶと視力が落ちた気がする。

建築のメタファーは、日に日にもっともらしくなっている。私は、片っ端からほころびを直し、母家から離れた位置に塔を立てまくり、外壁に装飾を施し、設備の冗長性を確保する(いまやほとんどすべての部屋にはトイレがついている。助かる!)。そしてなにより、それがひとつの目的に沿って建てられたひとつの建築物なのだと、自分に言い聞かせている。

少なくとも、思っていたほど苦行ではないのは救いだ。たっぷり丁寧に書くというモードは私にとってあまり馴染みのないものなので、いつもと違う認知的リソースを動員している実感がある。なんというか、私はギタリストなのだが、次のライブはベースでよろしくということで、急ピッチで練習している気分だ。それは慣れないが、根本的に異質なわけではなく、楽なわけではないが、日々ちょっとした発見があって楽しい。

2023/08/02

博論を書いている。そりゃそうなのだが、今月はちょっと無茶することになりそうだ。先日中間発表をして、内容はともかくスケジュールおよび分量に関していろいろと無理があることが発覚した。私のようなスケジュール、つまり7月に中間発表をして翌年3月にはどうにか学位が欲しい、というのは異例らしい。中間発表というプロセスは、最速では3年次の7月にやることになっている。私は4年目の7月に中間発表をしたのでややこしいが、仮に3年目の7月に中間発表をしたのに「ふつう」は翌年3月に間に合わないということであれば、研究室の想定している「ふつう」によれば、3年で博士課程を修了することは不可能だということになる。まぁ、平均や最頻値の話なのだとすれば、3年で駒場表象を出る人は聞いたことがないので、記述的には「ふつう」そうなのかもしれない。しかし、原理的にもその修了計画をサポートする体制が研究室側になく、誰もそれをどうにかしようとしていないのは問題だろう。

まぁ、そこは指導教員に頑張ってもらうとして、私がどうにかしなければならないのは分量の問題だ。私の知る限り、現代美学の博論はこみこみで4〜50,000ワード(日本語で10万字程度)が妥当なところであり[例1-Cross 2017][例2-Xhignesse 2017][例3-Kubala 2018][例4-Dyke 2019]、研究室が指定している20〜24万字(本文のみ)はばかげている。ばかげていても明記されたルールなら従うが、私は英語で書こうとしており、ややこしいことに英語の分量については「指導教員に指示を仰ぐ」としか書かれていないのだ。先日の中間発表のあとでようやく、オフィシャルに求められる分量を伝えられたのだが、8〜100,000ワードとのことだ。適当にピックアップした例だが、あの分厚いConventionでも7万ワード、How to Do Things with Wordsは4万ワードちょっとだ。同じ批評の哲学で書かれたOn Criticismは6万ワードである。ゆうても仕方がない(そして交渉も決裂した)ので、私は8月中に手持ちの素材を倍増させなければならないことになった。

ということで、一日5,000字チャレンジをしている。毎日日本語で5,000字書けばある程度筆が詰まっても今月中に+10万字は見込めるし、それを英訳すればざっと40,000ワードといったところだ。手元の素材と足して、今月中に指定の分量に到達するには、それぐらいのことをしなければならない。ネタのつもりでやり始めたのだが、いまのところ3日連続でこれを達成している。今後どうなるかは分からない。

そして、そうまでして提出できたものを、「英語だし分量も多いので、すぐには審査会はできない」などと言われたら私はどうにかなってしまうかもしれない。

2023/07/22

ずいぶん久々に、居酒屋らしいところで飲み会らしいことをした。寿司も食べられてハッピー。ウニの軍艦+卵黄という学びがあった。

2023/07/16

数年ぶりの対面開催となった哲学若手研究者フォーラムに行ってきた。ばちばちに暑くて、夏を感じた。そんなにたくさん聞いたわけではないが、聞いたものだけ手短に感想をまとめておく。

松井大騎「美的経験をマッピングする:事前期待と認知的マスタリングにフォーカスして
美的経験についてのサーベイ寄りな発表。図がちょっと難しすぎたが、興味関心の矛先や、源河さんと差別化したいポイントはよく分かった。今後の展望のところについては、期待の地平なんかより芸術のカテゴリーやろう!とポジション・トークをしかけたが、ぐっとこらえた。

伊藤迅亮「美的自己の〈安定〉と〈逸脱〉
関心の近いトピックだったのと、伊藤さんの丁寧さが合わさって、すっと入ってくる発表だった。スライドがだいぶしっくりくるのは、私もこういうスライドを作るからだ(デザイン面でも学びがある)。美的生活に安定と逸脱のふたつ側面があるという結論は直観的に飲み込めるし、美的価値論に落とし込んだ場合の帰結もいろいろありそうなので、論文化が楽しみだ。

村山正碩「自己を表現し、理解し、再解釈すること:アンリ・マティスの場合
村山さんらしさの感じられるトピックと文体でのマティス論。アーギュメントとしてコメントするのは野暮な気がしたので、シャーマン論でお返ししてみた。私はうっすらずっとロマン主義的な芸術観を毛嫌いしていたが、村山さんの仕事のおかげで、割とその面白みが分かってきたような気がする。

岡田進之介「フィクションにおける作者の自己」
こちらも岡田さんらしさの感じられる内容だった。岡田さんの論文には「問題の導入、説1、説2、それらへのコメント」というフォーマットがあり、参照文献も少なめにまとめる傾向があるように思う。なんというか、author-dateよりはnotes and bibliographyっぽい雰囲気を感じる。問題の解決として「内在する読者」を使うというのはよさそうだし、もっとシャープに擁護していけそうだと感じた。

松井晴香「隠喩という特等席:非認知主義を擁護する」
競合する立場AとBがあり、Bを修正しつつ擁護する、という私の好きなタイプの分析哲学だった。非認知主義のディフェンスはもう少し固められるように思ったが、方向性としては説得的なものだった。スライド1枚あたりの情報量がかなり適切だったのもこなれていて、真似していかなければと思わされた(私は詰めすぎるので)。

今井慧「デフォルメにおける見えるものと見えないもの:抽象的描写における見立て基と見立て先の緊張」
フィクショナルキャラクターについての高田松永論争の検討。フィクショナルワールドというかっちり一貫した世界から出発するのではなく、もっと浅瀬のデザインや分離した内容から描写という現象を見ていく、という方針はかなり共有できるものだった。自説のポイント、とりわけPキャラクタを重視する松永さんの方針とどう差別化していきたいのかが、やや見えにくかったように思う。お話したところ、結構表象っぽい関心もある方で、なんだかM1のときの自分を見ているかのようだった。

自分の発表「批評が鑑賞をガイドするとはどういうことか」は、自分では穏当で退屈なものだと思っていたが、どうやらそうでもなく、あれもこれも「批評」になってしまうのではないかという意見をたくさんもらえて、応答しがいがあった。自分ではこのゆるめの線引きこそ感じよいと思っているので、ちゃんと擁護すればそれなりにシャープなアーギュメントとしてまとめられそうだ。作品のキャプション、美術館の音声ガイド、芸術家の伝記、キュレーション、レイアウト、楽譜の解釈など、「批評と呼べそで呼べなそでやっぱり呼べそなもの」がいっぱい引き出せたので、感謝感謝です。

発表以外のところでは、ふだんなかなか肉体で会えない皆さんと交流できて、たいへん楽しかった。ドビュッシーとねぎしを布教してきた。

2023/07/10

M1のとき、批評再生塾の説明会を聞きに五反田のゲンロンまで行ってきたことがある。そういう時期もあった、というわけだ。結果的には、身内ノリでじゃれ合っている感じがいたたまれなくて途中で帰った。自転車で来たので、すぐ帰れた。私のこの「仲良くやれそうかどうかセンサー」に私は絶大な信頼を持っている。同塾の講師には立派な人たちもいたが、後に炎上して灰になった人もいればリテラルに刺された人もいて、ほんとうに関わり合いにならなくてよかったと思う。受講OBらの立ちふるまいについては、説明会の数日後に東の先輩が拗ねて募集停止だと言い出すぐらいだったので、そういうことだろう。

あのとき私がもうちょっと違うパーソナリティを持っていたとすれば、今はもっと表象文化論っぽい文章を書いていて、分析美学のアンチになっていた可能性もないではない。そういう意味では、ひとつの分かれ目だったような気がする。

週末は、哲学若手研究者フォーラムで〈批評とはなにか〉をテーマとした発表をする予定だ。なんの気なしに調べていたら、批評再生塾でもこの問いをテーマにした課題が出されていたらしい。私が述べるだろうことは、私が述べただろうこととは、ぜんぜんまったく違うはずだ。

2023/07/02

ゼルダの新しいやつと、ファイアーエムブレムの新しいやつは、どちらも「旧作に出てきたキャラクターたちを召喚し、使役する」というソシャゲ的システムを採用していて、心底しょうもないと思っている。FEはヒーローズの時点でこれをやっていたのですでに見限っていたが、ゼルダまでこれをやりだしたのはかなりがっかりした。

つまりは、コンテンツというのはいまやキャラクターorientedで消費されているという、いつもの話だ。ひとつの、完結した全体を持つ作品ではなく、過去に人気を博したキャラクターを切り貼りしたフランケンシュタインのほうが好まれるというのはあんまりだ。それは、新しいものを作るという仕事の放棄であるし、過去作への敬意を欠いている。

言われなきゃ分からんというのがとても信じられんのだが、物語とキャラクター有機的に結びついている。

2023/06/25

夕刻から野良猫ウォッチングという豊かな遊びをしていたら、はからずもアライグマに遭遇した。しかも3匹の子連れで、計4匹だ。動物園においてでさえこの量のアライグマは見たことがない。4匹と同時に目があったときには、可愛さよりも危なさが頭をよぎった。きゃつらがぼのぼののアライグマくんぐらい獰猛で、ガチンコファイトになった場合には、私は一方的にボコられるだろう。

2023/06/16

クラフトビール(高い)の消費を減らそうと思ってワインを飲み始めた。コノスルの安い白ワインだ。ワインはかなり苦手意識があったのだが、ネルソンソーヴィンのホップを使ったビール(白ワインっぽいとされる)が割に好みで、「これ白ワインもいけるんじゃないか」と思って飲み始めたらかなりいけたわけだ。ペアリングはもっと複雑かと思っていたが、冷製パスタでも麻婆豆腐でもよさげな感じだった。ここ数年で味覚が確実に変容してきているので、この調子で赤ワインまでいろいろ試してみたい。

それと、最近はアーモンド効果にハマっていて、毎日飲んでいる。

2023/06/11

実家の犬の葬儀に行ってきた。ちょっと前からご飯を食べなくなり、6月3日の夜中に亡くなった。

オスのミニチュアダックスフンドで、18歳7ヶ月だったつねに一家のアイドルで、火葬されて出てきた骨まで可愛かった。実家近くの海に面したペット霊園にお願いしたのだが、ほんとうにプロの仕事で感心しっぱなしだった。犬にとってどうだったかは知るすべもないが、人間にとってはかなりよかった。

犬の名前はシュワという。アーノルド・シュワルツェネッガーからとって、母がつけた。

2023/06/05

TOKYOBIKE 26をずっと使っているので、そのレビューだ。(先日の分析美学オフ会で、どうなのかという話が一瞬だけあったので)

買ったのは一人暮らしを始めた学部3年の2016年で、アパートから三田キャンパスまでの4〜5kmを往復する足として手に入れたのだった。「その距離なら、この自転車であっという間だ」という趣旨のことを店員さんが言っていて、頼もしかった記憶がある。駒場に移ってからも、ほぼ同距離を移動するのに使っている。なんとなく片道30分以内の移動でしか使わないが、これは私の気力の問題であり、ぜんぜんもっとポテンシャルのある自転車だ。現在の使用頻度は週3〜4日といったところ。

選んだのは今はなきモスグリーンだ(TOKYOBIKE MONOならまだある)。あの年はやたら深緑にハマっていて、同じ色のセーターやニット帽やMA-1も身につけていた。マットな色合いで、今でも気に入っている。関係ないが、『魔女の宅急便』でトンボが乗っていた自転車に似ており、なおかつ私はオレンジのボーダーTシャツもたまに着ていた(そして言うまでもなくメガネをかけている)ので、仲間内ではいくらなんでもトンボすぎると話題だった。

ママチャリっぽくなく、かといってゴテゴテのスポーツバイクでもない自転車を探すと、必ず候補に入るだろうブランドだ。見た目から選ぶような自転車なので、当然、乗り物としてのスペックはいくらか劣ることになる。比較するほど他の自転車に乗ったこともないが、確かに車輪は細いので、整備されていない道を通るときなんかはいくらか頼りない感じがある。逆に、整備された道でも246のような大きめの車道を走るにはひょろくて怖い(ガッツリ装備して乗るような自転車でもないので)。とはいえ、細いからこそ走り出しはかなり軽快で、小回りもきく。8段ギアはかなり具合がよくて、坂道でも3ギアの座り漕ぎで済むことが多い。スピードはあまり出ないが、命知らずが求めるようなスピードは出ない、というだけだ。

総合的に見ればかなり満足しており、なにより、欠点を補って余りあるぐらいに見た目がよい。フレームの細さがおおよそ均一なところに、Helvetica的なサンセリフの美学がある。ブランドが語るストーリーもたいそう洒落ていて、しゃらくさいと思ってしまう自分もいるが、結局こういうのが大好きなのだ。バスケットなし、泥除けなし、小ぶりなベルとライトにしたので、かなりミニマルにまとまった。BIANCHIがいくら乗り物として優れていてもこうはなれない。駐輪場でも、TOKYOBIKEはすぐ気づくぐらいにアイコニックだ。

7年間で4回ぐらいメンテナンスに出し、2〜3度パンクし、サドルが破れ、バルブが劣化し、ワイヤーやらチューブやらを交換したりと、それなりに維持費がかかったが、今でも現役バリバリで使えている。ところで、私が買ったときは¥70,000ちょいだったが、いまでは10万手前なのがかなりネックだろう。10万出すほどの自転車なのかと言われれば、ちょっと言葉に詰まるかもしれない。

2023/06/04

代々木公園でやっているベトナムフェスティバルに行ってきた。揚げ春巻きと牛肉のフォーを食べ、333ビールとソルトコーヒーを飲んだ。インスタント麺を2袋と、鶏皮スナックを5袋買ってきた。ドッグランで人ん家の犬をひとしきり見て、帰宅。

2023/05/30

前に書いた「スローシネマ、アピチャッポン、マジックリアリズム」を読んでくれた方が、スローシネマで卒論を書かれたそうなので、遅ればせながら拝読した。音楽ジャンルであるところのアンビエントの一般的特徴(「アンビエント性」)をまとめ、それとスローシネマの構造的類似を指摘する論文で、やりたいことのはっきりした良い卒論だと思う。『サクリファイス』の映像分析もついている。

最近、シュレイダーの「タルコフスキーリング」がまた少しバズっているが、『聖なる映画』の簡単な紹介もついているので頼もしい。バズっているほうのツイートはお世辞にもinformativeとは言い難いので、みんな上の卒論を読めばいいと思う。

スローシネマというカテゴリーをかなり一般的に特徴づけようとしていて、個人的にはかなり共感できるスタンスだった。映画研究に限らず、ちょっとでも表象文化論のほうに近づこうものなら「一般理論はいいから具体個別的なものを見よ」という圧をそれなりに受けるが、ある種の知的好奇心は物事の一般化に向かわずにはいられないのだ。私が書いたマジックリアリズム卒論と、Vaporwave卒論もそうだった(上の方の卒論のほうがはるかに立派なものだが)。

著者の見立てでは、シュレイダーと私と著者はスローシネマ研究の方法論を共有している。スローシネマの映画群に対し、シュレイダーが「超越的スタイル」という切り口、私がマジックリアリズムという切り口でもってアプローチしたように、著者はアンビエントという切り口からアプローチする。あまり考えたことはなかったが、こういうアプローチになにか名前を付けるとしたら〈カテゴリーの挟み撃ち〉というのがよいかもしれない。あるカテゴリーとその事例ばかり見ていても分からない重要な特徴が、別のカテゴリーを持ってくることで浮き彫りになるかもしれない。もちろん、個別作品においてカテゴリー同士がぶつかりあい、有機的に昇華されていく様もみどころになる。

当面、批評の仕事はできそうにないが、博論が落ち着いたらまた映画や音楽について書きたいなと思ってきた。

そういえば日記はわりと飽きてきたので毎日更新をやめた。

2023/05/26

哲学若手の準備を進めている。対面の学会発表はすごく久々なので楽しみだ。

大枠は批評の特徴づけだが、美的経験論にもちょっと絡む話なので、いろいろと自分の考えが整理されてきた。基本的には、私はartisticな価値なり従事を広く、aestheticなそれらを狭く取りたい派なのだろう。

ところで、ステッカー『分析美学入門』の関連する章も読み返しているが、やっぱりこの本ぜんぜん入門的ではない。2000年代前後にホットだった議論に対する、ステッカー自身のアーギュメントをそれぞれ展開した論文集のような趣すらある。ふつうに難しい本だ。

2023/05/25

長めの注を40も50も平気でつけるような書き手がそこそこいるが、注で述べている議論を見落としても非難を免除してもらえるぐらいでなければしんどい。原則として、注には読まれなくてもかまわない事柄以外書かないでほしい。

海外のジャーナルの投稿規定を見ると、たいていは「長すぎる注はやめて」という指示がある。「長すぎる」の基準がよく分からないが、そう指示されているジャーナルにも注がドカンドカンと付いているような論文が収録されていたりする。どういうこっちゃ。

2023/05/24

スターバックスリザーブロースタリーに行ってきた。ふだん好き好んでスタバに行くタイプではないのだが、コーヒー好きとしてはふつうに楽しい施設だった。システムが分かりにくかったが、提供しているメニューが各階で違うようで(1階がオーソドックスなコーヒー、2階はお茶、3階はコーヒーカクテルなど)、任意の階で先に席を取ったら、また階を移動して目当ての商品を買ってくる感じになっている。サラミとチーズのちょっとしたピザと、オリーブオイルの入ったラテ、ここ限定の豆を使ったアイスコーヒー、エスプレッソマティーニをいただいた。エスプレッソマティーニはいつかどこかで飲んでみたかったカクテルなのでラッキーだ。想像以上でも以下でもなかったが。

2023/05/23

苦痛アートの芸術的価値をカバーするために、①芸術がアフォードする快楽は(セックス・ドラッグ・ロックンロールのそれとは異なる)特殊な快楽*であり、②苦痛アートも快楽*を与える、というムーヴがなされがちだが、それでいいんかなぁと思わないでもない。ごくごくふつうに、芸術にはヘドニックなタイプでない価値がある、ではまずいのか。美的価値はともかく芸術的価値についての快楽主義はにっちもさっちも行かないだろうと思うのだが、現代でもそれなりに人気なので不思議だ。

2023/05/22

どの活動がなにゆえ「芸術」なのか?」という記事を書いた。おおむねXhignesse (2020)のまとめだ。とても重要な論文で、今後何年も読まれていくだろう1本なので、早々に紹介できてよかった。

それはそうと、この手の記事を書くと「自分の考えでは芸術とは〜〜だ」という反応をたくさんもらう。ぜんぜん構わないし、各々が一家言持っているのは望ましいことですらあるのだが、それにしたって特に正当化されていない信念を持っている人がたくさんいるんだなぁと思わされる。それらの持論は、本当に、しかじかだと思っているだけなのだ。ちゃんと勉強しかしこくなることの一部には、そういうただ思っているだけのテーゼを軽々と表明しなくなることも含まれている。と私は思う。

2023/05/21

カフェ・ド・ランブルとカフェーパウリスタをはしごしたので、銀座の珈琲事情にすっかり精通した。前者はさすがに美味かったが、ちと高すぎたのと、極小のキャパをはるかに超えた繁盛ぶりであまりfeel goodではなかった。後者は気取らない感じの店内でゆったりできたが、効用逓減の法則に従って、前者ほどにはコーヒーを楽しめなかった。リピートするなら後者だな。

その前に築地で海鮮丼も食べたし、その後は皇居外苑を散歩してからの分析美学オフ会に出てきたので、東京の右側でずいぶん活動した。

2023/05/20

James Grantの「A Sensible Experientialism?」を読みはじめたが、面白そうな論文だ。Grant自身は経験主義が好きではないらしいが、それでも反経験主義は失敗しているとして、擁護可能な形式での経験主義を組み立てようとしている。

まず、芸術的価値についての経験主義と美的価値についての経験主義を区別し、自身は芸術的利点[the artistic merit]についての経験主義だけ洗練させるとする。この辺はしばしば混同されているので、強調に値するだろう。私とおなじく、Noûsのほうのゴロデイスキーには反対するが、Philosophy and Phenomenological Researchのほうのゴロデイスキーにはオープンな立場っぽい。

Grantが主に対処しているのは、循環だという反論と、苦痛アートを説明できないという反論だ。経験主義は〈作品経験に最終価値があるので、芸術的利点がある〉と言いたいのだが、〈作品経験に最終価値があるのは、芸術的利点があるおかげだ〉と言ってしまうと循環になる。これに対処するために、Grantはおおむね美的価値の個体説に似たアイデアを組み込んでいる。つまり、芸術作品にはそもそも美しさや想像性や表出性といった特徴があり、それらゆえに(経験独立な)最終価値がある。しかし、これらは(自然物など)芸術作品でなくても持ちうる最終価値であり、問題となっているartistic meritではない。〈作品経験に最終価値があるのは、美しさなどの最終価値の経験であるおかげだ〉と言えば、〈作品経験に最終価値があるので、芸術的利点がある〉とは循環しない。つまり、グラウンディングの順序としては「①作品には美しさなどの特徴がある」→「②作品には最終価値がある」→「③作品経験には最終価値がある」→「④作品には芸術的利点がある」というわけだ。③→④のところの経験主義を維持するために、①②のところに美的価値についての個体説を組み込んだような説明だ。

苦痛アートの芸術的利点は、経験主義からは説明しがたいとされてきた。《ゲルニカ》を見ることはショッキングで痛ましく、そういったネガティブな経験をアフォードする作品になぜ芸術的利点があるのか、経験主義からは答えられないというわけだ。Grantの用意する経験主義は、大胆にも快楽主義を手放すことで、経験主義を維持している。つまり、大きな快楽を伴うがゆえに作品経験が持つ最終価値が、芸術的利点をグラウンドするのではない。むしろ、作品が持つ(美しさなどの)最終価値を経験しているがゆえに作品経験が持つほうの最終価値が、芸術的利点をグラウンドするのだ。経験の最終価値がなんでもかんでも作品の芸術的利点を決定するのではない。快楽が付随的であり、その大小が芸術的利点を左右するわけではない点について、Grantは積極的に認めている。

結果として提示されているsensibleな経験主義は、個体説を組み込んで快楽主義を手放したものであり、キメラ感は否めない。とくに、個体説を噛ませるならもはや「③作品経験には最終価値がある」というステップをわざわざ入れるまでもなく、「②作品には最終価値がある」→「④作品には芸術的利点がある」でよさそうだし、そもそも芸術的利点などというdistinctiveなカテゴリーはない(Lopes)ので、①②で話を済ませてもよさそうなものだ。もう少し読み進めて考えてみる。

2023/05/19

立て続けに英語発表を見ているが、ぜーんぜんついて行けてないので、英語頑張らねばという気持ちになった。

2023/05/18

少年向け漫画やアニメにおいては、〈最強〉を目指すことが内在的価値であり、読者はそれを共有している前提で話が進む。海賊王、火影、ポケモンマスターになりたい・ならなくちゃという熱意に対して、なぜその肩書を欲しているのかと問うのは野暮だ。

だからこそ、ルフィはただ海賊王になりたいのではなく、海賊王になってやりたいことがある(1060話参照)と公言したときにはしびれた。内在的価値だと前提されていた〈海賊王になること〉が実は手段に過ぎず、夢の果てはその先にある(なにかはまだ明かされていないが)、と。主人公であるにもかかわらずずっとミステリアスな存在だったルフィが、人物として一気に立体化した場面だ。と同時に、ルフィも読者も大人になったんだなぁという感慨も覚えた。

2023/05/17

渋谷までチャリを飛ばし、ヒューマントラストで『ゴダールのマリア』を見た。スクリーンでゴダールを見たのは、学部のいつぞやに見た『ウィークエンド』以来だ。『ゴダールのマリア』は残念ながらたいした映画ではなかったが。

ヒューマントラストシネマ渋谷のある建物は、エスカレーターで登ろうとすると、開けた窓に向かって突っ込んでいくかたちになり、前方に壁も足場が見えないためひやひやする。高所恐怖症にはけっこうきつい構造だ。次回はちゃんと覚えといて、回避できればと思う。

2023/05/16

NoûsのほうのGorodeisky (2021a)を読んでいるが、「芸術作品の芸術作品としての価値は、美的快楽をmeritすることから構成される」という主張は、前半部分を「美的価値は〜」に変えればそのままPhilosophy and Phenomenological ResearchのほうのGorodeisky (2021b)になる。美的快楽の説明もmeritの説明もかぶってるし、短期間でこんなにも似ている論文を出すのはずるくないかと思わないでもない。

上の説明から明らかなように、ゴロデイスキーにおいて「芸術作品の芸術作品としての価値」=「美的価値」だ。両方とも、ある特別な情動的快楽経験であるところの美的快楽のmeritingから構成される。この説明は、20世紀後半の議論史において芸術の価値と美的価値の分離進められてきたことを踏まえると、かなり反動的なものだ。aestheticというのを留保なしに芸術と結びつける論者は今日まれだと思うのだが、ゴロデイスキーはその一人である。芸術の価値論と美的価値論で似通った論文を書くぐらいだったら、なぜこの結びつけが擁護できるのかについて一本を書いてほしいところだ。なんなら、ゴロデイスキーが贔屓にしているカントも、美的な趣味判断の話をそのまま芸術関与には適用しなかったはずだが、その辺はどう解釈しているのだろうか。

2023/05/15

自炊した。今日のメニューは、豚バラとピーマンをオイスターソースで炒めたやつと、もりもりの豚汁。

2023/05/14

論文の読み方を試しにちょっと変えてみた。原則として、1段落につき箇条書き1つ分しかメモしないことにする。普段はかなり丁寧めに内容を写しているので時間がかかっていたが、これでかなりスピーディーに読み通せるようになった。ディテールについては、もう一周読み直すときに押さえればよいのかもしれない。もちろん、これはちゃんとパラグラフ・ライティングをしてくれている文章相手にしかできない。

2023/05/13

「閑話休題」というフレーズを一度も使ったことがない。私は決して脱線せず、注を使うからだ。

2023/05/12

申請書に袋だたかれ論文を読めない日が続いている。「勉強がいやで部屋の掃除が捗る」みたいなやつが、私(たち)の場合は勉強以外のことを強いられているときに生じる。今日は懲りずに生えてきたドクダミをぶっこ抜いた。隣人たちはもう諦めているようで、すっかりジャングルと化していた。もう白い花も咲き始める頃で、キモさが倍増する。

2023/05/11

雨予報を過小評価したことにより、雷雨のなか非常勤先に閉じ込められた。待っていても止む気配がないので、弱まったタイミングを見計らってどうにかこうにか駅までたどり着く。途中の東横線がタイプ一致の10まんボルトをうけて完全にダウンしていたので、田園都市線で池尻大橋までのぼり、そこから歩いて帰った。気持ちを上向きにするためにも池尻でうまいラーメンを食べて帰ろうとしたのだが、現金を持ってなかったため断念、かなり気持ちが下向きになった。が、池尻から家までの約25分の徒歩ルートはそんなに嫌いじゃないし、雨もやんでいたので多少のなぐさめにはなった。

2023/05/10

でかめのやらかしDAYだったが、やらかしていることに気づいて挽回できたという意味では、ラッキーDAYでもあった。

2023/05/09

Colin Lyasが回想するところでは、コーネル大学に新設されたばかりの哲学科にやってきた大学院生たちに、フランク・シブリーは「私たちは大きな期待を背負っているのであり、それに応えないわけにはいかない」と述べたという。私には、「死ぬ気でやれ」とは違って、ポジティブなメッセージのように響く。もとのツイートも、「期待しているので、死ぬ気でやれ」だったら反感はもう少し控えめだっただろう。マインドセットを叩き込むのは一緒でも、理由があるかないかはけっこうな違いだ。

期待されるのはいいことだし、期待に応えようとするのは美しいことだ。誰かにとって、誇れるような存在になることは、人生において内在的に良いことのひとつだと思う。過度な期待がプレッシャーになるケースは山程あるし、気負わず気楽にやろうというメッセージも気分がよいものだが、それはそれこれはこれだ。

2023/05/08

『猫のゆりかご』を読み終えた。ヴォネガットを読むたび、なにかを書く気になった最初の熱意を思い出す。あれもこれも、こういう文章を書きたかったのがはじまりなのだ。

まともに取り合うな、全て嘘だ、というのが作中に出てくる宗教カルト・ボコノン教の教義であり、小説全体がそのムードに覆われている。ボコノンの教えは徹底的に否定的であり、自己否定すら歓迎する。無害な嘘を生きる拠り所にせよというテーゼですら、まともに取り合うべきかどうか判然としないのだ。この小説にはたくさんの「メッセージ」が込められているのだが、どのメッセージも字面通りには受け取れず、だからといって皮肉っているととるわけにもいかない。テーゼばかりが浮遊していて、どこにも着地しないような物語だ。だからこそ、終盤の大惨事には特別なカタルシスがある。

2023/05/07

ザーザー降りの雨で、昼過ぎまで惰眠を貪った。簡単に支度し、家の近くのカフェをはしごした。

2023/05/06

恋人とみなとみらいを散策してきた。ハンマーヘッドでうまい飯を食い、山下公園をぶらーっと下って中華街の悟空茶荘で茶をしばいた。夕方から、マリーンアンドウォークでやっている野外上映で『恋する惑星』を見た。

表明するほどでもないが、哲学なんぞは死ぬ気でやるには及ばない派だ。なんにせよ私が死ぬ気でやる義理はないし、そういうレトリックは下品でみっともないので、平気で使うような指導者からは距離をとる。ただ、そういうレトリックに動機づけられる人がいるのもわかる。

2023/05/05

トリュフォー『アメリカの夜』を見た。良かった。

2023/05/04

今日のひらめき:〈批評とはなにか〉は実質〈鑑賞とはなにか〉である。というのも、批評が鑑賞のガイドにあるというのはおよそ全員認めていて、しかし、「鑑賞」というのでどういうengagementを指しているのかバラバラだからこそ、それを促す批評家がやること・やれること・やるべきことについても論争が生じる。美的性質の知覚こそが鑑賞だと思われていたころは、批評も推論や論証じゃありえないとされてきたし、キャロルのように芸術カテゴリーに照らした達成を理解することこそ鑑賞なのだと言う人は、批評についても認知的なモデルをとる。ということで、批評のモデルは鑑賞のモデルからうまく整理できるのだが、言うまでもなく、「鑑賞」は「批評」以上にやっかいな用語である。

2023/05/03

〈美大生には小さい頃に頭を強く打った経験のある人が多い〉という言説をはじめて聞いたが、統計的真偽はだれも気にしていなくて、字面だけで独り歩きできる説得力を持っているのがやたらと気味が悪い。世の中にはこういう「それっぽい」テーゼがたくさんあるもんだ。

私は1歳のときに椅子から落ちて、中国東北地域の暖房設備として知られている暖气なる鉄の塊に額を打ち付けたことがある。これがなんらかの因果的働きをして、本来だったら外資系投資銀行でバリキャリしていたはずの私から、哲学をやるような私へと変容したのいうのは、物語としては面白い。いかにもカート・ヴォネガットがふざけて書きそうな小ボケだ。しかし、そういう因果関係をサイエンスとしてほんとうに信じ込むのは、「芸術/哲学という奇特なことをやっているスペシャルな私」という自意識が垣間見えて、(頭を打ちつけるのとは違う意味で)ちょっとイタいだろう。

2023/05/02

もっと悪意を持って生きていたころは『ラ・ラ・ランド』のあら探しをするのにIMAXに課金していたりもしたが、大衆が好むようなものの悪口を書いて玄人を気取るのは卒業したので、マリオの映画ははなから観に行くつもりがない。ごくふつうの意味において映画の趣味が良い(つまり、大衆的な映画よりもシリアスな映画を選好する)批評家は、マーベルとかRRRとかマリオとかその類を適切にカテゴライズして、そっと脇に置くだけの判断力を発揮すべきではないか。私はどちらかというと貶す批評に理解も関心もあるほうだが、それはそうと、短い人生の一部を割いてまでやる価値のある酷評とそうでない酷評の区別はあるだろうし、不老不死でもなければそういうのは気にして生きたほうがいいのだ。

まぁ、大衆が大衆向けのものを与えられていかにも大衆のような喜び方をしているのを見ると、自分を含めた人間というものの気高さについて大いにショックを与えられるので、一言二言小言を言いたくなる気持ちもわからないではない。

2023/05/01

LE SSERAFIMの新曲「UNFORGIVEN (feat. Nile Rodgers)」が出たが、まじでどこにNile Rodgersがいるのか分からなくて界隈が騒然としている。Chicらしいカッティングがないどころか、ギターらしき音すらほとんど聞こえない曲だ多分、コーラスっぽいエフェクターをかけた低音弦のベンベンがそれなのだが、フレーズも音色もほとんどシンセだ。当然チャカポコとカッティングをしてくれるだろうという期待自体が、こちらの勝手な期待だったと言えばそれだけのことかもしれない。にしたって、feat. Nile Rodgersであることに付加価値を見出す人には刺さらず、見いださない人にとっては無意味なコラボをして、どういうつもりなのかが分からない。トラック自体はいつものLE SSERAFIMといった感じで、わるくないが置きにいったなという印象を受ける。

2023/04/30

ちゃん読に向けてLopes (2018)のレジュメを切った。私の平均的な読書スピードからして、この本の1章分(18ページ前後)を倒すのにおおよそぴったり1日かかる。

価値論を一通り勉強してきたおかげで、ロペスの議論にも乗れてきた。

2023/04/29

数年ぶりに屋外開催となった目黒マルシェを散策してきた。風がめちゃ強くて、小物を展示するのも一苦労な様子だった。目黒通りには、アンティークというかナチュラルというか、キナリノ的な雰囲気がある。それは中目黒とはずいぶん違う、私がより馴染んでいるほうの目黒らしさだ。夜は中目黒まで山を降りてラーメンを食べたが、まぁこちらの目黒はこちらで馴染んではいる。

2023/04/28

アメリカ英語かイギリス英語で「."」か「".」かが違うみたいなの、話し合ってどっちかに統一せえと思う。どっちでもいいだろう。なにを賭けて戦っているんだ。

2023/04/27

海外の哲学者の間で、「What people think philosophers look like / What we actually look like」というキャプションで、ヒュームなどの肖像画と自分の(いくらかふざけた)自撮りを並べてツイートするミームがほんのちょっと流行っている。Daisy Dixonが最初にツイートし、ミソジニーな有象無象にこっぴどく誹謗中傷されたのをきっかけに、カウンター的な意味合いでみんな乗っかっているようだ。

こういうちょっとしたネタツイートはなんの気なしにしてしまうものなのだが、おそらく当初はちょっとした自虐も絡めたジョークだったのが、いつのまにかレイシストたちを相手に退くに退けなくなり、ダイバーシティという理念を背負って戦わされている感がある。言うまでもなく、こういうのに噛み付いて人格否定マウントをかましてくる連中は救いようもないのだが、そういう類をさらに煽ろうとして展開されている上述のミームも、それはそれで共感性羞恥が刺激される。正味な話、ヒュームがこういう見た目であなたがそういう見た目なのだからといって、一体なんなのか。笑わせようとしているのか。笑ってほしいのだとすれば、それは自分の見た目タイプに対するセルフ差別を含んでいないと言えるのか。笑わせようとしているのでなければ、一体なにがしたいのか。

自分の顔写真を、公的に品定めされるような場所にわざわざアップするのは、その主体がオタクのおっさんでなくともメンタルの不調を察してしまう。そんなことしないほうがいいし、しなくていいのだ。

2023/04/26

なんだかすごく食欲がない。食べることに対する気味の悪さがちょっと勝っているような日だ。最近山形のだしばかり食べていて、食が細くなってしまったか。

2023/04/25

『推しの子』はそのノリに十全についていけるような漫画ではないが、アニメ主題歌としてYOASOBIが持ってきた「アイドル」には素直に感動したし、漫画自体の株もぐっと上げられたように感じる。開始0秒でK-POPにしか聞こえない歌いまわしに、「可愛くてごめん」的なぷりっぷりの世界観、『推しの子』という作品にしてこの主題歌以外ありえないだろうと思わせる説得力。YOASOBIは小説に対するイメージソングからキャリアを始めただけあって、この手の主題歌を手掛けるのが大の得意とは知っていたが、「アイドル」はちょっとした偉業だ。『チェンソーマン』に対する米津玄師の「KICK BACK」も偉業だったが、最近のアニメ主題歌は標題音楽としてできがよすぎる。

2023/04/24

今年もベランダのドクダミが生えてきた(戦歴)。またしてもその触手で我が家の室外機を付け狙っているので、距離的に近いやつから順に引っこ抜いて日陰に叩きつけておいた。簡単なことのように思われるが、臭くて汚い雑草なのでゴム手袋をつけてやるほかないし、植え込みをいじりすぎると名もなき多足の住民たちが地より這い上がってくるので、精神的にはけっこうダメージのある仕事だ。

もともと海派で山は苦手なのだが、植物を根本的にきもいと思っていることを自覚しつつある。あんな、生きているのか死んでいるのかも分からない物体が、知らずしらずのうちにこっそり呼吸しているというのは、なんだか根源的な恐怖を喚起するようなところがある。それは、一見すると明らかに私ではないものと私が、実は本質においては同種の存在なのかもしれないという、実存的な恐怖だ。あるいは、来世はほんとうに植物になってしまうかもしれない、という内容を持った恐怖でもある。その点、私は石が好きだ。石には植物にはない沈黙があり、決して私と同種の存在ではないという安心感のもとで眺めることができる。どう転んだって、私の来世が石であるはずはなさそうだし、万にひとつそうなった場合には、私はもはや「私」ではない端的な石になるはずなので、そこに恐怖はない。植物は、私が「私」であることを維持したまま植物になってしまう可能性を、容易に想像させる。もしかすると、私が引っこ抜き日陰に叩きつけているドクダミは、ボルヘス的因果を経てそこにたどり着いた私自身であるかもしれない。

2023/04/23

私を含め、哲学者(正確には哲学者になりがちなあるタイプの人種)というのは不愉快な「XはFである」を突きつけられたときに、「XはFではない」と返すかわりに「〈XはFである〉と述べることはGである」と言いたくなる。メタに立って相手の矮小さを際立たせるというか、相手と同じ土俵では戦ってあげないことが、煽りとして一番有効であると考えているかのようだ。

ムキになって1階で戦うことは場合によってはたしかにみっともないのだが、戦いになりそうと見るや2階に登ってマウントするのは、それはそれで不誠実だろうと思うことがある。そういう戦略は一見すると物分りがよく理知的なようでいて、つまるところみっともなくダサい状態を回避しようとする、頑固なプライドのあらわれではないか。その人はその人でムキになって2階に登っているのだが、自分はムキになっていないことを装っている分、1階でキレ回す人にはない独特なわるさがある。一般的に「私は知的にマッチョなので、そんなこと言われても痛くも痒くもない」的なことを言う人は、本性としてはすごくプライドが高くて、沸点が浅いんだろうと思ってしまう。私自身、「私は知的にマッチョ〜」的なことをたまに言う人だし、本性としてはすごくプライドが高くて、沸点が浅い

少なくとも、人間がそうやってメタ的に意地を張ってしまうことはある程度仕方がないだろうとは思っている。みっともないときには、みっともなくあるほかないのだ。これは、2階の人への3階からのマウントである。

2023/04/22

ビアズリーの「What Are Critics For?」(1978)という論文を読んだ。批評家の狙い・果たす役割について分析したもので、ビアズリーはおおまかにふたつの批評家観を導入し、一方を擁護する。(1)消費者組合としての批評モデルによれば、批評家は限られたリソースのなかでどの作品を選んで鑑賞すべきか、プラクティカルな指針を与える存在であり、理由とセットで判断(ここでは価値判断、評決のこと)を伝達することによって、これを行う。批評家はいわば、消費者に奉仕する存在である。他方、(2)広報係としての批評モデルによれば、批評家は難解で理解し難い作品の分析・注釈を行うことで、作品がちゃんと消費者に理解され堪能されることを手助けする存在であり、奉仕の相手は生産者、つまり芸術家ないし芸術という事業そのものである。あまりこういう区別は見たことがないのでなるほどなと思った。私としては(1)をコンサルタント、(2)をプロモーターと呼ぶのがよいように思う。

大きな対立点は、前者では批評家は理由づけられた評価を下すのが主要な仕事であり、後者はそうではないという点だ。芸術事業というものをより盛んにするためには、基本的になんでもかんでも褒めて、好きになってもらう必要があり、客観的に評価することは目的にそぐわない。ビアズリーは前者、消費者組合としての批評モデルを好んでいて、広報係としての批評モデルが語る役割はどれも二次的だ、という方針で論じている。

言うまでもなく、「理由づけられた評価」が中心だという点はキャロルがそのままごっそり引き継いだ主張なのだが、ビアズリーのわりと独特なところは、評価の提示によって作品を選ぶ手助けをところまで、肝心な仕事としてカウントしている点だ。キャロルはあまりそういったpractical adviceの役割にまでコミットしていないというか、批評家自身のreasonableな評価を受け手に信じてもらうところまでが仕事で、その先で受け手がなにをするかは知らん、というモデルのように思われる。ビアズリーのほうが利他的で、キャロルのほうが利己的だ。

どちらに軍配が上がるかと言うと、私はキャロルだと思う。ビアズリーに限らず広く実践説と呼べるような、「批評家は鑑賞者になにかやってもらおうとしている」な見解は、批評実践にピッタリ合致しているようには思われない。単純に意図だけを問題にするとしても、作品に(特定の仕方で)アクセスしてもらおうという意図を持っている批評家ばかりではないように思う。他方、自分の言っていることを合理的なものとして信じてもらおうとしていない批評家は、私にはちょっと想像できない。この点、批評家のモデルはコンサルタントでもプロモーターでもなく、やはりアナリシストではないかと思う。もちろん、この話題はどこのどの「批評実践」をデータとしているかでだいぶ直観がブレるので、むずかしいところではある。作品の推薦を目的に書かれているような批評を、私がほとんど読んだことないだけかもしれない。

まだ読めていないが、James Grantの『The Critical Imagination』(2013)がこの辺の話題をうまくまとめてくれているっぽいので、次の課題図書にしようと思っている。

2023/04/21

ポケモンSVをやる機会には恵まれていないが、新たに導入されたらしい「古来の姿」「未来の姿」がどちらも強く装飾的なのは面白いと思う。古来ポケモンは呪術的なボディペイントを思わせる彩色を持っており、未来ポケモンはメカニックなガジェット感で盛られている。結果的に、現代ポケモンであるところのプリンやバンギラスのほうが、ミニマルでモダンな感じになっている。

初期のキャラクターデザインは質素だが、時代が進むごとにより派手で刺激的になっていく、というのは一般的な現象だ(遊戯王もデュエルマスターズもそうだろう)。そこにはハードの制約もあるだろうし、より目新しいものを提示しようとする商業的な努力も伺えるのだが、それだけではないような気もする。つまり、古代や未来のマキシマリズムに比べたら、現代こそもっとも非装飾的でミニマルな時代なのだ、というのは一定真理を捉えているように思えてならない。それは歴史的な事実についての真理ではなく、想像力についての真理だ。私たちはどうしても、現代のファッションや建築や生き物をシンプルで退屈なものとして捉え、古代や未来のそれらを装飾的で過剰なものとして想像してしまうのだろう。想像上の文化史において、私たちはつねにより過剰なものからより過剰なものへと向かう、最も質素な現在にいる。そうやって後ろだけでなく前からの過剰さにも抵抗する精神性として、「モダン」であることを捉え直すのはけっこう面白いかもしれない。

2023/04/20

対面での非常勤、2週目。もう慣れた。初めてと2回目とではだいぶと勝手が違うものだ。けっこうかかるなと思っていた移動も、『Mothership Connection』を聞きながら『猫のゆりかご』でも読んでたらあっという間だ。ファンク聞いてカート・ヴォネガット読んでいると、ほんと学部時代から好きなものを擦りつづけるばかりの大人になってしまった感があるのだが、それはそれで別の話だ。

夏にはまだちょっと早いが、山形のだしをつくった。あれこれ切り刻んで混ぜ合わせるだけなのだが、今年はぶんぶんチョッパーもあるので一層らくちんだった。それにしても、私のぶんぶんチョッパーはまだ買ってから半年ぐらいのはずなのに、もうプラスチック部分が割れに割れている。ごまかしごまかし使っているが、ぶんぶんした勢いで大破して手を切る恐れもあるので、悩ましいところだ。

2023/04/19

休日はなにをするかという質問に「寝る」で返す人、コミュニケーション下手すぎだろと前から思っていたのだが、ことによるとこれは質問がよくなくて、「休(むためにあてがわれた)日はなにをする(ことによって最大限の休息を得ようとしているの)か」ととられているのかもしれない。そりゃ私だって、休むための日だったら寝るのが一番だと思う。しかし、質問者が効果的な休息の手段を知りたがっており、「寝る」という自明な答えをありがたがる場面はきわめて限定的なので、デフォではやはりhobbyを聞かれているのだととるのが、いわゆる〈空気が読める〉ということだろう。

しかし、寝ることがhobbyなのだというような人も世の中にはいる。私は、あんまり寝ることをアクティビティとして楽しむタイプの人間ではない。寝れないというわけでも寝たくないというわけでもないし、夜はふつうの人よりは寝ているほうだ。ただ、寝ることがhobbyなのだというようなタイプの人間ではないのだ。

関連して言うと、エナジードリンクの類も決して飲まない。あの手の飲み物は本当に気味が悪いと思っていて、なにか根本的に思い違いをしている人が作り、思い違いをしている人が飲んでいるものだとぐらいに考えている。コーヒーも、カフェイン摂取の必要性に迫られて飲むことはほとんどない。総じて、眠りというのはこちらの自由意志の埒外にあり、hobbyとしてコンテンツ的に理解できるようなものではないんじゃないか。眠りは、来て、去り、また来るような、私ですらない誰かの瞬きである。

2023/04/18

『RRR』は見ていないので、『バーフバリ』がしょうもなかったことからの帰納的一般化によりおそらくしょうもないだろう、というぐらいしか言うことがないのだが、暴力的な映画だとは思いもよらなかったというのはさすがに白々しいように思う。最低限のあらすじや予告編、あるいはポスターだけでも見ればわかるように、屈強な男たちが武器を持って傷つけあう話なのであって、キャラクターの怪我や死についてはある程度心構えを持って見るべきだろう(というか意識的にそうせずとも、サブパーソナルにそういう鑑賞の用意が整うはずだろう)。

もっとも、『RRR』をめぐる熱狂はマーベルをめぐるそれと一緒で、傍から見ても度を越していてきついところは確かにある。「なにも考えず映画館に走れ!」的な口コミ、★5.0つけなきゃ不感症みたいな煽りは、不誠実だし幼稚だろう。映画というのはどうしてもサーカスの子孫なので、そういうポピュリズム的な熱狂と相性のよいところがある。そういう勢いに乗せられて、ろくに下調べせず見に行ったのは行った側の落度だが、いくらか気の毒ではある。

2023/04/17

アウトラインだけ用意していたフィクション論文をがーっと文章化し、英訳までするという怒涛の進捗を見せた。楽しいのでずっとやっていられる。想像的没入とか崇高さとか、関連する論点もたくさん見えてきたが、いかんせん4000ワードがリミットなので欲張らずミニマルにまとめようと思う。

2023/04/16

28歳になった。14歳の二倍だ。実家に帰って老犬を揉み、バーベキューとケーキをバク食いした。それから1時間ぐらいピアノを練習して、「月の光」の冒頭あたりだけ弾けるようになった。はじめて楽譜で見たが、拍子が思ってた感じとだいぶ違った。ずっと、小節の頭じゃないところを頭だと思って聞いていたみたいだ。28歳になって最初の発見だ。

主に大学で作業するときの休憩時間にフレッシュネスバーガーで読み進めていた『ガラスの街』も読み終えた。ド直球に面白い小説で、ちまちま読むのが歯がゆかった(細切れに読むのも、それはそれでよかったが)。『幽霊たち』とはかなりテイストが似ていて、どちらも「私」というもののもろさを主題としている。『ガラスの街』のクインは最初の最初から、確固とした「私」を持つことに怯えているペソア的な人物であり、ニューヨークという雑踏のなかで透明になることを肯定的に価値づけていている。もっとリアリスト寄りだった『幽霊たち』のブルーに比べると、クインはかなり倒錯的な人物のように思われる。彼のアイデンティティを脅かすようなトラブルがゆるやかに、しかし確実に降りかかるのだが、ある意味で彼がそれを望んでいることは明らかだ。これは受難の物語だが、成就の物語でもある。なんだか、私の人生までこうなってしまうのではないかという、不気味さと期待が入り混じった気分を喚起される、パワフルな小説だ。

2023/04/15

この2日ぐらいですっかりエレクトリック・マイルスが好きになった。ファンク、とくに長時間同じフレーズをしつこく演奏するタイプのファンクが大好きなので、美的プロファイルとしては入り込みやすいほうなのは確かだ。『Bitches Brew』もよいが、『In A Silent Way』がかなりはまっている。しかしこう、いたってミニマルな音楽として始動したフュージョンが、なぜああいう技術ひけらかしのマキシマリズムに陥ったのか不思議だ。ピロピロと戦隊モノヒーローみたいな音楽を奏でるフュージョンは、ほんとうに好きになれないジャンルのひとつだ。

ついでに言えば、ヒップホップも長年挑戦しつつ一向に好きになれないジャンルだ。こちらはファンキーかつミニマルでもあるので、なぜハマれないのか自分でもよく分からない。バンド演奏が好きというのは少なからずあるが、あの手のやんちゃさが嫌いというのに尽きるのだろう。

2023/04/14

そういえば、むかし東京都美術館でフェルメール《真珠の耳飾りの少女》を見たときに、あの少女と同じ格好をしたミッフィーのぬいぐるみストラップを買ったのをふと思い出した。高校のロッカーに吊るしていた記憶があるのだが、あれどこ行ったのだろう。

2023/04/13

2年目にして初出勤で非常勤先にやってきた。80人弱の実体を前に喋るのは数年ぶりなので最初はだいぶ緊張したが、後半はゾーンに入ったのでどうにかなった。女子大というのもあって(?)基本的にはみんな静かに聞いてくれているのだが、静かすぎてちょっとカルチャーショックだった。一般教養の講義ってこんな背筋を伸ばして聞くものだったっけか。

講義前に首にぶらさげていた教員証をなくしてだいぶ焦った(風に飛ばされて背中側にひっくり返っていただけ)のと、帰りにMacの充電ケーブルを忘れていってしまった(AV機器の上に置きっぱなし)のと、出勤簿をつける必要があるのを後で知ったのと、いつも着ているシャツの袖ががっつりほつれたのを除けば、初回の動きとしてはなんとか及第点だろう。

2023/04/12

数年ごしの唐揚げチャレンジ。片栗粉があんまり残っていなかったので、小麦粉とパン粉と雑にブレンドした。衣があまり定着しなかったようで、揚げているさなかボロボロ落ち、最終的には素揚げした味付け鶏みたいなのができた。うまかった。キャベツも一玉買ってきたので、あしたザワークラウトを漬けようと思う。

2023/04/11

〈信じる上で困ったり迷ったり惑うことは不快であり、そうした経験を与えてくる事物にはネガティブな価値があると言いたくなるが、想像する上で迷子になることは不快ではなく、むしろ快である〉というアイデアをここ数ヶ月こねくり回している。支離滅裂な学術論文に対しては、不快感を覚えたり、回避しようとするのが適切であるが、支離滅裂なフィクション作品に対しては必ずしもそうじゃない、という非対称性がある。みたいな話を、『Analysis』論文では書こうとしている。

しかし、「想像において迷子になる」経験のポジティブさについて、どう論証すればいいのかまだ決定打が得られていない。私としては、ドノソやピンチョンを読んだりするときに、スムーズな想像を妨げられるがゆえの快があるのは自明だぐらいに思っている。快でなくても、そこにはおそらくは、変容的な経験、日常生活の異化、整合性や合理性の領域からの解放感といった、好ましい認知的・情動的状態をもたらすという道具的価値があるのだろう。また、一般的に、フィクションが喚起する情動は、たとえそれが現実においては不快であったとしても、フィクション経験において快でありうる。悲劇とかホラーのパラドクスは、想像的迷子に関しても成り立つかもしれない。

これらの点は私が主張したいことをある程度サポートしてくれると信じているが、最終的には論証とは違うなんらかの経路を通して受け入れてもらうほかないだろうと、なんとなく予想している。これはたぶん、山口尚さんが述べるところの「物事を新たな相のもとで見られるようにする」類の論文になるのだろう。あるいは、シブリーの知覚的証明を、フィクション作品一般に対して行うものとも言えるかもしれない。なんにせよ、あまり意識的に書いたことがない類の論文なので、楽しいし、学びが多い。

2023/04/10

歯科検診に行ってきた。よく磨けているとお褒めいただき、なんの問題もなかったので、話のネタもない。

大学にも行ってきた。4月なのかなんなのか、やたらと人が多くてbadだ。院生作業室もまれに見る混雑具合で、駿台の自習室かと思った(まぁ、隣空く程度には空いているが)。ぽつりぽつり独り言を言うタイプの狂人が同空間に紛れ込んでいて、総合的にはぜんぜんダメな環境だったので、早めに帰った。あの手の狂人どこにでもいるのだが、こちらからできることはなにもない。

批評の理由づけに関する、Gorodeisky (2022)を読んでいる。ゴロデイスキーは、前に読んだ美的価値のVMP論文で言っていたところの「美的快楽」をこちらでは「鑑賞=堪能[appreciation]」と呼んで、批評とはappreciationの報告であり、同じようにappreciateしてもらうことが狙いなのだとする。批評家は自分がどういう認知的・情動的appreciationをしたのかの報告をしている、というのはまぁ分かる話だが、同じようにappreciateしてもらうことを狙いとして、理由づけられた批評文を書いているというのはあまりピンときていない。VMP論文でも触れていたが、ゴロデイスキーはオススメ[recommendation]という観点から美的・批評的コミュニケーションを見ているっぽくて、かつ、オススメは好きなものを好きになってもらう営みとしてざっくり理解しているらしい。解釈や文脈づけのような作業も、このappreciationの伝達という中心的・一次的目的に従属しているとする。「批評は好き嫌いの問題じゃない」というキャロルの立場とはシャープに対立している気がする。全部読んでからもうちょっと考えてみる。

2023/04/09

早めの誕生日祝いで、恋人と中華のコースを食べてきた。看板メニューのよだれ鶏がかなりうまく、揚げワンタン、肉団子あたりも気に入った。池尻大橋の空中庭園を見た後、三茶まで入念に散歩し、Sanityで欲しかったビールまで手に入れた。空中庭園には、めっちゃ平べったい犬もいた。景気よく28歳に突入できそうだ。

「ミュシャは二流の画家で、芸術ではない」について、「芸術である」には分類適用法と評価的用法がね……などと専門家ぶりたかったが、啓蒙する義理もないので、そっと胸のうちにしまった。

2023/04/08

中目黒のメキシカンでバク食いした。すごくビールに合う面々で、脳みそに直接ぶっささる快があった。今年の夏はもっとメキシカンを食べようと思う。

2023/04/07

ちゃん読。Being for Beautyを読み進めている。標準化美的快楽主義の批判をする第4章だ。快楽主義では、説明できないとされることがいろいろあるのだが、結構面白く読めたのは美的個性の問題だ。快楽主義では、コミットメントせず、より大きな快楽を与えてくれるものを選び続けるほうが合理的なのだが、実際の美的生活では、自分のスタイルに一貫したものを選ぶ理由がしばしばある。普段からコンサバな格好をしているひとは、いくらおしゃれでも、ちゃらい靴よりコンサバな靴を選ぶ理由がある。そして、これはより大きな美的快楽を与えてくれるほうを選ぶはずだ、と予想する快楽主義に反している、というわけだ。

いくつか応答は考えられるが、まずそうやって付与される理由は別に美的な理由じゃないんじゃないか、というのがあり、ロペスも触れている。自分の人としての一貫性を保とうとするのは、たとえそれが美的嗜好の一貫性だとしても、ものの美しさに突き動かされてなにかするのとは、ちょっと違う現象のように思われる。後者において理由を与えるのはアイテムだが、前者において理由を与えているのは自分のアイデンティティだ。両方まとめて「美的理由」のラベルで指し示すには、なんらか説明が必要だろう。

第二に、考え方によっては、美的個性を優先することこそが自分の快楽を最大化する、という説明だってできそうだ。つまり、そこだけ見たときにどのアイテムが大きな美的快楽を与えてくれそうかという選好ではなく、それに加えて自分のスタイルまで考慮してどれがより大きな快楽を得られそうか、というのが気にすべき美的選好なのではないか。選好をローカルにとるか、すべてを考慮した場合のものとしてとるかは、『経済学の哲学入門』がそういう話を扱っていた。むずかしくて挫折したが。

Being for Beautyも博論に直接かかわる本ではないのだが、ポスドクでは美的価値と美的経験をやろうと思っているので、勉強会を軸に貯金しておくのはいいことかもしれない。学振書類などを書くと、はやくその内容でやりたいモチベーションが高まるのだが、実際やり始めるのは一年後とかなので歯がゆい。

2023/04/06

今日もせっせと自分の論文を英訳した。面倒なので日本語で投げようと思っていたやつだが、グラマリーの元を取るためにも自分にむち打って訳した。国際ジャーナルに投げるほど新規性のある内容ではないので、国内ジャーナルに投げることになるだろう。昔からよくわかっていないのだが、国内ジャーナルの英語論文とはつまりはなんなのだろうか。それは、誰が査読していて、どれだけオーセンティックな業績になり、どんなメリットとデメリットがあるのか、いまいちよくわかっていない(日本人の読者に対してフレンドリーでないのはもちろんデメリットだろう)。もし通れば、リサーチマップかどこかに日本語版をあげるのもありだな。

海外学振もおおむね終わったので、これさえ投げれば3月〜4月のタスク進捗としては上々だ。すごく久々に、「やることやったので、新しいことでもやるか」的なフェイズに入れる。4月〜5月のタスクはいまのところこんな感じ。

2023/04/05

すがすがしいまでの倫理学レベルゼロでこれまでやってきたのだが、『メタ倫理学入門』を読んでLopes (2018)の分からなかったところがするする分かりつつある。なんで早く読まなかったの。ロペスに限らず、「美学って、結構倫理学の後追いなんだな」という発見もあった。

美学もやらなきゃいけないが、博論が落ち着いたらちゃんとAreas of Specializationを意識した勉強もしなきゃな、と思わされた。

2023/04/04

4年ちょい前に塾で小論文を教えていた子がひさびさに遊びに来ていたのだが、大学に進学していまは美学を学んでいるらしいと聞き、だいぶエモかった。受験小論文のレクチャーそっちのけであれこれ喋ったのが、思いもよらぬかたちで人様の進路選択に影響していたらしい。すごいことだし、身が引き締まる思いだ。大学院もぜひということで悪魔のいざないをしておいた。

2023/04/03

駒場に来た。新歓でわいわいしている。休学で在学期間が延び、学生証の期限が切れたので学務課に行ったのだが、言わずとも新しい学生証を用意してくれていてその場で交換できた。博論を進め、フレッシュネスで塩レモンチキンバーガー×2を食べた。今日も時間をずらして16時頃にいったのだが、近くでなんかイベントでもやっているのか外国の人がたくさんいて大混雑だった。20時に駒場を出て、帰宅。セブンで買ったサッポロの「シン・レモンサワー」がけっこう美味しくて、レモンサワーvibesが刺激されたので23時過ぎにスーパーへ行き材料を買ってきた。自分で作ったやつは、まぁ、そこそこだった。

2023/04/02

私の名前の漢字(清弘)は私が自分で選んで付けたものなのだが、部分的にせよ、自分の名前を自分で決められたのは気分がいい。それは、強いられて始まってしまうものとしての人生を、いくらか飼いならせたような安心感を与えてくれる。誰しも、生きている間に一度ぐらいは、自分の戸籍上の名前を好きに変更するチャンスを与えられるべきではないか。与えられた名前で生きていかなければならないのは、いくつかの観点から見れば、与えられた見た目や能力で生きていかなければならないことよりも悲惨ではないか。

2023/04/01

東京都美術館でエゴン・シーレ展を見てきた。私が美術の講義で教えているカテゴリーで言えば、「歪曲」の画家だ。代表作の《死と乙女》は陰気臭くて好みじゃないが、今回来ていた別の代表作《ほおずきの実のある自画像》はかなりかっこいい。人体を描いている一連の作品はどれもtheエゴン・シーレといった感じだったが、風景画《モルダウ河畔のクルマウ(小さな街IV)》までエゴン・シーレっぽい筆致だったのは面白かった。美術館は楽しいが、運動不足がたたって腰がおしまいを迎えた。

2023/03/31

もうちょっと攻撃的なパーソナリティを持っていたら、「なぜあなたはランクづけに興味がないふりをするのか」という発表をしていただろう。ランクづけは楽しい。世界で最も美しい顔ベスト100だとか、最も偉大なギタリスト100とか、最強最高最優秀が気になるほうが自然であって、そんなランキングに意味はないし気にするのはしょうもないと斜に構えるのには、なんらかこじれた動機が見え隠れする。個別のランキングをばかげているとかしょうもないとか不正確だと言うのは理にかなっているが、一般的にランキングは面白くないなんていう主張が、どう正当化されるのか私にはわかりかねる。YouTubeやらTikTokのサムネイルを見れば、私たちがいかにランクづけに飢えているかは自ずと明らかだろう。

ランキングは失礼だ、という主張ならよく分かる。しかしそれでいくとあらゆる批評や好き嫌いは多かれ少なかれ失礼なので、順位をつけることがとりわけ失礼な感じもしない。

2023/03/30

鎌倉に行ってきた。天気よし。いくつか懐かしのスポット(オクシモロン、報国寺、鶴岡八幡宮、イワタコーヒー店)をめぐったのと、未知のスポット(豆柴カフェ)をめぐった。夕方に行った由比ヶ浜も、日没直後にすごく青くなってきれいだった。

2023/03/29

岩盤浴に行ってきた。行きの送迎バスがわれわれ直前で満員になり力強く出鼻をくじかれたが、うまいこと立て直してHAPPYな一日を過ごした。帰りに食べた油そばもかなり美味しかった。

2023/03/28

最近仕入れたY1000を飲んでいるが、とくに効果は実感していない。ここ数年はもともとよく寝れている方だし、悪夢や悪夢に準ずる夢ならもともとよく見るほうだ。

2023/03/27

舌に口内炎×2ができた。

2023/03/26

学振をおおむね書けたので、読みたいものを読んでいる。健康と同じで、妨げられてはじめてふだんの豊かさを実感する、みたいなところがある。

2023/03/25

美的性格[aesthetic character]という語は、シブリーやビアズリー、あるいは現代の論者がそれぞれ異なる目的において使っている。慎重に議論を進めているときのシブリーは、美的概念(優美である、けばけばしい)によって指示される、非美的な基礎特徴以上・美的価値未満の項目を意図して「美的性格」と言ったりする(シブリーがより好んでいる「美的質」はどうしても価値含みっぽく見えるため?)。美的性格は必ずしも価値含みではなく(美的価値を構成しているわけではなく)、優美だから良い場合も優美だから悪い場合もある。しかし、いまだに理解しきれていない議論として、シブリーは各美的性格と結びついた、デフォルトの価値があるとも考えているっぽい(General Criteria and Reasons in Aesthetics)。優美であることは、それだけ取れば価値的にネガティブではなくポジティブである。こういう仕方で、美的性格には価値の極性があるのをどうもシブリーは認めているっぽい。この極性は、個別の場面である美的性格を持つことがある価値を持つことを含意する、というほど強いものでないのは明らかだ。しかし、だとすれば統計的結びつきなのか、概念的結びつきなのか、傾向性なのかなんなのかわからない。結局、個別の場面でオーバーオールな価値づけがなされるなら、美的質ごとに極性があるという事実はそんなに重要じゃないし、そのことでもってシブリーが一般主義を擁護できるわけでもない、という批判をTsu (2019)で読んだ。

ビアズリーになってくると、「美的性格」はアイテムではなく美的経験が担うものになり、経験を美的なものにしているような一連の現象学的特徴を指すものになる(無関心性とかそういうやつ)。ビアズリーはもっと素直に、そういった美的性格が経験を価値あるものにしていると考えている気がする。

結局、美的性格はアイテムが持つのか経験が持つのか、価値中立なのか価値含みなのか、その辺が統一されていないし今後もされる見込みはなさそうなので、危ういといえば危うい語だ。しかしだからこそ、美的なものを美的たらしめているなんらかの要素を雑に指示したいときには便利なアンブレラタームだ。

2023/03/24

ホットドッグに飽きてきた。

2023/03/23

PhilPeopleに登録することは、あらゆる哲学者に強くおすすめできる。なにがいいって、自分が普段から追っている哲学者たちをフォローしておけば、彼彼女らがLikeした最新の論文や論文ドラフトがフィードに流れてくるので、文献収集がめちゃくちゃ捗るのだ。

一点だけうざすぎる点を挙げると、東大のアドレスで登録しているせいで、リンクをクリックするたび「あなたの大学はサブスクリプション登録してくれてませんね?ライブラリアンに頼んでください!」的なメッセージが表示されて数十秒待たされる点だ。常勤の研究者ならともかく、いち院生にどうしろというのだ。

2023/03/22

大学の院生作業室にこもって、おらおらと学振書類を書き進めた。この恒例チャレンジも今年で5回目なので、もういまさらとやかく言っても仕方がないのだが、「研究方法」という欄を見るたび、哲学には読んで考えて書く以外に方法もなにもないだろうと思ってしまう。基本的には、この手の助成金はやはり理系向きであって、(実証的でない)文系はそれを形式的に模倣して書くことになるのだろう。

今年はじめて書いている海外学振には、ここ数年のDCや国内PDにはある「なりたい研究者像」がない。実際、あれでどう将来性を見極めるのか私にはさっぱりわからないので、ないのは大変ありがたい。就活面接もそうだが、夢や目標をうまく語れることと、当人の能力・将来性にどれだけ相関があるのか、私にはさっぱりわからない。それはそうと、学振というのはコスモポリタンな研究者というより、なんだかんだ本国のあれやこれに貢献する研究者の養成が目的なのだろうと認識していたのだが、それで言うと、これから海外に出ていこうとしている研究者に対してこそ「なりたい研究者像」を尋ねるべきなのではないか、とは思う。もちろん、その目的なのだとしたらそうするべきじゃない?という以上のものではない。

2023/03/21

自転車の後輪が頻繁にぺちゃぺちゃになるのを騙し騙し使っていたが、どうにもならなくなってきたので修理に出したら見事にパンクしていた。穴の空いたチューブも見せてもらったが、性格が悪いので、「交換したあとでぶった切ったやつを見せられても分からんな」とか思っていた。

2023/03/20

論文を提出。遠く遠く羽ばたいてくれ。遠ければ遠いほどよい。

2023/03/19

短い研究人生のなかで、当たり前のようにauthor-date式しかやったことがなかったのだが、出そうとしているジャーナルが脚注に文献を書かせるスタイルを指定していて頭がフリーズした。単純にやったことがないので困った部分もあるが、美的に見て圧倒的にauthor-date式推しので困った。ちゃんと内容をもった注と文献を載せるだけの注がごちゃまぜになるの、気にならないのだろうか。

それと、PhilPapersがそれで出力するというので、当たり前のようにAPAでしか文献表を作ったことがなかったのだが、今回はシカゴを求められている。この機にいい加減ちゃんと勉強しようという気持ちになった。私(およびPhilPapersの)のAPAは、given nameのイニシャライズもしないし、厳密にはAPAもどきのなんかしらだ。

2023/03/18

最近のマイブームはホットドッグだ。ピクルス、たまねぎ、レモン汁、マスタードはあらかじめ混ぜ合わせて瓶詰めしており、コッペパンとソーセージを焼いてケチャップとマヨネーズをかければ、あっという間に完成する。ホットサンドよりも、−30%ぐらい楽ちんだ。

2023/03/17

ちょっと自分では解決できなさそうな問題として、知覚の叙実性テーゼと錯覚可能性はどう折り合いがつくのかがわからなくなった。知覚の内容が叙実的[factive]だというのはよく読むし、そうなのだとばかり思っていた。つまり、正常で適切な知覚が「xはFである」を表象するなら、世界側の事実として現にxはFである。知覚は実在に対して透明であり、実在に反する内容を帰属する場合には知覚が正常・適切に働いておらず、誤った判断をしてしまっていることになる。他方で、ミュラーリヤー錯視を見るときのように、私たちはときに錯覚をする。知覚は「2本の線の長さは異なる」を表象するが、それは図像に関する世界側の事実と合致しない。知覚がなされる状況は異常とも不適切とも言えないので、そうなると知覚経験の内容は誤ったものでありうるということになる。結局のところ、知覚の内容は不可謬なのか可謬なのかが分からない。

カテゴリー絡みで種性質の知覚について読んでいるが、知覚の哲学についての基本的な背景がまだ掴みきれていないので、源河さんの本とか読み直したほうがよさそうだな。

2023/03/16

AI翻訳がどんどん精度を高めて肉体の翻訳家や通訳が不要になるに至るのは、どう考えても社会的に良いことだと思うし、さっさとそうなってくれと思う。任意の職種Xがテクノロジーのせいで廃業になることの悲劇的側面ばかり語られがちだが、他の食い扶持を探せばいいのにとしか思わない。書かれたものや話されたものがタイムラグや誤解なしに言語の壁を超えられるなんて、みんなもっと素直に喜ぶべきだろう。

2023/03/15

博論を本にするとしてどんな装丁にしようかと妄想したりするのだが、現段階でいくつか希望はある。まず、なるべくソフトカバーにしたい。ライカンの『言語哲学』みたいな、あのぼこぼこした表紙が好みだ。そう、それで『言語哲学』と同様、横書きだとうれしい。提出する博論はこのままいけば英語になるので、その雰囲気を残した本にしたい。ふつうに、私は縦書きより横書きの本のほうが書き込みやすくて好きだ。注は脚注に限る。

表紙デザインはぼんやりとしたイメージだが、エレクトロニカとかIDMのアルバム・ジャケットっぽい、黒×シルバーのパターンを取り入れたい。Joy Divisionの『Unknown Pleasures』みたいなやつだ。ele-kingが出しているdefinitiveシリーズみたいに、上1/3ぐらいにタイトル、その下に正方形でパターンを入れるのもいいかもしれない。やっぱり『分析美学基本論文集』のイメージが強くて、分析美学のイメージカラーといえばシルバーな気はしている。なんにせよ、具象的な写真やらイラストは入れずにミニマルにしたい。

2023/03/14

ツイートもしたが、今日はWimsatt & Beardsleyのものだとされているツーショットがウィムザットでもビアズリーでもない可能性に気づいた。「意図の誤謬」を紹介するサイトでたびたび見かけるのですっかりそうなのだと思ってしまった。

結構入念にリサーチして、後年のウィムザットやビアズリーの写真をたくさん見つけてきたのだが、残念ながらこの話題に興味のある日本人は多くて3人ぐらいしかいないので、ツイートが伸びることはなかった。大陸哲学者のスター性に比べたら分析哲学者は引っ込み思案というか、みんなあまり写真を撮られるのが好きじゃなさそうに思われる。シブリーの写真はいまだに一枚も知らない。オックスフォードかランカスターには記録があるのだろうか。

2023/03/13

ところで、あらゆるメンズ靴のなかでローファーがもっとも見栄えがいいと思っているのだが、革靴とスニーカーとで履き心地が1:3ぐらいならまだしも、体感では1:30ぐらい違うので、足をいたわる限りスニーカーを履くことになる。しかし、中敷きとかがアレンジされていて履きやすいローファーよりも、トラディショナルで硬いローファーのほうに惹かれてしまうのは、つまりそういうことなのだろう。

2023/03/12

風景一般に興味がないと思っていたが、そうではなく、眺望というものにあまり興味がないのに気がついた。遠くから見られた街や自然環境は色や形に抽象化されていて、同じデザインのなにかでぱっと代替可能な気がしてくる(写真でいいじゃん、とも思う)。遠くから種Kのxを見ることは、種Kとして見ることになりづらいのではないか。シブリーの区別で言えば、attributiveな美的判断ではなくpredicativeなそれになりやすい気がする。そして、predicativeな美的判断はあまりにありふれているので、そんなに特別感がない。タワマンに住んでいてベランダからの景観に毎日満足できる人は私からすると不思議だし、それは「飽きないのかな?」というのとは別の次元の不思議さだ。

2023/03/11

はじめて美学会に出てきた。河合さんの発表は面白かったし、ひさびさに肉体の知人たちと交流できたのもよかった。

2023/03/10

今週はもりもり作業した。だんだんと修論書いてた頃の追い込みを思い出してきた気がする。自宅でも作業できるタイプなのだが、着替えて外に出るということが部分的には達成感を構成しているような気がする。この、「感」だけあって実質的な達成がないことにすごく警戒心があったのだが、達成感があることはもっとやろうという好循環をもたらしてくれるので、なかなか馬鹿にはできないことに最近気づいた。

2023/03/09

Stokes (2014)の芸術鑑賞における認知的侵入の論文を読み終えたが、たいへん立派な論文だった。相変わらず大学に入るとDeepLが使えなくなる時間帯があるのだが、英文直読みでもサラサラ入ってくる一本だ。前に、Stokesに反対して知覚学習を推すRansom (2022)を紹介したが、改めてそちらの立派さも分かる。この辺の認知科学とか読んでいる人は、整ったクリアな文体で書いてくれるので、とてもありがたい。(ナナイもそうだ)

2023/03/08

日本の現代のコンテンツに総じて興味がないという話を2022/12/28でしたが、日本で生きていると日本国産のものを消費せよという圧はそれなりに感じることがある。圧というか、輸入には手間暇がかかるので、流通しているコンテンツのほとんどがまずもって国産であることは当たり前といえば当たり前だ。最近は、クラフトビールでもこれを実感している。その辺のビールバーで繋がれているビールは、10タップあるとして7〜8ぐらいの割合で国内ビールであることがかなり多い。これは、芯から西洋かぶれの私にとってはかなり残念なことだ。(アンテナアメリカはオアシスだ。)

いまのところ飲んだことのある国内ブリュワリーのビールが単純にあまり好みではない、というのもある。クラフトビールに入門した人は、誰もが一度はヘイジーIPAにハマると聞くが、私はあれが相対的に言ってそれほど好みではない。フルーティすぎるとジュースを飲んでいる気分になるし、お金かけてまでジュースが飲みたいわけではないのだ。

2023/03/07

フランク・シブリーの文章は、文単位では読みやすいのに、論文全体としてかなりとっ散らかっていて、適切な段落分けもなければ、親切な節分けもないことが多い。2ページぐらいなら当たり前のように改行なしでべらべらと語ってくる。思えば、オースティンもこんな感じの文章を書いていたので、あの頃のオックスフォードの人たちはこういうスタイルだったのだろうか。どちらも、推敲された論文というよりまさにいま講義で語っているようなライブ感のある文章だ。

訳していてとりわけ気になるのは、とくに逆接でもない場面でシブリーが頻繁に「But」を使うところだ。それは、シブリーが話をつなげるときの基本的なリズムなのだろう。「でも」とか「いや」で話し始めるのは日本語でもあるが、それに近い気がする。

2023/03/06

現代美学の論文、「認知科学や形而上学や社会存在論やらのアレやコレを使って美学的問題に取り組んでみました」系のものがかなり多いと思うし、私のカテゴリー制度論もそれなのだが、これは分野としては良し悪しだと思う。学際的であるのは間違いなく分析美学の楽しいところであり、対外的に誇れるところなのだが、問題に取り組むナラデハのツールがないのだとしたらちょっと残念だろう。美学という分野は問いだけあって、しかもそれは分野の最初期にはほぼ出揃っていて、あとはその時代ごとのやり方でこね回すだけだと思わないでもない。なんなら哲学は一般的にそうなので、そんなに嘆かわしいことでもないのかもしれない。

2023/03/05

油そばを作って食べた。ライフハック:茹でているときに溶け出した小麦粉でトロトロブニュブニュ麺になってしまうのを回避するためには、別のお湯を用意してさっとすすぐのが吉だ。

2023/03/04

現代美学を読めば読むほどシブリーえらいと思うし、シブリーを読めば読むほどカントえらいと思う。

2023/03/03

どかんと買い出しに行ってきたが、計算してみればそんなに何食も食べれる感じでもなかった。おかしいな?

それにしたって精肉がほんとうに高い。自炊するからには一食500円ぐらいに収めることが望ましいのだが、鶏もも肉1枚でもう500円を超える。焼いたもも1枚でランチというわけにもいかず、米に即席スープにサラダにドレッシングまでかけたら、なんだかんだ1000円ぐらい行っているのではないか。いろいろ考え出すと、定食屋行ったほうが確実にうまいし楽だし安上がりな可能性すらある。自炊は趣味だ。

2023/03/02

久々に表象の研究室で先輩方に会えたので、ほんのちょっとだけ雑談した。なんかハンス・ベルメールに関する博論本で読書会をされているらしい。

去年度はまる一年、表象の講義に出ていなかった(必要な単位はもう取り終えてしまった)ので、知り合いともすっかり疎遠だ。もともと、私の代は異様に付き合いがわるい。修士のころはまだ半年に一度ぐらい飲み会をしていた記憶があるが、博士になってからはもうさっぱりで、誰がどこでなにをやっているのか、生死含めてほとんど不明だ。先輩方、後輩方はそれぞれ同人誌なんかもやっていて、はたから見ると随分仲がよさげな印象だ。私の代だけ専門の分散が大きい、みたいなこともあるのだろうか。私の代だけみんなカッコつけてて馴れ合いをよしとしない、みたいなところはいくらかありそうだ。私自身、表象から見れば専門は外れ値であり、カッコつけてて馴れ合おうとしていないので、その辺におおいに貢献している。

一般的に言って、学部を出てから友達らしい友達はほとんどできていない。ここで言う「友達」とは、タメ口で話し、1対1で休日を過ごせたり、飲みに行ってちょっとプライベートな話ができる、通常は同年代の相手を指す。学部のふつうに仲のよい友達との距離感に標準化すれば、大学院に入って以後一人も友達ができていない、と言っても過言ではない。それは別に良いことでも悪いことでもないし、大人になるというのは少なからず友達ができなくなることだというぐらいに考えている。

2023/03/01

博論のウォルトン検討章が地獄のように迷走してきていて、毎日数千字書いては数千字消すようなのを繰り返している。手に負えなさ、無力さと向き合うのはたいへん苦しいのだが、すっきり書き上げたときの感動もひとしおであるはずなので、どうにかこうにか突破したい。この博論を書き上げたら、もう当分はウォルトンを読まなくて済む研究をしたい。

2023/02/28

今日は現代文を教えていて、國分功一郎「贅沢を取り戻す」を読んだ。トレンドに踊らされて「消費」を続けるうちは終わりがなくむなしいだけで、ちゃんと設定された上限を超えて「浪費する」=「贅沢する」ことの豊かさを取り戻さなければならない、といった趣旨の短文だ。本当にうまいものを贅沢して食べることは満足を与えるが、「新しい」ことだけに誘惑されて「行ったことがある」店を増やそうとハシゴしても満足はない。大量生産・消費・投棄に問題があるとすれば、それは(しばしば的外れに批判されるように)われわれが贅沢しているせいではなく、われわれが贅沢(そして満足)できなくなってしまったせいなのだ。

消費社会論のさわりをロジカルに導入していてわかりやすい文章だが、ではどうやって「贅沢を取り戻す」のか。筆者の提案はちゃんと「楽しむ」能力を身につけることである。うまい肉の良し悪しが分かってこそ、贅沢な肉をちゃんと楽しんで満足することができる。広い意味での教養があってこそ、消費し続けるだけの悪循環から抜け出せるかもしれない、というわけだ。

最後に出てくるこの「楽しむ」が狭い意味で使われていることは、学生にとってやや難しいポイントかもしれない。トレンディなアクティヴィティに参加することにも快楽はあるだろうが、それはいわば低位のものであり、筆者が問題にしているような「楽しむ」ことではない。明らかに筆者は上位かつ狭い意味での楽しみと、広い意味かつ雑多な楽しみを区別しているのだが、前者の弁別的特徴がなんなのかは語られていない。上等な肉を食べる楽しみは、トレンディなカフェに行く楽しみと、楽しみにおいてなにが違うのか。なぜ前者のほうが上位だと言えるのか。もちろん、毎度おなじみの「なぜわれわれは低俗な楽しみを捨てて理想的鑑賞者にならなければならないのか」という問いはここでも立ち現れてくる。なんらか別の意味でいくらかの楽しみがなければ、そもそもなぜ消費するのか。功利主義的に見れば、浪費よりも消費のほうが最適戦略であるかもしれないではないか。

もちろん、中高生はこれらの問いにまで踏み込む必要はなく、むしろ「現代文では、消費社会はしばしばシス側のキャラクターであり、デフォルトでは批判的に言及される」というパターンを覚えておいたほうが点につながる。

2023/02/27

虫はキモいので、目の届く範囲から駆逐してほしい、というピュアでプリミティブな感性があるので、飢えて死ぬおそれがない限りは昆虫食に参入することはないだろう。環境負荷の高い肉食を続けることがいかにSDGsに反しているとしても、私は虫を食べるぐらいだったら環境破壊に貢献したほうがマシだ。

とはいえ、エビやカニが食べられてコオロギが食べられないのはおかしい、という理屈には一定のもっともらしさがある(シャコはキモいので私は食べないが)。慣れの問題ではあるので、未来の人類は喜々として昆虫をバリバリ食べているのかもしれない。しかし、いまここにいる私がそれに慣れる日が来るとは、とても思えないし、慣れるとしたらそれは間違いなく変容的経験なので、重要な意味においてもはや私ではない。

一応の譲歩として、以下の条件を満たす虫なら考えてやらんこともない。①見た目が甲殻類っぽく、エビやカニからのグラデーションで理解可能なもの。②日常生活で目にする虫じゃないことから、不潔感や危険性に無頓着でいられるものサソリの唐揚げなら学部生のとき野毛の珍獣屋で食べたが、わりと平気だったのは①②を満たしているからだろう。

2023/02/26

今日は早起きしてあちこち出かけた。カフェで食べたモーニングは浅煎りなコーヒーが好みじゃなかったが、雰囲気はゆるくてよかった。家でティラミス食べて一休みした後、ブリトーとタコスを食べに行った。最近はメキシカンが気になっているので、家でもタコスパーティをやりたい。再度家で小休憩した後、中目黒に出てシーシャ屋へ。おしゃんかつお高いところで、よく行っているシーシャ屋の倍ぐらいした。わりとひっきりなしに客が出入りしていたので、さすが中目黒みんなリッチだなぁと思った。酸辣湯麺を食べて帰宅。

2023/02/25

日記を長く続けるコツは、書く内容にこだわらないこと、書かれたものの面白さや一貫性や真偽や量や質を気にしないこと、自分を責めないこと、書くタイミングにこだわらないこと、数日忙しくて書けなかったら後で適当にでっち上げること、文章によって個性を表出しようという欲望を捨てること(意図しようがしまいが個性は表出されるのだから)、自尊心を保てる最低限度さえクリアしていれば推敲せずさっさと筆を置くこと、コツやらノウハウやらを一切信用せず自分のやりやすいやり方でやること、「希望もなく絶望もなく、毎日ちょっとずつ書く」ことだ。あと、日記をつける自分自身へのなんらかの効用を多少期待しつつも期待しすぎないことも入れていい。具体的な効用としては、論文やそれに準ずる文章ばかり読み書きしていると活字に飽きるので、日記は気分転換によい。そんなもんだ。私は日記にそれ以上の効用も哲学も期待していない。

2023/02/24

シブリーの醜さ論文、読んできた。一日で醜さについて学んだことをまとめよう。

シブリーのメインとなる主張は、美と醜が論理的に非対称という点だ。「xは美しいKだ」は限定用法だけでなく述定用法でも使えるが、「xは醜いKだ」はふつう限定用法でしか使えない。形容詞の述定用法/限定用法というのは、ギーチ由来区別をシブリーなりに解釈したテクニカルな区別だが、ざっくり言えば、端的に美しい(醜い)のかカテゴリー相対的に美しい(醜い)のか、の区別に相当する。世の中には、端的に美しい色や形を持ったものもあるが、カテゴリーKとしての美の理想を踏まえて美しいと判断されるものもある。「xは美しい顔だ」は顔カテゴリーとしての理想を踏まえた限定用法になりがちだが、小石には美の理想がないため「xは美しい小石だ」はカテゴリー独立な述定用法となる(ふつうはその色や形が端的に美しい)、などなど。しかし、「xは醜いKだ」は、なんらかのカテゴリーに照らして使われるだけで、カテゴリー独立にそれ自体で醜いことはない。シブリーが長々と検討するのは、いま風に言えば、「醜い」という美的性質はなんらかの歪曲[deformity]という性質によってグラウンディングされる、という考えだ(醜さは歪曲を前提とするが、歪曲していれば必ず醜いというわけではない)。deformedであるためには標準となるformがなければならないため、「醜い」という形容詞は本質的に限定的となる。あるカテゴリーKにとって美しくも醜くもないプレーンな状態をゼロ地点として、プラス方向の果てに美の極みが、マイナス方向の果てに醜の極みがあり、Kの個別の事例はそのどこかにマッピングされる、というイメージだ。

なにかが醜いと言われる場面をケース分けしているのも面白い。私なりに再構成すると、次のようなケースたちを取り上げている。



最後の最後でちらっとしている話も面白かった。シブリーは、醜さと嫌悪感[disgust]の結びつきが偶然的なものだと考えているっぽい。醜いからといって嫌悪感を覚えるとは限らない。とくに、大人は見た目にいちいち情動的には反応しない。子供はセントバーナードが悲しんでいると思ってなぐさめようとするかもしれないが、大人がそうしようとするのはばかげている。見た目がいかに醜く、病気や汚れを思わせるとしても、具体的な恐れがないと分かっている限りで、大人は嫌悪感を覚えることなくただ「醜い」と判断することができる。

こちらの主張については、態度適合分析のように「醜さは嫌悪感をmeritする」みたいな方向から論じる余地があるように思う。実際に、この辺のアプローチからシブリーに応答しようとしている論文としてDoran (2022)を見つけたので、手が空いたら読んでみてもいいかもしれない。醜さ美学、私が無知なだけで、ふつうにけっこう積み重ねのあるトピックっぽい。

2023/02/23

ポジティブな美的経験・美的快楽の特徴づけは盛んなのに、ネガティブな美的経験・美的不快の特徴づけはあんまり見たことがないのに気がする。醜い、ダサい、けばけばしいなど否定的価値の存在は、味気ない、つまらない、単調など肯定的価値の欠如とは異なるだろうし、異なる現象学的性格があってもおかしくない。ふつうに面白い問いなのに、なぜ誰も書いていないのだろう。

なんて思ってたが、シブリーが「醜さについての覚書」という論文を書いていたのを思い出した。明日読もう。

2023/02/22

今日は自分の論文が大きく間違っている点を一箇所見つけた。悩ましいが、言えてないことを言えた気になって発表する恥をかくよりはマシなので、謙虚に対処していくほかない。残念ながら、論文を書き続けていると言えてないことを言えた気になってしまうことは多々あるし、そのまま発表してしまうこともある。謙虚になれるだけなって、かくしかない恥はかくしかない。

2023/02/21

〈普遍的かつ絶対的に客観的な価値判断でなければ、単なる主観的な好き嫌いだ〉という二者択一にたいていの問題が根ざしている。かっちりした事実としての良し悪しが世界側に成り立っており、批評家はそれを検出するだけだとしたら、批評家はよほどつまらん仕事に従事していることになるだろう。そんなことはないし、そんなことはないのだ。

それはそうと、この種の問いは批評に限らず普遍的(!)らしく、なんらかの主題において誰もが一度は考えたことのあるものではないかと思う。そして、私の観察では、フォークな論者は以下いずれかの立場に集約する。



典型的には、2が1をマウントし、3は2をマウントする、という仕方で展開されていく。2は無敵のメタ理論を自認するため、3にさえマウントを返すが、たいていは3の話をろくに聞いていない。哲学をはじめた1日目から、私の論敵はずっと2だ。

2023/02/20

今日も今日とて駒場で作業をし、フレッシュネスバーガーを食べた。塩レモンチキンバーガー+別のバーガーなにか、という注文が定番化してきたが、今のところ塩レモンチキンバーガーに勝るオルタナティブには出会えていない。塩レモンチキンバーガーうまい。これでいいし、これがいい。そろそろ塩レモンチキンバーガー×2になりそうだ。

2023/02/19

「{任意の社会的身分}失格」という表現、もっと広く使えるはずなのに、「教師失格」でばかり使われている気がする。「失格」の例文を調べても、たいてい「教師として失格だ」が出てくる。そして、それは教師という資格を実際に失う場面というよりもむしろ、なんらかの果たすべき責務を果たしていないことから、教師として不適格だという意味合いで使われることがほとんどだ。本当なら、責務を果たしていない教師も依然として教師ではありうる(し、そういう教師はいくらでもいる)ことを考えれば、「教師失格」はやはり、「あいつから教師という身分を剥奪せよ」というword-to-worldな言語行為なのだろう。医師免許を剥奪された「医者失格」や、出場権を剥奪された「選手失格」とは、方向性が違うのだ。

さて、それでなぜ教師ばかり失格になるのかと言うと、教師という社会的身分に求められる責務の範囲が、その他の社会的身分よりもずっと広いから、というのが理にかなった説明だろう。教育に携わる者には高いモラルが求められる。教師という身分を得るためにはしかじかの要件をクリアしなければならない、というフォーマルな制度とは別に、人格者でない教師を「教師失格」とするインフォーマルな慣習があるのだ。毒杯をあおることを拒否していたとしたらソクラテスは「教師失格」だっただろう。

なぜ教師ばかりこんな脆弱性を抱えているのか。なぜ他の社会的身分であれば許容される程度の不祥事で、すぐ「教師失格」になるのか。不倫したって医者は医者だが、教師は「教師失格」だ。おそらく、教育を通して、知識だけでなく人格もまた複製されてしまう、という観念が根強いからだろう。教育は常に人格の複製となる。ダメな人格は複製してはならない。よって、教師はダメな人格であってはならない、というわけだ。

このような事情が与えられたとして、教師や学生はどうすればいいのか。第一に、例の人格まで複製されてしまうという観念は努力できる範囲で多少はゆるめていくべきだろう。職務以外のところで多少クズな医者を次々に糾弾していったら、困るのは私たちだ。教師についても同様ではないかと思うのだが、「人としてのある程度のアンチモラルを許容する」というのは昨今ますます難しくなっている。インフォーマルに「○○失格」となる範囲がどんどん拡大しているのだ。よって第二に、人工知能が教育を担う未来を、学生は期待し、教師は怯えるしかないのかもしれない。

2023/02/18

今年も恵比寿映像祭に行ってきた。「だからなんだってんだよ」な作品が多くてむかついたが、休日の過ごし方としては良くも悪くもなかった。3階〜地下1階の順に見たが、地下1階にはごくふつうの丁寧な写真作品があって、「こういうのでいいんだよ」となった。杉浦邦恵のフォトグラムと、山沢栄子の抽象画っぽい写真がよかった。

3階ではコミッション・プロジェクトと称してコンペ的なものを開催していたが、一人ずつ長文のステートメントを書かされていて気の毒になった。長々とポエムを綴る能力がなければ現代アートの作家にはなれないのか。ばかばかしいのでまともに読んでいないが、読もうが読むまいが、作品がどれだけシリアスなものなのかは見りゃ分かるので差し支えなかった。形式主義者たちを駆り立ててきたのも、こういうしゃらくささに違いない、と思わされる。

2023/02/17

ちょっと前までのちいかわ散髪編がかなり好きだった[1][2][3][4]。災難続きのちいかわの表情がいい。「なっちゃったの!!!?散切り頭!!!」という導入もスピード感があったし、相変わらずハチワレのワード選びが独特でよい。乱切りではあるが散切りではないだろう、というツッコミ待ちか。育ちが悪いというか、シャキシャキとハサミ鳴らしてしまうハチワレも解釈一致だ。トングもカチカチ鳴らすタイプなんだろうな。散髪は理解不能者うさぎに任せるより、「シャギー入れよっかァ」とか言ってくるハチワレに任せたほうがよっぽど怖い。うさぎ、ナイフのように舌なめずりしといて、ふつうに散髪上手なのもベタな流れだ。最終的に鎧さんに切ってもらって比率が変わっちゃうのも、いいオチだった。絵が下手な人が書いたちいかわみたいになっちゃった。

2023/02/16

コツコツ読み進めていたKeren Gorodeisky「On Liking Aesthetic Value」(2019)を読み終えた。来週のなん読でちゃんと検討会をやっていただくが、ずいぶんごつい論文だった。分量としては20ページほどだが、議論としては修士論文1本ぐらいの厚みがある。ゴロデイスキーはあまりチャリタブルな書き手ではないというか、ちょっと大先生風というか、玄人向けの文章を書く人な印象を受けた。「ご存知あれのことです、はい」みたいな流し方をしてしまう箇所がいくらかあって、ご存知でない私にはしんどい。とくに、メタ倫理の方面から話をごっそり援用してくるので、その導入まで含めて論文1本ではやはり厳しいのだろう。言っていることはかなり面白く不思議なので、著作の単位で読んでみたい理論だ。

言っていることは面白いのだが、私としては最終的には不思議が勝った。シンプルなテーゼで言えば、〈美的に価値あるものは、価値があるからこそ私たちに利益をもたらすのであって、私たちに利益をもたらすからこそ価値を持つのではない〉ということを主張している。ゴロデイスキーはこの点で、(キャロルの信念説やロペスの実践説も検討しているが、)美的快楽主義へのカウンターをとりわけ意図している。では、実際に生きている生身の私たちが享受する一切の利益とは独立に、対象が価値を持っているとはどういうことなのか。曰く、美的価値があるとは美的快楽に値するということだ。美的価値のあるものに対しては、美的快楽(ないし好きだ!という気持ち)で反応することが、規範的に適切である。美的価値は美的快楽をmeritしcall forしdeserveする。ただし、美的価値が美的価値としてやることは美的快楽がそれにフィットした反応だと定めるところまでなので、実際に誰かが美的快楽を感じる必要すらない。

美的快楽を持ち出すことは美的価値であることを説明する(美的問い)のだが、価値の規範性の源泉(規範的問い)については最後まで保留したあげく、原始主義をとっている。比較としては、「徳の高い人には価値がある(=尊敬に値する)」「ウェルビーイングな人生には価値がある(=送るに値する)」のと同じ並びに「優美なものには価値がある(=美的快楽に値する)」があるわけだ。

かなり実在論的な世界観であり、言ってしまえば、どれだけ好むべき対象なのかが対象側で勝手に決まっている、というわけだ。そんなことないだろう、と思ってしまう。存在論的に手前にあるのは、生身の私たちが好んだり嫌ったり快楽や不快を感じるという利益の経験のほうであって、対象にしかじかの程度の価値があることは、経験の平均や総和や傾向性や能力の観点から帰属される、というのが少なくとも自然な考え方だろう。そういう、ごく自然な快楽主義的直観にシャープに対抗し、順序を逆転させようとする点は面白いのだが、とどのつまりなんでそんなことが言えるのかは分からなかったので、いやはや不思議だ。

2023/02/15

中華街で父母とご飯を食べた。平日なのにものっそい人がいて、みんな串にいちごを刺したなんかしらを食べていた。中華街に限らず、食べ歩きというのがあまり得意ではない。路上で立ったまま、落とさないよう気を使いながら、みるみるうちに冷えていく任意のxを食べるのは、普通に考えてそんなにfeel goodではないだろう。おそらく食べ歩きが好きな人でさえそれらの欠点は認めるのだが、私が根本的に共有できていないのは、お祭り感のお祭り感ゆえのありがたみ、なのだろう。

2023/02/14

最近はじめてゲーム実況で見て、『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』のすごさを知った。ふつうの人なら5年前に知ったことだ。オープンワールドのゲームどころか、最近のゲームをなにひとつできていないので、博論を提出できたらゲームやろうという意志を固めた。

2023/02/13

プロフィール写真というのは個性を表明する場面の典型だが、Twitterでここ数年使っている雀ちゃんにはなんのメッセージ性も込めていない。もう少し前まではobakewebっぽいポップなおばけのアイコンを使っていたのだが、いまやobake要素はなにもない。ちなみに、バナーの花と合わせて葛飾北斎の《芙蓉に雀》からトリミングしてきたものだ。雀はけっこうかわいいと思うが、特別思い入れのある生物でもない。なんか美的にちょうどよかったので使っている。結果的に、形式主義者という個性は多少押し出せているのかもしれない。

2023/02/12

今日は家にこもって、立て続けに『バーフバリ』の前編後編を見た。約5時間見ていたわけだが、きついからやめようとはならないあたり、少なくとも注意のキャッチについてはすごく入念にデザインされた作品だ。たしかに、体感時間は短かった。内容としては、中国なら毎週1本は公開しているレベルのドンチャン映画で、とくに大騒ぎするような傑作ではない。金がかかっており、派手であることは、良いこととは別問題だ。面白かったら『RRR』も見に行こうかと思っていたが、この調子じゃ私には楽しめないだろう。

アクション映画というカテゴリーは、カテゴリーに対する反省的視点が欠けており、何年経ったって同じことをやり続けているので熱心に見ようとは思えない。アクション映画ゆえに好きなアクション映画はひとつもない(もちろん『インセプション』みたいなのは好きだがアクション映画ゆえにではない)。正味な話、ワイヤーに吊られた役者がジャンプし、剣と剣がバチバチゆうて、血しぶきが飛び交うからといってなんだというのだ。とはいえ、アクションシーンの美的経験がハーモニーではなくグルーヴであることは理解している。要は「分かる」かどうかではなく「乗れる」かどうかの問題なので、あまり悪く言っても仕方がないのだろう。謙虚さを発揮してもしかたがないのだが、not for meというやつだ。

ということで、最終的に「ぜんぜん好きじゃない」と判断するような映画に対して約5時間費やしたわけだが、いつも通り損した気持ちはまるでない。面白い映画はもうたくさん見てきたので、いまや面白くない・好きになれない映画を見ることすら好きなのだ。「ぜんぜん好きじゃない」という判断を形成することは、私にとって一種の快楽と言ってもいいかもしれない。このメンタリティは共有してもらえたりもらえなかったりする。

2023/02/11

早めのバレンタインということで、中目黒まで繰り出してパフェを食べた。雰囲気のよいお店で、おいしいピスタチオのなんかおしいいやつもおいしかった。私がその空間で唯一の男性だったが、私はそういうアウェイなのは(私以外が差し支えないという前提のもとで)ぜんぜん差し支えないのだ。天気のよい日で、街にも人が多かった。考えてみれば、中目黒とも長い付き合いだ。駒場に通うようになってからは通学路の途中だし、特に今のアパートに移ってからは徒歩で行けるので、最寄りよりも一段階ハイソなものを求めて頻繁に出向いている。なんてったって地価の高いところなので、狂人がいなくてfeel goodな街だ。

それはそうと、昨日ぐらいから左側の頭頂部を触るとほのかにピリつく。左耳との喉の左側もやや痛く、昨日は左目もやたら腫れていた。いつぞやの帯状疱疹に限りなく近い症状なのだが、いやはやまさかな。一年以内に再発するのはたいそう稀で、同じ側に再発するのもたいそう稀らしい。にわかには信じがたいが、もし帯状疱疹にほかならないのだとしたら、医療の発展のためにも入念に検査してもらおうと思う。そうでないにこしたことはないのだが。

2023/02/10

なんとなくローマン・インガルデンの美学についてつまみ読みしていた。まったく信頼に値するまとめではないが、ポイントは以下のあたりっぽい。



現代なら、絶対に社会存在論をやっていたと思われる人だ。観念論と実在論を調停するのを大きな哲学的プロジェクトとして持っていたらしく、その辺は軽く読んだだけでも伺える。社会的なものは自然的事実に依存するし人の志向的態度にも依存する、という仕方で両立させたいっぽい。

初期ビアズリーにも現象学的美学の性格がふんだんにあるのだが、インガルデンを読んでいたのかは定かではない。少なくとも、「現象学的に客観的な場への提示」みたいなしゃらくさい枠を用意しているのは、美的対象という枠を用意するインガルデンの方針とかなり似ている。「ビアズリーはなぜインガルデンを読んでいないふりをするのか?」という発表があったら絶対に聞きたい。

2023/02/09

気づかない間に、DeepLのデスクトップ版が文字サイズ変更に対応していた。家ではモニターのでかいiMacを使っているので、DeepLのフォントが小さいのにずっと悩まされてきたが、これで一安心だ。

今日は生活を整えるための日にした。そろそろ外食を控えなければ(健康面でも財政面でも)やばい気がしてきたので。スーパーに買い出しに行き、いつもの麻婆豆腐と、鍋にたっぷりのミネストローネを作った。なんやかんや3時間ぐらい台所に立っていた気がする。

美的なこだわりを持つことの利点?」という記事を投稿した。美的にオープンマインドであることと、なにかに美的コミットメントを行うことは、期待値においてほぼイーブンなので、どちらを心がけるべきとも言えないですよ、という趣旨の文章だ。いつもと趣向を変えてかわいいアイキャッチを用意したのに、Twitterの不具合だかなんだかで表示されてなくて損している。

2023/02/08

約半年ぶりに、雨のなか自転車をこいで帰宅した。その前後はわりとfeel goodな一日なので、それほど悲観すべきことではない。

今日も大学で作業した。生活にメリハリが出るのでよいと思う。少しずつ、完全防寒装備では汗をかくような季節になってきた。今日はフレッシュネスで、塩レモンチキンバーガーとクラシックアボカドバーガーを食べた。考えてみれば、ちょこんとしたフレンチフライスにクラッシュアイスだらけのコーラはそんなに腹持ちがよくないので、バーガーをふたつ食べたほうがよいのだ。

2023/02/07

芸術哲学者なるもの、芸術の定義はひとつぐらい持っていてもよいと思わないでもないのだが、あいにくどれが芸術でどれがそうでないのか振り分けることにそこまで関心を持ったことはない。その他の場面では制度主義的な理論を好んでいるつもりなのだが、芸術の制度的定義がうまく行っているともあまり思えない。アートワールド内には細々とした課題やそれを解決する制度(ルールの体系)があるが、芸術を芸術たらしめる創造制度としてでっかいアートワールド制度があるというのはミスリーディングだとするBuekens & Smit (2018)の診断は、今ではわりと説得的に読める。芸術実践というのが、あるひとつの(ないしいくつかの)コア課題を、みんなでどうにか解決しようというものとはあまり思えない。芸術作品なんていうのは作りたい人が勝手に作り、芸術とみなしたい人が勝手にみなせばよいので、車線選びのようにはコーディネーションの要素がないのだ。

批評の理論、鑑賞の理論は、芸術の理論なしでも展開できる。批評・鑑賞されるものは芸術作品だけではないからだ。そして、(少なくとも私の観察では)批評・鑑賞はコーディネーション問題を伴いうるため、ルールや制度を伴いうる。私の芸術哲学は、その辺の話さえできればオッケーだ。

2023/02/06

大学で自習していた。途中で、青い作業衣を着た清掃の方々が20名ほどなだれ込んできて壮観だった。いや、ごくありふれた景色ではあるのだが、なぜか私には異化された景色として飛び込んできた。あとなぜか、「あの子たち、どこからやって来たの?」という『タレンタイム』にあるなんでもないセリフを思い出した。

2023/02/05

Gorodeisky (2019)を読み進めている。「値する[merit]」というアイデアはまだいまいち分かっていないが、バックグラウンドが価値論のFitting Attitude Analysisにあるというのは分かった。ざっくり見たところでは、スキャンロン以降盛り上がっている反目的論のいち形態であり、「Xという価値があるならYという態度をとるのが適切(Yという態度をとる理由がある)」として、価値を態度形成への理由付与性から説明する戦略っぽい。最近のメタ倫理を使って美的価値を説明しよう、という方針はLopesらと共有しているらしい。ますます、美学の外で勉強しなければならないことが増えていくな。

2023/02/04

NotionのAIアシスタントが使えるようになったのでポチポチしてみたが、いまのところまったく話にならない。出してくる情報はことごとくデタラメで、要約は要約になっておらず、統語論だけ守って似たような文を次から次へと生成しているだけだ。こんなのが最先端の執筆ツールであり、未来のインフラなのだというのは、誇張もいいところだ。

思うに、われわれは人ならざるものが文章を次から次へと生み出していくのを見て感心しているだけであり、文章の中身なんて誰も読んで役立てていないのだろう。少なくともいまのところ、それは生産的なツールなどではなく戯れのおもちゃに過ぎない。

2023/02/03

さくっと『幽霊たち』を呼んだ。ヴォネガットやブローティガンにハマっていたころに一度読んだきりの小説で、あまりオースターの面白みをわかっていなかったが、再読は結構楽しかった。『ガラスの街』も積んでいたはずなので、読んでみようと思う。

2023/02/02

最近は映画を見る比重を落として、小説を読むようになった。読書歴は映画鑑賞歴よりも長いのだが、1本にかかる時間が違うので、あまり量読めていない。そのうち読みたいなという古典もたくさんあるのだが、そのうちがなかなかやってこないまま年をとって、読まないまま死ぬのはいたたまれない。

学部の頃、高校からの友人が「『カラマーゾフの兄弟』は中高に読む機会がなきゃもう読まない」と言っており、なるほどなと思った。幸運にも、私は中学のころに読む機会を得たが、それというのも私がこじれていたおかげだ。そして、この点に関して、私はオープンマインドであることよりも、スノッブであることのベネフィットを支持せざるをえない。東野圭吾なんぞより俺はドストエフスキーを読むんだ、みたいなこじらせがなかったら、出会っていなかった作品がたくさんある。ある意味で、スノッブとはある口を閉じることによって別の口を開くという、オープンマインドのいち形態なのかもしれない。

2023/02/01

気分転換を兼ねて、大学の院生自習室にやってきた。家の外なのでマスク付けておきたいのがネックだが、それも含めてシャキっとするので、サクサクとBeing for Beautyを読み進めた。ところで、リクエストオーバーなのか、大学内のWi-FiではDeepLが使えなくなっていた。なんてこったい。仕方がないのでみらい翻訳でお茶を濁したのだが、DeepLとはまたちょっと違うなまりがあって、ちょっとやりにくかった。

夕方ごろにお腹が空いたのでキャンパス近くを調べる。いまさら知ったが、めちゃ近くにフレッシュネスバーガーの1号店があるとのことで行ってきた。めちゃ小さなコテージのような店舗でちょっとびっくり。なんでも、かつては演劇の稽古小屋だったらしい。しかし、慣れてみれば秘密基地みたいで可愛げがあるし、一人でも入りやすい雰囲気だ。そして、塩レモンチキンバーガーは文句なしにうまい。PayPay使えるし、ふつうにまた行きたいなと思わせる食事処だった。なんなら明日も行くかもしれない。

2023/01/31

価値があるとは一連の行為に理由を与えることであり、なぜ価値があるのかという問いはなぜ一連の行為に理由を与えるのかという問い(規範的問い)に置き換えられるというのは頭では分かっているのだが、「アイテムの価値に関する事実が、私が美的に見てφすべきだという命題に重みを与えるのはなぜか」とまでパラフレーズされてしまうと、いまだにきついものがある。モネの《睡蓮》は崇高なので見に行きたい、ぐらいのことを、「モネの《睡蓮》が崇高であるという価値事実は、私がそれを見に行くべきだという命題に重みを与える」までややこしくした本は、専門家でもなければあまり読む気にはなれないだろう。

美的価値に関するイージー・アプローチがあってほしいと常々思っている。それがどういうかたちになるのかは見えていないのだが。

2023/01/30

近くの水道工事で、はじめて断水というものを経験した。23:00から6:00まで。風呂は早めに済ませ、飲水は汲んでおけばよいのだが、トイレが問題だ。寝る前に近所の公園のトイレに行ったが、たいそう寒かった。

最近は、日中は近所の建て替え工事、夜間は水道工事とで、QOLが著しく損なわれている。まぁ、そういうものなので、おとなしく耳栓をして暮らしている。とりあえず、次に物件を選ぶとしたら、二車線以上の道路に面しているところは避けようと思っている。

2023/01/29

前期に引き続き、美術の学生たちには批評文のレポートを課している。

なにを主題に書いてくるのかは毎度気になるのだが、女子大というのもあってアニメ、マンガ、ゲーム、ジャニーズがかなり多い。ONE PIECEと鬼滅の刃の人気はやはり強い。

批評文と感想文に本質的な違いはないというのが持論だが、それでもやや的を外した文章を出してくる学生はいる。とりわけ、ビブリオバトル的な「紹介」に徹するものがたまにあって、採点に悩んでいる。Wikipediaから持ってきたような、あらすじと制作陣のプロファイルを書き連ねるだけで紙面の多くを費やしてしまう。実際、ここのステップアップは結構難しいところだと思う。「調べてきた結果、こうらしいです」だけでなく「私はこれについてこう思います」が必要なのだが、私が物申したる!という気概ないし自信は、どこでどう養えるのだろうか。(もちろん、このレポート課題もそれを養う一歩になれば幸いではあるのだが。)

ちなみに、総合的な文章力は学年にまったく比例しない。どちらかというと、初年度で真面目にやらなきゃという意識がある程度ある分(?)、一年生のほうがまともなものを書いてくる。

2023/01/28

今日開けたRevisionのDR. Lupulin 3x IPAが、合法なのか疑うレベルで強烈だった。度数が11.3%にIBUが133なので、数値からしてやばすぎる。見た目はビールだが、舌と喉はウイスキーとして認識している。もう当分このレベルでパンチの効いたビールを飲むことはなさそうだし、正直もうしばらくIPA飲みたくないなという気持ちにさせられた。いや、本当にうまくて見事なビールなのだけど、こちらとしても多少気合いを入れて望まなければならないので、ちょっとしたハードルだ。ふつうに疲れた。

それはそれとして、最近はたくさん水を飲んでいる。具体的には、一日に2.5Lぐらいは飲んでいる。すごく当たり前のことにずいぶん遅れて気づくことが多いのだが、サーバーにどばっと注いでおけばいちいちキッチンまでいかなくてもよいことにも最近気づいた。

2023/01/27

数年ぶりにジム・ジャームッシュの『ナイト・オン・ザ・プラネット』を見に行った。今なら鼻息荒く★5.0つけるほどの映画ではないが、シンプルにいい映画だ。『コーヒー&シガレッツ』が極端な例だが、ジム・ジャームッシュの面白みの7〜8割は会話の面白みだ。笑える会話なら笑える映画になるし、悲しい会話なら悲しい映画になる。バランスがよいタイプではないので、すべるときは盛大にすべる。『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ』なんかはすべりすぎていて見事だった。

『ナイト・オン・ザ・プラネット』はオムニバス映画だが、2つめのニューヨークの話が好きだ。どう考えても、悲しい会話や考えさせられる会話よりも笑える会話のほうが聞いてられるので。

2023/01/26

Nguyen (2019)は、鑑賞においては最終的にする判断よりも、プロセスにあたる美的関与[engagement]そのものが肝心だという話をしている。それ自体はかなりもっともらしいと思うし、味わうプロセスをすっ飛ばして作品の意味や価値だけ把握できても意味がない、というのは誰だって認めるだろう。

グエンは自律性の要求、すなわち〈美的判断は他人に頼らず、自分の能力と経験に基づいてなされるべきだ〉という規範の出どこについて説明したがっているのだが、そのために上述の直感を持ち出すだけでは説明にならない。美的関与のなにがどう肝心なのか、というピースが欠けているのだ。快楽主義から見れば、判断ではなく従事が肝心なのは、言わずもがな後者のほうが楽しいからだ。グエンと同じような路線をとっているNanay (2019)は、美的判断よりも美的経験のほうが楽しいというのをはっきり認めていたと思うが、グエンはその辺をゴニョっとごまかしている感がある。美的関与がうれしいのは、それが自律性の発揮になるからだ、という循環的な説明にすら見えてくる。

また、これはずっと気になっているが、美的関与が肝心なんですよという主張は「美的価値」に関するものではないだろうと思う。意義ある関与をアフォードする能力をアイテムが持っているなら、それは美的価値を持っていると言えそうだが、グエンはこの線で論じたいわけでもなさそうだ。アイテムの価値ではなく、そのアイテムに関与する経験の価値まで美的価値だと言ってしまうのは、他の文献と話が噛み合わなくなるのでやめてほしい。両方美的価値なのだとしたら、美しいものは鑑賞すべきだし、美しいものを鑑賞している人も鑑賞すべきだということになるだろう。

2023/01/25


それからぼくは哲学を読みはじめました。

それで哲学は何を教えてくれたのじゃ、死父が尋ねた。

ぼくが哲学の才能をもっていないということを教えてくれました、トマスがいった、ででででででも──

でも何じゃ?でもぼくは誰しも少しは哲学をもっているべきだと思います、トマスはいった。助けになりますからね、少しは。助けになりますよ。いいもんです。音楽のほぼ半分くらいのよさがあるんです。

────ドナルド・バーセルミ『死父』柳瀬尚紀訳

2023/01/24

Amy Kind「Fiction and the Cultivation of Imagination」(2022)を読み進めている。ここ数年、フィクションからなにかを学ぶことについていろいろ書いている人だ。

Kindは、少なくとも共感的想像力の養成については、現実よりもフィクションからうまく学べることを主張している。つまり、他人の立場に立ち、その人の感情に寄り添うスキルを高めるには、現実世界でわちゃわちゃするよりも、たくさん文学作品(など)を読んだほうがよい練習になる、とのことだ。根拠はおおきくふたつ。第一に、現実よりもフィクションのほうが、想像を行うための多様な素材を提示してくれる。正確にアンナ・カレーニナみたいな状況に置かれた人とは、現実ではなかなか出会えない。第二に、現実とは違い、フィクションにはこう想像してみたまえというロードマップが豊富にある。他者の心についての記述や、内的独白、反応の詳細な記述など、想像のためのユーザーズガイドがあるので、練習しやすいというわけだ。実際、「フィクションに触れれば想像力が養われる」という主張は、すごくありふれている。

Kindの言っていることはよく分かるのだが、その主張は「小説ばっかり読んでいても、現実の人間について本当に理解したことにはならない」というもうひとつのフォークな考えとは依然緊張関係にあると思う。もちろん、こういうことを言っている人の動機のうち、①教養のない自分を正当化したい、②相手の教養を否定したい、といった部分は割り引かなければならない。とはいえ、割り引いた後でも、フィクションに触れるだけでは現実における想像能力の養成にならない、という考えは一定理にかなっていると思う。

フィクションから学んだことは多い。フィクションに触れる時間は現実に触れる時間とトレードオフなので、相対的に見て現実から学んだことは少ない、とも言える。そして、親しい友人たちから見て、私はそんなに共感的想像が得意なタイプではない。思うに、Kindの議論においてカバーできていないのは、キャラクターへの共感的想像と、生身の人間へのそれの間にあるひとつの非対称性だ(ほかにもいろいろあると思うが)。すなわち、前者には安全圏からの俯瞰と整理が許されるのに対し、後者には現場でのスピードとアドリブが求められるのだ。例えるなら、フィクションを通して養成される共感的想像力は、楽譜通りに曲を演奏する能力であり、他方現実において求められるそれは、うまいアドリブソロをとる能力であり、それらは似つつも肝心な点において異質なのだ。後者ができて前者ができない人はあまりいないのに対し、前者ができても後者はできないという人はたくさんいる。フライトシミュレーターは、操縦におけるスピードやアドリブの練習になるようデザインされうるが、想像におけるスピードやアドリブの練習になるような文学作品は、あまり思いつかない。残念ながら、現実においては、然るべきタイミングで然るべき共感的想像を実行できなかったとしたら、後から時間をかけてできたって仕方がないのだ。

2023/01/23

最近美的にembraceできるようになったアイテムのひとつに、フィルムカメラ風のフィルターをかけてくれるアプリがある。もともとそんなに強く拒絶していたわけではないが、なんとなく使っていなかった。しかし、昨今のフィルム代高騰から、もはや本物のフィルム写真を嗜む余裕はなくなったため、こうしてジェネリックに走ったというわけだ。しかし、ジェネリックというには質感がかなりよくて、これでええんやんという気持ちにさせられる。

一応、あんなにも写真の透明性について読み書きしていた身としては、この営みについてもいろいろと考えさせられる。フィルターをかけた写真は、まずウォルトン的な透明性を減らすことになる。ディテールが潰れるので、写真を通して文字通り見ることのできるリアリティが減るのだ。それよりも肝心な変化として、フィルムカメラ風のフィルターは、メタ的な仕方で透明性を無効にしているような気がする。それは、撮影された時点や撮影に用いた手段について撹乱を含んでおり、写真のインデックス性やら自動性に強く挑戦しているのだ。普通にデジタル写真を加工するのではなく、フィルムカメラ風に加工することには、ならではのわるさがあるのだろう。

もっとも、all things consideredに選択するわれわれは、そういったわるさにもかかわらず、上述の事情からそれを選択することもある。すくなくとも、オートハーフを手放しDazzカメラを携えた自分は、写真家よりも画家に近づいたなというメンタリティはいくらかある。

2023/01/22

「○○を✕✕すること。それは〜〜」という言い回しがきしょい、という話をしたいのだが、どう考えても人の言い回しにケチつける人間のほうがきしょい。そして、自分のきしょさを自覚しているのはきしょいので、こうやってきしょさの無限後退が成立する。

ところで、「ダサい」と「きしょい」はなにが違うんだろう。この問いを持つことはおそらくきしょいが、あまりダサくはない気がする。「〈ダサい〉と〈きしょい〉はなにが違うのか」というブログを書いたり学会発表をするのは、ダサいしきしょい気がする。きしょくないがダサい例はぱっとは思い浮かばない。きしょいには生理的に受け付けないというニュアンスがあり、ダサいには文化社会的に受け入れられないというニュアンスがありそう。あと、他人への攻撃としてきしょいはダサいよりもダメージが大きい気がする。後者は修正可能なわるさだが、前者は根本的な解決が望めないからだろうか。ダサさを是正するためにはマッチョを目指す必要があると思うが、きしょさを是正するためにはなにを目指せばいいのか分からない。関西の人ですら、悪意なくいじりとして用いるのはまれで、本当に拒絶したいときに「きしょい」を用いているイメージがある。

ところで、関東の人だったら「きしょい」のかわりに「きもい」を用いるはずだが、この語はすっかり廃れたなという印象がある。私が中学生ぐらいのころにみんな好んで使っていた記憶があるが、なんにせよ感じの良い述語ではなかったので、廃れるのは望ましいことだ。大人になりたければ、生理的な嫌悪感などというのはぐっとこらえて然るべきなのだ。

2023/01/21

普段からあまり量食べてない気がしたので、夜中に冷凍チャーハンとエッグ&ソーセージ、作り置きのきんぴらごぼうをむしゃむしゃと食べた生きていて、「お腹空いたな……」という時間が「お腹いっぱいだ……」という時間よりも多いのは、根本的にあまりいいことではないと思う。ついでに白湯を飲みまくったせいで、この日の夜は誇張なしに10回はトイレで目覚めた。

2023/01/20

なぜ私はTikTokをやらないのか。哲学系ティックトッカーなんて競合も少ないだろうし、面白おかしく阿呆な感じに仕立て上げれば、ちゃんとしたコンテンツになるだろう。ことによると、話題になって仕事につながるかもしれない。Twitterが日に日に面白くなくなっている現状を鑑みると、生存戦略からしてわれわれはTikTokをはじめるべきなのだ。

ではなぜTikTokをやらないかというと、これはもう合理的選択の問題ではなくコミットメントの問題だろう。界隈全体を下に見ており、そこに染まることを忌避しているからこそ、距離を取ろうとしているのだ。ああはなりたくない、というのは人間にとって自然な態度タイプのひとつだ。ああなったほうがベネフィットが大きいか、みたいな考慮はそこでは働いていない。もちろん、セルフブランディングなどを踏まえると、ああなることが長期的には損だという合理的考慮も働いているが、そんな将来のことを正確に予測できるわけではないので、「目先の利益に飛び込まない」ことはやはりコミットメントの問題だと思う。

コミットメントにまつわる悲劇には少なくとも、不適切なコミットメントをしたがゆえの悲劇と、適切にコミットメントしないがゆえの悲劇が含まれる。こだわったせいでバカを見るのも悲劇だし、こだわりがないせいで足をすくわれるのも悲劇だ。どうせ死ぬなら、これが俺のやり方だ!と突っ走って崖から落ちたほうが格好いい。そして、男の子はみんな格好いいほうに転がってしまう。

2023/01/19

父の務めていた大学が、キャンパス再編で4月から大幅リニューアルなのをいまさら知った。父が通っていたキャンパスと、それとは別に実家から歩いて10分ぐらいのところにあるキャンパスから、文系学部をごっそり移してしまうらしい。どちらもお世辞にも夢のキャンパスライフ!と言えるようなウキウキする立地ではなかったのだが、移転先は結構な都会で、学生としてはかなりハッピーだろう。

将来的には私が実家を譲り受け、近場のキャンパスで働けばよかろう、という父の計画は破綻したが、私としてはもう一歩ハイソな街で働きたいと思っていたところなので結果オーライだ。

2023/01/18

かつて、一日を終えた生物たちには心身を回復させるさまざまな休息手段があった。ある時ある場所のある個体Sが、新たな手段を持ち込んだ。それは、意識をシャットダウンして、数時間のあいだ死んだようにじっとするという気味のわるい手段だった。仲間たちはそんなことをやりだしたSのことをすごく心配したが、試しにやってみると一日の疲れがきれいさっぱりとれるではないか。睡眠はこうしておおいにバズり、やがてほとんどの生物が当たり前のようにやる営みとなっていった。かつて存在したその他の手段はことごとく淘汰され、忘れ去れられていった。

睡眠が生物の生活に取り入れられたシナリオはおそらくこんなものではない(し、ことによると寝ている状態こそがデフォであり、覚醒のほうこそ後から取り入れられたのかもしれない)が、仮にそうだったとしよう。バラエティ豊かだったころ、生物にとっての休息生活とは、選択の自由、愛着と冒険、能動性や自律性の発揮、創意工夫や達成、仲間との共同作業の場であった。それがいまでは、睡眠という画一化された手段に取って代わられた。睡眠は強制であり、選択の余地はなく、個人主義的であり孤独である。みんなそれを最善だとみなし、みんなそれを欲し、やらなければ文字通り死ぬようになった。問いは、〈手段が睡眠へと画一化されたことで、生物たちの休息生活からなにか大事なものが失われてしまったのか?〉である。

失われていない、というのがさしあたり私の直感だ。睡眠の発明によって、休息という課題は史上最善のかたちで解決されている。よりベターな手段が新たに発明される(例えば、一週間に1分だけカプセルに入るなど)のでない限り、私たちはおとなしく眠り、眠り、眠りまくればそれでよいのだ。かつてのエキスパートも凡人も、今となってはとにかく寝りゃいい。なんてシンプルで、豊かなのだろう。

もちろん、このシナリオは例の「ネハマスの悪夢」へのカウンターとして意図している。たびたび書いているが、「ネハマスの悪夢」はおおきくふたつの点でずるい。ひとつは、多様性なんてなんぼあってもいい、というリベラルな価値観にフリーライドしている点だ。理想的鑑賞者説の行く末はなんて反リベラルなんだろう!みたいな印象操作のつもりが少しでもあるなら、本当にアンフェアで許せない。冷静になって認めるべきこととして、画一化は画一化というだけで批判されるいわれはないし、多様性は多様性というだけで褒められるものでもない。もうひとつのずるい点は、未来を想像することの困難と、未来に関する漠然とした不安にフリーライドしている点だ。現在と極端に異なる未来は、誰にとっても不安であり、その形態にかかわらず「なんか嫌」だと思わせてしまう。そういうものだ。睡眠をとるかわりに一週間に1分だけカプセルに入るのが「なんか嫌」なのは、部分的には、未来への恐怖に由来した嫌悪感なのだ。

2023/01/17

ChatGPTをちょっと触ったが、「それについての考え方は人それぞれです」的なカードを初手で切ってくるのですごくきしょい。きしょいのだが、食ってるデータの多くがまさにそれなのだと考えるとぞっとするまである。

2023/01/16

ちゃん読で読み進めているBeing for Beautyも本題に入ってきた。第2章では、「評価」「行為」「理由」「価値」など、基本的な概念がきびきびと規定される。価値は理由付与性から説明しよう、というScanlon以降人気のアプローチが全面的に導入されて、美的価値の規範性までどばーっと話が進む。

もうひとつ飲み込めていないのは、美的価値は実践的規範性を持ち、編集やら収集やらさまざまな行為をする「べき」だというのに考慮事項として加算される、という枠組みにおける「鑑賞」の位置だ。鑑賞もまた価値によって促される行為のひとつであり、美的に良いものなので鑑賞する理由がある、といった順序で説明がなされる。鑑賞がそういう位置づけなのだとすれば、美的価値によって促される行為はほかにもいろいろあるので、とりわけ鑑賞が重要ではない、というのも腑に落ちる。が、個人的には(伝統的に問題とされてきたような)「鑑賞」は価値の後じゃなくて前にあるものだろう、と思う。

ロペスの考えでは、価値のまえにあるものはevaluationであり、xは美しいとかけばけばしいと心に思い浮かべることだ。これは信念のような命題的態度でもよいし、知覚的な状態でも情動的な状態でもよい。ロペス曰く、「鑑賞」は評価を踏まえた上でのそれ以上のなにかである。詳細にそこを論じている章を読むまではわからないが、ものの価値をestimateするプロセスはふつうに鑑賞ではないか、という感覚がある。価値や意味を見定め、見いだされた価値や意味を堪能し、堪能するなかでさらなる価値や意味を見出す、というダイナミックな関与を、通常ならば知覚を通して行うことが鑑賞であり、美的なものを巡ってはコアになる部分ではないか。なので、私は美的評価が大事だという点についてはロペスに賛成だが、鑑賞の位置づけは、評価が出力した価値によって開始されるものではなく、評価の前にあるプロセス、あるいは評価を包含するようなプロセスとして理解すべきではないかと思っている。

ちょっとややこしいのは、おそらく英語でappreciationと言うと、すでに見いだされている価値を堪能するというニュアンスがより強くて、ゼロから価値を見出すというニュアンスがほとんどないのかもしれない。実際のところ、日本語の「鑑賞」のニュアンスも正確にはわからない。ことによると、私はevaluationが大事だと言っているだけで、とくに鑑賞やappreciationを擁護する動機はなく、ロペスとも対立点はないのかもしれない。

2023/01/15

天気が悪くてうねうねしてたら一日終わったが、夕方から楽しくビールを飲んだのでハッピー。

2023/01/14

ビアズリーが論文集に書き下ろしている「Critical Evaluation」を読んでいる。

ビアズリーの考えでは、「批評」とは(1)良し悪しの語り+(2)良し悪しの理由となる特徴の指摘をセットで行う活動のことだ。美的批評[aesthetic criticism]とは、美的観点から美的価値(美的な良し悪し)を問題にするような批評であり、美術批評[art criticism]とは、芸術作品を対象とした美的批評である。美的観点から見て気にされる美的価値とは、ビアズリーとしてはもちろん、美的経験(美的な性格を持った経験)をアフォードする能力ゆえに持つ価値のことだ。要は「理由に基づいた批評」観なので、いかにキャロルがビアズリーの影響下にあったのかがよく分かる。(ただし、キャロルの場合「美術批評」として許容する価値は美的なそれに限られない、というのが相違点になるか)

ビアズリーによれば、批評的判断の本質とは美的価値の推定[estimate]である。曰く、批評的判断は、①価値の予測[predictions]ではないし、②tendencyについて語っているだけではないし、③verdictほど拘束的ではなく、④作品理解の補助となるのは副次的効果であり、⑤単にpersonalな承認のことでもないし、⑥真理値を欠いた言明でもない。結構ページを割いて直面原理を叩いているのは意外だった。複製を見て批評的判断をするのがアリなら、証言をもとに価値をうんぬん述べるのも批評的判断だろう(なんらか情報を利用して判断していることに変わりないだろう)、という趣旨は、多少ポイントを外している気がしなくもないが、まぁ、わからなくもない。

ついでながら、序盤に出てくる〈美学的探求の主要なベネフィットは、批評の改善[improvement]だ〉というテーゼは、まさにビアズリーが言いそうなことではあるが、実際に言われているのを見ると「言うねぇ」という感がある。

2023/01/13

Anthony Crossの論文「Aesthetic Commitments and Aesthetic Obligations」を読んだ。家族を顧みず、タヒチに移住したゴーギャンは、絵画の道を極めることにコミットしていた。同様に、美的生活においてはあちこちで美的コミットメントがなされている。Crossによれば、一般的にコミットメントとは、①Xをやったるぞという意図と、②①の意図を維持するぞという高階の意図を含む。美的コミットメントはそのうち、個人が、自分自身に対して行う、能動的コミットメントの一種だとされる。パンクに生きるぞ!というコミットメントは、自分に対する誓約であり、それに反してしまうと罪悪感や自責の念を覚えることが適切になる。

将来的に欲求や状況が変化しても、Xをやり続けることができるようにするのが、コミットメントの役割だとされる。Crossによれば、コミットメントは美的選択と、それによって形成される自らの美的アイデンティティを時間的に固定してくれる。将来もこれを鑑賞するぞ!という決意を固めておくことは、誘惑だらけの美的領域を乗り切るための手段となる。また(これはEvnineのジャンル論でも引かれていた話だが)、そうやってコミットメントを行うことは、不確かな時間というものを飼いならすことに繋がる。Scheffler (2010)が論じたルーティンと同じように、生活にパターンを作ることで、自らの将来がコントロールできている感覚を得られてうれしいのだ。

さらに、Crossはこの美的コミットメントを使って、美的義務の存在と基礎づけを説明できると考えている。Crossが美的規範性の標準図式と呼ぶものによれば、①世界には美的価値を持つ対象が存在し、②美的価値は、対象に対して特定の仕方で反応(鑑賞や創造、価値について信念形成、情動的経験など)をする理由を与える。Lopes (2018)らも採用しているこの標準図式では、しかし、こうしたほうがよいという弱い理由と規範性は説明できるが、こうしなければならない・すべきだという強い理由と規範性は説明できない。義務があるというのは、単にそうする理由があるという以上の、強い規範性があるのだ。対象Xがいかに美しいとしても、それはせいぜい見たほうがよいだけであり、見るべきだとまでは言えない。なので、美的義務は存在しないという立場も有力なのだが、Crossによれば、美的義務とはむしろ自分自身への美的コミットメントによって基礎づけられるものだ。自分自身でやったるぞ!と誓ったからにはやらなければならない、という類の義務が美的領域にもあるのだ。

スノッブの話にも転用できる、よいアイデアだと思う。いわゆる「こだわり」を持つことは、それなりのベネフィットと違反した場合のコストがあるはずで、その辺についての理解が深まった。Crossも述べるように、美的領域は戯れと選択の自由の領域だとみなされがちだが、こういった美的こだわりにも正当な居場所を認めることが大事だろう。オープンマインドが大事!と言っているだけでは、この辺を取りこぼしてしまう。

2023/01/12

一年ぶりの副鼻腔炎がやってきたので、ちびちびと葛根湯加川芎辛夷を飲んでいる。前回も、えぐい鼻詰まりのあとにこやつがやってきたわけだが、今回も順序がまったく一緒だ。今回は、正月に実家で犬を吸引したのが良くなかったのだろう。

この手の病気が再発するたび、前に発症した自分との時間的連続性を意識させられる。なんらうれしいことではないので、アイデンティティが脅かされるとしても、年中健康でいたい。

2023/01/11

受験生にプレッシャーとどう付き合えばよいのか質問されたが、うまいこと答えかねた。大学受験は私にとって泣いたり吐いたりするような出来事ではなかったし、中学受験のことはよく覚えていないからだ。私がいまやっていること(哲学)は、それ以前にも多少のバックグラウンドがあったとはいえ、大学4年のときからはじめたことだ。途中で進路変更してもどうにかなるというのが私の経験則であり、だからこそ、受験という一ステップ自体は生き死がかかった大げさなものではない、とどうしても思ってしまう。もちろん、そんなこと言っても当事者の受験生には的外れなのは分かっているから、言わない。

もう一つの経験則として、全力で努力して手に入れようとするほどのものはたいてい手に入らず、肩の力抜いても手に入る範囲のものだけが手に入ると思っている。高3の私にとって東大文二は前者だったし、慶應経済は後者だった。なので、嘘でも「全力で努力して夢を叶えよう!」的なことが言えないのが悩ましい。

2023/01/10

季節外れだが冷製パスタを作って食べた。細麺はディチェコのようなブロンズダイスよりもテフロンダイスのほうがよいと聞いてママーを買ってきたのだが、目一杯茹でても冷水でしめるとカッチコチになるので、勝手が分からずにいる。こないだ作ったボンゴレはママーでよかったのだが、冷製パスタを作るときはやっぱりディチェコのほうが好みかもしれない。

2023/01/09

寝不足だったのでめっちゃ寝た。

2023/01/08

東北5日目。もう東北ではないが、那須塩原駅からシャトルバスで那須どうぶつ王国まで向かう。旅の最後にモフと触れ合おうというわけだ。

冬期のため、一部エリアが利用不可だったが、それにしたって見どころの多い動物園だった。まずビーバーにドハマリする。もともとカワウソが好きだったのだが、ビーバーはそれのぼてっとしたバージョンで、ニンジンをぽりぽり食べているのがキュートだった。アザラシに餌をやったし、マヌルネコやスナネコなどレアなモフも見れた。最後に入った犬猫ふれあいコーナーでは、私の正面にピタリとやってきて撫でさせてくれるゴールデンレトリーバーがいて、best friend forever感がすごかった。絶対にでかい犬と暮らすぞ、という決意を固めた。時間ギリギリだったのでバスまでダッシュ。どうにか乗れて、割と早く那須塩原駅まで着いたので、一本早い新幹線めがけてダッシュ。よう走ったが、夜にも走ることになる。

再びの仙台に上陸し、牛タンROUND2。今度は駅からちょっと離れたところにある旨味太助でいただく。こちらは、昨日より薄めの炭火焼きで、香ばしい系の牛タンだった。近くの味太助とは分家騒動でバチバチらしく、台北の林華泰茶行vs林華泰茶行を思い出した。

仙台はアーケード街になっていて、縦もでかいアーケードだし、横に曲がってもでかいアーケードが待っている。帰りの新幹線までさくっと時間を潰そうと立ち寄ったCafe青山文庫で、フード&リカーファイトすることになる。コーヒーフロートが、爽まるごと載せたぐらいのサイズ感でびっくりした。

買いたいお土産もあったので、仙台駅まで最後のダッシュ。無事に買えて新幹線にも間に合った。オラオラと東京まで帰還。家までたどり着き、シャワーを浴びて、寝る。

2023/01/07

東北4日目。地元のソウルフードと言われる福田パンのコッペパンを食べるところからスタート。クッキーバニラ×コーヒーと、グラタンコロッケをいただいた。食べてられるフードだが、寒空の北上川を望みながら食べたので、温もりがあったらもっとうまかっただろうなと思う。

もう少し空き時間があったので、宮沢賢治『注文の多い料理店』を出版したらしい光原社がやっているカフェ、可否館で茶をしばいた。近くの雑貨店の屋根に猫ちゃんがやってきた。

盛楼閣で盛岡冷麺ROUND2。こちらはもっとコシのある太麺に、酸っぱめの味付けだった。なんだかんだギリギリになったので、早足で盛岡駅へ。仙台経由で松島まで向かう。

松島駅から結構歩かされるもので、島が望めるところまで着いたのが15時前ぐらいだった。観光船の最終便をなんとかキャッチしたので、乗船。着いたのが遅かったので窓際の席は取れなかったが、考えてみれば左側の席から右側の景観は見えづらく、逆もまた然りなので、真ん中の席でよかった。島の紹介アナウンスはやたらと「男性的」「女性的」という形容を多用していたが、今の御時世そんなんで怒られないのか、と私ですら思った。

急ぎ足で松島を散策。途中でやったおみくじは、私も恋人も小吉だった。ついでに、酒屋でBlack Tideのビールも買えてホクホク。暗くなってきたので、でかいせんべいを片手に松島駅までプチダッシュ。今回の旅は総じて、片手に土産物、片手にスーツケースでダッシュすることが多かったので、はたから見ればまごうことなき観光客だっただろう。

どうにか松島から仙台まで戻ってこれたので、目指すは牛タン。駅ナカのたんや善治郎は込み具合が常識的で、30分ぐらいで入れた。さすがに抜群にうまい。大好きなねぎしでさえ、さすがにチェーン店だな……と虚しくなる旨さだった。ところで仙台はほんとうにでかい。新宿と東京を兼ねているぐらいのでかさで、さすがは地方中核都市といった趣だった。そういえば一昨日やった秋田犬のガチャガチャが回し足りなくて、仙台のカプセルトイ店をあちこち回ったのだが、見つからなかった。もう少し地方中枢都市としての自覚を持ってほしい。

それはともかく、さっさと仙台を出て、お次は那須塩原駅へと向かう。真っ暗闇のどちゃくそローカル風景で、仙台からの落差がすごい。畑としか言いようがない畑を突っ切って、16分ほど歩いたところにある宿、NORTH INNへと向かう。NORTH INNはごくごく簡素なビジネスホテルで、そんなにテンションは上がらなかったが、使ってみれば最低限なんでも揃っているし、こころなしかベッドがかなり寝心地よかった。シャワーを浴びて、歯磨きして、寝る。

2023/01/06

東北3日目。湯めぐりバスで乳頭温泉郷をまわる。混浴露天風呂はもっとハードルが高いと思っていたが、いざ行ってみるとそんなに覚悟はいらないコンテンツだった。どこも老若男女が水に浸かっているだけなので、プールとは布一枚あるかないかの違いしかない。

蟹場は離れにある澄んだ露天風呂で、脱衣所がたいへん寒かったがそれなりに空いていてゆったりできた。お次の鶴乃湯は乳頭温泉郷のスペシャリテで、観光客でごった返していたが、流石に面白い露天風呂だった。白濁したぬるめの湯なので長く入ってられる。最後の妙乃湯は、高〜いお宿に付いている風呂で、圧倒的にモダンだったし露天風呂からの景観がダントツによかった。湯めぐりバスがあまり融通の聞かない時刻表になっており、また事前に調べていたものが現在の冬期のものではなく、ドタバタしたが回りたいところはぜんぶ回れてラッキーだった。

昼過ぎに乳頭温泉郷を出て、田沢湖駅のストリートピアノでひとしきり遊んだあと、盛岡へ。盛岡はめちゃめちゃ栄えている。ローカル駅続きだったので、一気に都会に出てきてびっくりしたが、翌日の仙台はさらにすごかった。着いてそうそう、ぴょんぴょん舎で盛岡冷麺を食べる。これが本場の……!みたいなのはとくになく、冷麺は冷麺で安定してうまかった。

安心安全のドーミーインへ。道中、奇声をあげて信号待ちの通行人に殴りかかる(ふりをする)やべぇやつが対岸で暴れていて、盛岡やべぇなとやや引く。事なきを得てチェックインした後、白龍のじゃじゃ麺を食べに行く。食べきった後で用意してくれる卵スープがよかった。割と時間が余ってしまったので、ベアレンビールの直営レストランに行ってきた。初めて飲んだが、ウィンターヴァイツェンがかなりお気に入りだったし、スタウトとピルスナーもよかった。エール系ばっかり飲んでいるが、こういうドイツ系のビールもさすがにうまいな。おつまみで頼んだ冷麺チップスがかなり好み、お土産に買って帰った。

ドーミーインに帰還。盛岡ドーミーインは本八戸に比べたらちと割高だったが、設備はいつもどおり良かった。夜鳴きそばを食べ、風呂に入り、寝る。

2023/01/05

東北2日目。八戸を出てまずは角館まで向かう。朝早く、ドーミーインを出たタイミングで部屋に忘れ物したことに気づきタイムロス。本八戸駅まで朝のジョギングをすることになった。今回はスノーブーツだけで来たので、これが結構しんどかった。どの旅行でもなんかしら走っている気がするが、今回はそうそうに走らされた。

無事に乗り込み、盛岡経由で角館まで。八戸は海辺で暖かいのかそれほどでもなかったが、角館はどっさり雪が積もっていた。武家屋敷通りまで来たが、雪かきをする人を除いて観光客は皆無、雪も相まってタイムスリップしたのかと思った。桜の里で比内地鶏の親子丼をいただく。近くの土産物店に看板犬の秋田犬がいるとのことで会いに行く。秋田犬の武家丸はもふもふしていて抜群に可愛かったが、始終センシティブな部分を舐めていてちょっと気まずかった。店内に200円で回せる秋田犬のガチャガチャがありドハマリする。

角館駅を出て、今回の旅のメインになるだろう乳頭温泉郷まで向かう。田沢湖駅からバスに揺られに揺られ、雪山のど真ん中に到着。宿泊した休暇村は比較的新しい施設だそうで、かなり清潔な旅館だった。事前に、乳頭温泉郷はカメムシがやばいと聞いていたが、一匹も出なかった。夕食時まで卓球をするつもりだったが、冬期はやっていないと聞いてショック。気を取り直して入った温泉はかなりよかった。正直、他で湯めぐりをするので休暇村はそこそこでよいかなと思っていたが、ミニマルにまとまった露天風呂がかなりお気に入りで、翌朝も朝風呂をすることになる。夕食はビュッフェでフードファイトをした。エビフライとエビの天ぷらと甘エビの刺身とで、計9本はエビを食べた。部屋でなぜか『アナと雪の女王』を見た後、就寝。

2023/01/04

東北1日目。新幹線とバスを乗り継いではるばる十和田までやってきた。八戸駅はめっぽう寒い。十和田市現代美術館を一通り見たが、ハンス・オプ・デ・ビークの《ロケーション (5)》が群を抜いてよかった。立体的なトロンプルイユで、ハイウェイのそばの夜中のレストランに入り込む作品。デヴィッド・リンチの映画みたいな雰囲気だ。ロン・ミュエクのでかい人物彫刻や、レアンドロ・エルリッヒのインスタ映えする作品もあるので、楽しく見て回れる美術館だと思う。ただし、料金と八戸からのバス代がやたら高い。

八戸中心街まで戻ってきて、安心安全のドーミーインにチェックイン。本八戸店はすこぶる安く一泊できた。晩ごはんは近くのごはん処で天ぷらと刺身を食べた。夜鳴きそばを食べ、風呂に入り、寝る。

2023/01/03

東北旅行の準備をした。

2023/01/02

Matthenのそれに続き、JAACに掲載予定の美的価値シンポジウム報告をがしがし読んでいる。Steckerががっしりと経験主義をとっているのと並べると、Nguyenが考えている価値あるengagementも、for its own sakeな経験と現象学的にはかなり近い感じがする。Nguyenの立場については一点かなり気になっていることがあるので、今度#なん読の後半戦で聞いてみたい。

SaitoやBradyら環境美学・日常美学の人たちは、日常のささいな事物が大事なんです、といった趣旨のことをねちねちと書くので、あまりポイントをつかめずにいる。というか、〈美的生活にはハイアートの鑑賞だけでなく、いろいろあるのだ〉というのが彼女らの唯一のポイントなのではないかとすら思う。

結構手強いと思ったのはGorodeiskyだ。Auburnの一派なので対象説の支持者だと予想していたのだが、現にそういう成分はありつつも独特なことをたくさん言っている論者っぽい。まず、キャロル的な内容説、美的価値は一群の美的性質の観点から理解される、という立場を退けているのに驚いた。〈優美さやけばけばしさといった美的性質が美的価値をグラウンドする〉という考えは、そういった性質を持った対象が反応者独立にそれ自体で美的価値を持つ、という仕方で対象説をサポートしやすいものだと考えていたが、Gorodeiskyはこれを退ける。Gorodeiskyは、おそらくは美的概念の文脈依存性を踏まえて、性質単位で美的価値とガッシリ結びついたものがあることに懐疑的らしい。一番意外だったのは、彼女が美的価値をa capacity for a feeling of pleasureから理解しようとしている点だ。そういった感情に値する[merit]ものこそ、Gorodeiskyにおいて美的価値を持つものらしい。この辺はかなり快楽主義に接近しているし、好き嫌い[liking/disliking]を重視しているところもあってかなり独自だ。他方で、Gorodeiskyは還元主義も退けている。美的価値は人を楽しませる能力によって対象が持つ価値だが、それは人の楽しみの価値には還元できない。この辺が、対象説っぽいところだと思うが、これを説明する段になると急に人間や人生についての語りが割り込んできてなかなか要領を得ない。正直ぜんぜん分かっていないので、代表的なGorodeisky (2019)は近々読んでみたいと思う。

2023/01/01

ホリデーなのをいいことにビールばかり飲んでいる。ビールにせよなんにせよ、ある新しい分野にgo intoするためにはその美的プロファイルを把握することが肝心であり、とりわけ他人がそれについてどう語っているのかを読んだり聞いたりすることが有用である。ということで、飲むビールはなるべくブルワリーの説明を読み、自分でも簡単なメモを付けて語る練習を繰り返している。これが結構楽しい。

当たり前だが、飲食物はひとたび飲み食いしてしまうともうそこにはなく、もう一度お金を出して手に入れなければならないあたりが、本とは全然ちがう。サブスクやCDやDVDの前は、音楽や映画もみんなそんな感じだったのだろうか。

2022/12/31

2022年もおしまい。今年もあっという間に終わってしまったが、旅行も行けたし、ビールも飲めたし、親知らずも抜いたし、非常勤も難なくやれているし博論も進んだので、良い年だった。こう、やることやった満足感とともに年を越せるのはいいことだ。唯一の心残りだったDiA論文も、このギリギリのタイミングで出版された

2022/12/30

実家(横浜)に帰ってきた。老犬は先月よりもだいぶ元気で、生命力がすごい。

年明けの旅行用にスノーブーツとやらを買いに行った。当たり前だが車があるとあっちゃこっちゃ移動できてすごい。クラフトビールもごっそり買ったので、年末年始のHAPPYは確保された。

2022/12/29

論文を500〜1000ワード削らなければならないので、頭を捻っている。その量になってくると、1フレーズ2フレーズカットしていくレベルではなく、議論の一部をごっそり切らないと済まないのだがどうしようか。

2022/12/28

私は新海誠をひとつも見ていないし、今後見る予定もない。なので森さんのように、新海誠のここやあそこが苦手というわけでもない。なんせ見ていないのだ。(トトロ見たことないに比べたら、この未経験は自慢にも使いがたいのがしぶい。)

しかし、見ていないだけでなく、今後見る予定もないのであって、なおかつうっすら確かに馬鹿にはしている。理由は、ただただ私が紛うことなきスノッブであり、ちょけた新作アニメなんぞ見ているのはダサいと思い込んでいるからだ。ちなみに、エヴァンゲリオンの新劇場版はぜんぶ見ているので、あまり自己一貫性はない。

昔から一般的に、①日本の②現代のコンテンツは、優先的に消費しようという気にならないことが多い。現代アートなんかを見に行くにしても、作者の名前がカタカナでなく鈴木とか小林であった途端に興味の7割は失っている。日本のものも時代の離れたものは気になるし、現代のものも海外のものは気になる。それは、部分的には場所の試練と時の試練を乗り越えたコンテンツのほうが良質である見込みが高い、という推論によるものだが、やはりシンプルに私が生粋のスノッブだからだ。洋楽を聞くようになり、それまで聞いていたJ-POPや邦ロックを馬鹿にしはじめた中3から、性分はなにも変わっていない。

一応、もうちょっと一般化できそうな話としては、①②を満たすコンテンツは、鑑賞のための心的距離をあまり取れないことがしんどいのかもしれない。作者のことを呼び捨てにできないような距離感では、その作品について気の利いたことを言うのはほとんど不可能である。作者は、私から地理的時代的に離れているべきであり、対面の人間関係であれば払ってしかるべき敬意をある程度免除される程度にそうでなければ、批評は難しい。現代の、その気になったらコンテンツ作者にDMを飛ばして、運が良ければ返事を貰えるような距離感(会いに行ける○○、生産者さんの顔)は、正直しょうもないと思う。ということで、作者を神格化したがるようなロマン主義的価値観を、私は少なからず持っているようだ。わざわざ耳を傾けるとしたら、神々の言葉のほうがよいに決まっているではないか。

2022/12/27

今日開けたCollective ArtsのGood Monsterが、ここ最近でいちばんうまかった。匂いからしてホップがガン攻めの、勢いあるダブルIPA。色んなビールがあって楽しいのは楽しいのだが、結局はこの類のものが趣味の中心にはなりそうだ。ファンクだって、結局はJBとPファンクに戻ってくるみたいなところ、ある。

2022/12/26

美的価値についての、Mohan Matthenの短いノートを読んできた。Matthenは基本的に道具主義をとっており、ものが持つ価値を、それとの間に取り結ぶ関係が主体にとって有益であることから説明している(少なくとも美的価値はその類の価値だと考えているっぽい)。美的価値を持つものとは、それに関与することで美的快楽を味わえるもののことである。この辺の説明は、まんまビアズリーの美的快楽主義と一緒だが、「快楽」の中身をちょっと特定化している。

促進型の快楽[Facilitating pleasure]とは、単に感覚としての快楽[pleasure-as-sensation]ではない(それもありうるが)。それは、ある種の役割を果たす快楽であり、それが伴う活動を維持し、強化するものである。

Matthenが挙げる例は、散歩の快楽である。散歩は健康にしてくれる点で有益であり、健康をもたらすという価値があるが、それだけではない。お気に入りの格好でお気に入りのルートやペースで散歩することは、そのやり方をsustainしreinforceするようなポジティブな情動を生じさせる。促進型の快楽は、あることをする気にさせ、それをどのように行うかに影響を与えることで、主体のふるまいを成形するような快楽なのだ。美的価値を持ったものへの認知的関与とそれが与える促進型の快楽の間には、関与が快楽を与え快楽が関与を促すような、フィードバックループがあると言ってもよいだろう。個人的にはかなり共感できる立場であり、とりわけ時間的要素を持ち込んだ説明なのが性に合う。密かに温めているアイデアで言えば、(少なくともある種の)美的価値はハーモニーではなくグルーヴなのだ。

この、「もっとやっていたくなる」類の快楽、手段の自己充足から美的な価値を説明するというアプローチは伝統的なものでもある。私のかじった程度の知識によれば、カントの目的なき合目的性とはまさにそういう話だったはずだ。そういえば、第一契機に比べて第三契機について書いている現代美学はあまり読んだことがない気がする。活用していきたい話なので、掘ってみようと思う。

2022/12/25

クリスマスなので『素晴らしき哉、人生!』を見た。見るのは二度目だが、さすがによい映画だ。こう、ふつうによくできた物語については、褒めるのが難しかったりする。感動しすぎるのもこっ恥ずかしいので、あらを探してケチつけたくなる類のやつだ。

近所のイタリアンで食べたボンゴレビアンコが美味しかった。来年はパスタマスターを目指したい。

2022/12/24

井の頭公園をぶらぶらしてきた。吉祥寺を散策するのははじめてだが、なんでも揃っている楽しい街だ。400円で入れる自然文化園は、動物たちもさることながら、とくに水生物館の展示がピカピカで感心した。週末のクリスマスなのに、そんなに混雑していなかったのもポイントが高い。

2022/12/23

日比谷のクリスマスマーケットに行ってきた。イベントの非日常感はよいが、どうしても自前の文化という感じがせず、コスプレ感が否めない。リンツのホットチョコレートはおいしかった。

霞が関駅、ほんとうにぜんぜん人がいなくて、Liminal spaceみがあった。

2022/12/22

美的に気に食わなかったのでずっと手を出してこなかったウルトラライトダウンジャケット、買ってみたら一枚でポカポカするので、家の中でもずっと着ている。

すっかり年の瀬で、「良いお年を」と言い合う季節になってきた。今年はやるべきことを粛々とやる一年だったので、それなりに満足している。

2022/12/21

今年はほんとうに映画を見ていない。ろくに見ていなかった2019年でも72本は見ていたのだが、今年は50本ちょいにとどまりそうだ。といいつつ、ふつうに考えれば、年に50本も映画を見れていれば、まぁ文化的な暮らしをしているほうではないか。また、今年は見たことのあるものを見返す機会も多かった。思えば長らく再鑑賞をないがしろにしてきたが、好きなものは何度見ても好きなので、わけわけらんハズレを引くよりよっぽど生活を豊かにしてくれる。長いやつはなかなか見返せていないが、来年は時間を作ってそれができればと思う。

今年は「面白かった映画選」も作る気がないので、手っ取り早く2022のベストを挙げておくと、群を抜いていたのはギヨーム・ブラック『宝島』(2018)、アンジェイ・ズラウスキー『コスモス』(2015)だ。前者は夏のキラキラをエスプレッソしたような最高のドキュメンタリーで、8月のくそ暑い時期に見れて最高だった。ブラックはうっすらずっと好きだったが『宝島』で大好きになった。今年公開の『みんなのヴァカンス』も良かったが、こじんまりとまとまっていて佳作という感じではあった。後者はズラウスキーというだけでお察しだが、ひさびさにこういう不条理で気の触れた映画を見れて最高だった。物語映画のフォーマットをぶっ壊しにきつつも、ところどころで確実にユーモアをかましている。ズラウスキーは外すときはとことん外す(今年見た『狂気の愛』も最低だった)が、ハマるときはハマり過ぎて吐きそうになる(『ポゼッション』はオールタイムベストのひとつだ)。この、面白すぎて吐きそうという奇妙な味わいは、リンチやハネケにもありつつ、ズラウスキーが圧倒的だと思う。

映画館で見たものだと、たいそう期待したPTAの『リコリス・ピザ』はまぁまぁで、そんなに期待していなかったジュリア・デュクルノー『チタン』がかなりよかった。

2022/12/20

スーパーに買い出しに来たつもりが、リュックを忘れて手ぶらで来ており、だめだ疲れているなと思いつつビニール袋を買ったのだが、帰り道の途中、ふつうにリュックを背負っていることに気がついた。

2022/12/19

芸術家より批評家のほうがえらい、という直観はわりとある。もちろん、これではただただミスリーディングなので、もう少し正確に述べると、 芸術家にとってのコアとなる能力と、批評家にとってのコアとなる能力があるとして、アートワールドにおいてより肝心なのは後者だろう、と思っている。具体的には、前者としては手を動かして素材をoperateする技術を、後者としては状態に照らしてものの良し悪しや向かうべき方向をevaluateするセンスを想定している。こう考えれば、芸術家といえど、後者の能力なしにはやっていけないだろう。良い批評家が良い芸術家であるとは限らないが、良い芸術家はみな良い批評家なのだ、というのはわりとそう思う。(少なくとも、私が良いと考えている類の芸術家に関してはそれが成り立ってしかるべきだと思う。)

もっとも、当の能力が批評家かつ批評家のみのコア能力とは言えないのかもしれない。今日のちゃん読で出た話だが、批評家とは、むしろ言語化したりレトリックで色をつける部分にコア能力を持つ人たちであり、evaluateがとりわけ得意な人たちではないのかもしれない。それはそれでかまわない(operaterよりもevaluaterのほうがえらい、とさえ言えれば。まだ読み始めたばかりだが、Lopes (2018)の立場も、うっすらこの直観を共有してくれているように思う。であるとすれば、肝心であり、プロパーに美的だと言える関与の仕方はとどのつまりevaluationであり、それをした上でなにかするという実践的なレベルまで問題にする必要はないと思うのだが、Lopesがどう話を進めるのかは楽しみなところだ。

2022/12/18

M-1からのワールドカップ決勝で話題に事欠かない夜だったが、テレビがないので結果はどちらも後で知った。前者は総合的にあまり面白みを見いだせなかったが、後者はよかった。総じて、今回のワールドカップは、スポーツなんてほぼほぼ興味のない私にも分かりやすいストーリーをなしていて楽しかった。

2022/12/17

大学の友人たちと宅飲みした。お互い大人になったなぁという部分と、ぜんぜんあの頃のままだなぁという部分がそれぞれある。深夜に延々と早押しクイズをやるのが楽しかった。

2022/12/16

スゴ本の中の方が『ホラーの哲学』について書かれていた。キャロルは「相当にワキが甘く、理屈にポロポロ穴がある」が、だからこそ「哲学者と格闘できる一冊」になっているとのことらしい。キャロルの理屈にポロポロ穴があるのかはともかく、だからダメな本だとはならず、相手取ってバチバチ闘える本になっているという評価は、楽しみ方をよく分かってらっしゃると思う。分析美学に限らず、哲学書は「パチこいてんじゃねぇだろうな」ぐらいの喧嘩腰で読むのが健康的だ。私の『批評について』にも、罵詈雑言に近いメモがたくさんある。

とはいえ、スゴ本の中の方が「相当にワキが甘く、理屈にポロポロ穴がある」とおっしゃっているは見たところ大きくふたつであり、どちらも実のところキャロルの落ち度であるとは思われない。ひとつは、フィクションのパラドクスについて思考説を推すにあたって、「思考説で全てを語ろうとする」「他を退けようと攻撃する」点、それは「哲学者の悪い癖」とのことらしい。必ずしも一択を迫られているわけではない場面で、そうであるかのように話を進める哲学者が多いのはその通りだとは思う(哲学者に限った話でもないが)。しかし、実態として「様々なルートによって感情が誘発される」のだとしても、よく通るルートとそうでないルートというのはあるものだし、ある立場の優位を示すために(必ずしも競合しないにせよ)別の立場の問題点を指摘するのはアブダクションとして必要な作業だ。ある立場を明確に支持し、他を退けるポーズをとることは、哲学者の悪い癖」と言われるほど問題のあるものとは思われない。なにより、はなから「いろんなケースがある!」と述べるだけでは面白くないし、みんな本当に一理あるのかどうかはやはり検討が必要であり、その意味で「他を退けようと攻撃する」くだりはやはり必要なのだ。

もうひとつ、スゴ本の中の方が問題視されている点はよくあるもので、危険かつ不浄なモンスターを必要条件とするキャロルのホラーの定義では、あれやこれといったホラーの名作が「ホラーではない」として退けられてしまうことだ。私の書評でも書いたが、こういった反例合戦はそんなには盛り上がりようがない。キャロルがXをホラーとして認めないからといって、われわれがXをホラーと考えるべきでないわけでもないし、われわれがXをホラーとして認めるからといって、キャロルはXをカバーできるよう定義を修正するべきとも言えない。われわれが一連の作品群をホラー扱いしているという事実はかなり重要であり、それはそれで説明を要する事実だが、その範囲と厳密には一致しないものの、芯を食った定義を提出することはカテゴリーの理解にとって役に立つ。芯が大幅にズレていることは問題だが、あれやこれをカバーできないことはたいした問題ではないのだ。スゴ本の中の方は必ずしもそうではないと思うが、こういったアプローチに対して、パターナリズム的な不寛容さを見て取るのは誰も幸せにならないアナロジーだろう。よくよく考えてほしいが、私の好きなホラー作品Xが、キャロルの考えるホラー*ではないからといって、私はなんら憤慨する理由はないし、キャロルがバカだと考える理由はないのだ。

2022/12/15

論文が(おおむね)できた! BJAに通らなくて、1ヶ月半ぐらいこねくり回していたやつだ。すっかり内容が変わり、ボリュームも日本語で16,000字程度だったのが、あれよあれよと25,000字弱になった。書きたてほやほやなのでずいぶん気に入っているが、粗熱をとってからもう一度見直したり、人に見てもらう時間をとりたい。

すごく当たり前のことだが、迷走し始めたらアウトラインを作るに限る。今回は、中心的な主張ひとつと、補助的な主張ふたつから成ることに気がついてから、さらっとまとめられた。たいていの活動がそうだが、自分で自分がなにをやっているのか不確かな状態というのは苦しいものだ。

蓄えているクラフトビールでもあけて一杯やりたい気持ちもあるが、週末に大学の友人たちに会う予定があり、どうせ散財するのでここは我慢だ。ビールは我慢すればするほどうまい。

2022/12/14

先日、友人と飲んでいて、〈専門家がXについて語ることと、素人が与太話としてXについて語ることはなにが違うのか〉という趣旨の質問をもらった。いい質問だし答えるべき質問ではあるのだが、難しい質問であり痛いところつかれた質問でもあるため、即答はできなかった。飲みの場でいきなり学振を書かされるようなものだ。

必要な理由づけをしているとか、先行研究にあたっているとか、ありていに言えば権威づけのためのマナーに則っている、というのが一応の答えになるわけだが、そう答えるまでもなく、それが相手の期待している答えではないことは明らかだった。しかし、それ以上の本質的な違いはと言われれば、ないというのが実情なようにも思われる。権威づけられたしょうもない理論もあれば、耳を傾けるべき与太話もあるからだ。

与太話が建物の乱立なのだとしたら、専門知は整地と地図づくり、みたいなメタファーで答えるのが、おそらく適切ではあっただろう。当のメタファーが適切かどうかはともかく。

2022/12/13

私は元バンドマンで、男子らしくラーメンとビールが好きなのだが、このままいくと夜な夜な飲み歩き50過ぎても一人称が「俺」のちょい悪オヤジに成り下がるので、そうならないよう日々軌道修正を試みている。しかし考えてみれば、古風な頑固親父も嫌だし、ロックなちょい悪オヤジも嫌だとすれば、どうすればいいというのか。自分がおっさんになったときのモデルとなるような存在が、正味な話、まったくいないのだ。結局のところ、われわれはなりたい類のおっさんになれることは決してなく、なんらかの類のおっさんになってしまうというのが実態なのかもしれない。

2022/12/12

体系的な情報というのはなんであれうれしいものだ。フィクションの快は部分的にはこれなんじゃないかと思っている。現実の真である断片的な情報よりも、フィクションの偽である体系的な情報のほうが面白いというのは、当たり前と言ってもいいだろう。

2022/12/11

DiA論文は、本来9月ごろには出るはずだったものがひとしきり延びて、二ヶ月前にsoonと言われてからのtechnical difficultiesがあって、先月in the coming weeksと言われてから1ヶ月が経過した。向こうの人の時間感覚は分からないが、そういうもんなのかもしれない。年内に出してくれれば文句はないが、12月25日に出るフィルカルで2022年の業績として書いてしまったので、それまでにどうにか頼む。

ブロガー上がりなので、論文や本の出版ラグにはいまだに慣れていない。ふつうに、一年も前に書いたものがそのままのかたちで世に出ることに対して、みんな恥ずかしさはないのだろう。このこっ恥ずかしさは、もはや自分では全面的に支持できる内容ではない、という点を脇においても存在すると思う。

2022/12/10

中目黒で酸辣湯麺を食べた。GT中目黒のとこがクリスマス仕様になっていて、かわいかった。

2022/12/09

高校の友達とクラフトビールを飲んできた。みんな悩みも愚痴もなくHAPPYだ。飲み会はこうであってほしい。

渋谷のGoodbeer faucetsで飲んでいたのだが、酔ってくるとだんだん舌が馬鹿になってくるので、なにを飲んでもうまいという、得なのか損なのかよく分からない状態になってくる。こう、ちゃんとクラフトビールをクラフトビールとしてappreciateできるのは一杯目だけだな、という気づきがあった。

2022/12/08

今日の講義では、試験やレポートでコピペをしないように念入りに釘を差しておいた。たぶんあと2〜3回は言っておかないとまたしてもArtpediaやartscapeまみれになるだろう。

コピペならそれ用のツールを使ってチェックできるのだが、流行りのChatGPTでそれっぽい回答を作ってくる可能性もあって、どう対策すればいいのか分からない。よく分かっていないのだけど、あれは同じ質問文に対しては毎回おなじ回答を返すのか、その都度ちょっと違う回答を生成するのか。後者だったら面倒だな。

2022/12/07

三軒茶屋の業務スーパーまで自転車を飛ばし、肉を買ってきてサムギョプサルした。キッチンのすみずみまで油まみれになったのだが、後悔はしていない。

2022/12/06

中学生の作文を教えていて、「アンパンマンのマーチ」の「たとえ 胸の傷がいたんでも」のフレーズに棒線が引かれていて、それについてなんか600字書けという設問をみた。ずいぶん雑な大喜利で芸人も困るだろうと思うが、考えてみればアンパンマンの胸の傷とはいったいなんなのか気がかりだ。愛と勇気以外に友達はいないのか、というよくある揚げ足取りよりもずっと気になるではないか。胸の傷というからには、なにかトラウマや過去の苦しみを指すはずであって、単純にバイキンマンに敗れて身体的・精神的に損害を受けるリスクのことではないはずだろう(それだとしたら、「たとえ傷つくことがあったとしても」だろう)。私の知る限り、かの人物はジャムおじさんのパン工場で創造され、毎日公安のために使役されている機械的存在であり、トラウマなんかとは無縁だ。いくどとなく頭部を取り替えられているので、記憶や自己の同一性すら確かではない。いったいどこにどんな胸の傷があるというのか。

どう考えても、なんらかの明確な目標を持ち、そのために過去の失敗や苦しみを乗り越えて努力しているのはバイキンマンのほうだ。そのときどきのトラブルに対処するだけのアンパンマンとは異なり、アンパンチによってつけられた多くの傷がいたんでも果敢に立ち向かう。そう考えると、「ああ アンパンマン やさしい 君は」なんかは、バイキンマン目線のルサンチマンのようにも聞こえてくる。

2022/12/05

ワールドカップの日本対クロアチア戦を15分ほど見ていたときに、ちょうど先制点を入れていた。素人目には、その直前まではクロアチアがボールを持っていることが多く、日本は防戦一方という印象だったのだが、なんかどさくさに紛れてコーナーキックでわちゃわちゃやっていたらあっけなくゴールに入っていた。翌日ハイライトで見たが、後半クロアチアの追いつき点はきれいな縦パスからのきれいなヘディングで、こちらのほうが圧倒的にカタルシスがあった。とはいえ、延長前半14分で、三笘薫が一人だけでドリブルで切り込んで行ったのは完全に流川楓だった。あれが入っていたらその日一番のカタルシスになっていただろう。

もちろん、シュートの決め方が美的であるかどうかは、点が入るかどうかに比べればまったく肝心ではない。現実はカタルシスを保証されたフィクションとは違うというわけだ。それにしたって、ファールをもらうために痛がるという例のやつ(見ていた15分の間だけでも、日本とクロアチア両方がやっていた)は何度見ても興ざめだ。

2022/12/04

早稲田松竹でシャンタル・アケルマンの『私、あなた、彼、彼女』と『アンナの出会い』を見た。前者は美大生の卒業制作といった感じでとても見てられなかったが、後者は『ジャンヌ・ディエルマン』以降というのもあり、少なくとも画はきれいだった。が、後者も話としての起伏がなさすぎるので、なにもパンチのないミヒャエル・ハネケをずっと見ている気分だった。どちらも同時代のフェミニスト映画理論を持ち出せばあれこれ言える作品なのだろうが、そうやってテクい操作をしなければ面白みが浮き上がってこない作品という時点で、しゃらくさいと思ってしまうフェイズに入った。

早稲田松竹で見たもので覚えているのは、『ざくろの色』『火の馬』の二本立てと『ヴィタリナ』『イサドラの子どもたち』の二本立てだが、今回も含めて毎回睡魔に襲われている気がする。早稲田松竹に行くと眠くなるのか、眠いときにばかり早稲田松竹に行っているのか。シンプルに、二本立てというのがなかなか集中力・体力的に追いついていない、というのが答えなのかもしれない。映画もビールも、たま〜に一本嗜むぐらいがいいのだ。

2022/12/03

グリーンカレーのチャーハンを食べたがかなりお気に入りだった。タイ行きたい。

2022/12/02

自分がもう27なのにも驚くが、10年前に同級生だった人たちがみんなもれなく27というのは、ほとんど実感がわいていない。単純に、少数を除いてまったく会っていないだけだが、記憶の中では彼彼女らはみな17のままだ。同窓会という類には一度も行ったことがないし行く予定もないので、今後もそうなのだろう。

2022/12/01

最寄り駅のエスカレーターは各ホーム1列×1本しかないので、例の片側空けるかどうか問題は回避している。しかしながら、それはそれで、自分が立ち止まった場合に自分を先頭にして後ろの人々が全員立ち止まることを強いられるため、全員が同様の推論から、結局だれも立ち止まらず、全員で歩くということになりがちだ。身体的に本当に無理のある場合を除き、普段なら2列エスカレーターで立ち止まるような人もみんなもれなく歩くことになる。ことによると誰も本心からは歩きたがっておらず立ち止まりたいのだが、誰も立ち止まらないので(心理的に)立ち止まるわけにはいかない。エスカレーターを1列にすれば問題が解決されると考えるのは大きな間違いだ。みんなで立ち止まるための1列ではなく、みんなで歩くための1列が実現される可能性がおおいにあるからだ。

2022/11/30

みんなポケモンをやっている。私はいまだにRSE以降のポケモンを知らないし、オープンワールドが〜と言われても、オープンワールドものもひとつもやったことがない。スカーレット・バイオレットが出るということ自体、発売直前にコンビニのダウンロードカードで知るぐらいの疎さであった。こないだはみんなスプラトゥーンをやっていた。小さい頃はあんなにビデオゲームが好きだったのに、すっかり乗り遅れてしまった感がある。

2022/11/29

ちょっと前にはまって、1週間ぐらい作業中にたれ流していたナミブ砂漠のライブカメラだが、Togetterでバズって日本人がチャットに集ったときに、運営ボランティアがしつこく「英語を使え」と言っていたことをたまに思い出す。「ボランティアがユーザーの質問に答えているので、英語以外だと対応できない」という建前らしいが、それと非英語で書き込んではならないことに一見したつながりがなくて、ちょっと考え込んでしまった。ボランティアらの様子を見るに、対応できないことへの困惑というより、知らない言語がつらつら書き込まれる嫌悪と恐怖が主だったように思う。

おそらく、ネット文化の違いというか、ネットにおけるルールの認識に齟齬があるのだろうと思う。私のブログにいきなりアラブ語の長文コメントが書かれたらびっくりするし、しつこく書かれたらやめてくれと抗議したくもなるが、「日本語以外のコメントはお控えください」と宣言するのも変な気がする。私にできるのは粛々と無視したり削除したりするぐらいで、プラットフォームとして制限する機能がない以上、私から勝手にルールを定める権限があるようには思えないのだ。ブログにせよYouTubeにせよ、公園の一角を借りて遊んでいるようなもので、そもそも私の私有地ではないのだ。そういう認識から言えば、「英語を使え」にはたしかに不当なところがある。日本人は日本人同士でチャットをしたがっているわけだし、運営の都合なんて知ったこっちゃないのだ。インターネットのコメント欄なんてそういうものだ。

同ライブカメラのチャット欄で、「そんな要求はレイシズムだ」いやレイシズムではな」みたいなやり取りも目にしたことがある。レイシズムはちょっと大げさとも思うが、それへの応答として運営が「レイシズムではなく、みんなが平等に気持ちよく使えるためのルールだ」と言っていたのはナチュラルに排斥者のマインドで、悪手だろと思った。

それはそうと、「英語を使え」と言い出す日本人も少なからずいたあたりが、極めて日本人らしいなと思った。学級委員長タイプというか、郷に入っては郷に従えというか、ルールと聞けば脊髄反射で遵守し、遵守を他人にも要求するタイプなのだろう。

2022/11/28

過集中で食事しなくなるのか食事しないことで頭が冴えるのか、おそらくはその両方なのだが、そういうのがよくある。いまのところ健康に害はないのだが、食事の時間が不規則なのは長期的にはよろしくないのかもしれない。

2022/11/27

「マーベル映画は映画じゃない」は言い過ぎだが、マーベル映画のファンと、ツァイ・ミンリャンやらキアロスタミやらを見ているシネフィルは「実のところ同じ趣味の持ち主ではない」とは言えるだろう。価値づけも、コミュニティも、ルールも規範も、伝統も慣習も、その両者とでは大きくかけ離れているのだ。大衆向けの娯楽作品が後世においては玄人好みの古典名作扱いされるのは珍しくないので、広い目で見れば作品自体に根本的な差異があるとは思わないが、〈同時代においてどう同じ趣味の仲間を探すか〉という狭い問題に関しては、両者を区別して考えることがさしあたり重要だと思う。好きな映画3選に『ショーシャンクの空に』が入ってくるような映画好きと、『牯嶺街少年殺人事件』が入ってくるような映画好きの間で、仲間意識が芽生えることはあまりないだろう。相手が「映画好き」だからといって気を許さず、自分と同じタイプの映画好きなのかどうか確認するステップが常に必要である。

私はかつて、この対比は単純に見ている本数の違いに起因するだろうと思っていたが、そうでもないらしい。タルコフスキーやらベルイマンなんぞ歯牙にもかけず、マニアックなものを含めヒーロー物やコメディやホラーを何千も何万も見ている人がよくいる。やはりそれは、素人玄人の対比ではなく、根本的な趣味の違いなのだ。

個人的には正直なところ、自分と同じタイプの映画好きであっても、好きな映画や監督について語り合うことが楽しいと思えた経験はほとんどない。とりわけ、Wikipediaに載っているようなうんちくの交換になってしまうのは惨めだと思う(し、そういうバックグラウンドの話ばかりしてくる相手との会話は早めに切り上げたいと思う)。最近の共同体主義美学は、コミュニティやらアイデンティティやらについてふわっと楽観的なビジョンを示すばかりで、この美的会話におけるぎこちなさ、分かりあえなさ、気まずさを意図的に無視していてよくないと思う。あるいは、そういうネガティブさを経験したことのないような著者ばかりで、ノリが合わないと思う。

2022/11/26

恋人との記念日でご飯を食べてきた。ビル15階は高所苦手勢にはなかなか凄みがあったが、出されたものはどれも美味しかった。お祝いの定番なのか、2時間の間に20人ぐらい誕生日を祝われていた気がする。みんな生まれてよかったよねぇ。

2022/11/25

じっくりと1ヶ月ちょい焦らしたかいあって、Grammarlyから55%OFFのブラックフライデークーポンがきた。これで、1万円弱でまた一年使えそうだ。Nice。

5年ぶりにパーマをあててくるくるになった。

2022/11/24

今日は料理DAYだった。壺ニラときゅうりのポン酢漬けを仕込み、ちゃんこ鍋をこしらえ、チーズケーキまで仕込んだ。今回はオレオチーズケーキということで買いに出かけたのだが、東急ストアにもまいばすけっとにも私が知っているオレオがない。たしか9枚×2パックの箱で売っていたはずだが、6個×2パックの箱と、3枚×10パックの小分けされたやつしかない。契約終了かなにかでノアールと分裂したことまでは知っていたが、その後もマイナーチェンジを続けていたらしい。そもそも、一食の適量は3枚らしい。

2022/11/23

小学生だったか中学生だった頃の音楽の授業、班に分かれての歌の発表かなにかで、他の班の発表を腕組みして見ていたら「そんなのは人の発表を聞く態度ではない」と先生に注意されたことがある。まれに思い出すが、当時も今も「人の発表を聞く態度」として要求されていたものがなんなのかよく分かっていない。批評家的な、分析し、論評するような態度のことではないのはたしかだろう。というのも、批評家は腕を組んだりして偉そうにしているのがふつうだろうからだ。

2022/11/22

ネットにおいては、好きや楽しいよりも、なんらか嫌な経験や鬱憤とした感情に沿って人が集まることがよくある。誰しも多かれ少なかれネガティブな面を持つのは疑いえないが、私はそれを利用して仲間を得ようとは思わないし、積極的にそれを表明することは、実際のところ期待されるようなセラピーとしての機能をちゃんと果たすのか懐疑的である。SNSのプロフィールに病名や飲んでいる薬や持っている手帳や受けた災難を記し、定期的に死んでみようかとほのめかすような人の周りにはそういう人が集まっていくばかりで、問題が解決されるわけでもないし病が治療されるわけでもない。一日一日をよりfeel goodに過ごすという以上にやるべきこともできることもない、というところから出発して合理的に選択できるのは、そもそも大して苦しみを経験していない人間の特権である、と言われればそうかもしれないが、ルサンチマンは相手にしていられないというのが正直なところである。トラウマやディプレッションはなんらかの対処を要する問題であって、アイデンティティの一部に組み込んだり、定期的に前景化させてしみじみと苦しむのが好きな人に対して、ケアもなにもないだろう。

2022/11/21

基本的に、べらべらと思弁的なことを喋る映画やビデオアートがめちゃくちゃ嫌いだ。ゴダールだかベルイマンだか知らないが、それっぽいことをそれらしく棒読みしていればミステリアスな質が得られると思っているのがうすら寒い。そんなのはレジュメもスライドもない口頭発表のようなもので、ふつうの人にはついていけないのだ。

まったく同じ内容でも、小説で提示されれば誠実度はぐんと上がるように感じる。やはり、思想とは本質的には書かれたものなのだと思う。とりわけ、それを公に共有しようとする場合には、間違いなくそうなのだ。独白がたらたらと続く作品には独りよがりなところがあって感じが悪い。一般的に言って、本人しか体系的に分かっていない事柄を、聞き手の理解度を考慮することなくたらたらと話すことは感じが悪いのだ。その点、書かれたものはどれだけ難解で衒学的で破綻していても、その種の感じの悪さからはある程度逃れている。「読んでも分からないのはお前が悪い。分からないなら読むな」というのがアリでも「聞いても分からないのはお前が悪い。分からないなら聞くな」というのはナシな気がするし、「俺に分からない話をするな」というはアリだが「俺に読めない文章を書くな」というのはナシな気がする。そこになんら根本的な原理がないとしても、私はそういう非対称性を感じるし、私は私がそうであることからみんなそうであることを推論している。だからこそ、論文を書くときの態度と、講義で教えるときの態度が一緒ではまずいなと思うときがある。

2022/11/20

お寿司を食べた。 まぐろ、はまち、あぶりえんがわ(みそ)、あぶりえんがわ(塩レモン)、うなぎ、合鴨ロース、カニ味噌軍艦、海苔すまし汁。最近は鴨にハマっている。

2022/11/19

ミッケラーのバーストIPAを飲んだが、そんなだった。あっさり系ではあるが、ガムを噛んでるような苦味と甘みがしつこくて、なかなか料理と合わせにくい。なぜなら、ガムを噛みながら料理を食べるということはないからだ。

2022/11/18

『現代存在論講義』のとくにIIはすごい本で、ひさびさに読み返すと、直近で気になってることを取り上げてくれていることがかなり多い(私がいかに読んだ本の内容をすぐ忘れるか、という話でもあるのだが)。Evnine (2015)は性質群からなる普遍者ではなく、ファンやコミュニティを含んだ個別者としてジャンルを理解することを提案しているが、これは種に関する個体説とおおむね同じアプローチみたいだ。自然種のHPC理論についてもぼんやりとしか理解していなかったが、手短な解説がついてて助かった。芸術のカテゴリーの話は、あたりまえだが種についての存在論とかなり親しいので、しばらくはそっち方面のものを勉強しようと思う。

2022/11/17

ぷらっと渋谷に出て、ラーメンを食べ、Loftで買い物して帰ってきた。ラーメンはなかなか美味しかったが、1000円前後の「丁寧に作られたんだろうな〜」という感じのラーメンはどれも似通っているため、ふと思い出して再訪することがあまりない。高いし。

夕方からぷらっと渋谷に出て立ち寄れる場所がもっとあった気がしたが、とくに思いつく当てもなく、買うもの買ってすぐに帰宅した。ミッケラーで一杯やりたかったが、なんでもない日にそういうのをやり始めたらきりがないので自重した。

渋谷は玉石混交のあれこれをギチギチに詰めた汚らしい街だ。思い出はたくさんあるが、いい思い出ばかりではない。

2022/11/16

疲れ目なので蒸しタオルをやったらいつもより3倍すやぁと入眠できた。最近買い直してなかったけど、またあずきのチカラでも買って使うか。

2022/11/15

Abell (2015)のジャンル理論を読み直した。ジャンルとは目的と結びついたものだとする、(Malone 2022の言葉で言えば)機能種説だ。あらゆるジャンルには本質的な目的があり、このことがジャンルを規範的にしている。すなわち、目的に照らして手段がどういう手段なのか解釈したり、適切な手段なのかどうかで評価されるというわけだ。キャロルのカテゴリー論ともかなり通ずるところがあると思うが、キャロルの場合目的は作品ごとに個別のものであり、カテゴリーはその重要な手がかりとして知られている。実際、後のキャロルはカテゴリーの重視をやめ、作者が作品に担わせた目的にまっすぐ向かうことにしたらしい。

「あらゆる個別作品には目的がある」というのは目的を広くとる限り無茶な観察ではなさそうだが、「あらゆるジャンルには目的がある」はどうだろうか。少なくとも私の観察では、物語芸術に限定しても、ジャンルは①目的(とりわけ鑑賞者に与える感情的効果)によって個別化されるものと②表象内容によって個別化されるものに分裂している。「コメディはジャンルである」というときの「ジャンルである」と、「西部劇はジャンルである」というときのそれは、中身がぜんぜん異なるのだ。この後者、常識的に考えれば表象内容によって個別化されているジャンルたち(具体的には西部劇、ファンタジー、SF、恋愛もの、犯罪もの、戦争ものなど)についても、エイベルはジャンルの中心的な目的を帰属しようとしている。しかし、「議論の余地があるものの[arguably]」と留保を付けながらエイベルが記述するSFや西部劇の目的は、余地どころかほとんど受け入れがたいものであり、見たところアドホックに指定したものばかりだ。曰く、SFの目的とは〈論理的に一貫した別世界を記述すること〉であり、西部劇の目的とは〈制度的な社会秩序がない状況の道徳的行為を主題とすること〉らしい。しかし、「SFとは未来や別の惑星におけるテクノロジーを描くもの」「西部劇とは開拓時代のアメリカ西部を描くもの」といったフォークな説明に対し、これら目的を中心に据えた説明のほうが適切だと考える理由がなにもないのだ。

さらに、音楽ジャンルのことを思い起こせば、①②だけでは済まないことに気がつくだろう。ヒップホップはサグい気分にさせてくれるからこそヒップホップであるわけではないし、ストリートでの暮らしについて歌っているからこそヒップホップであるわけでもない。すくなくとも、それだけではないし、そこが中心ではないように思われる。音楽ジャンルは、ほとんどの場合③非美的な音楽要素・構造や④美的性質によって個別化されており、常識的にも理論的にもそこがポイントなのだと考えざるを得ないと思う。

2022/11/14

ちゃん読でビアズリーの創造論文を呼んだ。創造プロセスに関して、よく想定されがちな推進モデル(インスピレーションや明確でない感情を得て、それに突き動かされる)と目標モデル(成し遂げたいことがあってそこへ向かう)をどちらも拒否し、トライアルアンドエラーで進行するような創造観を推している。あらかじめかっちり持っているアイデアに突き動かされるのでもなく、最終的にかっちり定まっているゴールに向かうのでもなく、その都度やるべきことをやって行けるところに行く、というわけだ。それなりにもっともらしい立場だと思う。

面白いのは、そうやってトライアルアンドエラーするなかで重要となる能力とは、批評をする能力にほかならないと考えている点だ。その都度なにがエラーなのか認識し、どう修正すべきなのか分かるためには、現在の暫定的な状態が持つ美的価値を判断する能力がなければならない。フォークな考えでは創作力とは手を動かす能力(テクニック)のことなのだが、ビアズリーが正しければその重要な部分とはむしろ批評力・鑑賞力なのだ。この2つの能力(operateする能力とselectする能力とでも言うべきか)の対比は面白い。ディスカッションではメディアによる違い(絵画制作はoperate重視だが写真制作は主にselect)や、AI絵画(operateしているだけでselectはしない)に関する話も出て面白かった。

2022/11/13

Being for Beautyはまだちゃんと読めていないが、Philosophy and Phenomenological Researchに載った要約論文を読んで、ネットワーク理論への理解が深まった。〈ある事実「対象xは美的価値Vを持つ」がある命題「人物Aは行為φすべきである」に重みを与える〉というゴツい説明がなかなか分かっていなかったが、要は〈Vを持つならばφする〉といった条件付き戦略が効用を最適化する、みたいなことらしい。条件部の方にはある美的価値が、帰結部にはある行為が入る。なんでそのような条件付き戦略の選択が効用を最適化するのか、という点で美的快楽主義とネットワーク理論は分かれる。前者によれば、美的価値とは価値ある経験をさせてくれる能力のことなので、鑑賞すべし、ということになる。いわずもがなの前提は、みんな価値ある経験をしたがっている、だ(プレーンバニラな快楽的規範)。

後者の考えはもっと込み入っている。「美的プロファイル」というのがかなり気の利いたアイテムだと思う。Lopesがそう説明しているのかは定かでないが、見たところ、それはおおむね芸術のカテゴリーに相当し、非美的性質群からある美的性質(ここでは美的価値)への関数のようなものとして与えられている。ある美的領域のエキスパートたちは、分業(すなわち、帰結部に入る行為φが人それぞれ異なる)しつつも同じ美的プロファイルを共有している。この社会実践においては、美的プロファイルがいわば規範となっており、これに沿って、かつ自らの能力を発揮して行為し成功を収めることが「達成」となる。ここにプレーンバニラな実践的規範、すなわち、みんなやるからには達成したがっている、が加わって先程の条件付き戦略の選択が最適とされるわけだ。

見たところ、美的快楽主義もネットワーク理論もうまいこと美的価値を説明できているように思われる。Lopesによれば前者は、帰結部の方に入る行為φがもっぱらappreciateなので狭い、ということになるのだろうが、ここはやっぱり納得がいかない。なんか勝手に話題を広げといて伝統的な理論は狭いと言っている風なのが気がかりだ。おそらく、美的問題を脇に置いて[punt on]しまったことが、こことも関わっているのだろう。

そしてやはり、達成を目指すことは快楽を目指すことに還元されるような気がしてならない。とりわけ、Lopesは快楽を価値ある経験として広くとっているのでなおさらだ。あるいは、どちらも合理的選択理論の下にあり、ペイオフが快楽なのか達成なのかは大した違いを生じさせない、ということなのかもしれない。

2022/11/12

アイブロウサロンというのに行ってきた。ブラジリアンワックスでの脱毛は初体験だったが、事前に痛いと脅されていた1/10も痛くなかった。注射のように異物が入ってくる不快感がまったくなく、むしろ不要物が回収されるだけなので、そこの意識の違いがかなりあると思う。

2022/11/11

今年新たにやり始めたこととして、マルチデスクトップを使い始めた。仮想デスクトップといえば、昔はフリーソフトのキューブみたいなやつを導入していたのが懐かしい。Macになってからぜんぜん使わなくなったが、ChromeやNotionなどつねに立ち上げているアプリを全画面で出しておくほうが作業しやすいという当たり前のことに気がついた。よくアクセスするサイトはつねに固定タブで開いておく、というのも今年からやりはじめたことだ。PC歴は長いが、逆に変な癖が多くて、非効率的なことをたくさんしているような気がする。

2022/11/10

生きてる間も亡くなった後も、ゴダールの映画とどう向き合えばいいのか分からずにいる。大学1年の私がキューブリックと並んで貪るように見ていたのはゴダールであり、前者にはない後者のミステリアスな質にサブカル魂をくすぐられていなかったら、ここまで映画にはまることもなかっただろう。われわれは少なからずゴダールが好きな自分が好き、という時期を経てシネフィルになっていくものだし、それが悪いことだとも思わない。他方で、サブカルを自省できるメタサブカルになるにつれ、あの衒学的な態度が鼻につくようになったのも事実だし、もっと体系的になにかを学ばなければ十分に理解できる対象ではないと謙虚にもなってきた。『ウイークエンド』や『アルファヴィル』の表面的な楽しさを指摘する以上に、ゴダールについてなにか語ることは私には難しい。

そして、いろいろ読んで勉強しようとは思うのだが、ゴダールについて語る者を、単にゴダールが好きな自分が好きというナイーヴなサブカルによるそれと、ちゃんと勉強した上位のメタサブカルによるそれとに区別することは容易ではない。みんな衒学的でポエムな文体を好んでおり、中身がピンきりなのだ。現代思想もそうだが、フランス文化にはなにかを明晰に語ることへの恐怖があるのではないか、と勘ぐってしまう。

2022/11/09

鶏もも肉のソテーを作ったのだが、タークがご機嫌斜めで革がベチャベチャにこびりつき、あっちゃこっちゃしているうちに消え去った。鶏皮部分がきれいさっぱり消えたのだ。どういう理屈なのかはわからないが、現に失われてしまった。

2022/11/08

あらゆるケースがそうだとは言えないが、例えば、「寝起きはだるい」という観察に対して、[citation needed]などとつけるのはどこか役所仕事的で、ばかばかしいだろう。著者としても、「周囲や自分を観察してみろ!」としか応答しようがないではないか。それ以上にばかばかしいのは、適当になにか参照文献を挙げておけば、要求に誠実に応えたことになるという事実のほうだ。実際には、参照先の文献で別の誰かが同じ観察をして同じことを述べ、そちらの校閲者はそれに突っかからなかっただけなのだ。誰もなにか実証的な調査をしたわけではなく、ただ日常的な観察を報告しているだけなのだが、後になって報告する者が先立つ報告を参照しなければならないのは意味不明だし、参照によって後の報告がjustifiedされたかのような雰囲気になるのも意味不明だ。まぁ、そういう過度に突っかかるべきではない日常的な観察、(著者や校閲者が属する共同体において)みんなふつうに認めるだろうし省みる理由もとくにない意見を、証明の必要な主張から区別するのは、それはそれで難しいことなのかもしれない。

2022/11/07

紅白にK-POPのアーティストが出て、老人や愛国主義者や愛国主義の老人の反感を買うのはいまに始まったことではないが、出るべきではないという理屈をどれだけこねようが、数字を出せるというただ一点においてキャスティングされていることを完全に見逃しているのがきつい。紅白歌合戦というのを、その年に日本文化に貢献した名誉ある日本人アーティストたちを称える場だと考えているのだとしたら、あまりにもナイーヴだろう。

それはそうと、IVEが出るということから、LE SSERAFIMも出るだろうという推論は、あまりセンスがない。両者には、日本デビューしており、日本語曲を持っているかどうかの決定的な違いがあるからだ。誰が誰にケアっているのか内部事情は知らないが、K-POPアーティストがふつうにやってきてふつうに韓国語で歌う、というのはまれだ。日本デビューしているかどうかで、日本で数字が出せるかどうかが大きく左右される、というのが事実だとしたらその事実には驚くが、"内部事情"に陰謀論的なものを嗅ぎ取るよりはもっともらしい説明になるはずだ。

2022/11/06

はてブやnoteでまれに記事への質問をもらうが、回答することはなく、頃合いを見て削除するか非表示にしている。とくに深い理由はないのだが、〈質問すれば回答が得られる〉という風に考えているのだとしたらそんなことないぞ、というぐらいの気持ちではいる。質問されること自体に不快感はないのだが、質問に応えなかった場合に反感を招きそうな可能性には不快感がある。こういう自意識過剰を自覚しているので、もう一律回答しないことにしたのだ。

当人のブログで言及してもらったり、メールで直接質問が来た場合には、もう少し対応しようという気になるかもしれない。それにしたって、まずは挨拶と自己紹介からだろう。立場も関心も謎なまま的確な回答をすることは困難だし、そうやって匿名のまま人に絡もうとするのは失礼に相当しないのか、といつもながら思ってしまう(もちろん、インターネットでは必ずしも失礼ではなく、向いていないのは私のほうだ)。勉強会も、はじめに本名と所属を明かさないアカウントからの参加希望はぜんぶ無視している。

2022/11/05

宇宙には、秩序へと向かう原理と、分散し多様化する原理がある。そこまで思弁的でなくても、人間の生活には、ランダムな刺激による不確実性を排除し、安全圏を確保しようとする努力と、あえて多様な刺激にさらされることで、安全圏を増やそうとする努力がある、というのはもっともらしいだろう。われわれはなるべく美味しいと保証されている味を繰り返し食べたいし、たまには違う味にも冒険してみたいのだ。

Lopes (2022)による美的価値の説明(冒険説)は、2つ目の観察に依拠している。それが美的生活の豊かさの一部であることはおおいに説得的だが、同じものばかりにこだわる美的生活をただちに貧しいものだと断定するわけにもいかないだろう。思うに、問題は「豊かさ」がほとんどつねに多様性と結びつき、強度を無視して理解されてしまうところにある。消費社会において価値とは差異なのだから、そのような「豊かさ」観にも一理はあるのだが、冒険し続ける人生だってオルタナティヴがなければやりきれないだろう。

こう考えてみると、結局いつもの、西洋的な発展モデルと非西洋の循環モデルの対比に帰着してしまいそうなものだ。私はそれが気の利いた対比だとは必ずしも思っていないが、美的生活論にはその辺の検討をわりと期待している。そもそも、日常美学とは西洋的な価値を見直し、非西洋の価値を組み込む試みだったはずだ。最近の美的生活論と日常美学の接点は正確には分かっていないので、そろそろ誰かサーベイを書いてほしい。

2022/11/04

クラフトビールがもりもり売られているイオンリカーが近所にあることを知ってしまった。もうアラサーなので、ビールは卒業しようと思っていた矢先に、だ。夢ならばどれほど良かったでしょう。

とりあえず、ぱっと見でよさげなIPAを2本買ってきた。473mlとはいえ、1本1000円前後するので安い買い物ではない。しかし、文句なしにうますぎる。正味な話、うまいビールが与えてくれる快をほかのなにかで代替しようとするなんて無理があるのだ。もうIPAしか受け付けない舌になって、最終的にインドの青鬼で妥協する未来が見える。

2022/11/03

文化の日なので、無料で常設展が見れる国立西洋美術館にやってきた。目当てのハンマースホイ《ピアノを弾く妻イーダのいる室内》は彫刻エリアと合流する曲がり角にひっそりかけられていて、人だかりもなかったのでじっくり見れた。この、ひっそりとしている感じが絵の主題にとっても適切でうれしい。モネみたいに照明ででかでかと照らしていたら台無しだっただろう。

私はずっとマネを贔屓にしているが、この常設展のストーリーでいくと、モダンアートへのゲームチェンジャーはクールベだと印象づけられる。あまり強いマネがない分、クールベの《罠にかかった狐》が異彩を放っていた。

図らずも良かったのはナビ派のボナールとヴュイヤール。スコットランド国立美術館展でもヴュイヤールに目が止まったので、私はこの辺の描写が瓦解するスレスレの描き方が好きなのだろう。新たに心惹かれたのは、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ《貧しき漁夫》と、ウィリアム・アドルフ・ブーグローの《音楽》だ。前者は象徴主義的な、ミニマルなのに意味がギチギチに詰まっているような緊張感があり、対峙する楽しさがある。後者は、《ヴィーナスの誕生》で有名な女体職人として認識していただけに、このポストモダンな絵にずいぶん動揺させられた。この訳のわからなさに対してなんの説明もないあたりが笑える。

時代順になっている展示では、序盤の宗教画や古典主義をじっくり見すぎて、本当はちゃんと見たい19世紀以降をさらっと流すだけになりがちだ。

浮いたお金で昼は牛カツを食べ、夜は鴨ラーメンを食べた。

2022/11/02

世界美猫大会というのをベルギーでやっていたらしいが、はてブでおおいに嫌悪されていて興味深かった。「趣味については議論できない」の動機づけはやはり愛なのだと再確認させられる。〈うちの猫がいちばん可愛い〉のマインドは、いかなる批評的試みにも容赦しない。私も犬に関してはうちの子が当然いちばんだと考えているクチだが、それはそうと、世界美犬大会なる場でどのような個体がなにゆえ評価されるのかを楽しむ余裕はある。猫派にありがちな、自分ん家の子を過度に偏愛、神格化、崇拝するノリときたら、まったくうすら寒いなといつも思っている。

ところで、中身を見てみると、さっそくヘアレスのスフィンクスが飛び出してきてぎょっとさせられる。しわしわぶにぶにの脳みそみたいな肌に、焦点の合わない目、なかには威嚇するように牙をむき出した写真もある。当の記事が話題に上がったのも、ひとつにはアイキャッチとなっている当の猫種が一般的に言えば美しいどころか醜い点にあったのだろう。流暢性仮説に従えば、人間はカテゴリー的により範例的な見た目をしたものを好むので、それで言えばスフィンクス猫なんかは猫カテゴリーの周縁も周縁だ。生き物なのか屠殺された食肉なのか定かでない質感も、カテゴリー逸脱的で不浄である。もちろん、これらは一般的かつ部分的に醜さを支持する要因というだけで、個別的かつ全体的に見てあるスフィンクス猫が美しさを持つことを妨げるものではない。それにしたって、スフィンクス猫がエントリーする美猫大会は、言ってしまえば逆張りである。それは〈一見醜いが、実は美しいのだ〉という価値転覆の試みであって、端的に美しい猫であるわけがないのだ(飼い主や審査員はそう説明したがるかもしれないが)。

スフィンクス猫が、平均的なカテゴリー処理能力を持つわれわれにとって異常で不浄だという前提のもとで、あえて逆張りして「美しい」と述定することになんの意味があるのだろうか。そこにはどうも、ポリコレ的な多様性を推し進める自分たちへの陶酔があるように見えるので、批判されるべきだとしたらそこだろうと私は思う。みんなで醜い猫を並べて美しいと逆張ることで、自分たちがpoliticallyにcorrectな感性を持っていると相互確認し、安心したいのだ。そもそも、美人コンテストは多様であるべきだという考えをそのまま動物コンテストにも持ち込もうとするのはとんでもない誤りだ。人種の多様性と違って、猫種や犬種の多様性は人為的に創造・維持されているものであり、本猫本犬たちにとってなんらありがたいものではない。自然界なら淘汰されてあたりまえな突然変異体を、グロテスクにもあれこれ交配させて存在せしめたのがあの猫や犬たちである。私は、それを人間の残酷として切り捨てるほどモラリストではないし、歴史的に短足を強いられたうちのダックスフントを可愛いと評価する程度にはアンチモラリストである。しかし、ペットの犬猫たちの歪んだ"多様性"と、人種における多様性(一般的に、自然界の多様性)を無邪気に類比してしまう感性とは、なるべく距離を取りたいと思っている。

2022/11/01

キムチ鍋を作ろうとしたが、直前で天啓をうけ、コチュジャンの代わりに麻辣醤をぶちこんでマーラー鍋にしてやった。具材として入れる予定だったえのきが虫の息だったので急遽レタスを登用したのだが、ちゃんと美味しかった。

2022/10/31

ちゃん読でWalton章を見ていただいた。邦訳もあり、たいへん有名な議論であるにもかかわらず、専門家を集めて4時間半討論してもいまだ謎が残るような、わけわからん論文だ。

2022/10/30

駒沢公園でやっているラーメンフェスタに行ってきた。こってりからさっぱり、細麺から太麺まで、津々浦々のラーメンを味わえるイベントだ。おまけに、ふわふわからつるつる、大型から小型まで、津々浦々の飼い犬たちが見れる。

「秋刀魚だしらーめん」「札幌芳醇炙り じゃが白湯味噌らあめん」「黄金真鯛出汁の極上塩そば」という順にいただいたが、どれも個性的で食べごたえのあるラーメンだった。日曜ということでごっそりと人間がおり、ひさびさにガッツリと大行列に並んだ。駒沢公園は開けた場所にでかい建造物を置く構成で、私好みのSF的空間だった。

2022/10/29

白のタートルネックとジーパンを買った。図らずも、ナダルのコスプレセットになった。

2022/10/28

『「美味しい」とは何か』を読み終えた。主観vs客観、言語化の意義など、面白い問いは複数あるのに、それらを差し置いて最後にちらっと触れられる「ラーメンは芸術か?」が帯のアイキャッチになっているあたりに、出版社の戦略がうかがえる(『ビデオゲームの美学』もそうだった)。いつまでたっても〈Xは芸術か?〉式の問いにばかり注意が集まるのは不健康だと思うが、致し方ない部分もあるのだろう。

そして、任意のXに関する〈Xは芸術か?〉に対してYESと答えようがNOと答えようが、だからなんだと言えばだからなんだではある。ラーメンやビデオゲームが芸術でないとしても、それらは紛うことなき文化であり、それでいいではないか。

ともかく源河さんの答えはYES、「料理も芸術」だ。その根拠は、おおまかには二点ある:①料理を芸術から排除するいくつかの理由は退けられる、②現に芸術であるものと料理の間には重要な共通点がある。思うに、「料理は芸術だ」は「高級レストランで提供される創作料理から、われわれが日常的に食べるインスタントラーメンまで、ありとあらゆる調理された飲食物は記述的な意味において芸術である」でとられるべきではないのだが、著者はまんざらそれを否定したいわけでもなさそうなのが気がかりだ。

ちょっと解釈を加えれば、その主張は「料理という形式は、絵画や彫刻や写真や演劇と並ぶ、芸術形式のひとつだ」というものなのだが、そこに「ある芸術形式に属するメンバーはいずれも芸術作品である」が伴っている点に問題がある。ここには、Lopesがコーヒーマグ問題と呼んだ問題がある。《モナリザ》は芸術だが私の落書きは芸術ではなく、《地獄の門》は芸術だが小学生の粘土細工は芸術ではない。活動やその産物には重要な類似があるにもかかわらず、一方は芸術であり他方は芸術ではない。この観察は、単に「芸術」の記述的用法と評価的用法を混同しているわけではない。私の落書きや小学生の粘土細工は、価値の低いbad artですらなく、芸術作品の事例として認めるべきではないのだ。その違いを説明するのは、基本的には慣習、制度、手続き、「アートワールドの雰囲気」だろう(Xhignesseによる説明については2022/10/05を参照)。英語のpaintingにはおそらくないが、日本語の「絵画」には、このような慣習を要件とするような含みがあるはずだ(皮肉以外で、私の落書きを絵画と呼ぶ人はいないだろう)。

ということで、「料理という形式は、絵画や彫刻や写真や演劇と並ぶ、芸術形式のひとつだ」という主張は適切でも、同時に「芸術作品である個別の料理もあれば芸術作品でない個別の料理もある」は認めざるを得ないと思う。すると、芸術作品を芸術作品たらしめる本質にはたどり着いていない点で、前者の主張もトリヴィアルになってしまう。現代アートにおける素材の多様さを踏まえれば、ほとんど任意の人工物カテゴリーXについて「Xは芸術形式のひとつだ」と言えてしまいそうだからだ。ことによると、著者はここに書いたもろもろの懸念に無自覚というわけではなく、自覚した上で「料理も芸術だ」といったキャッチーな言い切りをより好んでいるのかもしれない。それはそれで、帯のアイキャッチと同様あまり教育的ではないように思う。

最後に、仮に私の食べるサッポロ一番みそラーメンが《モナリザ》や《地獄の門》と同じ身分において芸術作品であったとして、それのなにがうれしいのか。価値含みの事実でないとしたら、芸術作品を食べていることが私の尊厳を引き上げるということもなさそうだ。

2022/10/27

ぶんぶん革命が起きた。チョッパーのことだ。掃除機と同様、それがなしで済ませていた以前の暮らしを力強く否定してしてくれるアイテムだ。一人暮らし7年目、玉ねぎのみじん切りという人道的に許しがたいタスクからようやく解放されたわけだ。

解放されたいまになって思うが、私の場合玉ねぎのみじん切りの嫌なところは、「まな板からボロボロこぼれ落ちる」というのが9割を占めていた。ちょっとでもこぼれ落ちると気になってしまい、それをまな板に戻すのに一旦手を止めることになる。一般的にそうかは自覚がないが、玉ねぎみじん切りに関してはパラノイアといっていいほどの完璧主義なのだと思う。

2022/10/26

『「美味しい」とは何か』3章まで読んだが、美学、とりわけ批評の哲学の優れた入門書だ。芸術批評という絡みづらいトピックが、食に取り替えるだけでこんなにも馴染みやすくなるのか、という驚きがある。

「味への評価は人それぞれで正誤が問えない」という主観主義に対し、客観主義からふたつの応答が紹介されている。ひとつは、端的な客観性を諦めても、文化相対的な客観性なら認められるかもしれない、というやつ。よくあるムーヴだが、傾向性[disposition]から説明されているのは新鮮だった。傾向性は、顕現していない性質一般としてなんとなく理解していたが、顕現のための条件付き性質として考えられているみたい。

もうひとつは、シブリーにおける①純粋に評価的な美的用語と、②記述込みの美的用語の区別を、バーナード・ウィリアムズにおける薄い/厚い概念の区別と対応付けて、前者はともかく後者なら客観的な正誤が問える、というやつ。「美味しい」に正解はなく、好き勝手に言ってもらって構わないが、「こってり」かどうかには正解があり、好き勝手には言えない、というわけだ。こちらもよくあるムーヴだが、実のところ、あまり有効な応答ではないのではと思っている。というのも、それで言えるのはせいぜい「記述込みの美的用語の記述部分については正誤が問える」であって、記述を除いた評価部分については依然正誤が問えていないからだ。(記述部分同じ)「こってり」か「くどい」かについて正誤が問えない限り、評価に関する客観主義は擁護できていないように思われる。

もちろん、ここで記述と評価がセットになった性質帰属を端的に「評価」とつづめるなら、この厚い意味での「評価」については確かに正誤が問えることになる。しかし、これはもともとの問いからは離れてしまっているのではないか。

2022/10/25

BJAに投げていたメタカテゴリー論文、残念ながらrejectだった(ざんねん!)のだが、丁寧に査読してもらえたのはよかった。一人目はstyleに関する文献をたくさん教えてくれたし、二人目はうっすら自覚していた議論の穴をテキパキと指摘してくれた。ちゃんとした専門家から的を射たコメントを貰えるのには感動すらある。

今回はずいぶん早く結果が帰ってきた印象を受けたが、ゆうても投稿したのは3ヶ月前なので平均的といえば平均的だ。例の帯状疱疹で半月ほど闘病していたのもあり、ここ数ヶ月はまったくあっという間に溶けた。

2022/10/24

名画になにやらぶちまける類の抗議活動が、なんらかの点で非難されるのは当然だが、「こんなやつらの命より、数億する絵のほうが価値が高い」といったコメントを平気でする人は品性が貧しいなぁと思わずにはいられない。燃える美術館から救い出すなら名画か人か、という定番のジレンマを持ち出さずとも、上のような人は単純な金銭的価値であらゆる価値を一元的に評価しているにすぎない。資本主義には外部がない、という前提に立つなら、そういうものの見方も不正確ではないのかもしれないが、それにしたって貧しい品性はやはり貧しいのだ。はてブを追っていると、醜悪なことをした人間より、それについてなんらかコメントする人間のほうがしばしばはるかに醜悪であることを学べる。

2022/10/23

ITZYは2019年にデビューしてから今日に至るまで、一種類の曲しか歌っていない。「あんたみたいな男なんていなくても、私はやっていけるのよ」という趣旨のそれだ。毎回内容が同じすぎて、歌詞だけ出されてもどれだか当てられる気がしない。ずっと追っているのだが、このグループにはK-POPに対する私の愛憎が詰まっているように感じる。徹底的にスムースなのだ。それがありきたりで退屈に転ぶか、消化しやすく快適に転ぶかは毎回紙一重でしかない。全ての元凶はガールクラッシュ傾向だと思っていたが、それでなくても、グループ単位でかっちりコンセプトを決めてしまい、豆腐屋は豆腐しか売らないスタイルになってしまっているのが厳しい。ジャルジャルのコントに「何曲歌っても一曲とみなされる奴」というのがあるが、シーン全体がそういう状態になってしまっている。〈なにを見たって同じに見えて楽しめない病〉はNanayも取り上げていたが、問題の5割が私側にあるのだとしても、残りの5割はやはりシーンにあるだろうと思ってしまう。

2022/10/22

今月もシーシャに行ってきた。持ち込んだ瓶ビールを栓抜きで攻めども攻めども開けられなかったのだが、ふつうに回すタイプだった。今日はライチ×グァバ×タンジェリンでお願いしたが、好みはやはりナッツやスパイス系統だな。

ガチ中華はある意味でプロパーな真正性の例だと思っている。つまり、贋作かオリジナルかといった存在論の問題ではなく、権威があるかどうか、オーセンティックかどうかが問題となる例だ。権威はもちろん、部分的には存在論的な真正性にも由来するわけだが、それだけではない。もろもろの広告(NHKのルポを含む)や、中国人客が足繁く通っているといった伝聞が、総体として作り上げているようなイメージが、ガチ中華を"ガチ"にしているのだ。そもそも、「中華料理」というのは日本人向けにアレンジされ日本において発展してきた伝統を指し、現地で食べられているものおよびそれに近似したものは「中国料理」と呼んで区別したいたはずだ(長年中国料理教室を運営している母がそう言っていた)。まぁ、ガチ中国と呼ぶわけにもいかないので、ガチ中華は要は中国料理なのだとパラフレーズして理解したいところだが、ガチの台湾料理も入ってくるとなるとやはりミスリーディングだ。一般的に、日本には中華文化圏の多様性を捉えるだけのボキャブラリーがぜんぜん足りていないと思う。

2022/10/21

外干しするより暖房直下に当てたほうが洗濯物が早く乾く季節になってきた。

2022/10/20

エピグラフというのはヒョーショーすぎて投稿論文にはつける勇気がないのだが、新しいことについて書くたびこっそり妄想しては楽しんでいる。ダントー「アートワールド」が引用する『ハムレット』なんかはバッチリ主題にハマっていてクールだし、ウォルトンは「芸術のカテゴリー」でヴェルフリン、「透明な画像」でバザンを引用していて、非ブンセキ論壇との接続がうまい。私が特に好きなのは、前者のような、フィクション作品を使ったエピグラフだ。

先日ちゃん読で読んだストルニッツは、フィクション作品の伝達する"真実"や"知識"がしょうもないとdisっていたが、少なくとも、教訓や価値観を学ぶ窓口としてフィクション作品が現に利用されていることは否定しようがないと思っている。「映画が発明されて人生が3倍になった」というのは『ヤンヤン 夏の想い出』に出てくる素敵なセリフだが、そこまで大げさでなくても、フィクション作品のおかげで私が得たものは、現実世界において見知ったものの量に劣らないはずだ。ストルニッツが述べるように、フィクション作品それ自体は知識が知識たるための確証を与えてくれない。だからこそ、エピグラフ付きの論文は、ある意味ではその確証に相当するのだろう。そこには、知識獲得に関する適切な主従関係があるように感じる。