日記

2022/09/26

現代哲学の研究に哲学史は必要なのか」について書くのがはばかられると昨日書いたばかりだが、「この手の哲学観にいい顔しないだろうな〜」と私が予想した一連の表象文化論者たちが、案の定昨日の今日で抗戦的な姿勢を示していて、改めて「哲学」における分断を意識させられた(分析vs大陸のいがみ合いが三度の飯より好きなので、ニコニコしながら断面を眺めているのだが)。以下の数段落は、Sauerの問いにはほとんど触れることなく、普段からきらいな人たちのきらいな理由について述べるだけの、informativeでない文章だ。

私がまさにそういう教育を受けたから知っているのだが、駒場ではどんな講義を受けても、進歩や普遍性を神話として疑い、歴史を重んじるように仕向けられる。今回のSauerの主張はどう控えめに紹介するにしても、ベクトルとしてはとにかくそれとは真逆のことを言っているので、上述の教育を信条として内面化した者を脊髄反射で怒らせるには十分だ。私がその手の現代思想ヤクザに直面するたび本当に不愉快なのは、多くの場合、受けた教育の後半部分、すなわち「歴史を重んじる」という部分を具体的にどう実践するのか明確な考えも持たないうちから、受けた教育の前半部分、すなわち理性とか近代性とか普遍性とか進歩といったタームを見つけたらとりあえず批判するという、しょぼすぎる行動パターンを示してばかりいるからだ(学年が上がるにつれてこの手のしょぼい人は減っていくが、一部は先鋭化されていく)。「歴史を重んじる」こと正当化が必要だと自覚できる程度には謙虚だった場合でも、その手の人たちが繰り出すのはヘーゲルやらニーチェやらデリダやら固有名詞をねっちょり並べて権威づけた、当人たちも理解できているのか疑わしい怪文ばかりだ。

もちろん、彼らのやっていることがまったくナンセンスだというつもりは毛頭ない。私が無知なだけで、彼らは彼らなりになにか"アクチュアル"なことを言っているのだろう。しかし、われわれ(僭越ながら、分析哲学者たちをreferさせてもらう)のやっていることに対して彼らが言うことは、まったくナンセンスだし、ただただ失礼だ。誰だって、「あいつはカントを読んでないからダメだ」とマウントされることなく哲学をする権利がある。

被害者意識マシマシで書くとざっとこういう文章になるわけだが、こういう物言いはこれはこれで加害性があることは意識している。分析哲学嫌いの現代思想の人たちは人たちで、ブンセキサイドからの「もっと明確に物を語れ」圧を日頃から感じていて、被害者意識を持っているのだろう。ということで、結局は対称的、どっちもどっち、われわれはみなTwitterで小競り合い、マウントを取り合うだけの悲しい生き物なのだ。

2022/09/25

「同じ日本人として恥ずかしい/申し訳ない」と言える人は、普段から一民族の倫理観を代表していてしんどくないか、と思うのだが、もちろん発話の要点はそこではなくて、実質として「日本人がみんなこういう恥知らずなわけではないので、どうか一般化しないでほしい」という欲求の表出なのだろう。そういう一般化をされてしまうのは、当該集団がマイノリティであるほど死活問題なので、身内として批判を示さねばという切迫感もある程度は想像がつく。しかしこう、どうしても国をまたいで身内と他者という線引きが意識させられるのは、いい気分ではない。無礼なふるまいをしたのもされたもの主体性を持った大人なので、一方の個人を個人として非難し、他方の個人を個人として尊重するという以上に、属性を問題にする必要などそもそもないのだ。もちろん、これは理想論である。

現代哲学の研究に哲学史は必要なのか」についてもなにか書こうという気になったが、この手の「教養」が絡む話題に対して上から物申す有象無象にいつもながらウゲーッとなりつつ、傍から見たら自分の書いたものもそれらと同類なのだろうと謙虚にも自覚したため、心に留めることにした。

2022/09/24

内実として「最近の日本の若者は〜」ぐらいの話なのに、それだと顰蹙を買うから「Z世代は〜」ということにしている言説がほんとうに多くて、感じがわるい。そもそも、あの区分はアメリカの人口推移や経済状況を踏まえた区分なので、日本にZ世代なんていないのだ。最近の若者論はうざがられるが、無意味とまでは思わない(一般化自体に罪はない)。それをなにやらキャッチーなタームでパッケージングしているのが小賢しいのだ。

基本的に日本で言われる「Z世代」はカテゴリーとしてあまりにも貧しく、「SNSやってる若者」ぐらいの内包しか持っていない。そういう、世界認識においてほとんど役に立たないカテゴリー、ちゃんと役立てるために中身を反省する者がほとんどいないカテゴリーが、キャッチーというだけでなんとなく使われ続けるのは、これぞシミュラークルという趣がある。

2022/09/23

高田さん訳の『ホラーの哲学』を着手した。本当にいい本なので、近いうちに書評なり書きたい。アマレットミルク、うまい。

2022/09/22

ずっと買おう買おうと思っていたアマレットディサローノをようやく入手した。はやく買えばよかった。ゴッドファーザーを作りたくて買ったわけだが、分量適当でも混ぜてロックにするだけで最高の飲み物が出来上がる。最初は少し甘みがキツイが、氷がほどよく溶けると角が取れていい感じになる。700ml瓶がけっこうデカかったので、当面の間、晩酌はこれで落ち着きそうだ。ジンジャーエールやミルクやコーヒーで割っても美味しいらしいので、これからいろいろ試してみたい。

はじめてゴッドファーザーを飲んだのがいつどこでだったのかさっぱり覚えていないが、どうせ渋谷あたりの学生向け激安バーなので、家で作るほうがよっぽどハイクオリティだ。ウイスキーを愛しすぎるあまり、そういうところに行ってもたいていウイスキーベースのカクテル(あとはモスコミュールとかシャンディガフとかそういうかわいいやつ)にしか手を出さなかったのは、ちょっともったいないと思っている。30代までにはショートカクテルを頼めるような余裕がほしい。色んな意味で。

2022/09/21

『天井桟敷の人々』を見た。3時間なので、ひさびさに割と長い映画だ。三角関係でドタバタするのは『アンダーグラウンド』っぽかったし、ガヤガヤした画面もクストリッツァっぽい。ラストはちょっとホドロフスキーっぽいなと思ったが、『エンドレス・ポエトリー』に本作ちょっとだけ引用した場面があるのを調べていて思い出した。そもそも、ホドロフスキーがパントマイムをはじめたきっかけは本作らしいので、かなりコアな影響源のようだ。戦前のクラシックを見ても、そういう影響関係ばかり気になってしまうが、『天井桟敷の人々』は単独でもなかなか見応えのある映画だった。

2022/09/20

自分が心の底からつまらんと思っているコンテンツがもてはやされることへのムカムカは、ジャンルごとに程度さまざまだが、個人的にはお笑い芸人やYouTuberに対するそれは結構ムカムカするほうだ。個人的なそれを超えて、一般的にもそうではないかと思う。彼彼女らは大声を出したり、事物をバカにしたり、子供じみたことをするのが仕事なので、そもそもジャンルとして綱渡りなのだろう。ダサすぎる曲を作ったり、しょうもなさすぎる映画を作ったからといって、その生産者やそれをありがたがっている消費者に対して軽蔑の念がわくことはそんなにないが、つまらん芸人やそれを面白がる視聴者とはご縁のなさを実感しやすい。評価の対象が人格により近いのだ。きっと研究生活もそうなのだが、アンチがたくさん湧いて嫌になるのを回避するためには、コンテンツの基本単位が人にならないよう気を配る必要があるのだろう。言うまでもなく、手っ取り早い自衛の手段はSNSを控えることだ。

ところでその反対、自分が心の底からおもろいと思っているコンテンツがバカにされることへのムカムカは、少なくとも個人的にはまったくない。自分が心の底からおもろいと思っているコンテンツがバカにされムカムカする人へのムカムカならある。

2022/09/19

正しい方向へ向かっているのかどうか分からないまま、一ヶ月ほど髭を伸ばしている。周囲からの評判はわるくないが、いよいよアラサーという感じがしてくる。

2022/09/18

「殺したも同然だ」という言明が真になる範囲はどこからどこまでなんだろう、とちょっと気になっている。なんらかの因果的関与について言っているのだろうが、一方の極には「それは同然というか、ふつうに殺しているだろう」という関与があり、他方の極には「殺したも同然、は言い過ぎだろう」という関与がある。運転中に飛び出してきた人を轢き殺すのは文字通り殺しているが、医療ミスで死なせてしまうのは「殺した」というのは言い過ぎでも「殺したも同然だ」とは言われるべきなのか。自身の不倫が原因でパートナーが自死を選んだ場合は、「殺したも同然だ」の典型的な例のようにも思われるが、私としては自責としても他責としても言い過ぎだろうと思わなくはない。喧嘩したせいでデートが中断になり、帰り道の途中でパートナーが事故死した場合は「殺したも同然」か。こちらも映画なんかでよく自責しているのを見るが、さすがに言い過ぎではないか。過失致死の範囲と「殺したも同然だ」の範囲が一致するのか、というのも気になる。

022/09/17

最寄りに良さげなシーシャ屋があったので行ってきた。カルダモンとアーモンドのミックスでお願いしたが、居心地もホスピタリティもかなりよかった。やたら濃厚なココアが飲めると思ってたら、氷で割ってアイスにする用だった。差し支えないのでそのまま飲みまくった。また行くと思う。

2022/09/16

実家で犬と遊んだ。ソファでヘソ天で寝ているのを俯瞰で写真を撮ったら、《ウルビーノのヴィーナス》みたいなのが撮れた。

2022/09/15

まだ9月だが、ちゃんこ鍋ばかり食べるゾーンに入っている。白菜も大根も旬ではないので、お味は及第点といってところだ。ぶっちゃけ具もスープもなんでもよくて、茹でたうどんをポン酢につけて食べるのがうまい。

2022/09/14

右利きだが、スマホの操作は左じゃないとしっくりこない。ガラケーの頃から、文字入力は左のほうがやりやすかった記憶がある。なので、ズボンの左後ろにポケットが付いていなかったり、改札を通るのにちょっと手こずるたび、なるほど社会は右利きに最適化されているなと感じる。

2022/09/13

高田さん訳の『ホラーの哲学』ももうすぐ出るし、気持ちを高めている。この3日ほどで一気観したが、Netflixの『ザ・ホーンティング・オブ・ヒルハウス』がバチバチに良かった。ホラーかつ家族ドラマというふたつの課題を有機的にこなしているすごい作品だ。そしてばっちり怖い。呪われた館、という噛みしだかれてけちょんけちょんの題材で、なんでこんなに面白くて怖い話になるのか。

2022/09/12

近頃はみんなペンキをぶちまけるイカに夢中らしいが、私はバンドのほうのイカに夢中だ。UKのポスト・パンクはようやく聞き方が分かってきたのだが、なかでもSquidは色んな音が鳴っていて面白い。とくにツインギターで分担しているリフがどれもキショくてお気に入りだ。カッティングやらアドリブソロやらいろいろ経てきた後で、エレキギターというのはやっぱりリフを刻むのが一番格好いいというのに戻ってきつつある。Arctic Monkeysも新譜を出すということで、昔懐かしのアルバムを聴いたりしていたが、アレックス・ターナーはまだピアノにハマっている様子なので、新譜でギターロックを期待することはできそうにない。(少なくとも私が追いかけているような界隈において)ギターはもうすっかりスポイルされて、長いこと誰も見向きもしなかったパートなので、新しい音を探しているなら逆にいまこそギターなのだ。(こうして、人は毎年のように「今年はギターロックが来る」とか言い始めるのだろう、と思う。)

2022/09/11

すごく当たり前のことに最近ようやく気づいたが、OCRのめちゃめちゃな論文PDFをShaperやらで頑張って磨いてDeepLに投げるより、ジャーナルのウェブ上のテキストをそのままDeepLに投げれば済む話だ。最近のやつ限定だが。

2022/09/10

なんとなく昔のツイートを見ていて、ジュディス・バトラーの講演を聞きに本郷に行った日のことを思い出した。どういう話だったかはすっかり忘れたが、ざっくり関係性が大事だと述べたバトラーに対して、「それは突き詰めると全体主義なのでは」という質問が出ていたことを当日の私が報告している。

大意として「お前の立場は、突き詰めると全体主義/西洋中心主義/男性中心主義/レイシズム/etc.なのではないか」というケチのつけ方は、まったく面白くないのに、言う側も言われて答える側もようやるわと、いまだからこそ思う。表象文化論研究室では(まぁ似たような人文系の研究室ならおそらくどこでも)、本当に些細なディテールを捕まえてそういうことを言う人にわんさか出会える。私もなんかしらで言われたことがあるし、白状すると、ろくに勉強しないうちにリベラル風の批判フレーズだけ身につけはじめた頃の私も言ったことがある。

もうちょっと棘をおさえて「あなたの立場は、政治的・倫理的によろしくない方向へ向かっているのではないか」と言われたとしても、どう答えるのが正解なのかわかったもんじゃない。「政治的・倫理的な方向性は目下の関心の埒外なのだ」というのが常に本音なのだが、それで納得してもらえる可能性は低い。質問者は哲学にせよなんにせよ、なんらかの立場を取ることは常に政治と倫理の問題だと前提しているはずだからだ(言うまでもなく、こんな前提はあほらしい)。

「いいえ、政治的・倫理的によろしくなくないですよ」と返す準備ができている人は、たいていの場合理屈として用意ができているというより、修辞的に話をそらす用意ができていることが多いのだとも思う。そりゃたいていの考え方は、突き詰めれば(極端化すれば)なんらか政治的・倫理的によろしくないものになると考えるほうが当たり前であって、ビシッとよろしくなさを消去できる理屈なんてふつうはないからだ。

いっそのこと「突き詰めたらどうなるかという仮定の質問には答えられない」とでも言いたくなる。ともあれ、それで政治的・倫理的に無責任だと評価してくるような人は、上のような面白くない質問をする時点ですでにあなたのことをそう評価している見込みが高いので、失うものはほとんどない。

2022/09/09

疱疹跡がヒリヒリしてかゆいぐらいで、もう痛み止めなしでも人間生活ができる程度に回復してきた。油断せず薬を飲みきれば、来週には平常運転に戻れるだろう。ここ2週間はなかなかハードだったが、たいして熱が出なかったのがせめてもの救いだろう。そういう意味では、コロナワクチンの副作用よりは一人でもギリギリ対処できる苦しみだったわけだ。

帯状疱疹で調べると、これが増加しているのはコロナワクチンのせいなのだ、という言説にたくさん出会う。ワクチンのせいで免疫がバグって帯状疱疹が出てくる、という説明はまぁもっともらしい(つまり、なるほどそうなのかと直観的にすとんと落ちる説明になっている)。私はそこに因果関係があるともないとも判断できる立場にはいないので、専門家に究明をがんばってもらうしかない。

仮にワクチンと帯状疱疹に因果的関係があるとしても、その場合には、コロナ感染と帯状疱疹にも因果的関係がある見込みが高いだろうから、反ワクチン派の主張がサポートされるわけではない。どっちに転んでもリスクしかないのなら、そのときそのときの苦しみを引き受けるしかないだろう。今回この病気にかかって、改めて身体はクソだなと実感した。

2022/09/08

とりわけ日本人はレビューですぐ低評価をつけがちなのかどうかは知らないが、そもそもチャリティとして発表されている情報なりコンテンツに対して、「もっとこうしてくれなきゃダメだろ」というコメントを書いてしまう人は、〈そもそもチャリティとして発表されている〉という部分を十分に理解できていないのだと思う。具体的には、個人ブログでまとめられているゲームの攻略情報なんかに対し、「そのまとめ方じゃ見づらい(俺のためにもっと見やすくしろ)」といった趣旨のコメントをしてしまうケースだ。対価として得たサービスがなってないので苦言を呈するという、場合によってはもっともな態度がスライドして、ろくに対価もなく得ているサービスに対しても文句を言ってしまうのだろう。批評的態度のバグだ。

こういう、コストリターンで考えたらコストがほぼないので常にプラスなのだが、それだけ見たら出来が悪いものに対して、われわれは批評家になる権利があるのかという問題はありそうだ(美的というよりは倫理的だろうが)。浮浪者は炊き出しの味に文句を言えるのか、フリーゲームを酷評する権利はあるのか。実際には、チャリティのように見えてこちらが間接的にコスト(税金とか広告費)を払っているケースもあるだろうから、難しそうではある。

2022/09/07

セブンイレブンの「たんぱく質が摂れるグリルチキン弁当」というのを初めて食べたが、なんとも味が薄いのと、やけに米が少ないのとで、機内食みがすごかった。beef or chickenのチキン。機内食っぽいものを食べたいときにおすすめだが、¥600ぐらいするのはかなり割高だ。

2022/09/06

楽園のイメージといえば、草原にぽつんと木があって、鳥がさえずって、太陽がさんさんと照っているというのが相場だろうが、虫多そうだし、芝生がじょりじょりしそうだし、日陰少なくて嫌だなぁといつも思っている。天国があるとしたら、そして死後永遠の時間をそこで過ごすのだとしたら、美術館みたいに天井の高いコンクリ打ちっぱなしのモダンな空間であってほしい。近くに海があったらなおよし。地中美術館とか完璧だったので、あそこに座り心地のいいソファでも置いてもらって、私の死後行き着く場所ということにしてほしい。

2022/09/05

ということで帯状疱疹だったので、抗ウィルス剤を飲んでおとなしくしている。

闘病日記を書くのにも飽きたので、informativeなことを書こう。いまは博論の第二章を書いており(一章は書いていない)、毎日のようにWalton (1970)とにらめっこをしている。Laetz (2010)が強調していた、「知覚的に区別可能なカテゴリー」に関しても考えが固まってきたので、書いていることを小出ししていこう。

ウォルトンのカテゴリー論は、心理学的テーゼ=「美的にどう見えるかは、どういうカテゴリー(およびその標準的/可変的/反標準的特徴)を踏まえるかに左右されるよね」という、わりと直観的なテーゼから始まる。ミステリアスなのは、その準備として、まずは知覚的に区別可能なカテゴリーと、それにとっての標準的/可変的/反標準的特徴」というのを導入している点だ。ここには「media, genre, styles, forms, and so forth」が含まれ、具体的には「絵画、キュビスムの絵画、ゴシック建築、古典主義的ソナタ、セザンヌの様式の絵画、後期ベートーヴェンの様式の音楽など」が含まれる。定義は「ある作品がそのカテゴリーに属するかどうかは、ただ、その作品が通常の仕方で経験されたときにその作品のうちに知覚されうる特徴のみによって決まる」⇔知覚的に区別可能なカテゴリー、として与えられている。見たり聴いたりするだけで、それに属していると分かるようなカテゴリー、というわけだ。

「セザンヌ作品」「贋作」など、出自に関する歴史的事実がメンバーシップにからむようなカテゴリーは、この限定によって排除している。問題は、ちょっと考えれば分かりそうなものだが、media, genre, styles, forms, and so forth」のなかにも知覚的に区別可能とは限らないものがわんさかあることだ。ウォルトンが例に挙げている「絵画」も、つねに目で見るだけで絵画だと分かるとは限らない。アート&ランゲージによる《絵画/彫刻》(1968)は、ふたつのまったく同じ見た目を持つ灰色の直方体が、キャプションひとつでメディアを左右される(一方は絵画であり、一方は彫刻である)という文脈依存性を暴露している。「セザンヌ作品」を回避して、知覚的に区別可能な「セザンヌ様式」に撤退したのと同じように、ウォルトンは「絵画」ではなく「絵画風[painting-style]」「絵画っぽいもの[apparent painting]」へと撤退せざるをえない。実際、ウォルトンは製造工程という知覚的に確認できない事実がからむ「エッチング」から、そうではない「エッチング風」へと撤退することを選んでいる。スーパーリアリズムは「写真風」の「絵画」であり、フォトレアリスムは「絵画風」の「写真」だが、ウォルトンはそれぞれ前者のほうのカテゴリーを問題にし、後者は問題にしないことを選んでいるのだ(この例はウォルトンが挙げたものではないが)。

この限定が論文の最後まで通底し、ウォルトンを形式主義に対して譲歩的な立場にしている、というのがリーツの解釈だ。この限定は解除して差し支えないし、解除すべき独立した理由がある、というのがDavies (2020)の解釈で、私もデイヴィスに同意している。私が持っている理由は複数あるが、ここではそのひとつを紹介しよう。

知覚的に区別可能なカテゴリー」のいち解釈として、先日書いた「芸術のメタカテゴリー」にからめて私が主張したいのは、そういうカテゴリーがあるというウォルトンの説明はきわめてミスリードであり、より正確には(結構多いだろうがすべてではない)一部のカテゴリーにそういう用法がある、ということだ。ある作品に対して、私は実際にセザンヌによって作られたかどうかを気にせず、セザンヌ様式だなぁと判断できるし、実際に印象派展に出展されていたかを気にせず、印象派様式だなぁと判断することができる。これらは、私の説明では「セザンヌ作品」「印象派」というカテゴリーを、プロフィール用法ではなく様式用法ないし形式用法で用いている例に相当する。ウォルトンに反して、「セザンヌ作品」「印象派」とは別に「セザンヌ様式」「印象派」のようなカテゴリーがあるのではなく、前者たちに出自を問題としないような、偏った用法があるのだ。問題としているカテゴリーは同じなのである。これはウォルトンとしても望ましいことだろう。

カテゴリーの様式用法と形式用法の共通点は、どちらも作品に備わっている性質だけに基づいて「この作品はCだ」というような分類的判断をくだすケースをカバーしている点だ。このうち、ウォルトンの意図により近いのは、非美的な性質の所有を問題とする形式用法だろう。筆触分割を用いているから「印象派だ」、というのは形式用法で「印象派」カテゴリーを用いている。しかし、私が思うに、ウォルトンは意図せず美的な性質の所有を問題とする様式用法の例も念頭に置いてしまっている。全体的な雰囲気が「印象派だ」というのは、筆触分割のような個々の非美的性質があることの指摘にとどまらない。それはそれ自体として、「印象派っぽさ」という美的性質を持つことの指摘なのだ。実際、ウォルトンはカテゴリーの知覚が美的性質の知覚と同様にゲシュタルト的であり、全体の絶妙な絡み合いの知覚に基づくと言っている。美的性質を知覚する準備としてカテゴリーの知覚を取り上げたものの、その一部の内実はそもそも美的性質の知覚である、というのが私の解釈だ。

おそらく、このことはウォルトンの枠組みにとって、そんなには不都合ではない。しかし、いくつかの説明は改められなければならない。「知覚的に区別可能なカテゴリー」に話を限定した時点で、ウォルトンにおけるカテゴリーの知覚は、作品のうちに非美的性質のセットないしそれらに基づいて創発した美的性質があることの知覚と、交換可能なものとなる。カテゴリー知覚はカテゴリー知覚でも、あるカテゴリーの形式的側面ないし様式的側面だけを知覚しているのだ。ここから、標準的/可変的/反標準的の重み付けがなされたテンプレート上に作品の性質を位置づけ、さらなる美的性質を出力することが、プロパーな美的知覚になる。のだが、ここで召喚されている標準的/可変的/反標準的のテンプレートは、「知覚的に区別可能なカテゴリー」として知覚された単なる性質を超えた、規範的なものである。私の用語法では、ここに至ってカテゴリーは一種のジャンル用法として新たに用いられている。

私の考えでは、形式や様式としてあるカテゴリーを同定する能力と、そのカテゴリーの規範を踏まえて知覚を行う能力(それをジャンルとみなす能力)は、ひとまず別物である。あるカテゴリーを知覚することと、あるカテゴリーのもとで/を踏まえて/として知覚することは、別問題なのである。悩ましいことに、おそらくウォルトン自身はこの区別にほとんど気がついておらず、知覚の訓練を問題にしている場面でも混同してしまっている。しかし、「芸術のカテゴリー」を結論部まで読むと、ウォルトンにおいてとりわけ重要なのは、後者の「カテゴリーのもとで知覚する」ことだと分かる。これは、「知覚的に区別可能なカテゴリー」という限定を、(仮にウォルトンが外したがらないとして)最終的には解除しても差し支えない、独立した理由になっていると考えている。知覚的に区別可能でないカテゴリーに関しても、教えられたりして同定し、それをひとつのジャンルとして踏まえて美的性質を知覚する、という議論は問題なく通るからだ。私は、モノだけ出されてもどれがレディメイドなのかは分からないが、ひとたび教えてもらえれば、どういう規範のもとで知覚すればいいのかは分かる。こうすれば、よくある文脈主義者の主張にまとまるというものだ。

上の引用でもお借りしている森さん訳の「芸術のカテゴリー」は最近バージョンアップされたので、まだ未読の方にはおすすめだ。

2022/09/04

病気(翌日、やはり帯状疱疹だと診断される)で元気がないのをいいことに、土日はずっとゲームをやっていた。『ファイナルファンタジー・クリスタルクロニクル』。小学生のころはなんて難しいアクションゲームなんだと思っていたが、この年になってみると大半は作業だ。ヒットアンドアウェイで適時ケアルを振っている限り、ゲームオーバーになることはまずない。小学生の頃に苦戦していた印象があるのは、コンテンツのレベルで結構シリアスな話が続き、でかいモンスターに襲われたり大勢に囲まれたりといった精神的プレッシャーによるものだろう。でかかろうが大勢だろうがやることは変わらない、というのは今だからこそ思える。

ラスボス含めてあまり難しいゲームではないのだが、コナル・クルハ湿原のドラゴンゾンビ戦だけは例外だ。脇に控えるストーンサハギン×2があほみたいに硬く、針で氷結されて動けない間にドラゴンゾンビから遠距離攻撃をかまされるので、気を抜くとすぐにハメ殺しされる。勝利するためには、逃げつつタイミングを見計らってサハギンにグラビデを打ち込み、すきあらば回復し、サハギンを処理できたらホーリーでドラゴンゾンビを実体化させてしばき、サハギンが復活したら最初から同じことを繰り返す、ということでかなり集中力がいる。そういえば足場が狭いのもあって、モンハン2ndGのヤマツカミ戦とはゲームのメカニクスがわりと似ていることに気がついた。あれも苦手だった。

2022/09/03

ヘルペスに似たプツプツが首から耳にかけて出現してきたので、やっぱり帯状疱疹な気がする。リンパ腺まわりが、親知らず抜いたときぐらい腫れている。何年か前に手足口病という赤ん坊の病気にかかったが、帯状疱疹なのだとしたら今度はおじいおばあの病気にかかったことになる。私はいったい何歳なのだろうか。

2022/09/02

しばらくは闘病日記になりそうだ。

頭痛は慣れつつあるが、リンパ腺の腫れがかなりしんどめなので、耳鼻咽喉科にやってきた。症状は帯状疱疹っぽいが、断定できないといった感じで、とりあえず抗生物質と痛み止めで様子を見ることになった。検査の一工程として鼻から喉へとファイバーを突っ込まれたのがそこそこ苦しかったが、大人なので文句は言わなかった。

ロキソニンは偉大で、効いている間は人間生活ができるため、Debates in Aesthetics論文のもろもろを返信対応した。長らくお待たせしたがぼちぼち出版らしい。こう、書いてから1年も経つと、加筆したいところだらけになるので悩ましい。

2022/09/01

体調がかんばしくない。例の神経痛がしつこいのに加え、同じ左側のリンパ腺が3箇所も腫れだした。吐き気とめまいがあり、やたらと汗をかく。とりあえず冷やしてみたのが不正解だったのかもしれない。安易な解決を求めて、ソルティライチ、野菜ジュース2種、キレートレモンを買ってきたが、どうにもならなかったら明日病院に行こうと思う。

グロッキーにもかかわらず栄養補給を怠っているのか、これがすでに食欲のなさの現れなのか定かではないが、今日はパンばかり食べた。トラスパレンテのクレーマ(「酸味とコクのあるクリームがたっぷり入ったデニッシュ」)はほんとうに美味い。

2022/08/31

先日無印で買った人感センサーライトが、そこそこいい仕事をしている。トイレに設置しているが、夜中に行くときに照明の眩しさでウッとならずに済む。どういう原理か分からないが、普通に照明をつけているときには人を感じてもつかない(きっと、私の想像力が足りないだけで、ごくごく単純な原理なのだろう)。

2022/08/30

連載コンテンツに対する「考察」「解釈」が、内実として、作者のまだ開示していない情報に関する予想に過ぎないのだとしたらつまらないだろう。当たっていようが外れていようが、だからなんだとしか思わない。しかしこう、物語コンテンツがどれもこれも謎・伏線・ダークな世界観の側に傾いていっているなか、情報を握っている作者が特権化されていく流れがあるのは分かる。新しい話が出るたびに答え合わせのように読まれていくのはしょうもないだろう、と思うばかりだ。

その一方で、キャラクターが物語から切り離されて消費される動向もきしょいと思うので、総じて、私は現代のフィクション文化に向いていないのだろう。

2022/08/29

ここ数日頭痛が続いているが、調べたところ神経痛が一番症状に近いようだ。数分おきにつむじあたりをグサッとされるような痛みがあり、周辺は髪に触っただけで頭皮に同程度の痛みが走る。首の左側がずっと寝違えたような感じで張っており、喉の左側もものを飲み込むときに違和感がある。もっぱら、悪い姿勢でずっと座っているせいらしい。心当たりがありすぎる。

たしかにこれなのだとすれば、1週間ほどで自然に治るらしい。そうだと助かるし、そうでなければ困る。

2022/08/28

Sauchelli (2013)の機能美の論文を読み返していて、彼がウォルトンのカテゴリー論を要は期待の認知的侵入だとまとめている箇所を思い出した。ウォルトンを認知的侵入として読んでいるものとしては、Stokes (2014)のほうが有名だろう。ところが、ウォルトン自身は自分の理論が認知的侵入ではないと後に明言している。Ransom (2020)のまとめのほうが正確で、あるカテゴリーとして見ることが知覚学習を経て体制化されるという枠組みらしい。ここでは、信念レベルのものは絡んでおらず、一貫して知覚の水準でカテゴリー知覚・カテゴリーとして知覚が展開される。

そこで、「期待」は定義上認知的なものでなければならないのか、無意識で非認知的なやつもありなのか、というのが気になった。音楽鑑賞における期待なんかは、むしろ無意識的で非認知的なものがなような印象がある(ほとんど読んでいないので適当な印象だ)。知覚的体制化を経た人が、ある種の特徴を見て別のある種の特徴を無意識に期待し、それが満たされたり裏切られることで感情的な反応を返す、というのは全体としてふつうに「期待」の働きなように思われる。だとすれば、Sauchelliがそれを認知的侵入のモデルでしか使えないと考えたのが誤りで、ウォルトンのカテゴリー論を要は期待なのだという主張を維持しつつ、知覚学習のモデルでも使えるのではないか。

2022/08/27

ユーロスペースで『みんなのヴァカンス』を見て、オンラインQ&Aを聞いた。映画はいつものギヨーム・ブラックといった感じで無難に良かったが、Q&Aは残念なクオリティだった。ただでさえ翻訳をまたいだ意思疎通、それも観客という第三者にも内容を共有しなければならない意思疎通(@Zoom)に困難があるのに、監督も役者もたらたらと喋り、「もういいから一旦翻訳させてくれ…」とハラハラしっぱなしだった。中身も映画作りに関する一般論(e.g.「私はそのときどきの条件を活かして撮ります」)で、ギヨーム・ブラックからしか聞けないような話はなにひとつなかった。

もっとどうにかできなかったのかとは思うが、そんなもんだろうとも思う。講演的なものを長らく学会発表しか摂取していなかったせいでやけに期待してしまったが、思い返せば聞いたことのあるトークショーはたいていグダグダだったような気もする。まとまった、新規性のある話をしてくれるトークショーは、よほど準備されたトークショーなのだろう。では、人はなぜ準備されていないグダグダトークショーにまで足を運ぶのかと言うと、動いて喋る有名人を生で見たいからだろう。オンラインだとそのありがたみも薄れてくる。

2022/08/26

こうしてアッバス・キアロスタミもキャンセルされたわけだが、あらゆることを考慮に入れた上でも、『クローズ・アップ』のような名作が上映機会を失っていくのは、とても耐え難いことだと思ってしまう。それは、作者がどれだけ倫理的に極悪だとしても、美的に重要なものなのだ。他方で、配給も商売としてやっているので、リスクヘッジとして「やめておく」のも頷ける。じゃあもう今後は聖人君子の作ったものしか鑑賞できないのか、という極論も気持ちは分かる。倫理的に許しがたい人間の作ったものが公的に宣伝され、受容され、称賛されることが許しがたい、というのも分かる。キャンセルしろ派もするな派も気持ちは分かるからこそ、どうすればいいのかはさっぱり分からない。キャンセルカルチャーというのはもはや乗らざるをえないバスだが、どこに連れて行かれるのか分からなくて不安、というのが唯一の正常な認知だとすら思っている。

民間形式主義も今回ばかりは元気がないが、キアロスタミを見る層は相対的にリベラルが多く、ポジション的にこういった件を許容しがたい、というのが少なからずあるだろう。なぜ人は民間形式主義に走るのか長らく謎だったが、キャンセルカルチャーに対する心理的自衛というのはひとつ理にかなった説明だと思う。

2022/08/25

ウォルトンとキャロルはどちらもカテゴリーが大事だという話をしているが、話の水準はけっこう異なる。ウォルトンは美的性質を知覚するレベルの話をしており、現象学的経験や認知的判断といった後期のレベルは問題にしていない。一方、キャロルは批評という、かなり後期に形成される表象の正誤を問題にしている。私の印象では、キャロルはこの「考える」レベルをかなり重要視する論者だ。一般的に、意図や文脈が大事だと言われがちなのは、キャロルのような後期レベル(判断とか批評)だろう。対してウォルトンは、シブリー以来のやり方を引き継いで、かなりニッチな「美的知覚」の話にフォーカスしている。これはまったく「考える」レベルではない。

ややこしいのは、シブリーやウォルトンも「美的判断」の語を用いている点だ。今日のわれわれにとっては、「美的知覚」の話をしていると言ってもらったほうがよっぽど分かりやすいのだが、おそらくはカント由来の伝統が用語をややこしくしている。美しいものの判断は推論によらないというのが大前提なので、「美的判断」といっても論理的判断のニュアンスは「判断」から解除される、ということなのかもしれない。ということで、知覚し、なんらかの現象学的経験を抱くことを、単に「判断」と呼んでいるように思われる。キャロルら現代の論者は、「判断」ということで知覚よりもずっと後ろの認知的な話をしがちだが、このカント的伝統に忠実な論者からすれば、それはもう美的なもの話ではない、とすら言われるかもしれない。

源河さんの本を読んでいて思ったが、知覚と判断の境界線は最終的に取り払われるとしても、出発点として用意しておいたほうがいい。でないと、ウォルトンとキャロルみたいに似て非なる話をしている場面で、存在しない対立点を見出してしまう恐れがある。

2022/08/24

一人暮らし7年目にして、ついに掃除機を手に入れた。アイリスオーヤマのコードレスのやつ。手軽さと効率が違いすぎて、これぞテクノロジー革命だ。クイックルワイパーとコロコロで事足りると言っていた連中は嘘つきだったわけだ。

2022/08/23

Staff Diffusionやらmidjourneyがあれこれすごくて、新時代到来のごとく騒がれているが、どれだけ実用性があるのか明らかでない段階から「テクノロジーに対する肉体の完敗」がポルノのごとく消費されていて、気味の悪さがある。イラストレーターは廃業だ、みたいに結論を急ぐのがみんな好きなんだなぁ。私としては、写真の認知的価値がさらに落ちるなぁ、というのと、いらすとやにない図をぱっと用意できたら便利だろうなぁ、と思う程度だ。

2022/08/22

フェスを声出しなしでやりましょうというのがそもそも馬鹿げているので、ロックな俺たちが風穴を空けてやるぜ、という態度は、後半はともかく前半はよく分かる。叫び、ぶつかり、汗を流すことがその楽しみの要点なのだとすれば、声出し無しのフェスなどというのはつまるところ、リモート飲み会とかリモート修学旅行のような痛々しいその場しのぎの類なのだ。

旧来の、すでに困難となった楽しみに関して、現在のわれわれが採りうるオプションはおおきく三つだ。①危険を顧みず旧来の仕方で楽しむ、②対策しつつ新たな形式で楽しむ、③楽しむのを諦める(別の楽しみを探す)。問題は、現状多くの場面で選択されるのが②であるにもかかわらず、当の「新たな形式」がまったく楽しくなく、本質を失っている点にある。また、その場しのぎや妥協にはどうしてもみじめさがある。そのみじめさを自覚することなく、これは依然として楽しいものだ、というのはどこか自己欺瞞のように響く。

実際、②ではいたたまれないので開き直るか諦めるかという点では①も③も同じだ。だからこそ、私は①な人の選択には決して共感しないが、動機には共感してしまう。あれもこれも諦めるばかりではやるせない、というのも分かる。どうすればいいのかは分からない。

2022/08/21

やっぱ「邦ロック」聴いても音楽聴いたことにならなくない?」は、中身はともかく釣りとして秀逸なタイトルだ。「邦ロックなんてレベルの低い音楽をまだ聞いてんの?」という話では必ずしもないのだが、ろくに読まない人、またはカテゴリーへの愛が強すぎる人はそう読み取ってしまうのだろう。

著者の主張は、①サマソニでの邦ロック勢(具体的にはKing Gnuとホルモン)の言動は感じが悪い、②彼らの言動は音楽としてダメ、③一般的に、邦ロックは音楽としてダメ、という観察→評価→一般化の形式を取っている。社会性が欠如しており、無意識に差別的で、いわば「意識が低い」ことが問題となっており、そういう意識の低いケースとして今回のキングヌーとホルモンが批判に値する、という部分まではある程度同意が得られるとは思う。「邦ロック界隈には意識の低い人もいる」というわけだ。

しかし、この主張を一般化していく前提として、「ポップ音楽聴いた結果できあがるのは、差別や表現や人間関係、社会について考えを巡らせた人物なのだ。逆にいえば、ポップ音楽を聴いた結果、社会への無関心や差別を表明する人がいるのだとすれば、その人は音楽を聴いていない、大事な何かを聴き逃している、ということになる」というのは論点先取であり、実際ほとんど同意を得られていないようだ。むしろ、「ポップ音楽とは政治社会とは切り離され、イケてればそれでいい」という民間形式主義があるなかで、反直観的なことを言ってしまっている。もちろん、そういう民間形式主義が健全かは別問題だ。

また、例を探せば探すほど、「①邦ロック界隈には意識の低い人もいる」「②邦ロック界隈には意識の高い人もいる」「③洋ロック界隈には意識の低い人もいる」「④洋ロック界隈には意識の高い人もいる」のいずれをも支持する言動がいくらでも見つかるはずなので、ことさらに①と④を強調しても説得的ではない。チャリタブルに読めば、「①邦ロック界隈には意識の低い人もいる」、それも洋ロック界隈に比べてそういうダメな人が比較的多い、と言いたいのだろう。実際そうなのかは体感としてよく分からないが、そういうこともありうるとは思う。

という風に、煽りや誇張なしに穏当な主張にまで切り詰めたら、ブログ記事としてはここまで伸びることはなかっただろう。

2022/08/20

八丈島4日目、最終日。荷造りをし、バスの時間まで古民家喫茶を再訪した。アイスコーヒーに塩キャラメルプリンをつまみながら、なかなか落ちない蚊取り線香を観察する。お昼はポケットという洋食屋で、ハンバーガーを食べる。テイクアウトだけで営業中なのを知らなかったが、こちらの様子を見て二階のテラス席を貸してくれた。

空港まで徒歩で移動し、昼過ぎの便に乗って羽田に戻る。がーっと帰宅し、一休みしてから中目黒に出て三宝亭の麻婆麺を食べた。文句なしにうまかったが、しっかり辛めで、水をがぶ飲みしていたら胃袋がかなりぱつんぱつんになった。小雨のなか、ふらふらしながらカフェ・ファソンに移動。さすがにうますぎるカフェオレグラッセと月心(いい感じの甘いコーヒーに練乳をのせたもの)をたしなむ。今年の秋は喫茶店巡りして、こういう小洒落たコーヒーを飲みまくろう、という決意を固めた。

歩いて帰宅しシャワーを浴びたら、もう睡眠欲以外の欲がなくなったので、寝た。

2022/08/19

八丈島3日目。天気にも恵まれ、八丈富士に登る。ペーパードライバー×2なので、登山口までどう登ったものか悩ましいところだったが、ふつうにタクシーを配車できた。山腹のふれあい牧場では牛たちとふれあった。牛しかいない。でかくてモウモウゆうてる。そろそろ登山するかと引き返していたら、前方から逃げ出した(?)牛が接近してきて、飼育員も「逃げてください!」と叫び、バタバタする一幕があった。都会じゃあまりしない経験だ。

登山口から、いざ山頂を目指して登り始める。1280段、約1時間ひた登る。文系院生のデスクチェア哲学者にはとても対応できない運動量で、ところどころ休みながら満身創痍でたどり着く。文系院生のデスクチェア哲学者ではない恋人は、まぁ疲れるね、という手応えだった。火口は二重火山になっていて、ほんのり霧がかっていたのもあり、さすがにこの旅一番の景観だった。ぐるっと一周回るお鉢めぐりコース(所要時間1時間)もあったが、脚がプルプルだったのでやめておいた。開けた感じの草地は、ドライヤー『奇跡』の名シーンを真似て写真を撮るのに最適だったが、疲れのため頭が回らなかった。道中も山頂もカナブンが大量にいておぞましい。この島のカナブンは活きが良く、ブンブンと飛び交っている。下りはさすがにeasierで、ふれあい牧場でポカリスエットをがぶ飲みした後、タクシーを呼んで下山した。

遅めの昼食は、一休庵でうどんを食べる。たぬきうどんは、鰹節たっぷりのつゆが美味しかった。特産品らしい明日葉は、天ぷらにすると癖のないしそといった感じで、いくらでも食べられる。土産屋でお酒を買った後、ジャージーカフェでソフトクリームを食べた。バスに乗ってガーデン荘に戻る。

古民家喫茶でベーグルとチャイをいただいてもまだ17時だったので、海岸沿いにある裏見ヶ滝温泉&やすらぎの湯まで歩いていった。前者は水着着用の混浴露天風呂で、湯はぬるめ。人は少なかったが、海辺によくいるゴキブリとダンゴムシのハーフみたいなやつがもりもりいて、早めに退散した。後者は温泉というか銭湯みたいな、小綺麗な風呂だった。湯の温度は平均的で、ここだけ海水ではなく真水だった。懲りずに足湯を経由した後、丘を登って宿に戻る。疲れは溜まっていたが、八丈富士でメンタルを鍛えられたので、初日ほどは苦労しなかった。

夕飯は天ぷらとハンバーグが出た。この日は若い男友達二人組が泊まっていた。部屋で金曜ロードショーのトトロを見て、就寝。

2022/08/18

八丈島2日目。底土海水浴場にやってきた。バスを降りた瞬間に畳み掛けるような豪雨が始まり、以後ふったりやんだりに悩まされる。海の家に停まっているカフェスタンドで、チャイとナチョスをいただいた。大雨のなか、恋人はダイビングをしに行った(私は泳げない)ので、私は海岸沿いを2時間ぷらぷらすることになった。この日は木曜日だったが、八丈島は定休の店がかなり多い。海の写真を撮ったり、ヤドカリを観察したり、ぜんぜん誰もいないので歌を歌いながら散歩して1時間つぶし、残りは屋根のあるところで本を読んでいた。底土は砂浜も黒い砂なので、晴れていたとしてどれだけ映えるのかは定かではない。

なんだかんだダイビングを堪能し、ウミガメにも会えた恋人と合流、歩いてバス停まで向かう。道中はさびれたリゾート地といった趣で、ヤシの木沿いにでかい廃ホテルがあった。バス停近くのパン屋でカレーパンとクリームパンを食べた。

島の東エリアにやって来た。名古(なご)の展望台は、小雨になっていたのもあり、なかなかの景観だった。みはらし台よりも、手前のほうが開けていてよかった。およそ人が歩くことを想定していなさそうな車道をひた歩き、みはらしの湯へ向かう。海を一望できる露天風呂があり、途中からはほぼ貸切状態だったのでかなりよかった。内湯があつあつ。

ガーデン荘に戻り、夕飯。2日目は夫婦と、原付一人旅の兄ちゃんが泊まっていた。メインはとんかつで、肉を欲していたところだったのでうまかった。部屋に戻り、寝る。

2022/08/17

8/17から8/20まで恋人と観光で八丈島に行ってきた。

1日目。羽田でケバブプレートを食べてから搭乗。親戚にパシられ、空港でも機内でも羽生くんグッズを買う。

八丈島空港から八丈植物公園まで歩く。温室で諸植物を鑑賞し、ビジターセンターでソフトクリームを食べ、キョンという小型の鹿を見た。キョンはつるつるしていてかわいかったが、千葉では害獣として近隣住民を悩ませているらしい。あと、うまいらしい。

気合いを入れて八上一周道路まで降り、バスに乗る。バスは、温泉とセットのパスが発行されており、全日それを利用した。泊まったのはガーデン荘という気さくなばあちゃんがやっている民宿で、島の南側にある。チェックイン、荷解きし、手頃なバスで引き返し、ふれあいの湯へ。このバスの時間というのがなかなかの曲者で、一日に数本しかないのを上り下りチェックしつつスケジュールを調整するのが、私の主な担当となった。ふれあいの湯は露天風呂が混んでおり、さっさと洗って出たのであまり覚えていない。

バスで宿に戻り、夕飯。夜はいつも多めに出たので、フードファイトしてばかりの旅だった。夕飯は食堂でみんなで食べるスタイルで、ばあちゃんが焼酎片手に島の豆知識などを語ってくれる。初日はスナックをやっている泥酔ママさんと、付き合って2ヶ月という同年代のカップルが来ていた。島焼酎は飲み放題で、初日は2杯ほどいただいた。昔は焼酎好きだったが、今はそうでもないので、二日目以降はコンビニで買ったビールを飲んだ。食事は、島寿司というのが出たが、私は刺し身のほうが好みだった。刺し身は毎日出たのでお得だ。

夜な夜な繰り出して、近くの足湯へ向かう。この足湯、歩いて15分程度のところにあり、夜21時までやっているので通いつめようと思っていたのだが、高低差100m強下った先の海岸にあるので、帰りがたいそうしんどかった(翌々日のしんどさに比べたら物の数に入らないのだが)。足湯は夜中で景観もなにもなかったが、完全な闇を前にして入るのも悪くはなかった。宿に戻り、就寝。

2022/08/16

卒業研究やりたくないんだが、大学の教授は勘違いを改めろ」は、表現の乱暴さと、接続詞の通りのわるさを除けば、前半も後半も多少は頷けることを言っていると思う。少なくとも、問題提起を無視して教養マウントをかます奴のほうがよっぽど醜悪だろう。

問題は見かけよりもシンプルで、学生からすれば、一方ではちゃんと勉強するインセンティブがなく、他方ではそれでも大学に行くインセンティブがあるのが問題なのだ。大学というのが、学問を修めたい人だけが行き、そうでない人が行く必要のない場所として成り立っていない。「こんな奴は大学に来るな」とか平気で言える者は、大学が現に就職予備校として社会に組み込まれているという事実を無視しているか見逃している。

慶應経済にいた最初の1ヶ月で、たいていの学生は履修を楽単で埋め、講義はサボれるだけサボり、出席は代返を頼み、試験は後ろの方に群れてカンニングし合う、というスタイルをよしとしていることを知り、おおいにショックを受けた。それでもって、勉学における真面目さと、就職先の良さにはほとんど相関がなかった。少なからぬ学生にとって大学生活とはそういうものでしかない、という認識から始めないことには、問題は解決しようがないだろう(解決を要する問題なのだとして)。

卒業研究はつらい。大学院に進んだ私は客観的に見て奇特なので、卒論2本をうきうきと書いたのだが、一般的に言って何万字も書いたり実験したりというのは労力のかかることだ。卒業研究が、その労力に見合うだけのスキルを養う機会になるというのも、私には誇張に聞こえる。それはたしかに大切なスキルだが、なければ生きていけないものでもないし、他では身に付けられないものでもない。私はわりとずっとこういうスタンスだが、研究というのは好きな人が好きなだけやればいいのであって、そんなに役に立つものでもないし、役に立たなければならないわけでもない。「やる気のない学生に研究室や教授の資源を割くよりもやる気のある学生に資源を使ったほうが研究室の利益や個人の幸せの観点から見ても良い」という増田に、私はかなり賛同できる。

なんだかんだ、歪んだインセンティブを学生に与えている「就職活動」が諸悪の権化に思えてきた。

2022/08/15

帰省を終え、目黒に戻ってきた。実家では3泊したが、親も犬も元気でよかった。

2022/08/14

神奈川県立美術館の葉山館でアレック・ソスを見た。ストレート写真の系譜とは聞いていたが、多くの作品はウィリアム・エグルストンと並べられたらどっちがどっちか分からないぐらい、まさにあの時代のあの感じだった。由緒正しきアメリカン・ジャーナリズムの写真家というわけだが、とりわけ人物写真に見られるデッドパンな冷たさは彼ならではの持ち味だろう。人物の立ち方や画面上での置かれ方が人工的で、作り物じみている。蝋人形っぽいな、と思っていたら実際に蝋人形の写真もあり、こちらはむしろ生身の人間っぽい撮られ方をしていた。ドキュメンタリーとフィクションの絶妙な緊張がある(書いてしまうとずいぶん安っぽいが)

1時間ぐらいで回れるサイズ感で、人も少なめだったのがよかった。葉山の海には海水浴客がたくさんいた。

2022/08/13

実家でティラミスを作ったが、生クリームというのは調子にのって混ぜすぎると、分離してボソボソになることを知った。

2022/08/12

「芸術のメタカテゴリー」を書き上げたので、次に書く論文は「芸術のサブカテゴリー」にしようと思って、読んだり考えたりしている。抽象的な性質と具体的な性質のスペシフィケーション関係についてはよく理解していなかったが、どうも次のが基本的らしい。

  • 連言を加えるスペシフィケーション[conjunct-conjunction relations]:FであるXよりも、FかつGであるYのほうがspecific。属-種関係もこれ。

  • 選言を外すスペシフィケーション[disjunction-disjunct relation]:FまたはGであるXよりも、FであるYのほうがspecific。

  • そのどちらでもない、いわゆるdeterminables / determinates関係:典型例としては、「色がある/赤い」や「赤い/緋色である」の関係。

determinables / determinatesはふつうに抽象的/具体的の言い換えだとざっくり思っていたが、ぜんぜん違った。この特殊な関係をどう理解すべきか、なにか別の関係(流行りのグラウンディングとか)で還元できないか、というのはSEPを見る限りかなり論争的みたいだ。

ある芸術ジャンルの(定義はどうにもうまくいきようがないので)大雑把な特徴づけがあったと仮定して、それとサブジャンルが取り結ぶ関係は、上のどれにもっとも近いのだろうか。前に松永さんとお話したロッツェの概念モデルもからめて、一度整理できればなと思っている。

2022/08/11

ネット論壇におけるwhataboutism(近頃の流行りは「共産主義だって…」だろう)はことごとく醜悪なのだが、よくよく考えてみると、キャロルなんかも『批評の哲学』でしょっちゅうこれをやっている。作品解釈における意図の推測は難しいとする反論者に対して、「日常生活ではふつうに意図を推測して生きているではないか」と返すし、作品の良し悪しはカテゴリー相対的に「そこだけ見れば[pro tanto]」語れるというキャロルに反論してpro tantoな一般性じゃだめだとする反論者には、「科学ではpro tantoな基準がたくさんあるではないか」で返す。

whataboutismは、要はアナロジーなので、対応付けがうまくいっているかが肝心だ。「映画を倍速で見るやつは、音楽も倍速で聞くのかよ」みたいなのは、映画を見ることと音楽を聞くことが重要な点で重なっていない限り、なにも言ったことにはならない。そして、ちゃんとした対応付けのあるアナロジーであっても、なんらかのディスアナロジーを見出すことはほとんどの場合において容易だ。「作品解釈と話者の意図推測は違う営みだろう」「芸術と科学はぜんぜん違う分野だろう」などなど。

オチはとくにない。whataboutismは良くないが、informativeかもしれないアナロジーを「whataboutismだ!」と言って黙殺するのもそれはそれで良くない、とは思う。

2022/08/10

いつの間にか失効していた運転免許証の再発行手続きをしに、鮫洲まで伺い奉り差し上げ申した。きっとまた忘れて失効するので、備忘録として書いておこう。

当方はまごうことなきペーパードライバーである。以前は住民票が神奈川にあったので、車関係は二俣川に行っていたが、今回ははじめて鮫洲に行ってきた。やむを得ない理由なしの更新し忘れで、講習だけ受ければ試験なしで再発行してもらえる6ヶ月以内だった。私のポスト管理がずさんであることは認めざるを得ないが、はがきでお知らせなどというアホらしいやり方はやめてメールしてくれ。次回も忘れること必至なので、2025年の自分に向けて予約メールを設定しておいた。

警察関係者にありがちなデフォでタメ口という態度には疑問符が浮かんだが、事前に段取りを調べておいたのもあって手際よく手続きは済んだ。①総合受付で申請書をもらう、②申請書を記入し(申請用の写真がいる)、失効手続きの窓口に提出、③別の窓口で5000円弱を支払い、なんらかのパスワード4桁を設定し、視力検査、④再度失効手続きの窓口で受け付けてもらったあと、写真ブースで撮影、⑤別室に移動して講習を受け、⑥出たところの窓口で免許証を受け取って終了。所要時間は合わせて2時間ぐらいだった。二度目の更新(をするはずだった)ので、講習は1時間で済んだ。

鮫洲の受付時間は「午前8時30分から午後2時00分まで」とあり、結局何時に行けばいいのか謎だったが、その間であればわりといつ行ってもいいみたいだ。講習は始まるまでに20〜30分ほど待機したが、それなりの頻度で開講しており、直近の回を受講できる。私は10時前に付いたが、だいぶ空いていた。また、更新よりも失効手続きのほうが若干早く受け取れる。

鮫洲は中目黒からバスで40〜50分で行けるが、帰りのバスはない。品川シーサイドから恵比寿に出て、1000円の焼肉ランチを食べ、帰宅。早起きすれば、これらをこなしても13時なので素晴らしい。

2022/08/09

東急ストアのパクチーサラダ、これまでオリーブオイルとバルサミコ酢で食べてきたが、ナンプラーと塩コショウのほうが合うことに気付いた。

Xは自然種と言えるかという議論で、①自然種は恒常的性質クラスターから理解でき、②Xは恒常的性質クラスターから理解できるので、③Xは自然種だ、というムーブをわりによく見るのだが、ボイドを読む機会がないので前提①をなかなか受け入れられない。そもそも、「Xは自然種だ」と言えてなにがうれしいのか明らかでなく、また恒常的性質クラスターから理解できることにうれしさがあるとしたら、議論は②で終わって良いのであって、「Xは自然種だ」という結論が冗長になるのではないか。

2022/08/08

自家製ティラミスというパンドラの箱を開けた。もっと手間かと思っていたが、生クリームを泡立てる工程を除けば、混ぜて冷やすだけなのでお手軽だ。生クリームは、電動の泡立て器がないので、冷凍庫で数分冷やしては混ぜ、冷やしては混ぜを繰り返してどうにかした。明日はきっと筋肉痛だろう。

2022/08/07

JAACの「Categories of Art」50周年記念号に載った、Madeleine Ransomの「Waltonian Perceptualism」を読んだ。「知覚的に区別可能なカテゴリー」という、例の悩ましいくだりについてのいち解釈を提示している。

ウォルトンは、アイデア的には文脈主義者寄りなのだが、ところどころで形式主義者に寄ったことを書いている。美的性質は推論されるのではなく知覚されると言っているし(これはシブリーを引き継いでいる)、美的性質知覚を左右するカテゴリーも、ゲシュタルトとして知覚されると論じている。詳しくはLaetz (2010)のレジュメを見てもらえればいいが、結局ウォルトンは作品を見るだけでは分からない歴史的文脈などを、自身の美的知覚論に組み込んでいない点で、従来の文脈主義とは異なるのではないか、という疑いがずっとあった。

従来の文脈主義ならば、作品の正しいカテゴリーはまず知識として持っており、これが美的知覚に認知的侵入する、という説明をするところだが、Ransomは「知覚的に区別可能なカテゴリー」という縛りを維持するために、「知覚学習」に訴える。カテゴリーは、具体的な事例との接触を通し、プロトタイプとして学習されていく。これがあるおかげで、キュビスムの絵をキュビスムとしてカテゴライズするのは、(知覚した特徴を元にした推論などではなく、)端的にカテゴライズ=知覚なのだと言える。こうして、①キュビスムだとカテゴライズする、②キュビスムとして見る、③しかじかの美的性質を見て取る、というのがいずれも「知覚」の範疇で説明されることになり、ある意味では「知覚によって知り得ない事柄は美的判断に入り込まない」という形式主義者のテーゼが維持されるのだ。ウォルトン解釈としての結論はLaetzと一緒だが、Ransomの説明のほうがクリアかつ実証的で説得的だと思う。

そういうこともありそう、というのは確かだ。問題は、知覚学習によるカテゴライズは、ウォルトンが担保しようとした美的判断の「正しさ」を担保できるほど規範的なものとなりうるか、だと思う。Ransomも認めるように、知覚学習はそもそも学習プロセスが間違っていたりすると、分類ミスを引き起こしうる。結局のところ、正しさを担保するのが意図やら歴史やら、知覚によっては知り得ない事柄なのだとすれば、ウォルトンは美的判断に関する文脈主義として位置づけたほうがより適切だろう。この場合、文脈は生の知覚を左右するというより、正しい知覚に関して決着をつけるものとなる。ウォルトンがこの水準の「美的判断」を問題にしていたのかはおおいに疑わしいが、一般的に言って、そういうことは普通にあるだろうと思う。

2022/08/06

自由が丘のTHE LAB TOKYOという小洒落た甘味処で、ティラミスを食べ、チャイを飲んだ。ガトーショコラが有名らしいが、私は選択肢にある限りティラミスを選ぶことになる。演出も含めてなかなかのものだった。

2022/08/05

期末レポートの採点をしている。みな期末の記述よりはよく書けている。

2022/08/04

Hans Maesによるインタビュー集でレヴィンソンが言っていたが、バーネット・ニューマンの有名な「芸術家にとっての美学は、鳥にとっての鳥類学のようなものだ」は、「for the birds」がそもそもイディオムとして「くだらない、どうでもいい」の意味らしい。するとニューマンは、二重の意味で美学を貶めていたことになる。これは知らなかった。

実際の文脈を踏まえるとニューマンの発言はもっと建設的なものだったらしいが、批判は批判だ。「XはYの役に立っていない」に対しては、「Xは実はYの役に立っている」か「Yの役に立つことはXにとって必要ではない」で返すことになるわけだが、前者は実情を踏まえるとどうしてもアドホックになり、後者は閉じたアカデミアへ向かっていくことになる。

ひとつありだと思う応答は、直接的には芸術家の訳には立たないが、広くアートワールドの役に立っている、というものだ。いかなる意味でもアートワールドの役に立たない美学は考えにくい(なんにせよ、「決して〜ではない」を証明することは難しい)。腰を据えて、じっくりXの本質を考えようとする分野が、Xにとって役に立たないわけがないのだ。むしろ芸術家こそ、「創作の役に立つ」ものを探して右往左往する自分をたまには反省してしかるべきではないか。よく言われていることだが、いきなりアドルノとかバタイユとかハイデガーを読もうとするのは、たいていの場合本人のためにならない。

2022/08/03

「芸術のメタカテゴリー」という論文をBJAに投げた。まだまだ詰めるところは多いのだが、どうせ査読に3ヶ月も4ヶ月もかかるのだから、とりあえず渡してご機嫌をうかがう、というのでいいのだと最近は思いつつある。根本的に内容が面白くなければ、ディテールを詰めたって仕方がないのだ。さすがにいきなりBJAは厳しいと思うが、一流誌に査読をやってもらえるなら御の字だろう。なので、コメントなしrejectというのにならないことを祈るばかりだ。

タイトルページ、カバーレターなども、見様見真似で作ってみた。メールでのやり取りがメインだったDiAはもう少しゆるめだったが、BJAはその手の書類一式を投稿サイトから提出するよう求められる。この投稿サイトがかなりしっかりしていて、査読や修正もサイト上でやり取りすることになるらしい。

2022/08/02

バイトが早上がりだったので、米を炊いて味の素の冷凍餃子を焼いた。食生活がずさんなときには、そうでないときにどうずさんでないのかなかなか思い出せない。

ちいかわに触発されて、家で水風呂をやった。さすがにサウナはないのでたかは知れているのだが、塩梅わるくなかった。クーラーが苦手なので、夏場の暑さを水風呂で乗り切るのもありかもしれない。

2022/08/01

私が高校時代にやり残したことのひとつは、学食から野球部を追い出すことだった。われわれが高校に進学した年あたりに、本校舎からやたら遠い旧学食がなくなり、「カフェテリア」という鼻につく名称の新施設ができた。それは、ただでさえ生徒数に対してあまりにも座席が少ないしょっぱい施設だったのだが、その1/5だか1/4だかを、常に野球部員が占めていた。しかも、連中はほとんど全員が学食ではなく、弁当を持ち込んで食べていたのだ。野球部より早く着いたとしても、ふだん野球部が陣取っているスペースには座らない、というのが校内の暗黙のルールとなっていた。バカバカしいし、本当に不当だ。特段、野球部が強い学校ではぜんぜんまったくない。

野球部のなかにはまともな奴もいた(「〜もいた」に過ぎない)のだが、諸悪の権化は顧問だ。「チームの団結力を高める」という名目で毎日学食に全部員を集め、われわれを故郷なきユダヤの民に仕立て上げたのはそいつだ。半グレ風のいかつい小男で、学食では常に必ず女子マネージャーたちを左右に侍らせ座っていた。体育会系の生徒が威圧的なのは、自分らが普段顧問にしごかれている腹いせだ、というのはよく聞く話だが、まさにそのような生態系がうちの高校では成り立っていたのだろう。私は信頼できるあらゆる教員職員に抗議し、なんらかの改善を求めたのだが、そういうリベラルなやり方でどうにかなる相手ではなかったらしい。 一度も話したことがない人物をあれほど憎み、不幸を祈ったのはあれが最初で最後かもしれない。

2022/07/31

ズラウスキーの『コスモス』を見た。昨日の『リコリス・ピザ』が愛おしく思えてくるほど支離滅裂な映画だったのだが、ズラウスキーのようなぶっちぎれ方には毎度ながら呆れつつも最大限の賛美を送ってしまう。つまるところ、「(作者は)なにがしたいのか」という問いを気にするどころではない作品を見るのは気楽で楽しいのだ。

そんな楽しい映画を見ている最中にまたしてもやってきた、セールスマンが。今回はWi-Fiではなく不動産だ。インターホンでの開口一番「お住まいの件で参りました、入れてください」とずいぶん舐められたものだったので、用件はなんでしょうと尋ねるも、「玄関先でお話する」といって譲らない。操作ミスのふりをしてインターホン切っても(これはここまで連戦連勝だったのだが)、直後にかけ直すという胆力のあるやつだった。オートロックの内側に入れるつもりは毛頭ないため、こちらから出向いて話をどういうつもりか聞いてやることにしたが、玄関先でなければ話せないなどと意味不明な理屈をこねくり回す。ごにょごにょ言いつつも、「お住まいを売ったり買ったりすることに関して皆様にご周知して〜〜」というので言質を取れたと思い「要は勧誘ですよね」と尋ねるも、「いいえ、勧誘というか〜〜」と返してくるのは新パターンだった。なんだか知らないけど間に合っています、でゲームセット。

人に取り入るだけの愛嬌も誠実さもテクニックもなく、横柄にしていればこちらがビビって萎縮する、という態度を隠そうともしない個体だった。いい加減こんなブルシットジョブ駆逐してくれよと思うのだが、一人暮らし歴も長くなってくると、いかに手際よくセールスを断るかが一種の競技として楽しくなってきた感もある。日本語分からないふりして外国語で返すのが効果的、という情報を得たので、今度来たら中国語で対応してみようと思う。

2022/07/30

『リコリス・ピザ』を見た。80点ぐらいのよくできた映画なのだが、ポール・トーマス・アンダーソンには9兆点のものを期待してしまう。『マグノリア』も『ブギーナイツ』も『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』も身震いするほどよかった。本作は主題も画面もすごくPTAらしい分、行儀よくまとまりすぎている感がある(話はぜんぜんまとまっていないのだが)。あと、タランティーノが『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』を撮ったときにはずいぶんとテンションがあがったが、こう似たような映画を後出しされると多少は冷めるというのにも気がついた。

2022/07/29

朝から腹痛に見舞われ、ひとしきり悶えた。小学生のころから謎の腹痛が定期的にあるのだが、なに原因なのか未だに分かっていない。身体の不調は慣れでごまかしているところが多すぎて、知識がまったく形成されていない。例えば、どのような食べ物がどの程度日持ちするのかといった知識がまったくないので、知らずしらずのうちに食あたりになりまくっているのかもしれない。

午後には持ち直したので、散髪して、ラーメンを食べた。

2022/07/28

期末試験をやった。採点をしているが、事前にかなり釘刺したにもかかわらず、出典の記載がないコピペがそれなりにある。普段そんな難しい表現使わないじゃん、というのですぐにバレる。見ていると、バレないように設えた形跡すらないので、そもそもダメだというのを理解していないのだろう。


一言一句コピペしてくるのは論外として、助詞などをちょっとだけ変えるのも小細工にしかならない。コピペチェッカーか、それでなくても文単位でGoogle検索にかかれば、すぐに見つかってしまう。統語論的な配置なんかがそのままなので、これではダメだ。などと、採点しているうちに、バレないコピペ術について理解が深まった。


こちらとしては粛々と減点していくので構わないのだが、それとは別に奇妙なことに気づいた。


かなりの人数が、段落と段落の間に無意味な改行を入れているのだ(今日の日記のように)。おそらく、ウェブ記事やブログの類に慣れているため、「読みやすさ」の配慮として適時行を空けているつもりなのだろう。そういえば卒論を書いていたころ私も注意されたことがある。節の終わりに行を空けてからまとめの段落を続けていたら、「論文ではふつうこういう改行はしない」と言われて、ぜんぜんピンとこなかったのをうっすら覚えている。学部生とはそういうものなのかもしれない。

2022/07/27

非常勤の期末試験準備をしていた。ついぞ履修生の顔すら知ることはなかったが、どうにかこうにか半期終えられそうだ。コンテンツもノウハウも一通りそろったので、秋学期はもっと楽できそう。論文書こ。

生命に必要な栄養素を摂取できていない自覚があったので、とりあえず野菜ジュースとキレートレモンを飲みまくっている。結構ほんとに調子がよくなりつつあって、人体は不思議だなぁと実感する。

2022/07/26

表象の博論中間発表を聞いてきた。学会発表よりはだいぶ穏やかな雰囲気なのは、教授陣vs院生という構図上、時代的に強く出れないからか、とか考えていた。ちゃんと表象表象な研究をされている先輩たちだったので、先生方との話もおおむね噛み合っていたのだが、自分の場合にどうなるのかやはり心配はある。が、修論発表のときはそれなりにメイクセンスなやり取りができたので、なんとかなるとは思う。

噛み合っていたとは書いたが、それはやり取りの表面的なスムーズさの話であって、やり取りの中身がどう噛み合っているのか私にはなかなか理解できなかった。あまり内容を共有するわけにはいかないが、例えば、あるふわっとした概念Xに関して、よく知られている(時代なり地域なり集団)AのXではなく、BならではのXを扱う論文に対し、「そもそもAのXは無条件に前提できるのか」みたいなコメントが出ていた。ほかにも、BのXについて扱う論文に対し、「私はAこそXだと思うんですが」といったコメントもあった。問題は、そもそもXがかっちりした内包を持った概念ではなく(少なくともその場で意味が共有されているわけではなく)、どれにどう適用されるかなんて、おおよそ言ったもん勝ちだという点だ。1つ目の質問に対しては「Aの周辺文脈について再調査してみます」、2つ目の質問に対しては「そうですね、AもXかもしれません」あたりが(実際になされてもいたし)真っ当な応答になるかと思うが、そのやり取りがどれだけ執筆のヒントになるのかは不明だ。いずれにしても、書き手はBについて書きたがっているのだから。

2022/07/25

宗教の説法なり説教の動画を等速でじっくり見る信者と倍速でたくさん見る信者は、どちらが信心深いのだろう、という問いを思いついた。そういうコンテンツがあるとしての話だが、こんなご時世だしあってもおかしくないだろう。前者には敬意という美徳がありそうだが、後者は後者で勉強熱心だと言っていいのではないか。私がキリスト者だったとしたら、神父に聞いてみたくなるかもしれない。

2022/07/24

いわゆる主題論、蓮實重彦がやっていたような、特定のモチーフや身振りを「」で括って、それが作品において反復されていることを指摘する批評は、とどのつまりなにをやっているのかずっとよく分かっていない。私自身、そういう見方をすることが多いにもかかわらず、である。つまるところ、小津安二郎の映画で人物たちがしばしば「食べる」身振りを繰り返していたり、アキ・カウリスマキの映画にたびたび「犬」が出てくることを指摘したからといって、だからなんだではあるのだ。

もし、指摘されるモチーフや身振りが容易には気が付かないものなのだとすれば、記述としての認知的価値があるだろう。また、それが個別作品やある作者の作品に通底していることを指摘し、全体性や一貫性があると言うのであれば、評価したことにもなるだろう。問題は、「X」というモチーフを指摘した上で、作品とは直接的には関係のないXについてのエッセイが延々と続くような批評(?)だ。なんにせよ、目的に対して遠回りすぎるように思われるし、そういう書き手は大抵の場合目的などないのでは、とすら思ってしまう。それっぽい文章を書く、という目的を除いて。

というのは、まぁ「理屈としては」の話だ。実際、提示された批評文を読めば、ふつうに面白いことも少なくない。そういう批評も、作品の経験や理解になんらか資する点がある、という感覚はあるが、どういう理屈でそうなのかが分かっていない。私はそういう理屈として分かっていないものを分かりたいのだが、表象の映画の講義なんかで質問しても腑に落ちる回答を得られた試しはない。大抵のトピックについて言えることだが、「言葉にした途端にそれはこぼれ落ちてしまう」などと言われても私は信じない。

2022/07/23

朝から哲学若手研究者フォーラムを聞いていた。昨年は参加しなかったので二年ぶりだ。そういえば修士1年の2018年、知り合いもいなかったのにふらっと参加したのはなぜだろう。結局その年も翌年も宿泊することはなく、いつの間にかオリンピックセンターとは切り離されたイベントになってしまった。

伊藤さんの真正性の発表は、前からうかがっていたアイデアの全体像が知れてよかった。やはり、時間をかけて用意されたスライドがあるかないかで人の発表を聞くモチベーションが段違いだ。伊藤さん以外にはとくに参照があったわけではないが、なんだか言語行為論的な世界観をあちこちで感じる一日だった。最後に社会存在論の講演があったからかもしれない。倉田さん三木さんはやはり先生なだけあって、話して聞かせて分からせる技量がさすがに一段上だった。社会存在論の勉強会もやりたいな。

今年は聞きたい発表が1日目に密集していたので、明日は自分のことをやろうと思う。

2022/07/22

『チ。―地球の運動について―』のたいそうパワフルな批評を読んだ。書き手は、本作のエンターテイメント/ドラマとしての秀でた点を十二分に認めつつ、史実との齟齬が本作の目的に照らすとやはり欠陥であることを、長大な科学史語りによって示している(結果として、『チ。』に劣らないほどの科学エンタメ記事になっているのも素晴らしい)。知的探求や真理への忠誠といった『チ。』の中心的な主題を踏まえれば、史実における文脈のディテールを省いたり、「科学vs宗教」のような対立構造へと単純化するのは、たとえそれがエンターテイメントの優先なのだとしても、やはり自己矛盾だろう。筆者の論旨は明確であり、説得的である。

本批評は①『チ。』を評価するためのフレーム(作品の目的、カテゴリー)を設定し、②作品において行われていることを特定し、③その一貫性や矛盾から良し悪しを語る、というキャロル的なアプローチを採用していて、私としても馴染み深いものだった。結果として出てきた「歪で不誠実で不愉快」という結論を否定したいなら、書き手の設定しているフレームが不適切か、記述されている作品性質が正確でないかを示すほかない。その点、書き手は無理のない前提に立って、妥当な評価を導いているように思われる。

書き手も繰り返し留保しているように、上述の欠陥は『チ。』がエンターテイメント作品として抜群に面白いことと矛盾しない。むしろ、抜群に面白いからこそ、欠陥は単なる不備ではなく歪さというより深刻なものとなる。このような割り切り方を知らず、作品愛に駆動されて「フィクションは面白けりゃなんでもいいだろ」と言う人は、思いのほか見当たらなかった。6〜7万字という分量に圧倒されて、下手に退けられないのだろう。ぜんぜん関係ないが、たしかに、量には圧倒されてしかるべきだ。

2022/07/21

コロシテくん改めミャクミャク様は、何度見ても強烈なルックスだ。とても国を上げたイベントの公式キャラクターとして採用されるルックスとは思えないが、そうなったからには私の常識が古かったということなのだろう。

考えてみれば、この血みどろの肉塊に目玉をたくさんつけた生き物が「気持ち悪い」のも、文化的な刷り込みでしかない。私は知らず知らずのうちに、こういう奇形を気持ち悪がらされていたわけだ。無垢な目で見れば、色合いもポップだし、やわらかそうだし、目という親しみやすいパーツがたくさんついているし、素敵な笑顔ではないか。なので、言われているほど子供を怖がらせるようなルックスではないのかもしれない。モンスターズインクにも奇形の生物がたくさん現れるが、あれらは「かわいい」ではないか。

書いているうちに認知が調整されて、ふつうにかわいく見えてきた。公式サイトの「キャラクター展開案」なんかは、不定形であることをかなり活用できているし、こうやって使うのかという意外性がある。少なくとも、東京オリンピックのミライトワみたいな、完全に置きにいったキャラクターよりだいぶ見どころがある。

2022/07/20

大学で本を買ったついでに、院生自習室でしばらく作業していた。17時で生協がしまったあとに気づいたのだが、駒場キャンパスはどこにも自販機がない。日吉は塾生会館にあったし、なんなら校内にファミマがあった。三田も中央広場の側に自販機コーナーがあったはずだ。カピカピになりながら15分ほどあちこち探し回ったが、本当にぜんぜんなかった。一体全体どういうつもりなんだ。

と、かなり激昂していたのだが、家に帰ってからよくよく考えたら、中央のミニ生協的な売店の脇にあったのを思い出した。ふつうにあった。久しく通わないうちに、私がすっかり忘れていただけだった。

2022/07/19

セブンでケンタッキービスケットのジェネリックを売っていることを知ってしまってから、毎日1袋(2個)食べてしまっている。やってしまっている。

2022/07/18

昔から音楽を聞くときにはアートワークをかなり重視していた。ジャケットがダサいアルバムは中身がよくても、なんだか聞く気になれないのだ。Al Greenなんかはたいそういい音楽なのに、アートワークが総じてダサいので、『Call Me』ぐらいしか聞かない。一方、収録されている曲の性質とアートワークの性質に一貫性があるのはうれしい。マルチモダリティというやつなのかは分からないが、視覚的なものと聴覚的なもののハーモニーは私に大きな美的経験を与えるような気がする。

2022/07/17

先日のちゃん読でかなり学びになったのは、ある概念の定義(必要十分条件の提示)をやろうとしている議論と、それの存在論をやろうとしている議論の区別だ。前者に対してはその条件は必要じゃないとか十分じゃないといった反論が意味を成すが、後者に対してはせいぜい必要じゃないという反論しか意味をなさない。類を明らかにして、種差はさておく議論(e.g.「人間は動物である」)は、この手のものだろう。なんとなく区別はしていたが、後者のプロジェクトと存在論という語が結びついたおかげで、見通しがだいぶよくなった。「ジャンルは伝統である」が十分条件になっていない、みたいな反論は藁人形論法になってしまうので気をつけたいところ。

2022/07/16

中目黒でたいそううまい酸辣湯麺を食べた。ほんとは都立大で食べる予定だったが、目星をつけていたお店のメニューが思てた感じとやや異なり、急遽探したわりには💯なお店だった。都立大でついでに買ってきたチーズケーキもねっとり重めで美味しかったし、セブンで買ったケンタッキービスケットのジェネリックみたいなやつ(これは翌日に食べた)もうまかった。講義資料作成の進捗はまずまず。

2022/07/15

意図主義と反意図主義の論争で、互いが互いを「言語モデルに依拠していて適切ではない」と言っている、奇妙な事態についての手短な解説。

意図主義が反意図主義の言語モデルを批判するときに念頭においているのは、「意図を推測しなくても、言語的慣習で意味は定まるだろう」という慣習主義だ。具体的にはビアズリー。キャロルは、このような立場では、言語的慣習のような外部装置の存在しない芸術形式(絵画や音楽)の意味を説明できない、とする。

反意図主義が意図主義の言語モデルを批判するときに念頭においているのは、「言語表現が意図を介して意味を持つように、芸術の意味も意図次第だろう」というコミュニケーションモデルな意図主義だ。印象としては、グライスを読んでいる意図主義者がよくこういう立場をとる。ガウトは、このような立場では、芸術作品が意味を持つ多様な仕方を捉えきれない、とする。

つまり、ここではモデルとされている言語に関して、「言語の意味は慣習で決まる」「言語の意味は意図で決まる」というそもそもまったく異なる前提がある。結果、慣習だけじゃダメだという意図主義者は「言語モデルじゃダメだ」と述べ、意図だけじゃダメだという反意図主義者も「言語モデルじゃダメだ」と述べる。

2022/07/14

パフォーマンス・アートを教える回だったが、ヴィト・アコンチとかマリーナ・アブラモヴィッチのエログロな作品は、どこまで講義内でシェアしていいのか悩ましい。皮膚をフックで吊り下げる、みたいなレベルになると私も見たくないので見せないが、私にとってはセーフだが生徒にとってはNGな過激さの場合、どう判断すればいいのか分からない。なんとなく、ダミアン・ハーストのホルマリン漬けされたサメはOKで、ぶった切った牛はNGぐらいのつもりで紹介している。

2022/07/13

我ながら「あれっ?」と思ったのだが、次の瞬間にはカレー屋でばくばくとナンを食べていた。まぁ、これを白米のように食べている文化圏だってあるのだから、とりたてて奇特なことではない。ナンはいくら食べてもうまい。一昨日はバターチキンカレーとエビカレーを食べたが、今日はマトンカレーとほうれん草チキンカレーを頼んだ。

2022/07/12

「適切な」芸術鑑賞に関して私がとる立場は穏当すぎて面白みがないが、「ちゃんと調べてちゃんと見る」ことだ。調べるだけで実物を見ないのはもったいないし、なにも知らずに「ただ見る」のももったいない。

それはそうと、まったく芸術鑑賞に馴染みのない人に向けてこの楽しみや興奮を共有するには、もうちょっと工夫が必要なのかもしれない。例えばそれは「まずは自由に見て感想を言ってみよう」といった敷居下げから始まるかもしれないし、まずはアーティストの面白エピソードを紹介するところから始まるかもしれない。この「まずは」が抜け落ちて、偏見を養うのは教育上問題だが、初手から「ちゃんと調べてちゃんと見る」ことを要求するのは、あったはずの興味をしばしば削ぐことになる。「適切な芸術鑑賞」というのは、すでにアートワールドに参与している人にとってのもっとうまくやる方法であり、参与するかどうか決めあぐねている人にとってはほとんど助けにならない。なんにせよ、「やるならこうやりましょう」という話は比較的しやすく、「これをやりましょう」という話はしにくい。

ところで2022/03/17ぶりに雨のなか自転車こいで帰宅した。とんでもない大雨で、誇張なしに水中を泳いで帰ってきたも同然だ。

022/07/11

腹をすかせてから、カレー屋でばくばくとナンを食べた。血糖値スパイクで眠気がとんでもなかった。

2022/07/10

AirPods Proの故障で、Apple渋谷に行った。けっこう前からザラザラ(ときには爆音のザーーッ)というノイズがあり、さすがにやってられなくて調べたら、ある時期以前のモデルにはその不具合があるらしい。持ち込んで見てもらったところ、やはりそれらしく、無償での交換となった。Appleの販売員はみなプロフェッショナルで、茶でも勧められる勢いだった。我ながらチョロいと思うが、こう満足度の高いユーザーエクスペリエンスを提供され続ける限り、私がWindowsやAndroidに手を出すことはないだろう。

2022/07/09

駒場を散歩し、ティラミスを食べた。改めて歩いてみるとずいぶん小さなキャンパスだ。そういえば一度も降りて見たことがないが、炊事門のそばにある池は一二郎池と言うらしい。本郷の三四郎池をもじったネーミングらしいが、ずいぶん安直だ。今日も結局見ることはなかった。

2022/07/08

インターネットを見ていても、心身が疲弊するばかりの一日だった。元首相が襲撃されたことに関していろんな人がいろんなことを言っていたが、共感したり反感を覚えたりしているうちに、そうやって感情的に反応しているのが自分であって自分でないような気がしてきた。「暴力は許されない」という最低限度のモラルでさえ、私のモラルなのか私というキャラクターのモラルなのか分からなくなり、誰がなにを言ってもパフォーマンスに聞こえ、どんな映像も見世物に感じられてきたので、さすがにまずいと思い、昼過ぎには一旦ネットから離れた。「ショッキングな事件を見聞きしてつらいときには、一旦テレビやインターネットから離れて」という注意喚起ですら、“お約束”の一部なのがかなりつらかった。つらい、と言いつつ実際のところ大してつらくないのもつらかった。

隣町まで自転車で出かける。ふだんは目にも止めない八百屋が当たり前のように野菜を売っていたのを見て、多少生活を回復できたような気がする。自転車屋で、ずっと破れっぱなしだったサドルを交換してもらった。

2022/07/07

ジョン先生とミーティングをした。メタカテゴリー論の論文を見てもらっているが、ネイティヴだけあってgenreやstyleに関して向こうの自然な用法を共有してもらえるのがうれしい。反例合戦は、そもそも問題となっている事物や、その言語的な扱いに関する直観が必要なのだが、非ネイティヴだとよく分からなくなることが多い。あと、styleと様式はけっこう違うことに気づいた。

2022/07/06

選挙シーズンになると毎度思わずにはいられないが、若者の投票率を上げるための「投票ついでに美味しいごはんを食べて…」「投票用紙の質感が面白くて…」「選挙はワクワクする…」みたいな言説は、とどのつまり小細工であって、それを認めないなら欺瞞だろう。若者がそれで心惹かれると本当に思っているのだとしたら、子供扱いが過ぎる。それによって促される行為(たいていは、野党候補者への投票ということになるのだろうが)にどれだけ大義があったとしても、小細工というのはやはり格好悪いものであり、子供扱いはそこだけ取ればわるさがある。コンビニトイレの「いつもキレイにご利用いただきありがとうございます」みたいなものだ。

選挙にかかわらず美味しいごはんは食べに行けたり行けなかったりするし、投票用紙の質感の面白さはたかが知れているし、オンライン投票すらできず列に並ばされるイベントはそうワクワクはしない。釣りなのだとしても、餌が貧相すぎるだろう。

2022/07/05

人にせよ芸術作品にせよ、分類するのはダメだという言説が今も昔も根強いが、そういう人たちへの嫌がらせとしてカテゴリーを研究している部分が5%ぐらいある。habitとしてbadかどうかはともかく、分類と期待が人間の世界認識のデフォルトなのだとしたら、それとどう付き合っていくかを考えたほうが生産的だろう。思うに、重要なのは期待はずれを楽しむ余裕と適時カテゴライズし直す素直さを持つことであって、はなからなにも期待しないことではない。おそらく分類はダメ派の言いたいこととは、「あるカテゴリーに固執し、ディテールを見逃してはならない」という程度のことなので、よくよく考えてもらえればこちらとの対立点はほとんどない。とにもかくにもカテゴライズとはわるいものなので、あらゆるカテゴライズを拒め、みたいなモードを推し進めるほうがよっぽど弊害が大きいと思う。作者の死もそうだが、そうやってナイーヴなままに尖っていくムーヴに、なにか名前がないものか。

2022/07/04

先日の講義でアプロプリエーション・アートを教えながら、ポピュラーカルチャーにおけるパクリについても生徒たちの意見を聞いてきたのだが、「作風をパクるのはNGか」という問いに対して、「作者本人に許可を取ればOK。勝手に商業利用するのはNG」という線引きの人がかなり多かった。

私はあまり共感しないが、それはともかく考察ポイントはいくつかある。

  • 作風が特定の作者と結びつくことや、オリジナリティについてはナイーヴに捉えられがちで、どんなスタイルであれ寄せ集めのエクリチュールなのである意味ぜんぶパクリなのだ、みたいな芸術観はぜんぜん受け入れられていない。

  • 作者というのは、連絡して許可を取れる相手として想定されていることが多い。おそらくは念頭においている作者とは、Twitterやpixivで活動しているイラストレーターのようなもので、距離的にかなり近い人物なのだろう。

  • 金銭が絡むと不当さを感じる人が多い。単純に、そのほうがわるさが分かりやすいからだろう。

  • パクリは悪なので、なんにせよ許してはならない、という極端にナイーヴで尖っている人がもう少しいるかと思ったが、ほとんどいなかった。Twitterのトレース警察みたいなの。

ふたつ目なんかはなるほどなぁと思った。

2022/07/03

ちょっと歩いたところでずっと大規模な工事をしていたが、今日見に行くとでかい道路ができつつあった。目黒通りまで貫通する予定らしい。なんだかストーリーを進めたことで、前まで使えなかったショートカットが使えるようになったという趣だ。生活の動線としては、塾まで行くのに狭苦しい商店街を走らなくて良くなるので、わりと期待している。

2022/07/02

お寿司DAY。今回はたいそうお腹が空いていたのでばくばくと食べた。行きつけの店舗、数年前にできたばかりでいつ行っても空いてるのがhappyだったのに、いつのまにか行列店になっていた。待ち時間でぷらぷら本屋を見れたのでそれはそれでよかった。

2022/07/01

遅ればせながらトム・ヨークらのThe Smileを聞いているが、尖ってるのにめちゃ聞きやすいアルバムでびっくりした。いくつか書かれているのを見たが、最近のUKジャズ〜ポスト・パンクとも呼応するような曲が多くて、「面白そうじゃん、俺らも混ぜろよ!」な趣がある(Sons Of Kemetのドラマーが入っているのでそりゃそうだが)。それが大御所の「やってみた」感にとどまらないのは、いつもながらトム・ヨークの歌声によるところが大きいのだろう。パンクやマスロックっぽい音(どれもblack midiがやってそう)が目立つが、トム・ヨークがファルセットで歌うとぜんぶトム・ヨークになる。私は前半終盤のThe SmokeThin Thingみたいなタイトな音がとくに好きだし、ちょうど折返し辺りにOpen The FloodgatesFree In The Knowledgeというグッド・メロディな弾き語り曲が配置されているおかげで、構成としてだいぶと安心感がある

2022/06/30

今日の講義で簡易的にとった投票では、「批評は①作者の意図を踏まえるべき、②鑑賞者の自由である」の比率が6:4で、「倍速鑑賞は①あり、②なし」の比率が7:3だった。僅差ではある&前後の話でやや誘導してしまったところがあるが、今の大学生たちはどちらかというと作者を尊重するが、どう鑑賞しようが人の自由なのでとやかく言う気はないし言われたくない、というのがデフォルトなのかもしれない。割と予想通りの比率にはなったので、秋学期でも同じ質問をして、サンプル数を増やしたい。

しかしこう、ネットの人にせよ生徒たちにせよ、「映画を倍速で見ることのなにがわるいのか」をただちに「人に迷惑をかけていて、咎められ、差し控えるべき行為なのか」という問いでとってしまうのは問題だと思う。こちらの問い方にも問題があるのかもしれない。きっと、「わるい」という言葉がわるいのだろう。欠陥、不備、至らなさ、不適切さあたりで言い換えたほうが、議論のポイントが伝わりやすいかもしれない。とはいえ、実際の選択や規範を脇において、ある行為のわるさなり不適切さを語るというのもおかしな話ではあるので、そこを切り分けて考えている哲学者のほうが変なのかもしれない。

2022/06/29

掘り出してきた『どうぶつの森 e+』をポチポチしていたが、初対面からオラオラと乱暴な言葉づかいで、始終不機嫌な狼がいて腹立たしかった。私がなにをしたというのか。きっと、小学生なんかはこういうキャラクターをキャラクターとしてすんなり落とし込めるのだろうが、私は変に人と人のコミュニケーションを求めてしまったせいで、腐れ狼の態度に対する閾値が低すぎたのだろう。近所の温厚な雌羊が「言葉づかいは乱暴ですけど、本当はやさしいんですよ」とか言っていたが、乱暴な言葉づかいがevilであることに変わりはないし、おまえ羊が狼にそんな油断してていいのかよとしか思わなかった。明らかに私がどうぶつの森に向いていないのだが、件の狼が不快であることに変わりはないので、つきまとったりアミでしばいたりして、早めに引っ越してもらおうと思っている。

2022/06/28

アメリカンプレスで水出しコーヒーを作るのにハマった。なんでいままでこの用途に気づかなかったのかというぐらい快適にgood vibesなコーヒーを獲得できる。注ぎ口だけ空いてて困るので、キッチンペーパーを詰めている。

2022/06/27

ちゃん読で昨日の日記の話を松永さんとお話し、ウォルトンの言う可変的特徴に関して学びを得た。芸術のカテゴリーは標準的/可変的/反標準的な特徴のセットと紐付けられているが、可変的特徴はさらに、そのカテゴリーにとって美的に関与的なパラメータと、どうでもいいパラメータとで区別がある(あるいはグラデーションをなしている)。ホラーにとって標準的でも反標準的でもない特徴のなかに、ホラーの事例としての特殊性(個性や、その作品ならではの工夫)につながるようなパラメータとそうでないパラメータの区別があるわけだ。すると、概念の抽象度を落としたときに起こることは、①可変的特徴が標準的ないし反標準的特徴として振り分けられるというのに加え、②可変的特徴の重み付けが変わることで、一部のパラメータが強調されるというのもあるのだろう。

あるいは、「可変的特徴」を美的に関与的なものに限定するならば、そもそも特徴群はカテゴリーに従って標準的/可変的/反標準的/美的に関与的でない特徴の四つに振り分けられることになる。この場合、概念の抽象度が落ちると、可変的特徴は“増える”ことになる。重み付けで考えるか、線引きと増減で考えるかは好みだが、この辺をウォルトンがどう考えていたのかは気になる(細かく考えていない、という可能性はそれなりにあるが)。

2022/06/26

松永さんのエントリーを読んで考えていたが、概念(カテゴリー)は抽象度を落とすと、可変的特徴だったものが標準的特徴か反標準的特徴のいずれかに振り分けられて減っていく、というイメージがいいのかもしれない。あるレベルのカテゴリー、例えば〈ホラー〉は一連の標準的特徴反標準的特徴を持ち、それ以外可変的特徴において事例の差分が比較される。そのサブカテゴリー、例えば〈ゾンビ・ホラー〉は、なにを表象するかという可変的だったパラメータを「ゾンビを表象する」という標準的特徴として固定することで、可変的特徴を減らしている。〈ゾンビホラー〉の事例たちは、残った可変的特徴において、それぞれの個性を発揮することになるもっとも抽象度の低い絶対的にdeterminateなカテゴリー、すなわち〈ある個物aと同一である〉というカテゴリーは、aが持っているあらゆる性質を標準的とし、aが持たないあらゆる性質を反標準的とするため、可変的性質がまったくない。determinableとdeterminateの区別は前からよう分からんかったが、こういう理解の仕方があると知って自分もかなりすっきりした。

ややこしいのは、数学に出てくるような概念(例えば、四角形>台形>平行四辺形>長方形>正方形)とは違い、芸術カテゴリーのような類は標準的特徴を論理的な必要十分条件として期待できない点だろう。ウォルトンもそう考えたように、標準的特徴や反標準的特徴は芸術カテゴリーのメンバーシップにとって論理的な条件にはならない。そうなると、カテゴリーの階層関係だとみなされているものを下る際に、可変的特徴の振り分けが行儀よくなされるとは限らなくなる。〈ホラー〉のサブカテゴリーを下っていくと、どこかの段階で、〈ホラー〉としての標準的特徴を可変的ないし反標準的特徴として持ったり、反標準的特徴を可変的ないし標準的特徴として持つようなサブカテゴリーに出会うかもしれない。上位概念と下位概念同士がきれいな入れ子になっておらず、はみ出していることがあるのだ。それはもっぱら、芸術のカテゴリーが細分化されたコミュニティやそのメンバーたちの信念によって成立する、社会的な面を持つことに起因するのだろう。厳密に正方形であることは厳密に四角形であることを含意するが、厳密にフリー・ジャズであることは厳密にジャズであることを含意しない。階層関係がなあなあであることは、芸術のカテゴリー(というか、社会的なカテゴリー一般)考える上でかなり面白ポイントだと思う。

2022/06/25

近代美術館でゲルハルト・リヒター展を見て、日比谷のTOHOで『ベイビー・ブローカー』を見た。その前後でミロンガ・ヌオーバに行ったり眞踏珈琲店に行ったり牛カツに行ったりしたので、盛りだくさんの土曜日だ。激暑で移動がしんどかったが。

リヒターは、フォト・ペインティングと写真の上に絵の具載せるシリーズがバキバキに良かった一方で、抽象画はどれもそんなに興味がなかった。出展作品のけっこうな部分を占めるアブストラクト・ペインティングは、何個見たって同じだろうとやさぐれそうになる。私がリヒターに期待しているのは、絵画と写真を脱構築するような、モダニズムの歴史と不可分の作品であって、その期待が先走りすぎたのかもしれない。大きいキャンバスに巨大なへらで絵の具をベチャベチャ塗る作業は、画家にとってよほど楽しいのだろうが、そういうアナログな楽しみに留まっている印象を受けた。

『ベイビー・ブローカー』はそこそこだったが、映画館で映画を見る楽しみがおおいにあったのでOK。シメの串カツ、うまかった。

2022/06/24

今回の健康診断で、コロナ禍に入ってから1cm身長が伸び、7kg増量したことが明らかになった。もともとBMIが基準値を下回っていたのでこれでようやく標準体型ということになるのだが、どこから7kgもやってきたのか。数年前の身体に7kgのおもりをつけて生活していると考えると、これは結構たいしたものだ。

2022/06/23

〈他所で書いたものと一貫しているかは分かりません〉という文言がふと頭に降ってきて、すっかり気に入ってしまった。物書きするたびにこの注を入れておきたいし、Twitterのプロフィールなんかにも掲げておきたい。首尾一貫性が美徳であるのはその通りだが、現代の文壇に必要なのは矛盾を認める寛容さと、手元の議論だけを相手取る公平さだろうとつねづね思っている。死んだ後に墓石を設置されることになるとしたら(希望はしていないのでその可能性は低いのだが)この言葉を刻んでもいいかもしれない。死という結果は、おそらく私が生きているうちに書くことになるどれかしらと矛盾するものであろうから。

2022/06/22

私がはじめて美学という学問に触れたのは、三田で履修した西村清和先生の美学講義だ。あの講義はすごく感じがわるかった。西村先生は大学生に(慶應生に?)よほど恨みがあるのか、教室の前方2列ぐらいにしか届かない声量でぼそぼそと喋り、資料も板書もなく、デュシャンの便器がアートかどうかをたらたら話していた。当時の私にとってそんな問いはまったくどうでもよかったので、結局2回ぐらいしか出席しなかった。成績評価は期末試験だけだったので一応受けたのだが、それもデュシャンの便器についての記述問題だった。ふつうに落単したが、なんの知識もない大学3年生が《泉》に関してでっち上げた文章に単位をあげない程度にはちゃんと採点しているんだなぁ、と関心したのを覚えている。過ぎたことにもう恨みはないのだが、あのとき私がどんな文章をでっち上げたのかまったく覚えていないので、どうにか答案を見れないものかと思ったり思わなかったりする。

2022/06/21

講義で現代アートを教えているが、よくもわるくも、わけわからん作品を提示して生徒を戸惑わせることが主旨となってきた。難解であることは現代アートの一部であり、戸惑うことは芸術経験においてごく基本的な反応だ。それは、なにもかも明瞭に理解したい人にとってはストレスかもしれないし、とくに試験でちゃんと点が取れるのか不安にさせるかもしれない。が、少なくとも、高校までのお勉強とは異なることをやらされているという自覚を与えることが、大学での講義にとって課題となるだろう。

2022/06/20

家でおとなしくしていた。Joseph Kosuthってふつうにコースーだと思うんだけど、なぜコスースが定訳になっているんだろう。

2022/06/19

今日も今日とて美味しいもの(ステーキランチにティラミスとプリン)を食べに行ったが、朝から喉に痛みがあり、夜には微熱も出た。

2022/06/18

鎌倉へ遠足に行った。紫陽花見頃の土曜日で激混みだったが、行きたいところはおおかた回れた。帰り際に寄ったディモンシュではオムライス、プリンパフェワッフルを欲望のままに注文し、コーヒーで流し込むと脳汁がすごかった。タイミングが合わず、オクシモロンのエスニックそぼろカレーにはありつけなかったが、あれは似たようなものを自宅で作れるのでOK。

2022/06/17

文化的盗用のわるさが実際のところよくわからない。

2022/06/16

なんとなく『リア王』を読み直していて、なぜラストのシーンにはフランス王がいないのか気になった。イングランドへの侵略戦争を、イングランドから娶ったばかりの新妻にまかせ、自身は関与しないというのはふつうなのか。それも、勝ち目のある戦争ならともかく、コーディリアらはあっけなく敗戦し、悲劇が悲劇たるラストへとつながっていく。第一幕では、地位も持参金も顧みずコーディリアを救う良識ある人物だったのに、その後は一切登場せず、最後は妻を見殺しにしているようにも読める。

そもそも、あのタイミングでフランスが突然侵略してくるのも不可解だった。一応、ひどい扱いを受けているリアを救出するというポーズで話が進んでいくのだが、合流できた後も撤退せず、イングランド軍と全面衝突となったからにはやはり侵略戦争だったのだろう。いろいろ鑑みるに、おそらく物語の冒頭からしてイングランドとフランスの関係はよろしくなく、コーディリアの縁談も多分に政治的なものだったのだろう。もし、戦争を見越して後々利用するためにコーディリアを娶ったとしたら、フランス王はいくらなんでも狡猾すぎるが、さすがに考えすぎだろうか。それにしたって、結果的にイングランドは瓦解し、一番得をしたのはフランスだ。ありきたりな推理だが、密かに得をした奴はやはり怪しいのだ。

2022/06/15

先日のちゃん読での学びのひとつは、道具的価値-内在的価値の説明打ち止め問題に関しては、われわれが日常的にそれ以上説明しない辺りで適当に打ち止めればよいのであって、究極の内在的価値までたどる必要はない、ということだ。ビアズリーは内在的価値を認めないが、それでも価値について語れるのは、そういったプラグマティズムを採用しているからっぽい。これは割と説得的な話だ。価値の話になるたび、それ以上追及される余地のない究極的価値に基礎づけを求めなければならないのはたいへんだろう。

では、内在的価値ではないにもかかわらず、快楽や幸福を説明項として使えることをなにが担保しているかと言うと、集合的信念なり、ある種の思考の均衡なのだろう。Xには価値があるという常識が、価値に関してそれ以上追及することを免じている。これは、私があまり好きではない「議論におけるジョーカーカード」たちがジョーカーカードたる所以でもある。

あるいは、価値の源泉に関してそれ以上追及すべき場面と、しなくていい場面というのがあるのだろう。それがどう区別されるのかは、まだよく分からない。

2022/06/14

中学のころはJ-POPを聞いて、歌詞を調べてはノートに書き写したり、といった作業をしていたのだが、それというのも公認で掲載している歌詞検索サイトがどれもコピペをさせてくれないからだ。当時はそんなもんか、と思っていたが、改めて考えてみると馬鹿らしい文化だ。現行の著作権は多くの点で馬鹿らしいと思っているが、歌詞に対するそれは最たるものだろう。音楽や映画の違法アップロードが、商売にとって不利益であることは明らかだが、歌詞を転載することのなにが困るのか。そして、なにか困るのだとして、コピペ不可能にすることでどれだけ保護できるというのか。ひと手間かけて手打ちすればよいのだから、個人ブログでもYouTubeのコメント欄でも好き放題に転載されている。転載されたものは当然、コピペ可能だ。

走行速度もエスカレーターの乗り方もそうだが、実際に落ち着いている均衡と、制度が定めるルールに齟齬があるケースには、なんらかのイタさがある。もちろん、イタいのは制度設計側であり、行為者側ではない。

2022/06/13

親知らず②をぶっこ抜いた。すでに勝手が分かっているものはずいぶん気楽だ。風呂にビールがNG、というのがきびしい。

2022/06/12

実家で犬と遊び、ティラミスを食べた。

2022/06/11

山下達郎がサブスクを一生解禁しないことのなにがわるいのか。

幸い、これはまったく切羽詰まった問いではない。山下達郎を聞く人は山下達郎がそういう精神性でやっていることに賛同するだろうし、山下達郎を聞かない人はサブスク解禁によってなんら利得がない。私は山下達郎を聞く人であり、また、ああいう職人気質の人が何人かいないと、世の中回らないだろうと思う。数年前に生で聞いたヤマタツは本当に素晴らしかった。

それよりも、話の流れで「サブスクは搾取だ」といった趣旨のことを述べたのが、一部の人の気に障ったらしい。あんなの使ってるリスナーも搾取の加担者だ、ぐらいに深読みして怒っているのだろう。いつものインターネットだ。ちなみに山下達郎は、自作のサブスクは解禁しないが、人の曲を聞くのにSpotifyを使っているらしい。

こう書いてみてもどこにもオチのない話だった。怒りたくて怒っている人は怒らせておくほかない。

2022/06/10

右上の親知らずをぶっこ抜いた。初診はとりあえず見てもらうだけかなと思ったが、即日で問題の1/2が解決した。麻酔のチクッは記憶していたよりだいぶ余裕があったが、力を入れてメリメリと引っ剥がす音が記憶していたよりけっこう嫌だった。私は中学のときに矯正で歯を4本ぶっこ抜き、下の親知らずをそれぞれほじくり返し、それらに際して何本も麻酔をぶっ刺したので、口内の拷問に関してはそれなりの権威だ。地動説で異端審問にかけられてもそこそこのところまでは粘れるだろう。来週の月曜に左上も抜くので、ようやく私というアバターの歯の部分が完成するわけだ。長い道のりだったし、ずいぶん課金した。

2022/06/09

コミュニタリアン(共同体主義的)な美学理論がポツポツ目立つようになり、私も広い意味でここに足並みを揃えていると思うのだが、共同体の価値や規範の話を聞いただけでうげっとする気持ちは私にもある。イメージが悪いのだ。理念としてのcommunitarianismは全体主義も共産主義も含意しないと分かっているのだが、直観はどうしてもそこに滑り坂を見て取ってしまう。共同体の中でポジションを持つことがアイデンティティにとって重要だとか、あるものがどういう身分を持つのかは共同体次第だとか、私にとっては当たり前すぎるほど当たり前なのだが、他方で、うるせぇ自由意志だ!というふつふつ湧き出るものもある。シラー=リグルの美的自由のような議論が、まさにその両立可能性を論じているのだとしても、湧き出てくる個人主義はもっと天の邪鬼で、「両立」なんて解決とみなさなそうとしない。私ならそれを「サブカル」精神と呼ぶだろう。「あなたの好きはみんなと共有できるんですよ」というメッセージはまったく的外れであり、誰も理解してくれないからこそ私にとって大切なものが、少なくともいくつかある。反快楽主義は分業なのだという割ともっともらしい前提に立てば、こういった特殊な価値づけを説明する理論もひとつはあったほうがいいだろう。

2022/06/08

久々にホットサンドを食べたが、BASE BREADとは格が違った。後者はもう一年ちょいちまちまと食べてきたが、いい加減飽きてきた。栄養があるのは確かなので(確かなのか?)、3食に1食はこれにしようかというぐらいの気持ちではいる。

2022/06/07

昨日の日記で愚痴ったことから勇気を得て、今日はスーパーに行ってきた。タコライス、ビビンバ、焼き肉漬け、サルサホットサンド、トマト卵炒め、きゅうりのにんにくポン酢漬けなどの食材と、サッポロ一番みそラーメンを買うてきた。8000円ぐらいしたが、私の計算では15〜20食はこれで回せるはずだ。米とビールは買いきれなかったのでバイト帰りに買ってきたが、5kg+2kgちょいは「重い」ということを見逃しており、帰り道が筋トレとなった。

2022/06/06

先日の意図WSでの村山さん発表に関連して思いついたことだが、創造的行為における「意図の明確化」という現象は、私の場合、昼食の選択において最も頻繁かもしれない。ほぼ毎日のように作業しすぎでランチタイムを逃すのだが、15:00ごろになると空腹にもかかわらず、自分がなにを食べたいのか自分でも分からないゾーンに入ってくる。そして、Googleマップを開いて行きつけの店を吟味し、コンビニ弁当という妥協案を検討し、どれもこれもピンとこないうちに不毛すぎる30分が過ぎていく。

この場合も創作行為と同じように、何が失敗なのかは、すなわち何を食べたくないかははっきりしている。ある選択肢が目に止まっても、それを口に入れることを想像した途端、生理的嫌悪感に「蹴られる」のだ。そして、これだと決めてアクセスしても、本当に「それ」だったのかは舌で批評するまでは分からない。失敗によるコストはたいして大きくないのでさっさと妥協してしまったほうが時間の節約になるのだが、私の「その瞬間もっとも食べたいものを食べたい欲」がそうさせてくれない。

これはなにかのパラノイアかもしれない。梅雨が始まったので、昼食選択の問題はより一層深刻になる。明日も明後日も明々後日も「何を食べようか。あれでもないこれでもない」という時間を迎えると考えると、ちょっとしたホラーだ。

自炊のいいところは、ひとつには作り置きしてしまえば、日持ちという制約が選択をシンプルにしてくれる点だ。よく日記で愚痴っているが、実のところ私は時折のカレー地獄に感謝している。その週は、食べたいもの探しという認知的課題をサボれるのだ。しかしこれは、売れ線の作風で量産するアーティストと同じで、創造的ではないし、自己欺瞞ですらあるかもしれない。

2022/06/05

ズーラシアに行ってきた。目当てはヤブイヌだ。野毛山ぐらいの規模感を想定して行ったらだいぶと広くて、閉園時間ややオーバーでどうにか一周回れた感じだ。雨予報は回避できたが、どうもアニマルたちにはオネムな日だったようで、おとなしめの子が多かった。オランウータン、オットセイ、ライオンは迫力があったし、チーターはすごく近くで寝ててもふもふだった。セスジキノボリカンガルーは園が推すだけあって、シルバニアファミリーのような毛並みが愛くるしい。ピグミーゴートはめっちゃ賢い。ミーアキャットが駆け回っていたのは大興奮だったし、犬っぽいやつ(ドール、リカオン)は総じてわれわれ好みだった。ケープハイラックスという意味不明な生き物も個性的でよかった。マレーバクがすっかり寝てたのと、カワウソが見つからなかったのは痛手だったが、カワウソは昨年の油壷マリンパークで見たのでよしとしよう。

そして肝心のヤブイヌはといえば、寝ていた……!ぐっすり!小屋の中で……。寝顔もキュートだが、やや消化不良のまま次へ。帰り際にもう一度立ち寄ったところ、飼育員さん待ちでうろちょろしているところをちょっと見れた。ぼてぼてしていてかわいい。こんなにかわいいのに、まったくグッズ化されていないのが不可解だ。

2022/06/04

作者の意図を再訪するワークショップをしていた。内容的にはだいぶ余裕を持って準備できた発表だった。原さんは、仮説意図主義と現実意図主義が実のところかなり似通った立場であることを、村山さんは、制作における意図のあり方はもっとダイナミックであることをそれぞれご発表されていて、どちらも個人的に同意できる内容だった。

「作者の死ガー」な現代思想ヤクザはいなくて始終快適な回だったが、逆に言えばそういう尖ったスピーカーもオーディエンスもおらず、分析美学の作法と議論史をふまえた人たちのクローズドな会になったのだとしたら、ちょっと残念な気もする。が、殺伐よりは和気あいあいとしたほうが気分がいいのは確かなので、難しいところだ。私は(Twitterによくいる)極端な意図主義者も極端な反意図主義者も全員論破するつもりで意気込んでいたが、全然そんな必要はなかった。

2022/06/03

「作者の意図、再訪」ワークショップに先駆けて、ラマルクの再構成した「作者の死」を読んでいた。序盤の「私が興味を持っているのは議論であって、作者たちではない」というくだりも、終盤の「authoredなテクストに統制された意味や構造を求めることと、威張りちらした権威主義の作者の復位はなんら関係がない」というくだりも、たいへん鋭くてお気に入りだ。こういう態度をとりたいと思うし、こういう態度をとる人とのみ付き合いたいと思わされる。

2022/06/02

『経済学の哲学入門』にしょっちゅうアマルティア・センが出てくるのでふと思ったが、Senだけ見るとインド人っぽさがあるし、なんならKiyohiroもヒンドゥーの神にいそうなスペルだ。ちなみにインドではサンスクリット語の「軍隊[Sena]」に由来する名字らしい。それで特に困ることはなさそうだが、そういえば銭の中国語読みのQian(あるいはChien)で活動する選択肢もあったな。

2022/06/01

なぜか私のPCは昔から重い(なぜかといいつつ心当たりは少なからずあるのだが)。今日は片っ端からいらないファイルを見つけては削除していた。とくに、中高時代にレンタルCDからリッピングしまくった音楽をごっそり削除した。一体だれがこんなもの聞くんだ、というEDMやポストロックがぎょうさんあって恥ずかしかったのは、昔の私がセンスなかったからなのか、今日の私がスノッブになったからなのか。

ふとMUSEが目に止まり、「MUSEってバンド、いたな〜〜〜〜」としみじみ感じた。ほんとうにもう7、8年はMUSEのことが意識に上らなかったように思う。みんなそうなんじゃないか。スタジオ練なんかで唐突にStockholm Syndromeのリフなんかを弾き出したらユーモアとして機能しそうだが、スタジオ練の予定はない。

2022/05/31

美的自由や自律性といったアイテムが内在的価値を持つことに対して私は懐疑的なのだが、そこには私が小論文を教えるときにしつこく念を押している「自由やら平等やらを議論のジョーカーカードにしてはいけない」と同根の問題意識がある。あまり自主的に論証を構築したことのない生徒は、しばしば主張の理由づけに際し、そういった西洋近代の一般的美徳を持ち出しがちだ(もっとひどい場合には、単に違法であることをジョーカーカードにしてしまう小論文すらある)。たしかに、哲学者のように「よろしい。ではなぜ〜」と問い続けるときりがないのだが、心のノートで仕入れたような概念で話が済むなら、はじめから問うべき問いなどなかったも同然だろう。

2022/05/30

健康診断のため、ひさびさに駒場に出向いた。もはや大学には人がほとんどいないのが当たり前だと思っていたのだが、対面授業も再開した平日の昼間はわりと賑わっていた。生協で『経済学の哲学入門』と『論証の教室』を買った。まだそれぞれ2章ほど読んだ程度だが、とくに前者は美的快楽主義や価値や理由に関して私が考えていることの整理にも使えそうな内容で、美学者にもおすすめできそうな本だ(ちょっと難しいが)。

駒場の近くにはティラミスホームメイドといううますぎるティラミス屋があり、欲望にまかせて二瓶も買って帰ってきた。

2022/05/29

日曜の渋谷はとんでもなく人が多かったが、うまいアフォガートも食べたし、シャツも買ったので収穫の多い一日だった。冬の間は夏のギラギラした感じを心待ちにしていたが、この暑さだともう冬のひんやりした感じが待ち遠しい。

2022/05/28

発表してきた。ビアズリーを対象説に親和的な立場として読もう、という内容。ツメツメでだいぶ駆け足になってしまったが、去年よりは心持ちに余裕があった。人の発表を35分聞くのはずいぶん長く感じるが、自分が喋っている分には35分なんてあっという間だ。学生は毎週私の話を90分聞き続けていることになるので、心中お察しする。

ビアズリーを対象説として読むという本筋に大きなツッコミはなかったが、統一性・複雑性・強度の身分に関する松永さんのコメントはなかなか悩ましかった。ICUがつまるところ経験において立ち現れる性質だとしたら、対象説をどう維持していくのかはちょっと考えなければならない。私個人としては、ICUがもっと実在寄りの身分を持っていることを直感しているし、仮に実在論を諦めたとしても維持可能な立場だと思う(Shelleyは実在論にはコミットしていない)のだが、理屈とセットのディフェンスはとっさには思い浮かばなかった。

ホットトピックというのもあって、快楽主義とその論敵に関する問題設定レベルでの疑問を多くいただいた。この辺はまだまだ勉強不足で、いくらか議論を単純化しがちな自覚があるので、もっと時間をかけてすり合わせたいと思っている。ひとつ、になって自覚したのは、私自身がサポートしたがっている立場を「美的快楽主義」と呼ぶのはややミスリードで、心配されやすいという点だ。2022/02/112021/09/13にも書いたように、私が考えているのは「誰もが利得に突き動かされて行為選択をしている」という、ゲーム理論の前提になるような合理主義でしかない。「ロペスやリグルのアイテムも、要は快楽につながるから規範問題に答えられるのでは」と述べるときにも、快楽ではなく利得の語を用いたほうが共感してもらいやすいかもしれない。ともかく、これは今回の発表では二次的な話題だ。

森さんコメントへの応答のなかで、思いつきで喋った対象説ディフェンスは、わりとありかもしれない。対象説は規範問題にどう応えるのかという点だが、われわれが「美的」規範と仰々しい形容詞を付けて論じている規範性は、いろんな場面でいろんな都合があって生じている、源泉も強度も種類も異なる規範性のカオスなんじゃないか。美的価値とは対象側のイケてる性質ゆえの価値に過ぎず、そういった対象への関与に義務や権利が伴うのは、セカンダリーな事情による(快楽主義も、反快楽主義も、そのバリエーションについて述べていることになる)。思うに、真であることの価値もそういうものだが、認識論はレベル0なのでとやかく言わないことにする。

2022/05/27

明日は応用哲学会なので、せっせとレジュメを切っている。減量という意味での「切る」だ。早め早めで準備を進めると、当日までに喋りたいことが増える一方なので、締め切りギリギリから動き出すぐらいが丁度いいのかもしれない。

2022/05/26

ピザを食べた。皮膚科帰りにピザを食べるのが、私のルーティンとなっている。相変わらず、サラダにかかってる謎ドレッシングがうまい。夜には激辛麻婆豆腐も作って食べた。あれもこれも作り置きのカレーからの一次逃避であり、プレッシャーは日に日に高まるばかりだ。

2022/05/25

欲望にまかせて、近所で評判のプリンを買ってきて食べた。たいそううまいが、それなりに手間暇かけたプリンは一般的にいってたいそううまいので、感動するほどではなかった。映画もそうだが、ほんとうに意表を突くような傑作はごく稀にしか出会えない。たいそううまいものを食べれる人生はすでにたいそう豊かなものだが、私は強欲なので、たまには感動するほどうまいものも食べたい。

2022/05/24

最近のロペスみたいな、可愛げのあるオリジナルタームを散りばめた論述は、好きか嫌いかで言えば嫌いだ。理由は、論文を読んでいて知らない単語が出てきたり、妙に凝っていて解釈を要するような表現が出てくるとむかつくからだ。それは思考を停止させ、なくて済んだような知的負担を読者に強いている。そして、その目的はたいていの場合、書き手の格好つけだったりウケ狙いでしかないのも、付き合いきれないなと思う。いつも述べていることだが、基本的に私は「論文」というカテゴリーにおける修辞的要素を一律憎んでいる。真水のように透明で、DeepLに流し込めば外国の中学生にも飲めるような文章を絞り出すよう努力すべきではないか。

複雑な言葉でしか説明できない事柄を複雑な言葉で説明するのはなんの問題もない。しかし、人文科学では不必要に難しい文章が多すぎる。そして、「難解さにとどまることこそが人文科学の味わいなのだ」とそれっぽいことを述べる輩がそれなりにいることは、悲惨だと思う。

2022/05/23

学部時代にはあんなに嫌々読んでいたのに、いまでは経済学の話が面白くてしょうがない。あるものを面白がれるかどうかはタイミング次第、というのは生きる上で無視できない事柄のように思う。そのときどきの偶然的なプリセットが、目下のものを面白がれるかどうかを左右し、面白がったかどうかが次のプリセットを左右する。そのフィードバックループが好循環をなしているのが、やりがいないしwell-doingのある人生というものだろう。経済学を面白がれるタイミングは私にとってずいぶん遅かったようだが、結果としてそれを面白がれるプリセットを得たことは、なんにせよめでたいことだ。

2022/05/22

倍速鑑賞の話題でとりわけ不可解なのは、「倍速で見るのは自由だが、分かった気になって批評しないでほしい」というそれなりに人気の意見だ。

第一に、「倍速で見るとちゃんとした批評はできないから、やめておけ」ということであれば、「倍速で見てもちゃんとした批評ができる場合がある」で十分差し返せる。『死霊の盆踊り』が下品なうえに不必要なダンスシーンだけで構成された駄作であること、『東京家族』が伝統的な日本家族の崩壊という主題を端正に扱い、優美な構図を練り上げた傑作であることは、4倍速だろうが分かる。速度とは関係のない作品性質だからだ。倍速だろうが、作品については多くのことを知りうるのであり、それに基づいた批評は真正で気の利いたものとなりうる。問題があるとすれば、「動きやセリフが速すぎて不自然だった」「展開のテンポがサクサクしていて良かった」のような、倍速ゆえに得ている偶然的性質を評価の理由づけとして用いるケースだけだろう。しかし、そんなことをあえてしようとする人はまずいない。

第二に、倍速否定派は前提として、隅々まで目の行き届いた、作品の良さ/悪さを余すところなく引き出した批評のみを批評として期待しているのかもしれない。「倍速で見ると十全な批評はできないから、やめておけ」というわけだ。確かに、「倍速で見ると十全な批評はできない」は認めざるを得ない。速度が関わる作品性質もあるからだ。しかし、批評に十全さを求めるのは明らかに理不尽だ。間が大事な作品の間に言及しないからといって、その作品の真正な批評にならないというわけではない。批評は選択的でいいのだ。(「倍速で見ると、真正だろうがあまり面白みのない批評になる見込みが高い」ぐらいなら、言いたいことは理解可能だ。)

第三に、「倍速で見たくせに作品の良し悪しを語るなんて、傲慢だ/ずるい/不当だ」ということであれば、情動表出以上のものではないので、言い返せることはない。「作品に対する誠意のない人とは付き合いたくない」というのは、誠意の基準について対立しうるが、十分に理解可能だ。そのようなことを言う人は、作品への愛が強すぎるので、そもそも批評を嫌っている見込みが高い。実際、倍速で見ただれかが作品についてとやかく批評したところで、上のような見解の人にとって実質的な損害はなにもない。しかし、愛は功利主義では説明できそうにない。

ということで、「倍速で見るのは自由だが、批評はダメ」という線引きを持ち出すのは悪手であり、無根拠であるか単にお気持ち表明であることがほとんどのようだ。倍速によって取りこぼされる重要ななにかがあるとすれば、それは知覚・経験のレベルにあるのであって、批評云々はぜんぜんまったくなんの関係もない。

2022/05/21

キャロルの「Forget Taste」(2022)を読んだ。基本的には「Art Appreciation」(2016)の話を趣味概念の批判として再構成したもので、特に新しい話はしていないが、詳細な説明が加えられ分量は倍ぐらいになっている。キャロルのアプローチには全面的に同意できるわけではないが、私にとっては何度も立ち返るデフォルト理論となっている。

キャロルによれば趣味概念は(たいてい理想的批評家が基準となるような)快楽概念と結びついたものであり、ラフに言えば作品を好むか嫌うかの問題だ。実際になされている芸術批評は明らかに好き嫌いや快楽の問題ではないので、趣味概念はいらないというわけだ。この点、キャロルは芸術的価値に焦点を合わせているものの、最近の反快楽主義と同じ方向を向いている。アートワールドにせよ美的生活にせよ、価値を快楽で一元的に説明するにはあまりに多様なのだ。キャロルの主張は、美的経験を快楽や価値ある経験に訴えず定義する内容アプローチとも一貫していて、ざっくり要約すれば、クールな芸術批評を推し進めたい人なのだろう。キャロルの師匠筋にあたるディッキーもそういう論者だった。

キャロルは代替案として、作品の構成的目的およびこれを実現する手段に基づいた、趣味ナシ評価を好んでいるが、「美しさや優美さを追求する」のような目的を持った作品はどうするのか、という反論は気になっていた。今回読んだ論文では面白いことを述べており、曰く、美的性質の検出にも趣味は必ずしも必要ではないとのことだ。これはシブリーの前提と真っ向から対立する見解のように読めるが、はっきり決着がつけられているわけではなさそうだ。おそらく、美的性質(美しさや優美さ)を検出する心理的プロセスが、なにかを好んだり快楽を感じるような心理的リソースと不可分であるかどうかが争点なのだろうが、この場合、ときにはそうでないと述べるキャロルに対し、つねにそうだと考える趣味論者のほうが不利にはなるだろう。キャロル的にはたいていそうではない、ぐらいの主張をすることがフェアだと思う。

別の話として、「好き嫌いはともかく──」というスタンスを広めることが、アートワールドや美的生活を豊かにするのかは分からない。「『死霊の盆踊り』は大傑作であり、大好きだ!」という人を捕まえて、「お好きなのはおおいに結構だが、駄作なのは認めてください」というのは、いかがなものか。それは客観世界のより正確な表象を手助けしている点では認識論的に美徳があると思われるが、当人の経験世界を否定している点ではふつうにハラスメントだろう。必要なのは、教育する側のケアなのか、教育される側の割り切りなのか。これもよく言われる(真偽不明の)話だが、西洋人は「好き嫌いはともかく──」に慣れており、日本人はもっと感情的な尊重を求める、という背景もある。どちらのスタンスが人生を豊かにするのか、なんていうのはでかい話すぎて私には分からない。

2022/05/20

近所のフランス料理屋で食べたパプリカの冷製スープとチーズパンが美味しかった。家の近くに小洒落た店がいくつかあるのは、東京に住む利点のひとつである。

2022/05/19

美的なものを考える上でappreciationを中心に据えるのは狭すぎ、という(最近よく聞く)見解は、実のところ話題を変えてしまっているのではないかと思う。少なくとも私には、アジェの写真を収集・保存する営みと、アジェの写真を鑑賞する営みが同種であり、包括的な説明を要するというのがいまいち飲み込めていない。美的な生活の多様性を強調するのは結構だが、美的なものへの関与と美的関与を混同してはならないだろう。あるいは、混同しているわけではなく、意識的に話題をシフトさせようとしているのかもしれない。

少なくとも私の関心はダンス教室やスケボーや洋服選びより、芸術鑑賞や批評にある。

2022/05/18

あらゆる学問は意義があるという前提のもとで、しかし中高生の貴重な時間をとって学ばせ、受験で競わせるのは不当だろうという科目はいくつかある。個別の評価は人それぞれだ。私にとって不当なそれは古文漢文であり、別の人にとっては三角関数だったりするのだろう。

まず、教育を設計する側が怠惰であり、これまでやってきたことを見直したり修正するのを面倒がっているせいで、優先順位の低い科目を教え続け、優先順位の高い技量を教えていないというのは、紛れもない事実だろう。必要に迫られて古典を紐解いたり、三角関数を用いた計算を行う人は、正味な話まれだろう。その辺を過大評価している人は、単に世界を誤表象している。また、まれであることを暗に認めた上で、それが重要となる個別の場面を列挙し、「ほら、必要知であろう」と示そうとするのも悪手だ。争点はいずれにしてもその優先順位が低いことにあるのだから、まれに役に立つことを示されても不毛なのだ。

そうは言っても保守は人間にとって自然なシステムなので、「Xはいらない」式の議論を精緻に展開し、改革につなげることはたいてい無理がある。だいたいそういうのは「XよりYのほうがいらんだろう」と脱線していったり、個人の思い出話に流れたり、果ては教養をめぐる人格攻撃合戦に転じるので、救いがない。理不尽を押し付けられるのは中高生なので、どうにかならないものかとは思う。

2022/05/17

ガクシーンの応募資格を誤解していたせいで、朝から方方に問い合わせ、頭を捻り、一日が終わった。それでなくても私は雰囲気で博士に属しているようなところがあるので問題だ。反省した。

2022/05/16

ちゃん読でビアズリーの美的経験論をちゃんと読んだ。来週末にはビアズリーについて発表する予定であるにもかかわらず、ビアズリーのことがますますわからなくなってスリル満点だった。

美的快楽主義といえば、美的価値を美的経験から説明するビアズリーが代表だと思っていたのだが、どうも後期のビアズリーは「美的経験≒美的な性格を持った経験」を快楽には還元したくないそうなのだ。踏み込んだ説明はないので、実のところ美的経験(≒美的楽しみ≒美的満足)=快楽の一種だと考えるのが無理なく整合的なのだが、どうなのだろうか。快楽じゃないとしたらなんなのか、そのことは規範問題をどう説明するのか。

2022/05/15

今年もせっせと学振を書いている。学振に受かるとうれしいことのひとつは、向こう2年は学振を書かなくていいということだ。

2022/05/14

中華を食べに行ったら平日しかランチをやっていなかったので、近くにある別の中華に行った。カサゴの唐揚げに甘酢あんをかけたものを初めて食べたが、THE中華料理といった感じの味付けで美味しかった。

A WORKSは、7年前に行ったときには古民家風の落ち着いたお店だったが、いつの間にか移転し、行列のできる映えカフェと化していた。テイクアウトしたチーズケーキはしっかりうまかった。

中目黒にあるバカ高ジュース屋さんにも行ってきた。さすがにかなり美味しいジュースだったし、お店の向かいにあるペットサロンでパピヨンとテリアの子犬がじゃれていたのでかなり得をした。

2022/05/13

なんで新譜に収録されていないのか謎だが、ケンドリック・ラマーの「The Heart Part 5」はヒップホップについぞハマれたことのない私にとってもかっこいいトラックだ。すごいすごいとは何年も聞かされてきたが、ようやくケンドリック・ラマーを聞き始めるきっかけを得た気がする。それにも増して、マーヴィン・ゲイの『I Want You』を聞くきっかけを得たことがラッキーだった。『What's Going On』『Let's Get It On』ばかり聞いてたが、アルバムとしては『I Want You』が一番好きかもしれない。

2022/05/12

アンディー・ウォーホルのマリリンが20世紀の作品としては史上最高額で落札されたというニュースを授業で紹介した。ついでにちょっと前のサザビーズの話もしたが、アンケートをとったところ、ウォーホルのマリリンよりもマグリットの《光の帝国》が欲しいという人が倍ぐらいいた。純粋にインテリアとして考えるなら、マグリットのほうが色も落ち着いているし、ちょっと風変わりなのも「アート」な感じで好まれやすいのだろう。どでかいマリリンの肖像画なんてけばけばしくて趣味が悪いと思われているのかもしれない。

2022/05/11

均衡したルールというのは怖いもので、一旦定着してしまったからには、そこから逸脱する人に対してオートマチックに反感を抱かせる。具体的には、マスク生活がデフォルトになってしまった今、隙あらばすぐマスクを外したり、なにがなんでも鼻だけは出しておきたい人を見ると、なんてわがままで非常識な人なんだろうと、とっさにそう思ってしまう。実際、そのような反感は自分への健康リスクに基づいている点では合理的であり、またノーマスクを推進する人のなかにはやばめの人が相対的に多めである点でも合理的なのだが、全面的に合理的とは言えない。いまさらマスクを嫌がるのは単に忍耐力の欠如であり、そういう輩はどうせ他の場面でも短気でずぼらで自民党支持者なのだろうと思っているうちは自分へのリスクなど考えておらず、相手の品性を勝手に裁断しているだけなのだ。お腹が空いていたり天気が悪いときには、私もすぐそういう思考モードになってしまう。もしかしたら彼/彼女らには呼吸器系の疾患があり、マスクをつけ続けると危険なので、人に迷惑をかけないタイミングを必死に探して、申し訳無さとともにマスクをずらしているのかもしれない、という風に想像力を働かせることは容易ではない。

それはそうと、空気を気にすると言われがちな日本人が、一度定着してしまったマスク生活からはたして脱却できるのか、なにがきっかけで脱却するのかは、社会科学的に大注目の事象だろう。私は本当にどっちでもいいのだが。

2022/05/10

ミュージカルの「突然歌い出すのがきしょくてイヤ」問題は、作品をミュージカルというカテゴリーで見ておらず、突然歌い出すことのない作品をも含むより一般的なカテゴリー(映画)で見ているから、というのが無難な答えになるだろう。リアリズムとして期待しているからだという説明だと、それは単にカテゴリーミステイクだという話になるのだが、より一般的なカテゴリーとして期待する分にはカテゴリーを誤っているわけではない。稀な可変的特徴にうまく反応できていないだけだ。能やオペラはそのカテゴリーに精通したマニア向けであり、それらを含むより一般的なカテゴリー(舞台芸術)のもとで見られることが相対的に少ないのだろう。ミュージカルは、ミュージカルを期待しておらず単に映画を期待している人が見るからこそ、きしょくてイヤという評価になることが相対的に多くなる。

それだけではない。そもそもの話として、人が突然歌いだしたり踊りだすことを標準的特徴としているカテゴリー自体が馬鹿げている、という見解のミュージカル嫌いもいるだろう。これはカテゴリーのもとでの評価ではなく、カテゴリーの評価だ。その人は、人が突然歌いだしたり踊りだすのを見聞きすることが愉快であったり、あるいは人生にとって有意義な経験であることを飲み込めていないだけなのだ。この場合、「突然歌い出すの不自然だ」とか言う必要はなく、それはそれでそれとして自然なことだが、だからなんだという話になる。このようなミュージカル嫌いは、ジェットコースター嫌いやホラー嫌いと同類であり、対立は人生において求めているもののレベルにあるので、説得の余地も必要もない。

2022/05/09

批評の中心は解釈か評価かというちょっとした話題があり、ダントーは前者推しキャロルは後者推しなのだが、解釈にせよ評価にせよ(そして記述やら分類やら分析にせよ)、現になされたりなされなかったりするような作業のどれかひとつだけが中心なのだ、と言ってなにを言ったことになるのかいまいち分かっていない。「解釈なし評価」「評価なし解釈」の一方だけが批評と呼ばれるに値するとして、どちらがそうなのかという点で対立があるのだろうが、美学者が「批評とはこっちだ」と言っても仕方がなかろうし、そういう物言いをするから疎まれるような場面もあろうと思ってしまう。

「たいていの評価には解釈が伴う」「たいていの解釈には評価が伴う」「たいていの解釈や評価には○○が伴う」といったテーゼを立てるのは、まだ面白くなりようのある論じ方だろう。

2022/05/08

カレー屋さんに行ったらクリームのダックスちゃんがいてお得だった。アイスクリーム屋でアフォガートも食べた。

2022/05/07

不道徳なアーティストのキャンセリングはほとんど意味がないどころか、美的エイジェンシーとしての自律性を脅かし、芸術作品による豊かな経験を没収するだけなのでやらなくていい(やらないほうがいい)という議論をMary Beth WillardがWhy It's OK to Enjoy the Work of Immoral Artistsでしている。思うに、そのようなキャンセル観は、利他的なキャンセルを想定しており、利己的なキャンセルを見逃しているのではないか。ボイコットが制裁としてほとんど有効な手段でないというのはその通りだろうが、なんでもかんでも粗を探してキャンセルしようとする類は、実のところ社会正義実現のための制裁にほとんど興味がないのだろうと思うときがある。キャンセラーにとって重要なのは正義ではなく正義感である。自らが道徳的に無誤謬であり、立つべき場所に立っているという感覚を得るためにキャンセルという身振りするのだとしたら、それが実用的に不毛だと言われても止まるわけがないだろう。むしろ、彼彼女らは、エイジェンシーとしての自律性のためにこそキャンセルを行うのだ。もちろん、寄り添うべき側に寄り添っている感覚、と言い換えればいくぶん温かみのあるものではあるが、利己的なインセンティブであることに変わりはない。そして、そのインセンティブは単にしばしば美的に利己的なインセンティブを超える、という話だ。それは全体としては、合理的な判断と言わざるをえないと思う。

もうひとつには、2022/04/29の話だが、美的価値と道徳的価値は比較しようがなく、加点減点で前者が大きければ鑑賞してよいなんていうことにはなりようがない。

さて、では不道徳な芸術家の作品をエンジョイするにはどうすればいいのか。ひとつには、自らがエイジェンシーとして自律的でも無誤謬でもなく、しばしば無意識に加害者であり、搾取する側であることに開き直る、というオプションがあるだろう。私にはそれがほとんど唯一の選択可能で、現に選択されている態度だと思われるのだが、誰もそんなヒールではない、そんな態度を公言するヤツこそキャンセルしてしまえ、という社会に向かっていくのは、まずもって欺瞞だし、ひどくグロテスクだと思う。

2022/05/06

実家の庭でバーベキューをした。両親の選ぶ肉は、脂肪分が高すぎて一家誰も得をしないがちなのだが、おそらくは部位やら産地やらを吟味するのが億劫なのだろう。とりあえず高い国産ものを選んで買う結果として、毎回脂肪分の高すぎる肉が食卓に並ぶ。私はアメリカ産の豚バラにタレびしゃがけでよい(がよい)のだ。焼肉屋に行っても、とりあえず特上カルビばかり頼むので、ハラミや豚タンの美味しさを知ったのは大学に入ってからだ。なんにせよ、一人暮らしで牛を摂取することは稀なので、油にまみれながらばくばくと食べた。母が唐揚げ用に漬け込んでいた手羽先を即席で焼いたやつは、かなり美味しかった。

2022/05/05

キャベツを一玉買ったが、紙袋に入らなかったので素手で抱えて持ち帰った。

2022/05/04

友人の赤ん坊を見てきた。ちょうど今月来月で二足歩行を習得しそうな段階で、いちいち勢いのある一挙一動が一同大注目のパフォーマンスと化していた。私のメガネが気に入ったらしく、執拗に付け狙われた。ただ動き回り、積み上げたものを破壊し、ティッシュを引き抜きまくるだけで周囲を笑顔にしてしまうのだから、赤ん坊はすごい。

2022/05/03

ねぎしの牛タンを食べた。あの米をかっくらうためだけに設計されているセットが、本当に好きだ。しばらく食べていなかったが、ねぎしも寿司ぐらいの頻度で食べたいもののひとつだ。

2022/05/02

東京都美術館で、スコットランド国立美術館展を見た。先日のメトロポリタンに比べたら、よく知らない画家が多くて学びが多い。ベラスケスとゴーギャンがたいそう良かったが、ナビ派の画家エドゥアール・ヴュイヤールを知れたのがかなりお得だった。どこかで聞いた名前だなと思っていたら、Abell (2009)が事例として作品を挙げていたのを後で思い出した。

上野に行くのもずいぶん久々だ。カヤバ珈琲のサンドイッチとルシアンは相変わらず美味しかったし、初めて頼んだアフォガートも絶品だった。今年の夏はアフォガートを食べまくる夏にしたい。

2022/05/01

東京タワーの台湾祭に行ってきた。雨で屋根のある席が大混雑だったため、難民祭になりかけたが、どうにかこうにかじゃんじゃか飲み食いできた。ビーフンと胡椒餅が美味しかった。ずっと台湾のちゃちーポップスが流れているのがかなり屋台感があってよかった。

2022/04/30

ダントー『アートとは何か』を読んでいたら、マネの画面手前にギチギチに詰まった空間は写真の影響だという話が出てきた。遠くから望遠レンズで撮ると、本来は離れているものが密着しているように映る。野球中継や江島大橋みたいなやつだ。《皇帝マキシミリアンの処刑》が異常に近くから発砲しているように見えるのも、写真からの影響らしい。また、マネ独特のグラデーション処理のないベタ塗りも、写真の効果を真似ているとか。真偽は定かではないが、そうだとすると従来とは異なるモダニズム観が得られて面白い。写実主義のプロジェクトを写真が最終的に終わらせて、絵画は抽象へと向かっていった、というのがよくある説明だろう。しかし、ダントーが正しければ、マネはむしろ絵画による写真の模倣を通して、結果的に奥行きのない画面へと接近していったことになる。絵画におけるモダニズムは、写真からの離反ではなく、写真への接近に始まった、というのはびっくりだがわりと腑に落ちる話だ。こういう話ばかり聞きたい。

2022/04/29

『ゴールデンカムイ』まわりの「センシティブな主題を中立的かつ誠実に描いている」という道徳的期待は、度を越していてきついと常々思っている。『ゴールデンカムイ』がアイヌ文化に対して誠実なものかどうか、私には判断できないし、当事者か専門家でもなければたいていの人には判断できないだろう。あの暴力だらけの殺伐とした漫画に、なおかつ文化への道徳的な期待を寄せるのはあきらかに相性がわるいし、なんらか疵瑕が見つかるのは当然といえば当然だ。そもそも道徳的かどうかをゼロイチで判断するほうが変なのだが、(前に勉強会でも話題に上がったように、)道徳的価値というのは加点減点方式ではなく、ひとつでも深刻な欠点があると−∞に落ち込むような、ヤバすぎる領域なのだろう。「良いところもあるし、悪いところもある」というのはほとんど任意の事物に当てはまる真理なのだが、そう言わせない雰囲気がある。どうにかしようという話にはなりようがなく、どうにか凌ごうという話にしかならない。

2022/04/28

今日の講義で、学生から「Zoomでの講義映像がVTuberの配信みたいで面白い」というコメントがあり、ちょっと嬉しかった。実際、VTuberではないが、顔出しのゲーム実況などにインスパイアされた講義形式で、スライドをバーチャル背景にする機能を使っている。まだベータ機能らしいが、それなりに見栄えがいいので、今後の学会発表などでも使っていきたい。私はもう勉強会ですっかり慣れてしまったのだが、そうでない人にとって、顔の見えない相手の声だけを聞き続けるのは、やはり苦痛を伴うのだろう。実際、生身の肉体であるところの顔である必要はそんなにないので、アバターを用意して喋るのも割とありなのかもしれない。

2022/04/27

ハウスダストにまみれながらコタツをしまった。日記によると、出したのは11月半ばなので、半年そこにあったわけだ。なんとなく、冬の間の3ヶ月ぐらいしか出していない印象があったので、年に半分はコタツが出ている、という事実にはちょっと凄みがある。いろいろと片したら、部屋がずいぶんすっきりした。コタツは温かいが、美的にはないほうがいい。

2022/04/26

映画は1960年代フランスとイタリアの白黒モダニズム映画しか見ないとか、美術館行ってもポップアートの部屋は避けるとか、両思いの女の子の家に行ったらダサい音楽をかけられて萎えたとか、Bence Nanayのスノッブエピソードはたくさんあって面白い。見た目も相まって、私のなかでは狩野英孝的なキャラクターなんじゃないかと思っている。

ナナイの立場は、私の理解ではもはやピュアな快楽主義者なのだが、ポイントはむしろ理想的鑑賞者説へのアンチにあるのだろう。理想的鑑賞者説が、おのおのの主観的な経験を超えてものの客観的な価値を規定するためのアイテムなのだとしたら、ナナイはそういう価値を端的に諦める立場なのだと思われる。価値とは個々人の経験であり、経験にヒエラルキーがないのだとしたら、価値にもヒエラルキーはないのだ。

美的生活はまったくの自由、というのは耳障りのよいテーゼで、私も大きく異論はない。しかし、それは話をハイアートに限定せず、広く美的生活一般を問題にしているからこそ出てくるテーゼなのではないか。こう雑多な領域を統制する規範がそもそもないので、自由が唯一の規範になるのは当たり前といえば当たり前だろう。芸術、あるいは芸術でも広すぎるなら各芸術実践には、依然としてshouldやmustがつきまとうように思われるのだ。

私がAesthetic Life and Why It Mattersの三者いずれにもあまり共感できないのは、彼らが反西洋中心主義を掲げつつ、しばしば自由や個性といった最近の欧州でpoliticallyにcorrectな規範に訴えて話を落としがちだからだ。ブレイクアウトで、まさにこの話をナナイがリグルに振る場面があるのだが、リグルがごにょごにょとシラーの話をしていたのはかなり残念さがあった。

2022/04/25

授業準備でデュシャンのレディメイドをいろいろ見ていたが、どれも抜群に面白い。視覚的に面白いのだ。こうデジタル時代に生きていると、ふつうの櫛やスコップですら視覚的関心の的になるのは、デュシャンも予期しなかったことだろう。ボトルラックなんかは、もはやありふれた日用品として見ることのほうが難しい。

2022/04/24

暗い部屋でカービィのエアライドをやっていたらめちゃめちゃに車酔いした。

2022/04/23

前に、美的快楽主義に関連して「美的に画一的な世界」という記事を書いたが、それとほぼほぼ同じ話をAesthetic Life and Why It Mattersのイントロダクションで見つけた。どちらも有名なネハマスの悪夢にインスパイアされているので珍しいことではない。誰もが同じものに美を見出し、好み、美的な意見対立がもはや存在しない世界は悪夢ではないか、というわけだ。Lopesらは、デヴィッド・フォスター・ウォレスの小説に出てくるアイテムをちょっとアレンジして、「面白すぎて一度見てしまえばもう他を見る気になれなくなる映画」を挙げている。いくら面白いと言われても、われわれはそれだけを見る生活をきっと選ばないだろう、というのが著者らの見解だ。この思考実験は、反快楽主義を動機づける直感ポンプとして機能している。

私の思考実験は、もうちょっと工夫している。第一に、「最後の美的対象」を鑑賞するには、知識や経験を備えた理想的鑑賞者でなければならない。それは、受け身でも快楽を与えてくれるLSDのようなものではなく、能動的に価値を見出す必要のあるものだ。Nanayのように、能動的な努力による達成を持ち出す論者には、これがいくらか予防線になるだろう。第二に、私が問題にしているのは、「「最後の美的対象」を選択することは、個々人にとって望ましいか」ではなく、「誰もがそれだけを選択することになった世界Zは、われわれにとって望ましいか」だ。前者の問いにおいてどうしても心理的抵抗があるのは、Lopesらの映画や「最後の美的対象」がもたらす画一的な美的生活を、いまだ十全に想像できていないからだろうと思わずにはいられない。いいものだと言われても、なかなか信用できないだけなのだ。問うべき問題は、世界Zにおいてあらゆる人が至上の美的満足を報告しているなか、そのような世界が美的に欠けているとしてなにがどう欠けているかだ。Riggleのように個性を持ち出しても、Lopesのように冒険心を持ち出しても、それがとにかく価値なのだというのはわれわれの世界Aに限った話で、世界Zでもそうなのだ(そして世界Zではそれが欠けているのだ)と述べるのは論点先取だろう。

記事にも書いたが、私は美的に画一的な世界のほうがよいとはまったく考えていない。この思考実験は、 しばしば反快楽主義に都合のいいように細部が隠されているか、十全に想像された場合にはもはやわれわれの直感では手に負えない。反快楽主義を動機づける直感ポンプとしては不当だ、とまで言えれば私は満足である。

2022/04/22

一昔前のJ-POPによくある文言だが、「君との出会いは運命」と「偶然だらけの世界で君と出会えた」の両方がロマンチックなものとして歌われるのは、よくよく考えてみると奇妙でおもしろい。どちらも特定の人間関係に価値があり、維持・促進すべきものだと伝えたいわけだが、ある出会いが必然である(あらゆる可能世界において出会っている)ことも、偶然である(一部の、おそらくはごく限られた可能世界においてのみ出会っている)ことも、同様に価値づけられるとはどういうことか。ひどい場合には、一曲の間に両方が歌われることになる。「偶然君と出会えた これはきっと運命」といった具合だ。(というか、「偶然の出会い」と「運命の出会い」はしょっちゅう交換可能なものとして使われているような気さえする。)

もちろん、形而上学的により正確なのは偶然性を述べるほうの文言だ。どう考えても、任意の出会いについて、出会わなかった可能世界が少なくともひとつはあるだろう。もっとも、歌われているのはそういったトリヴィアルな事実ではなく、出会っている可能世界が極小であり、おそらくは「貴重である」ということだ。もっともらしいかはともかく、「レアなものには内在的な価値があり、維持・促進すべきだ」という価値づけ規範が背後にはある。一方、運命や必然性を述べるほうの文言は、それとはぜんぜん違う価値づけ規範に則っているはずだ。正直、私にはこちらがなぜロマンチックなものとして機能するのかが昔からあまりピンときていない。天命を授かった高揚感ぐらいしか思いつかないのだが、それが価値であるためには、自由意思を差し置いてでも絶対的な導きに従って生きることを価値づけていなければならないと思うのだが、はたしてそうなのか。

あるいは、よりもっともらしい解釈としては、民間形而上学(撞着語っぽいが)では、運命とは必然性とは別のなにかなのかもしれない。それはむしろ、数ある可能世界のなかで、まさにいまここの世界にたどり着いてしまった不可解さをより直接的に指し示す語であり、偶然であることと両立可能な事態なのかもしれない。

さらにもっともらしいが面白みのない解釈として、「君との出会いは運命」「偶然だらけの世界で君と出会えた」も単なる表出だ。そこに「好きだ」という以上の含みはない。

2022/04/21

昨晩書いた「グルーヴとはなにか」の記事が、はてブでそこそこ伸びていた。書いたものが読者に恵まれるというのはやりがいを感じさせられるが、それと同時に多方面からマウントが飛んでくるのは、毎度ながらどうにかならないものかと思う。「グルーヴ」という主題もちょっと地雷ではあった。「考えるな、感じろ」という蒙昧がはびこっている分野だからこそ、ひとつひとつ概念を解剖し、整理し、反省可能な仕方で提示しているのに、そのような作業まで含めて野暮だとちゃぶ台返しされたらお手上げだ。「芸術」という概念がそもそもそういう人々に囲まれているので、批評にも美学にも救いはない。基本的に、まともにものを考えたり、長めの文章(言うても5000字ぐらいのブログ記事)を読むのに難がある人は、難を自覚してもっと謙虚になってほしい。

ということで結構むかついたのだが、実のところむかつくようなことを述べるコメントはそんなに多くなく、せいぜい5〜6個といったところだ。しかし、その5〜6個の存在が、数百の肯定的なコメントにもかかわらず書き手を直ちにむかつかせるというのは、ネットで活動している人であれば誰でも経験したことがあるだろう。今日は友人と『TITANE/チタン』を見てきた。序盤、無実の人々が理不尽に殺害されるのだが、見ていてしんどかったので、私にむかつくコメントをしてくる連中だということにして見た。

2022/04/20

スーパーでお菓子をドカ買いしてきた。カラムーチョ、ピザポテト、かっぱえびせん、フラン、チョココ、たけのこの里、鈴かすてらという欲望メンツだ。お菓子というのは、買わなければ買わないで別に不都合ない食べ物だが、家にお菓子があると生活にメリハリが出るのも確かだ。

2022/04/19

美的経験に関する分析美学上の論争といえば、ビアズリーvsディッキーと、ステッカーvsキャロルが有名だ。ビアズリーは経験に特別な内在的性質がある(統一性、強度、複雑性のある経験)と論じたのに対し、ディッキーはそんな現象学は疑わしいと考えた。ディッキーによれば、統一されていたり強度を持っているのは、美的対象(典型的には、芸術作品)そのものであって、経験ではない。ビアズリーとディッキーの立場は、ほとんどそのままステッカーとキャロルの立場に投射できる。ステッカーは美的経験には「それ自体のためになされる[for its own sake]」という内在的性質があることを重視するが、キャロルは美的対象側の美的な形式や質に注目さえしていれば十分に美的経験だと考えた。

こう見ると、内在主義定義をとるビアズリーとステッカー、外在主義定義をとるディッキーとキャロルで陣営ができており、このことはキャロルがディッキーに教わっていたことを踏まえるとかなり腑に落ちるものだが影響史はもうちょっと複雑だ。外在主義定義のルーツは、意外にもビアズリーであり、とりわけ、ディッキーに批判されて自説を修正したビアズリーなのだ(前に訳した「美的観点」(1970)なんかは、ディッキーに対してかなり譲歩的な定義になっている)。キャロルの立場はビアズリーvsディッキーの論争全体から引き出された、かなり分析美学分析美学した立場であり、対するステッカーは近代美学に由来したより伝統的な立場をとっているものと見られる。

伝統的に「美的経験」としてラベルづけられていた現象Xsがあるとして、それは単に対象の形式や質に注目することなのかと言われれば、キャロルの内容アプローチにはいくらか厳しさがあるように個人的には思う。一方で、伝統はともかく、今日の多様な美的生活におけるある特別な現象Ysを、包括的に捉える定義としては、ステッカーのように「それ自体のためになされる」という方が大げさで狭すぎるのだろう。ここでも、定義によって捉えたい現象のレベルで、いくらか対立があるように思われる。

こと美的価値を問題にするとき、ビアズリー=ステッカー的な価値ある経験を踏まえて、ものの価値を道具主義的に規定する(快楽主義)のがデフォルトではある。これに対し、改ビアズリー=ディッキー=キャロル的に美的経験を空虚に定義するとしたらどういう帰結が出るのか。そういう話を、今度の応用哲学会でする予定だ。

2022/04/18

デスクチェアのガスシリンダーが音を立てて昇天した。ハイデガーのハンマーばりに、壊れてはじめてガスシリンダーという仕組みを理解したのだが、そもそもこんなんで人の尻を持ち上げようというのがおこがましいのではないか。まったく、使えば使うほど安物を実感させられる椅子で、二年なら存外持ったほうだが、これを捨てる手間と新たに買う手間を考えるとうんざりする。これが生活だ。私はきっとあれこれ面倒臭がって、この壊れたままの低〜い位置からディスプレイを見上げる生活を、なんだかんだ二年ぐらい続けることになるのだろう。それもまた生活だ。

2022/04/17

今日も今日とてホットサンドを焼いている。私の朝食はすっかり、かの器具におんぶに抱っこだ。

2022/04/16

27歳になった。15歳の頃には、早々にロックスターになって、27歳にはジミヘンやカート・コバーンのように早死にするものだと信じて疑わなかった。残念ながらロックスターにはなれなかったが、幸運にもまだ生きている。

土曜の世田谷公園は人ん家の犬をたくさん見れるのでお得だ。とんかつも食べたし、激ウマチーズケーキも食べたので、休日の過ごし方としては言うことなしだろう。

恋人がおしゃれなテーブルランプをくれた。こまごまとしたものを片したらデスク周りがかなりすっきりした。27歳も張り切って読み書きしようと思う。

2022/04/15

Aesthetics: The Key Thinkersでウォルハイムのことを勉強した。精神分析にも明るいとは聞いていたが、人間の心にかなり関心を寄せていた哲学者らしく、理解が深まった。創作も鑑賞もある種の心の働きであり、画像表象も芸術表出も、①鑑賞者による心的関与+②芸術家による意図(画像表象だったら、seeing-inと正しさの基準)というふたつの契機から説明している。図式としてはダントーの芸術観に近いような印象も受けた。ダントーはこれから読む。ビアズリーはもう読んだ。ビアズリーについてはほぼ知っていることしか書いてなかったので、かなりイタコに近づいてきていると思う。

2022/04/14

非常勤の講義、初回のイントロダクションをしてきた。予定では1時間で一通り喋るつもりだったが、当日のタイムキープがガバで、後半のディテールを切りつつなんとか90分で喋りきった。基本的には、資料を上から下へと読んでいけばいいものだが、Zoomの虚無に向けて喋っているとなかなか相手の理解度が掴めず、不必要に説明を足してしまいがちだ。論文に注をつけまくってしまうのは読者への不信だというのをいつぞや書いたが、それと似ている。とはいえ、コメントシートを読んだ感じの手応えはまずまずといったところ。あとは場数だろう。

それにしても、こう授業後に質問やコメントが寄せられることには特別な充実感がある。mixiをやっていた頃(mixiをやっていた頃!?)はバトンというリレー式の自己紹介文化があったし、Twitterには質問箱文化がある。恥知らずにも前者に参入していたのは質問への回答が充実感を与えたからであり、後者に参入しないのはその充実感が自己承認欲求と結びついているのを自覚し恥じるようになったからだ。ちなみに、自己承認欲求を恥じるようになったら、いよいよ自意識過剰というやつだ。まぁ、そんなバックグラウンドとはなんの関係もなく、寄せられた意見のいくつかはシンプルにおもしろくてためになる。

ところで、「ティツィアーノとルーベンスの《アダムとイヴ》、どちらが好きですか」という投票は、きれいに半々に割れた。これはちょっと予想外だった。

2022/04/13

散髪してきた。もうかれこれ3年は「いつも通り」で注文している。なんらか新しい髪型を試す機運がないわけではない。学生で誰からも文句を言われないうちに、坊主をやってみたさはある。

2022/04/12

なんとなく『BLEACH』を読んでいたが、記憶していた以上に「難しいことはわかんねぇけどよぉ」な精神のマンガだった。ジャンプのバトル漫画の主人公は悟空にせよ花道にせよルフィにせよナルトにせよ、いわゆる「バカ」なのだが、ここぞというときに物事の本質を把握してすぐに行動できる、そんな人物ばかりだ。黒崎一護はもう少し精神年齢の高い人物なのだが、それでもごちゃごちゃ考えるのが苦手なタイプで、考えなしに突っ込んでは大怪我してばかりだ。無責任な一般化として、平成とはそういう人格が尊ばれる時代だったような気もする。頭だけいいやつもうGood nightというわけだ。

最近の竈門炭治郎とか緑谷出久はもっと理性的に行動できる人物として描かれている(虎杖悠仁はバカだが)。別に子供は好きなのを読めばいいのだが、模範となる人物像がこのように相対化されたのは、教育的にはよいことだと思っている。「竈門炭治郎が長男の生きづらさを再生産している」なんて言う人々は、ろくにマンガを読んでいないのか、よほど暇なのか、その両方なのだろう。

2022/04/11

アルヴァ・ノエのStrange Toolsについて、ノエル・キャロルが書いた書評を読んだ。キャロルの紹介だけ読むとノエの立場は、われわれの組織化された日常を異化し、意識に上らせ、反省させ、再組織化を促す点に芸術の本質的目的があるとするものらしい。発想源はもちろんハイデガーの壊れたハンマーだ。道具は生活へと有機的に組み込まれており、普段は自覚なしに使われるが、壊れたときのみそのメカニズムに注意を向けられる。芸術ははじめから壊れた日用品「奇妙な道具」として提示され、生活を異化するというのが基本的な図式らしい。もちろん、そんなアヴァンギャルド偏重の一般論がうまくいくはずもなく、キャロルもその点を問題視しているのだが、個人的に気になったのは、ノエの立場がほとんどそのままグレアム・ハーマンのそれである点だ。オブジェクト指向存在論における「魅惑」や「代替因果」あたりの発想源もハイデガーのハンマーやシクロフスキーの異化だったはずだ。どうもこう、芸術や美的なものを左翼革命的な図式で理解したい人はどこにでもいるらしい。

キャロルの立場は、芸術の非前衛的機能、たとえば宗教的な機能や政治的な機能をフェアに認めるもので、端的にいってほとんどの芸術は「奇妙な道具」などではなくふつうの日用品だと認める立場だ。批評におけるキャロルのヒューリスティックを見ても、そこには芸術作品とその他の人工物を区別せず評価する態度が見て取れるし、総じてノエル・キャロルは芸術に芸術ならではの本質やアプローチを認めたくない立場なのだろう。進化心理学的に見て、芸術とその他の実践で目的や手段がカブっているのは冗長性の担保であって、はっきり区別できると考えるほうがおかいという説明は、それなりに頷けるところだ。

2022/04/10

「○○に関する議論は、あらかじめある客観的な真実をめぐるものではなく、構築的な真実をめぐる交渉なのだ」という話の落とし方は、多くの場合○○という事象に関して正確なものだろう。しかし、そこから導かれがちな帰結「○○に関する議論は不毛である」を回避するために出される論証、すなわち交渉という活動の意義づけについては、あまり賛同できないことが多い。何度か書いた話だが、そうしてディベートすることに積極的な意義を見いだせるのは、健康的にディベートできるコミュニティに限られる。XがFであるかどうかは話し合い次第なので、ちゃんと理由を添えて主張せよ、という規範がいつでもどこでも成り立つと考えるほうが間違いだろう。理由付けられた主張をしたりされたりすることは、すでにひとつのスキルなのだ。そのようなスキルを養い養わせることは一種の啓蒙主義にほかならないわけだが、教育が○○に関する個々人の経験を豊かにしない限り、学ぶ意義は見いだされづらいだろう。

結局、声が大きく口先の回る人物の意見が構築的真実になる、という帰結も不都合だ(それもまた真実である見込みが高いのだが)。「エビデンスに基づいて議論しよう」という規範は、それはそれで気味の悪さを伴いがちだが、ともかく、その背景には「どうせ客観的な真実はないので交渉しましょう」というより一層気味の悪い規範への反動があるように思う。

2022/04/09

国立新の「メトロポリタン美術館展」に行ってきた。目当てのカラヴァッジョも良かったし、サムネイルのラ・トゥールも良かった。出展数はやや少なく感じたが、中世における宗教との結びつきから、絶対王政のバロック・ロココを経て、セザンヌやモネらの前衛に至る流れを作っている。土曜日で人も多かった。なんだか異常に早く一日が過ぎてしまい危機感を覚えたが、異常に楽しい一日だったというだけかもしれない。

2022/04/08

読み直していて、ウィムザット&ビアズリーによる「意図の誤謬」は実際のところ、表出説の誤謬なんじゃないか、という気づきを得た。意図主義というのは、作者がなんらかの命題的な心的状態を持ち、それを作品によってコミュニケートし、その事実が作品の意味論的内容を定める(正しい解釈によって引き出される意味とは、作者の意図した意味である)、というものとしてざっくり理解できる。一方、「意図の誤謬」で叩かれているロマン主義的な芸術観・批評観は、感情や精神性の現れとして作品を捉える立場のように読める。おそらくは、言語哲学やフィクション論に十分な積み立てがなく、作者による表出と意図伝達が同一視されていたのだろう。しかし、両者は区別すべき問題だろう。たぶん、「意図の誤謬」が言っていることを現代哲学の用語で要約するなら、作者の持った心的状態は、作品の表出的性質にとって必要でも十分でもない、ということだろう。厳粛態度で記されたからといって、小説が厳粛なものになるとは限らない。このことは、「意図の誤謬」のほとんどが(解釈と意味の話ではなく)評価と価値の話になっている点も説明してくれるかもしれない。意味論的内容は価値とはただちには結びつかないが、表出的性質はしばしば価値含みだからだ。

表象内容の帰属、具体的には「『インセプション』の最後でコマは停止したのか」は意図によって定まるのか、といった事柄は、どうも「意図の誤謬」の射程外のように読める。いずれにしてもこの読みに自信はない。そして、自信を深めるために精読するには、「意図の誤謬」は感じの悪いテキストだ。いちいち格好つけているのウィムザットのせいなのかビアズリーのせいなのかは分からない

2022/04/07

いつも17:00ごろに家を出てバイトへ向かうので、外の明るさで季節の移り変わりを実感している。昨日はほのかに西日が差していた。冬は辛気臭くてきらいなので、はやく夏になってほしい。

2022/04/06

Notionのプラグインがあったので、ポモドーロテクニックを導入して作業しているが、けっこうよい。25分集中して5分休むというペース配分も割と気に入っているし、その25分でやることを明確にして、それだけをやるという気持ちの引き締めが、飽き性にはいい薬だ。25分ごとに立ち上がって体を伸ばすのは、死を遠ざけている実感が具体的にあってうれしい。

2022/04/05

Evan Malone「ふたつのグルーヴ概念:音楽的ニュアンス、リズム、ジャンル」を読んだ。JAACでforthcomingになっている音楽の哲学論文だ。グルーヴに関する議論は、2014年に出たTiger C. RoholtのGroove: A Phenomenology of Rhythmic Nuance以降、じわじわ注目されている模様。グルーヴとは言うまでもなく、「Cold Sweat」や「Hang Up Your Hang Ups」に含まれるアレのことだ。

Maloneがふたつのグルーヴ概念と呼ぶのは、①Roholtらが扱っている、マイクロタイミングなどの音楽的ニュアンスを取り入れていることを指すgroove-as-feelと、②リスナーを踊りたくさせるような喚起能力を指すgroove-as-movementの区別だ(命名は正直イマイチだと思う)。前者は、個々のノートがオンタイムの演奏よりもわずかに(知覚はできるが言語化ができない程度に)早いか遅いかで、プッシュとかレイドバックと呼ばれる演奏法のこと。後者は、単にダンサブルであることでもあり、BPM100〜120のテンポ、パーカッシヴさ、シンコペーション、低音域の明瞭性など、さまざまな要因によって実現される。理論家や哲学者がしばしば取り上げるのは前者だが、心理学者が実験などで問題にするの後者らしい。心理学的実験では、①プッシュやレイドバックの採用が、必ずしも②踊りたくなるような感覚を与えないどころか、場合によっては低減することが報告されているらしく、これを根拠に①はグルーヴ理論として間違っているとも思われがちだが、そもそも異なるグルーヴ概念を扱っているのだ、というのがMaloneの主張になる。真理条件で言えば次のようになる。

  • ある楽曲/演奏/録音Xは、groove-as-feelを持つ ⇔ 特定の音楽的ニュアンス(マイクロタイミングにおいて早い/遅い)を持つ。

  • ある楽曲/演奏/録音Xは、groove-as-movementを持つ ⇔ そのリスナーに、踊りたくなるような感覚を喚起する(すなわち、ダンサブルである)

説得的な話だ。「グルーヴを持つ」「グルーヴィーだ」という帰属はこの意味で多義的であり、①特定の内的な形式的性質の指摘にも使われるし、②リスナーに与える特定の効果の指摘にも使われ、一方は必ずしも他方を含意しない、というわけだ。前者はさしあたり非美的性質だが、後者は美的性質ということにもなるだろうか。また、この区別や、語られ方の違いの由来を、ジャンルの違いに対応付けているのも面白い。楽曲や録音よりも、演奏を重視した実践であるジャズではしばしば①groove-as-feelが問題となる一方で、楽曲や録音も重要であるポピュラー音楽(この中にはポップスやファンクが含まれる)では②groove-as-movementが問題となりやすい。ある楽曲/演奏/録音に「グルーヴを持つ」「グルーヴィーだ」を帰属できるかどうかは、その音楽やミュージシャンやリスナーが属するジャンルに左右される。

ジャンルごとに期待される閾値が異なる(「パンクとしてはグルーヴィーだが、ファンクとしてはそうでもないね」)という話ではなく、ジャンルごとに適用される概念の中身が変わっているという話だ。Maloneは"なので"一般的に美的概念を考える上では(RiggleとかNguyenとかKubalaの)コミュニタリアンな理論を持っておいたほうがいいかも、という話に持っていこうとする。このムーヴは最後にちょっとだけ出てくるのだが、議論の流れ的に妥当でも必要でもないだろう。Riggleらのやっていることに関してはまだ全貌が見えているわけではないが、ここでMaloneがしている話とは主題においても道具においてもまったく別物の領域なんじゃないだろうか。あるいは、「美的なものは、ジャンルとか実践集団単位で考えるのが重要だよね」ぐらいの話でしかないのだろうか。ちゃんと読んでいないので分からない。

それよりも、Roholtはマイクロタイミングで性質としてのグルーヴを説明しつつ、その「知覚」に関しては、メルロ=ポンティを引きつつ身体動作との相互作用を必要条件としているらしく、そちらにも興味を持った。メルロ=ポンティは博論でも使おうと思っているアイデア源のひとつだ。

2022/04/04

星のカービィは、小さい・丸い・柔らかい・淡いなどの非美的性質によって「かわいい」という美的性質が適切に差し向けられる対象なのだが、その正反対、でかい・四角い・硬い・濃いものといえば、モノリスである。デデデ大王は、丸っこいしカラフルで柔らかそうなので、カービィとは好対照になっていない。もっとシリアスなラスボスは、黒っぽくて・非物質的で・スケールがでかい。煎じ詰めればその形態は物言わぬモノリスになるだろうし、カービィvsモノリスという対立は、赤ん坊と宇宙の対立にそのまま落とし込んで理解できる。かなり硬派な主題を持ったSFなのだ、星のカービィというのは。

カービィシリーズのゲームはたくさんやってきたが、あの赤ん坊のメタファーを操作し、宇宙のメタファーに打ち勝つ経験は、私の人間形成にとって少なからぬ影響を与えたと思う。小さい・丸い・柔らかい・淡いものが、でかい・四角い・硬い・濃いものを打ち勝つというのは筋が通っておらず、ほとんど夢物語だ。しかし、子供に必要なのは、「あなたは宇宙の崇高さに比べたらなんてことない塵なのだ」という正真正銘の真実よりも、耳あたりのよい夢物語であることは言うまでもない。カービィとは人間の肯定である。

2022/04/03

Frank Hindriksの「制度理論を統一する:ペティットのバーチャル・コントロール理論への批判」という論文を読んだ。話題的にはちょっと当てを外したが、哲学美学にも関わるメタ理論の話で面白かった。

話題は、競合するふたつの理論を統一[unify]するやり方に関するもので、調停[reconciliation]と統合[integration]が区別される。ヒンドリクスは統合推しだ。ざっくり言えば、理論Aが「事象Xは要因Aで説明できる」と述べ、理論Bが「いやいや、事象Xは要因Bで説明できる」と述べているときに、「事象Xのうち、X1は要因Aで説明され、X2は要因Bで説明される」みたいに被説明範囲を住み分けさせるのが調停による統一だ。ペティットの「バーチャル・コントロール理論」によれば、①人間はリスクの低いデフォルト状態では特に反省せずルールに従い、②リスクが高くなると自己利益を意識して行動する(仮想的な背景と化していた自己利益の原理が前景化する)。前者は制度の持続性を説明し、後者は制度の回復性を説明していることになる。ここでは、ルール遵守の原理と、ルールを破ってでも自己利益を追求する原理(これは均衡をもたらす)が、区別された状況の区別された事象(持続性と回復性)に即して別々に使われている。もともと競合しているとされた理論(ルール説と均衡説)は、別々の被説明項を持つ点で、もはやライバルではなくなる。

これに対し、ヒンドリクスの「ルールかつ均衡理論」は、ルール理論と均衡理論を統合する試みだ。曰く、制度とはルール(規範)によって支配された社会実践(=社会的規則性=繰り返し均衡)である。ヒンドリクスはグァラと仕事をしていた人で、二人のアイデアはかなり似ている(ヒンドリクスは相関均衡は使っていなかったが)。社会規範による社会実践の支配[govern]については、ルールによる動機づけを要件としており、行動選択においてルールと自己利益は同時に関与することになる。実際、本論文を読んだだけではヒンドリクスの理論は(とくにグァラとの差分)はあまりわからないのだが、ともかく、「ルールかつ均衡理論」は統合による統一を通して、制度の持続性も回復性も、おまけに脆弱性も説明できる。統合とは、「事象Xは、要因Aと要因Bの再構成によって説明される」ような統一を指す。

結論としては、事象をしっかり区別すべきだったり、異なる道具立てがどうしても必要でない限り、調停による「分割統治」よりも、統合による「解体・再構築」のほうが望ましい、ということになる。私のメタ理論的直観にも沿った結論だった。特定の個別者の描写は意図主義だが、性質・種の描写は非意図主義でやる、という私が持っていた描写の理論も再考の余地がありそうだ(最近はあまり描写のことを考えられていない)。

2022/04/02

金沢21世紀美術館の「フェミニズムズ」展に関してとやかく言ったら上野千鶴子に怒られた人のツイートが流れてきた。もろもろ目を通したが、いわゆる「評価に関しては合意しているのに、その過程において批評的対立がある」ケースだ。

上野論考の論点はいくつかあるが、①マジョリティ(男)としての安全圏からフェミニズム関連の諸々がこわい/こわくないみたいな価値判断をするな、という論点はともかく、②脱ジェンダー化への価値づけはクリシェだからやめろ、という論点はそれなりに学びがあった。「…男性には決して向けられない、「ジェンダーを超えた」という評価が、女性のアーティストに対する褒め言葉になってきた」というのはそれなりに実情に即している手触りがあるし、自分も気を抜くとそういったクリシェで作品を価値づけてしまうことは白状しなければならない。具体的には、『ジャンヌ・ディエルマン』に★5.0を付けつつ、「フェミニズム映画として意図された目的を十二分に達成していることは言うまでもなく、その枠にとらわれない大傑作だ」と述べている私もまた、上野論考の矛先にあるのだろう。

脱構築っぽいことを書いておけば締まりがいいだろうということで、批評的に楽を取っている点には反省があり、批評として新鮮味がないと言われれば私は両手を挙げて降参するだろう。それはそうと、であるとして、ヘテロ男性の立場から『ジャンヌ・ディエルマン』を褒めるにはほかにどんな言葉がありえたのかと、開き直りたくなる気持ちもないではない。いずれにしても、そのフェミニズム映画は私に特定の経験を与えたわけだが、それを言葉にする主体がヘテロ男性であった途端に、批評が挫折するとしたらあんまりだろう。にもかかわらず、上野論考の語り口には、まさにそう考えている感が見え隠れする。端的に言って、男は黙れ、というわけだ。(精神分析は趣味が悪いが、上野論考も半分ぐらいが人様への精神分析なのでイーブンだろう。)

任意の社会運動に関して言えることだが、特定の集団の経験を改善するという目標を忘れて、〈刺し違えてでも自尊心を守る〉フェイズに入ってくるともう救いがない。粛々とスモールワールドのことを優先し、欲望と理性の均衡において行動を選択し、好きなものを好きと述べ、意識できる範囲で道徳的に振る舞いつつも無意識に人を傷つけ、取り繕い、一日一日を過ごす。それ以上にpolitically correctな批評も生活も、私には思いつかない。

今日はちょっと歩いたところにできた評判のラーメン屋に行ってきた。抜群に美味しかった。

2022/04/01

新入社員の憂鬱がこちらまで伝播してきそうなタイムラインだが、いつもながら、怒鳴ってくる目上の人間というのが一人でも減れば、世界はひとつベターになりそうなものだ。人間はどんなミスをしたって、他人によって大声で恫喝されなければならない、なんてことはない。怒鳴る怒鳴られるは実存に関わる問題だ。我が子に対してもそんなことするべきではないし、法のもとに平等である赤の他人に対してそんなことができる人間はどこかひどく損なわれている。二十歳を超えて、不満に対して大声を出すことでしか対処できないなんてみじめ過ぎるだろう。無視するとか、見放すとか、あるいは粛々と経済的制裁を加えるといったハラスメントは、私が思うに、怒鳴るというハラスメントに比べると遥かに軽い問題だ(是正すべき問題に変わりはないが)。怒鳴らず、怒鳴られずということで生きていけるなら、私はそれでいい。

2022/03/31

年度終わりなので、幾人かの教え子たちとお別れをしてきた。かつての私と私が教わった塾講師のように、もはや互いに二度と会うこともなく、やがて顔も名前も定かではなくなっていくのだろう。忘れられた思い出はミオによってミルラのしずくへと変換され、ミルラのしずくがクリスタルを清めることで、世界は循環していく。

2022/03/30

カフェノマドで、AbellのFictionを読んでいた。この本は前に書評を書いたのだが、後ろのほうを読み込めていないので、4月上旬までにそちらを片付けられればいいなと思っている。今日は前のほうしか読めていないが、Abellの議論にはやや変な前提があるのが気になった。

Abellの関心はフィクションの認識論であり、鑑賞者がいかにして正しい虚構的内容にアクセスするかである。詳しくは書評を読んでくれれば結構なのだが、Abellを理論的に動機付けているのは、フィクション解釈の場合、現実のコミュニケーションみたいに発話者の意図へとアクセスする諸々の解釈戦略(会話の含み、合理性の前提など)が使えないことだ。ここで、Abellは現実の話者とフィクションの作者の間に、シャープな線引きをしている。それで、後者を相手取った解釈のガイドとして、フィクションの制度が持ち出されることになる。

その過程で、これはダメだとして退けられているのが、Waltonらが出している、「作品は、作者が属する共同体において、作者の虚構的発話内容と、矛盾しない範囲だと信じられている範囲の虚構的内容を持つ」という原則だ。あるキャラクターAがBと結婚している場合、明示されていなくても、作者の属するコミュニティーのメンバーにとってAみたいな人はふつうBとの結婚を後悔すると信じられているならば、「AはBとの結婚を後悔している」という内容を作品に帰属して構わない、ということになる。Abellが問題視するのは次の点だ。この原則を取った場合、作品の正しい虚構的内容は膨大に膨れ上がることになる。例えば、明示されていなくても、「Aにはへそがある」みたいな虚構的内容もまた真だろう。しかし、作品解釈において、「Aにはへそがある」みたいなどうでもいい内容を見落としたからといって、解釈が失敗したとは言われない。ゆえに、解釈のための原則は、実際の解釈が取り出すような内容の範囲内に即して、もっと限定的でなければならない。(4-5)

論証としては、おそらく次のようになるだろう。Waltonらの原則を「矛盾しない範囲」説と呼ぶ。

  1. 「矛盾しない範囲」説だと、虚構的内容は異常にリッチになる。

  2. 適切な・正しい解釈は、虚構的内容をきっちり取り出すべきである。

  3. 虚構的内容が異常にリッチだと、虚構的内容をきっちり取り出すのがほぼ無理。

  4. 2∧3より、虚構的内容が異常にリッチだと、適切な・正しい解釈がほぼ無理。

  5. 1∧4より、「矛盾しない範囲」説だと、適切な・正しい解釈がほぼ無理。

  6. 適切な・正しい解釈をほぼ無理にするような、虚構的内容の理論は間違っている。

  7. 5∧6より、「矛盾しない範囲」説は間違っている。

引っかかるのは前提2だ。Abellの言うとおり、「Aにはへそがある」みたいなどうでもいい内容を見落としたからといって、解釈が失敗したとは言われない。しかしそれを、「矛盾しない範囲」説では広すぎることを示す反例として読むのはいささか奇妙だろう。「Aにはへそがある」は依然として正しい内容であり、理論的に十全な解釈を行う上では見落としてはならない内容なのだが、実践的になされている解釈は断片的に正しい内容を取り出していれば十分に適切・正しいと言える(十全な解釈をする必要がない)、というのが実情ではないか。「矛盾しない範囲」説がどこまで有望かはわからないが、Abellはこの立場を十分に退けられていないのではないか、というのが最序盤へのツッコミだ。

2022/03/29

薬を飲むのが苦手で、n錠あるとn回飲む動作を反復しなければならない。薬を飲んでいるという事実が喉が緊張させ、通りがわるくなるのだ。おいしいうどんなんかは、一口2噛みぐらいで丸呑みしている。

2022/03/28

紙のノートをほんとうに使わなくなったのだが、紙になにかを書くこと自体は好きなので、(また、使うあてもなく買った良さげなノートをいくつか積んでいるので、)どうにか生産性の一部に組み込めないかと考えていた。紙でしかできないことを考えたが、とっさに図を書くことぐらいしか思いつかないし、それだったらメモパッドでよいのだ。そもそも、大学受験が終わって以後、ちゃんとコンセプトを守って一冊のノートを使い切った試しがないかもしれない。たいてい雑記帳になるか、使い切らないうちに押入れ行きだ。

この前、実家に帰ったとき、高校時代に使っていたモレスキンを発掘したが、それも雑記帳と化していたし、2/3ぐらいしか使っていなかった。Evernoteとコラボしたやつで、付属のステッカーを貼ったページを専用のアプリで読み込むと、タグ付きでデジタル化できるという触れ込みのモレスキンだった。結局、ステッカーはもったいなくてほとんど使ってなかったし、Evernoteはすっかり時代遅れになってしまった。内容としては、ライフログ、受験勉強のToDo、お絵かき、写真のクリップなど、わりに充実しており、楽しかった受験生活を思い出す

2022/03/27

ビールを切らしていると買いに行くのも億劫なので、しばらくの間禁酒できる。飲むとQOLが格段に上がるが、飲まなくても平均以上のQOLで暮らしている自覚がある。嗜好品が嗜好品と呼ばれる所以だ。

2022/03/26

天気がわるく、元気の出ない一日だった。

Darren Hudson Hickによる美学の教科書をちょっとだけ読んだ。解釈と意図の章だ。解釈において意図はどれだけ関わるのか/関わるべきかというトピックはもうほとんどデッドロックだと思っている。というのも、カバーすべき事例をカバーできているかで理論が評価される以前に、カバーすべき事例についてのコンセンサスなさすぎるのだ。Hickの挙げる例だと、トム・ウェイツは「Last Leaf」を「ただの葉っぱについての曲」だと語っているが、同曲はどう考えても死のメタファーであり、死のメタファーとして説明できないなら意図主義には問題がある、という流れになっている。問題はこの「どう考えても」の正当化だろう。それはもう、どの理論が事象をうまく捉えられるかの対立ではなく、肝心の事象とはどれなのかの混乱でしかない。Hickも章の最後にGautのパッチワーク理論を置いているように、ケースバイケースというのが恒例のオチになるだろう。ケースバイケースであることを認める慎重さは重要だが、「ケースバイケースである」という結論自体は正しいとしてもほとんど面白みがない。それは、問題設定のサイズが不適切であったことの告白ですらある。

2022/03/25

お寿司を食べた。はまち、えんがわ、マグロ赤身、あぶりえんがわ(塩レモン)。海苔すまし汁を二杯飲んだ。今日は直前にカフェでフライドポテトとトリカラを食べていたので、少数精鋭だ。

2022/03/24

親子丼はわりに好きな丼だが、特別美味しい親子丼というのは食べたことがない気がする。いつでもどこでも75点ぐらいの食べ物だ。感動するレベルの親子丼を一度は食べてみたい。

2022/03/23

Peter Shiu-Hwa Tsu「Of Primary Features in Aesthetics: A Critical Assessment of Generalism and a Limited Defence of Particularism」というずいぶん長いタイトルの論文を読んだ。批評的基準に関する三人の一般主義者(ビアズリー、シブリー、ディッキー)がそれぞれ失敗していることを示し、個別主義をちょっとだけ擁護する論文だ。各立場に対する反論は論争史的に既出のものが多く、目新しいツッコミはなかったものの、当のトピックについてさっくり読める良いサーベイになっている。

思うに、ビアズリーの一次的基準(unity、complexity、intensity)がうまくいかなかった理由のひとつは、欲張って三つも挙げたからだ。たしかに、どれもよい芸術作品の持つ性質としてしばしば言及されるものだが、あればあるだけ作品がベターになるというには、組み合わせたときの反例があまりにも多い。

例えばだが、つねに一次的基準となるのはもうとにかく統一性だけだ、という一元論ではどうだろうか。私には複雑性や強度がなんぼあってもいい性質というのがいまいちピンとこないが、統一性(首尾一貫性+完全性)というのであればまだ分かる。この場合も、「脱構築な作品にとって統一性は欠点である」という反例が残るが、そうして挙げられる反例が脱構築な作品という極端なケースぐらいでしかなければ、反例に対する直観を修正する道もいくらかは生きるだろう。すなわち、カオスな作品は、別の偶然的な長所において全体としてはよいのだとしても、カオスだけとればより悪い作品なのだとか、カオスなように見えて、実はそこには高次の統一性があるのだとか、言えそうなものなのだ。後者としては、例えば「カオスを生み出す」という中心的な目的に沿って、適切なパーツが適切に配置されている様を、目的に対する手段のunityとして語れなくもないような気がしないでもないかもしれない。

おそらくは、一面を単色で塗っただけの絵画のように、unityはあっても傑作とは言い難い作品のほうが、反例としては深刻なのだろう。これを回避する道はとくに思いつかないが、その価値のなさを論じるためにcomplexityの欠如を言い出すと、一元論は破綻することになる。実のところ、unityがないのだ、というのは結構無理があってしんどいと思う。

いずれにせよ、その一元論をとるためには気合を入れてunity概念を定義しなければならないが、あらゆるケースをカバーするためには内包的にかなりゆるいもので満足しなければならず、最終的には「統一性がある」と「(端的な)良い」がほとんど区別がなくなってしまうのではないか、という懸念もある。上述の論文にも、一次的基準の一元論が可能性として一瞬だけ触れられるのだが、歴史的に見てもこういった立場をとった論者はいないのかもしれない。

2022/03/22

ポモの悪口はそれなりに言ってきたほうだが、実のところ私はポストモダニズムとして総称される思想的文化的動向がそれなりに好きだし、そこに含まれるアイデアや視点には価値あるものが多いとさえ考えている。ボードリヤールを読んでいなければ、私が哲学をやることはなかっただろう。結局のところ私が憎悪しているポモは、ポストモダニズムの思想群というより、そこに傾向的に含まれる蒙昧主義なのだと言うのが正確だろう。蒙昧主義は必ずしも、ポストモダニズムの書き手に限った問題ではない。ろくにものを考えず、それっぽい雰囲気作りのために修辞を凝らすというのは、芸術作品のステートメントから政治家の発言まで、ろくにものを考えていない人々からなる現実世界においてありふれている。問題は、無知に対してどれだけ謙虚になれるか、言えることを言える範囲でどれだけ明瞭に言えるかであり、カオスを正当化することではない。

2022/03/21

実家で水餃子を食べた。実家で出る点心は、私が地上で最も上手いと思っている食物のひとつだ。夕飯にはすき焼きも食べた。どちらも、一人暮らしではまず食べることのない料理だ。

2022/03/20

意見対立や論争の意義に対して英語圏の論者がやたらと楽観的なのは、健康的でリスペクトフルな議論をしょっちゅうしているからにほかならないのだろう。「必ずしも意見の収束を目指したものではなく、互いの意見を交換することで、他者理解や世界理解が深まる」云々の見方は、最近かなり目にする気がする。しかし、そういった見解においては、自分とは異なる意見を提示されたときの被侵害感、自分の意見を(字面上だけにせよ)否定されたときの不快感を、まったくもって無視しているか、そういった感情を脇に置いてこそ理知的な現代人だと言わんばかりの趣がある。

日本人はそういう態度をとれないとか、大学を出ていない者はそういう態度をとれない、みたいな話に落とす気はないが、そういう態度をとれない人がいるのは事実だし、それもめちゃくちゃたくさんいるのだろう。それは必ずしも悪しきことではなく、「言い争っても友達」みたいなクールネスこそ、ヒトにとっては無理のあるものではないかと思うときすらある。もちろん、これらの反対にある「気を遣って意見を言わない」「意見対立はなあなあで済ます」は別の地獄に繋がっているので、どうしようもない。結局のところ、議論したければそこが否定共同体かどうかを適切に見定め、それ以外の場所での意見対立についてはもうちょっと感情に気を配る、といういつものオチになりそうだ。

2022/03/19

ドレイファスによる行為論を学んだ。私の一昼漬けの理解ではそれは、行為の一部は世界との関係においてアジャストされた身体が目下の状況に対して反応することでなされる、という説明だ。そのような反応は、命題的・概念的な計画や意図によらず、知覚対処[coping]の積み重ねによるフィードバックループに基づいている修士の頃に信原幸弘先生の講義で人工知能の哲学を学んだときにも同じようなアイデアがいくつかあった(ギブソンのアフォーダンス、私がレジュメを担当したティム・ヴァン・ゲルダーの力学系理論)が、いずれも源泉はハイデガーとメルロ・ポンティらしい。計算主義・表象主義的な知能観や行動観の乗り越えとして、世界内存在や肉といったアイテムが重宝されているのだろう。

芸術哲学に関しても、創作と美的経験はこの種の説明によっていくらか見通しが良くなるかもしれない。芸術家ははっきりと述べられる計画において創作することはまれであり、トライアルアンドエラーの積み重ねや、熟練によって自動化された運動、産物と自己が調和する感覚の役割が大きいのだろう。このことは、意図主義が念頭に置くような作者の意図についても見直しを求めるだろう(この辺は最近お話した感じだと村山さんの関心に近いようだ)。他方で、作品を見たときの美的経験にも、同じようなプロセスが言えそうだ。私は作品のうちになにかを求め、見逃し、探し続け、見つけ、ハーモニーを経験する。あるいは、作品と自己が調和する感覚こそが美的経験なのだとしたら、創作こそ部分的には美的経験なのだという、それなりに穏当で見栄えのいい主張も出てきそうなものだ。

2022/03/18

見逃していたが、存じ上げない方から一年前の倍速記事へのコメントをいただいていた。

彼/彼女の論は、私がざっと読んだところでは、「場合によっては倍速鑑賞は構わない」という結論を私と共有しつつ、私が倍速否定派に対して譲歩している前提「倍速鑑賞のわるさのうち少なくともひとつは、作者の意図した仕方(等速)ではない鑑賞をしている点に起因しうる」に反対し、私の退けた見解「意図とか真正性とか失礼とかどうでもいいだろ!」が正当であるような場面もあると主張するものになっている。基本的には、私の意図主義に対する譲歩を、意図主義に対する擁護として読んでいるようなきらいがある。

「これらの議論は、論者の立場上、作品の意義(芸術的価値)を不当に取りこぼす・損なうといった事態について大きな関心が払われており、だからこそ「真正でないかつまたは失礼である」という批判にまともに付きあうかたちで、こうした批判を回避するための道筋を探るものだった。

だが、ぶっちゃけた話、作者が前もって「意図」したような「真正な」鑑賞体験であるということは、そこから生まれる批評が正当なものであることをサポートしない。」

上に引用した段落で、彼/彼女はすでに私の記事の意図(!)を十分に汲んでいるはずなのだが、以下段落ではどうも意図主義への批判を私に差し向けているようで、そうだとしたら的外れというものだ。というのも、「倍速鑑賞は作者の意図を無視していてダメだ」という主張は、私において「たとえ〜だとしても[even if]」のスコープに入る仮定でしかなく、そうせずに倍速鑑賞を肯定できることは、私にとっておおいに結構だからだ。私が立てた論証は、「たとえ意図主義的に見なければならないのだとしても、倍速鑑賞が構わないようなケースがある」というものであり、「意図主義的に見なければならない!」なんて主張していないのだ(チャートに書いた文言がややミスリードだったことは認めなければならない)。「作者の意図を重視しない解釈実践があり、当の実践と相対的に言えば倍速鑑賞もただちにはわるいとは言えない」という趣旨の主張は私も完全に同意することであり、総じて彼/彼女の見解と私の見解にはなんら実質的な対立点がないのだ。

学びとしては、「たとえAだとしてもBだ」を「筆者はAだと言っている」で読んでしまうのはネット論壇にありがちな誤読なので、気をつけていきましょう、といったところだ。受験現代文の誤答でもよくある。

2022/03/17

2021/10/12ぶりに雨のなか自転車を漕いで退勤した。瀬戸内海はさんさんと日が照っていたのに、東京はねちねち雨が降っていてむかつく。

2022/03/16

最終日。連日の遅寝早起きのツケを払いつつ、朝風呂をいただき、チェックアウトして朝うどんを食べに行く。セルフのお店で、自分でうどんを湯がくスタイルだった。美味しかったので、お土産の半生うどんもここで買っていく。

高松港からフェリーで男木島へ渡る。目当ては猫だ。港では茶色い子に目をつけられ、熱烈な歓迎を受ける。私は犬派なのだが、あの甘え方をされては党派も揺らぐというものだ。

山に登ったところにある休憩所で、親切なおじさんの作ったタコ飯をいただく。港が一望できるテラスで、たいへん心地よい。さっき会ったのはミミちゃんという、島内外で大人気のスーパーアイドルだということを教えてもらう。島の猫たちはどの子も名前がついているらしく、おじさんの知識がすごかった。気配をかもしながら歩いていると猫の方から出てきてくれるらしいので、言われたとおりにしながら島を練り歩く。はじめの方はなかなか見つからなかったが、水辺の日陰にはくつろいでいる子がたくさんおり、存分にモフることができた。フェリーの時間ギリギリまでモフっていたので、またしても港まで走る。

高松港へ戻り、ベトナム料理店でバインミーを食べる。会計が間違っていることに後で気づいてバタバタしたが、なんとか解決した。空港へ向かう前に、うどん締めを執り行う。高松のうどんは最後まで最高に美味しかった。うどんという食べ物には、基本的に飽きが無縁だということを実感する。

成田までジェットスターで飛び、バスで帰る。終電近くだったので結構バタバタした移動になり、水分補給のチャンスがなかったので、二人してカピカピになった。溜池山王でやたらと車両が揺れていたので、なんてヤクザな駅なんだろうと思っていたら、バカでかい地震だったらしく、一時的に運休になってしまった。地下鉄は地震に強い構造になっている、というアナウンスが頼もしかった。

どうにか帰宅に成功し、シャワーを浴びて寝る。停電しておらず、ものも落ちていなかった。

2022/03/15

三日目。南珈琲店でお得なモーニングセットをいただいた後、岡山へ向かう。大きな町だ。

後楽園は時期がいまいちで大きな見どころはなかったが、ほどよい散歩スポットだった。タンチョウ、でかい。

倉敷へ移動。昼食はとんかつかっぱが目当てだったが、すごく並んでいたので断念し、みそかつを食べる。みそかつは美味しかったが、追加で頼んだ1200円のエビフライが2本で、「2本!?!?」となった。が、ブリッブリで美味しいエビではあった。

美観地区をめぐる。金沢よりももう少しモダンな町並みで、川もサラサラできれいなところだ。倉敷珈琲館でいただいた琥珀の女王も抜群に美味しかった。地ビールの独歩を購入し、高松に戻る。

夕飯は奮発して、スペイン料理のコースをいただいた。ステーキもアヒージョよかったし、パエリアも久々に食べたので美味しかったが、閉店ギリギリだったのやや急いで食べた。恋人の体調が優れなかったが、不屈の精神で晩酌を決行し、寝る。

2022/03/14

二日目。朝からうどんを食べ、小豆島へ向かう。香川のうどん屋は朝昼と夕夜で別れており、両方やっているところはめずらしい。朝から数百円でうどんがすすれるのは素晴らしいことだ。

昼はそうめんを食べる。小豆島はそうめんが有名らしい。たしかに、市販のものとは違い、極細うどんのような噛みごたえのあるそうめんだ。美味しい。

小豆島はかなりでかいので、さっさと歩いてエンジェルロードへ向かう。道中立ち寄ったカフェのコーヒーとチーズケーキも美味しかった。

エンジェルロードは干潮が予定よりも遅れており、海を見ながらぼんやり座って待つ。スケジュール的にギリギリになってもまだ道が現れ切っていなかったので、靴を脱いで渡ることにした。3月の水はまだ殺人的に冷たく、裸足で渡るには貝殻のギザギザがしんどかったが、どうにかこうにか向こう島までたどり着いた。たどり着いたからには戻らなければならない。

それで、フェリーの時間がギリギリになってしまったので、諦めるかレンタルサイクルを利用するか走るかで、走ることを選択する。文系の大学院生にとっては結構な距離だ。荷物を持って走るには遠い。この数年で最も過酷な移動であり、数分前の海渡りとあわせて、一種目除いたトライアスロンでしかなかった。15時前になんとか港に到着したが、なんたることかフェリーの時間を間違えており、まったくの走り損だった。ともかく、精神的にも肉体的にもいい思い出ではある。

予定よりやや遅で高松港に戻り、本日二食目のうどんをいただく。窯バターうどんは、うどん版の卵かけご飯といった趣で、おいしい。ドーミーイン近くの商店街でジェラートを食べ、骨付肉を買って帰る。骨付肉は、親鶏のほうが噛みごたえがあり、食べ物として面白かったが、シンプルに美味いのは雛鳥だ。スーパーで買ってきたビールを飲み、風呂に入り、寝る。

2022/03/13

実質的な一日目。高松港から高速艇に乗り、豊島へ向かう(とよしまではなく、としまらしい)。瀬戸内海は波が穏やかで、遠くにぼんやりと見える島々が美しい。全体的に空気がしめっぽいのに、陽は燦々と照っている感じが好みだ。広島は小学校2年生のときに去ってから一度も戻っていなかったので、瀬戸内海を見たのは18年ぶりだ。

海のレストランで昼食を食べる。トタン造りのクールなお店で、オリジナル果実酒の「ウミトタの麦とホップと檸檬のシュシュワっとしてるやつ。」もよかった。テラス席は景色が抜群によいので、当日予約が取れてラッキーだった。豊島を出て、直島へ向かう。

直島では、アカイトコーヒーでコーヒーとトーストをいただく。安くて美味しい。基本的に、香川の喫茶店はどこも安くて美味しかった。窓から向かいの家の玄関先で、でかい犬が2匹日向ぼっこしていた。

地中美術館。安藤忠雄によって設計されたコンクリ造の建物に、モネとジェームズ・タレルとウォルター・デ・マリアが恒久設置された施設だ。地中なのに陽の光が差し込む建物がほんとうに格好良く、設置されている芸術作品が半ば食われていたぐらいだ。モネは睡蓮シリーズから5作が展示されていたが、靴を脱いで入ったところの向かいに一番大きい作品を置いているのが、かなりよかった。ジェームズ・タレルはかなり好きなアーティストで、地中美術館ではくぼんだ部屋のなかに入り込む作品がよかった。奥まで行くと距離感が失われ、目は照明の色を追う以外の機能を奪われる。きれいな作品だ。ウォルター・デ・マリアははじめて見たが、教会のような広い部屋に、木でできた無数の柱と、中央にGANTZのような黒玉が設置された作品だった。木の柱は三角形、四角形、五角形のものがあり、3本セットで{三角、四角、四角}みたいな感じになっているのが計27セットあった。数列的なリズムがあり、不思議な作品だ。

ベネッセハウスミュージアムへの心残りとともに、直島から高松港に戻る。到着後24時間にしてようやく香川のうどんにありつく。うまい。うどんはもちろん、天ぷらも安くて盛々なのが最高だ。店員がこっぴどく叱り・叱られていたが、それは彼彼女らの問題なのでとくにできることはなかった。

せとしるべ灯台を散歩する。かなりの距離があり、夜なのに釣りをしている人が多かった。周辺はバイカーのたまり場になっていた。風呂に入り、部屋に戻り、寝る。

2022/03/12

3/12から3/16まで恋人と観光で香川〜岡山に行ってきた。

この日はLCCの夕方便に乗る予定だったので、荷物をまとめ成田へ向かう。銀座からバスに乗るのが行きやすいことを知った。

成田ではフレッシュネスバーガーを食べた。第3ターミナルはその他のふたつに比べるとしょっぱい施設だったが、時間をつぶすには十分である。私は飛行機が割と苦手ではあるが、ジェットスターは思っていたよりも揺れず、無事に目的地まで運んでくれた。

ドーミーインには9時に着いた。ご飯を食べに出かけたが、まん防もあってお店はどこもやっておらず、商店街にはとくになにかをしているわけでもないホストとキャバ嬢しかいなかった。ドーミーインに戻り、夜鳴きそばと大浴場を利用する。露天風呂に入っているとものすごい音量でバイカーが通り過ぎて行ったので、香川はよほど治安の悪い街なのでは、という疑惑を深める(最終的に、そんなことはなかった)。部屋に戻り寝る。

2022/03/11

シネマカリテでブレッソンの『たぶん悪魔が』と『湖のランスロ』を見てきた。ブレッソンはほとんど見ているが、めちゃくちゃ好きだと思えるのは一番最初に見た『ラルジャン』だけかもしれない。私はブレッソンのことを厳格な形式主義者だと思いこんでいたが、今思えばそのフレーミングこそ不適切だったのだろう。アキ・カウリスマキやジム・ジャームッシュにパクられている即物的なカットも、濱口竜介にパクられているセリフ棒読みも、ドラマを排除し、むき出しの理不尽を突きつけるための手段なのだろう。一度見ただけでその中心にある目的を拾い、手段を評価するのは厳しい。なにかが始まる直前にぶった切られたり、なにかが終わった直後から始まる場面が異常に多いし、人物のプロフィールに関する説明はどれも明示的でなく、顔と名前が一致したころには映画が終わっている。きっと私はいろいろ読んだ上で、もう一周ブレッソンを巡礼すべきなのだろう。そして、このような作業を要求する作家がいることは、ネタバレや倍速の否定派に対するミニマルな応答になるんじゃないかと思ったり思わなかったりする。

2022/03/10

これは自己分析だが、基本的に作り置きをすると作り置いた分ぜんぶ食べ切るまで、別の食べ物を口にしなくなる類の強情さがある。昨日今日で3食キムチ鍋を食べた。まだ2食分は残っている。

2022/03/09

学部四年のとき、所属していたゼミを含む専攻の合宿で、八王子の大学セミナーハウスに宿泊した。吉阪隆正によるきしょい建物についてはまだ再認能力もなく、変な建物があるとしか思わなかったが、宿泊していたさくら館のコンクリがかっこよかったのは覚えている。森に囲まれているので虫が多くて嫌だった。

私は他学部からの参加だったのでアウェイ感がすごかった。あれだけアウェイな外泊は、後にも先にもあれぐらいだったと思う。どうも、親睦会で飲んだくれ、冷たいコンクリの床で夜を明かすのが風物詩らしいのだが、例年盛り上がってそうなってしまうというより、当の風物詩を風物詩として維持せんがために盛り上げようとしている雰囲気で、痛ましさがあった。大学生の飲み会は、バイブスが合う仲間たちと盛り上がって粗相かます分には可愛らしい思い出だが、特定のイベントが伝統的規範として酔いつぶれることを個々人に要求しはじめると、途端にきつさが増す。サークルなどで定例の飲み会はほとんどがそうなりがちだ。私は程よくビールをいただいてさっさとベッドに潜ったのだが、深夜に同ゼミの人がグロッキーで帰還し、しばらく息を整えた後、もうひとイッキせねばという使命感とともに再出兵するのを見てちょっとだけ同情した。なんにせよ、世界がまだ平和だったころの話だ。

翌朝の、教員と学生による採点付き卒論中間発表で、私は全評価項目ぶっちぎっての1位を取るのだが、それというのも私以外の構成員はほとんどが二日酔いで、デリケートな判断が出来なかったからに違いない。

2022/03/08

最終日のバンクシー展に行ってきた。一般的に風刺的な作品には「うまいこと言わんでええねん」的なやかましさがある。バンクシー展にも、NONSTYLE石田のボケを立て続けにかまされているかのようなやかましさがあった。はじめはなかなか見方がわからなかったが、井上になりきってツッコむポーズをとってみると、それなりに気分良く相手取れるように思えた。

思いがけずアンディ・ウォーホル見れたのはホクホクした。一方で、「天才か反逆者か」というウリ文句はほんとうにずさんな二者択一で、来場者投票によると天才のほうがやや優勢というのも含めて感じが悪かった(あと、動線がいまいちで人がジャムってたのはこのご時世キツさがある)。アーティストに許可なくやってる巡回展だというのを後で知ったが、まぁ、許可なく壁に絵を描くアーティストなので、どっちもどっちといえばどっちもどっちだ。反消費主義を掲げる芸術が骨の髄までむしゃぶられるという構図は、今も昔もcommonplaceすぎて、もはや皮肉としても通用しないだろう。

2022/03/07

京都みやげのおいしいわらび餅を食べた。

2022/03/06

ほんの3、4年前まで富士フィルムのSUPERIA X-TRA 400 (36枚撮り)が3本パック1500円程度で買えていたのが、いまやSUPERIA X-TRAもなくなり、代替品を謳うPREMIUM 4001本1,200円ちょいするのは、本当にあほらしくて笑えてくる。倍の枚数撮れるオートハーフに、monogramの学割を使って現像+CDデータ化を1000円でやってもらうとして、前までなら(¥500+¥1,000)÷72枚=¥20弱/枚だったのが、いまでは¥30弱/枚だ。この数年でランニングコストが1.5倍になったわけだ。

¥100弱/枚するスクエアチェキもたいがいだが、あれは物理でプリントしてしかじか値段なので、デジタルでパシャパシャ撮って、気に入ったものだけプリントするぐらいが、今日写真を趣味とすることの限界だろう。35mmフィルムカメラは、いつの日か不動産収入なりが入ってきたら再開したい。

2022/03/05

ダミアン・ハーストの桜は、見に行く気がそこそこあったが、ある必要最低限の説明を聞いてすっかり行く気が失せた。鑑賞選択の動機づけになるという点で、それらはいい批評だったと思うし、行く前に聞けてよかったと思う。しかしこう、「なるほど、そんなもんなら行かなくていいな」と納得させられることと、「そんなこと言われると、行きたかったのに行く気失せるなぁ……」と萎えさせられることの違いはどこにあるんだろう。おそらくは、批評家との信頼関係や、その語り口の繊細さや、こちらの期待のベクトルといった、絶妙なバランス関係に依っているのだろう。

で、ある必要最低限の説明とは、「ダミアン・ハーストなら、インスタレーションが見たい」だ。

2022/03/04

ここ半年で知ったなかでは、Robson Jorge & Lincoln Olivettiの同名アルバムが群を抜いてよい。一曲目「Jorgeia Corisco」からブギーなディスコで景気が良いし、「Pret-à-porter」「Squash」のようなソウルギターも大好物だ。ブラジルのソウルはTim Maia周辺が激アツとは聞いていたが、いかんせん情報が少なくて、なかなかdigれずにいたジャンルだ。この二人はTim Maiaとも仕事をしていたプロデューサーらしい。今年はブラジル音楽に詳しくなろうと決意した。

2022/03/03

連載中の作品に対して展開の考察を行い、それが的中していたときに誰がどう得するんだろうか、と思うようになってきた。『タコピーの原罪』は私が能動的/受動的に見てきたいくつかの考察通りに進展しつつあるが、考察を見てなければもっと面白く読めたんじゃないかと思いつつある。あぁ、やっぱりこうなるか、という答え合わせの要領で最新話を紐解くことは、なにかもっと重要な経験を取りこぼしているような気がする。Nanayの言い方だと、注意が凝り固まっており、自由でオープンエンドな美的経験をしそこねているのだ。

考察というのは、当たっていたら当たっていたらで、フォア向きのネタバレでしかないんじゃないか。ネタバレになんらかの落ち度があるのだとしたら、同じタイプの落ち度が考察にもあるはずだろう。ただ、考察は当たっているとは限らないので、鑑賞を毀損する可能性が相対的に低いというだけだ。そして、この「当たっているとは限らない」という事情が考察を正当化し、ネタバレにはあるような批判と配慮がほとんどまったく見られないというのは妙な話だと思う。加えて、ネタバレにはない考察の弊害として、物語が予期せぬ方向へと転回していく妙ではなく、それを予想し的中させただれかの目を称賛するモードが、少なからず入り込んでしまう点もありそうだ。そんなことをしたって、鑑賞にとってはなんらプラスではないだろう。

変な話だが、良い考察というのは、①極めて整合的で(的外れではなく)、②しかし意外性があり(予定調和ではなく)、③蓋を開けてみたら外れている、というのを合わせて満たすような考察なのだと思えてきた。ファンコミュニティでああだこうだと予想し、極めてもっともらしくかつ意外性のある予想が立ったにもかかわらず、まったく異なる方向へと物語が舵をとった瞬間こそ、連載作品の醍醐味だろう。当たっていた考察は、優れた考察であり、考察としては“成功”した考察なのかもしれないが、鑑賞に対するポジティブな貢献はほとんどないのかもしれない。だとしたら、考察における成功基準こそ考え直すべきだろう。

2022/03/02

手元にあった15,000字ちょいの原稿をせっせと英語に訳した。とはいっても、大半の仕事はDeepLとGrammarlyがやってくれるので、銭のやることは確認と微調整に尽きる。DeepLGrammarlyはいまや私の知的活動の絶対的基盤であり、それらなしには私はベルイマンの映画に出てくる牧師並に無力だ。修士のころはせっせと辞書を引きながら、呆れるほどの時間を書けてようやく論文が一本読めるという始末だったのが、今ではDeepLにおんぶに抱っこだ。もちろん、あれはあれで英語を読む基礎体力には繋がったのだが、当時からDeepLを使っていれば、もっと立派な修士論文を書けただろう。Grammarlyは昨年有料会員になって使い始めたのだが、同年、DeepLとのコンボで査読を一本乗り越えたのがだいぶと大きな自信になった。

DeepLに投げる前提で文章を書いていると、「こんな言い回しはDeepLが困っちゃいそうだな」というので、書く段階からしてすでに表現がすっきりしてくる。工程としては、あたかも英語から日訳されてきたような下書きを私が打ち出し、それをDeepLが英訳し、Grammarlyが添削するという具合になる。「ここは一文が長い」「この類義語を使うべし」「これはいらん」というGrammarlyの添削に従って文章を切り詰めるのにも、特別な快楽がある。つまるところ、私はこのような論文執筆スタイルをかなり気に入っているのだ。それは、詩的にかっちょいいエクリチュールを編み出して格好付ける類の、私が薄ら寒いと思っている執筆活動のちょうど正反対にある。

ところで、前述の原稿を一通り訳した成果として、5000ワードちょいの英文が得られたのだが、これは「日本語の文字数:英語のワード数は、だいたい2:1だ(日本語2000字なら英語1000ワードになる)」という通説とずいぶん違わないか。ウイスキーで言うところの、天使の取り分というやつなのだろうか。

2022/03/01

はじめてパッタイを食べたが、かなりfor meだった。あまり意識して食べてこなかったが、タイ料理が相当口に合うというのはここ一年で発見したことのひとつだ。もう3月だが、今年はタイ料理をいっぱい食べる年にしたい。

2022/02/28

ディズニーシーに行ってきた。ラインナップは、トイ・ストーリー・マニア、アクアトピア、スモークターキーレッグ、ビッグバンドビート、マリタイムバンド、ホライズンベイ・レストラン、シーライダー、センター・オブ・ジ・アース、海底2万マイル、シンドバッド、チュロス(フォンダンショコラ風)、ソアリン、タートル・トーク、マジックランプシアター、チュロス(シナモン)。いつのまにか導入されているスタンバイパスというシステムがやたら難しかったが、めぼしいものには一通りアクセスできてよかった。タートル・トークの挨拶が無言になっていたの情緒があった。

2022/02/27

カレー、四食目からは祈りになる。

2022/02/26

カレーというのは一食目は喜びだが、二食目からは作業になり、三食目からは修行になる。

2022/02/25

カルヴィッキ本のレジュメをちょきちょきと切った。最近、描写の哲学に対する関心が薄れてきているのだが、その何割かは、私のやりたいことをそっくりそのままカルヴィッキがやっているからだろう。そして、問題に対する回答も私の考えている回答とおおむね重なっており、じゃあもう彼に任せればよかろう、という気持ちが少なからずある。

一般的に言って、哲学をやっていると、自分の考えていることなんてだいたい先人が考え切っているみたいなことが往々にしてある。とはいえ、翻訳したり整理したり敷衍してりとやることはそれなりにあるので、そこは別にいいのだが、同時代でかなり尊敬できる研究者がすでにやっていることを、ラディカルな差別化の目処もなく追従するのはやっぱりむずかしいだろうなと思う。「博士論文を書く者は、誰であれ、そのトピックについて世界一詳しいのでなければならない」とまで言うのは大げさだなぁといつも思うのだが、「そのトピックについて書く者が、誰であれ、読まなければならないような博士論文を書かなければならない」はそれなりに真実だと思っている(思っている、というよりも覚悟している)。

2022/02/24

昨日作ったタコライスが残っていたので、今日の昼はタコライスを食べ、夜はもちろんタコライスを食べた。なにか書こうとしたが、タコライスについては「作った」「食べた」という以上に書くことがなにもなかった。タコライスに哲学はない。

2022/02/23

イタコになってずっとビアズリーのことを調べているうちに気づいたが、1973年の「What Is an Aesthetic Quality?」を除けば、ビアズリーはほとんどシブリーに言及しておらず、いろいろとツッコまれてきたはずなのにすっかり無視している。これは、ビアズリーが絶えずやり取りをしてきたディッキーとは対照的だ。アメリカ美学会とイギリス美学会ではまだ距離があったということなのか、ビアズリーのプロジェクトにとってシブリーの理論は対して関わらなかったのか、その辺はよくわからない。

2022/02/22

去年導入したガジェットでもっともよかったのは、Notionとホットサンドメーカーだろう。Notionについては、論文ノートの管理や、アイデアの整理、論文の下書き、ライフログ、博論計画までぜんぶこれ一本でやるようになった。基本的には記憶力が人並み以下であることを自覚しているので、こう脳の役割を外部化できるとストレスフリーだ。Notionはまだまだ使いこなせていない機能がありそうなので、Notion大好き人文系研究者を集めて活用セミナーをやってくれるならぜひ聞きにいきたい。ホットサンドメーカー活用セミナーでもいい。

2022/02/21

芸術の理論はなんぼあってもいいのだが、生活の理論はたいてい野暮かつ余計なお世話なのだ。私を理論へと駆り立てる原始の問いはいつだって、ゴダールはどう見ればいいのか、タランティーノはなぜあんなに笑えるのか、私はなにゆえこんなにもエドワード・ヤンが好きなのか、といった問いなのだ。この点、私は近年の分析美学が、芸術哲学からのバックラッシュで日常美学に接近していることを、必ずしも好意的に思っていない。『Aesthetic Life and Why It Matters』を着手したので、対談だけさくっと読んだのだが、三人の書き手はみな「どうすれば美的により良い生活を送れるのか」という問題を共有しているようで、ノリが違うなと感じた。「美的福祉」とか言っていたビアズリーもその手の人だったので、JAEに載っている一連の論文が再評価される日も近いだろう。それはともかく、という話だ。

「美的な生活とはどういう生活か」という、whatで始まる問いなら私もそれなりに気になる。他方、「どうすれば美的により良い生活を送れるのか」という問いは自己啓発セミナーじみていて胡散臭いだけでなく、生活というものに対する根本的な誤解に立脚しているようにすら思う。美的価値の本性がなんであるにせよ、また、それを最大化する方法がなんであるにせよ、本や論文で理論を仕入れて実践するようなものとはとても思えないのだ。むしろ、即興とトライアルアンドエラーが生活の本質なのだとしたら、美的生活のhow to理論ははじまりからして見当違いなのだ。もちろん、理論によってトップダウン的に、暮らし向きが美的にベターになる可能性は少なからずある。しかし、それとは別のところで(そして、私の考えではより核心的なところで)、即興とトライアルアンドエラーのなかでしか出会えない生活上の美的経験があるのだとしたら、それを取りこぼすのは片手落ちだろう。そして、それは理論というフォーマットですくい上げようとしても、どうしても取りこぼしてしまうものなのではないか。だとすれば、われわれは粛々と生活する以外になにができるのか。

結局、哲学には「どうすればいいのか」と「とはなんなのか」というふたつのグランドクエスチョンがあり、私の興味はもっぱら後者に傾いているということになるだろう。それはそうと、『美的生活とその重要性』なんていうタイトルの本、ロペスらを知らなかったとしたら私にとても手を伸ばそうとは思えない訳される予定の森さんにはセンスいい邦題をお願いしたいところ。

2022/02/20

美的理由と快楽主義まわりのサーベイを書いた。基本的には森さんのサーベイに詳しく書かれているトピックなので、改めて紹介するべきか迷ったが、ネットワーク説に対する快楽主義の擁護をひとつ提出しておきたかったわけだ。今年の応用哲学会は出すかどうか迷っていたが、これを書いているうちに「ビアズリーの美的価値論再考」というテーマが浮かび上がってきたので、そちらで発表しようと思う。いずれにせよ博論のテーマ的に、一度はビアズリーのイタコをしておかなければならないはずだ。

2022/02/19

日記をはじめてから一年が経った。総文字数は10万字ちょい。毎日ちょっとずつなにかしらを書く状態を保つのは、精神衛生上それなりによいことだったと思う。とくに、研究上の立場はころころ変わるので、その時々で直観を表明しておくことは、後で見返したときに自己発見があってよかった。

辞める理由もないので、今後も続けていこう。

今日はTyler Taorminaの長編デビュー作『Ham on Rye』を見た。気味の悪い映画だった。

2022/02/18

K-POPにもすっかり飽きたのだが、結局のところ、次になにが出てくるのか分からないフェイズが面白いのであって、60〜70点ぐらいのものがコンスタントに量産されるようになった文化はしょうもなくなる。ちょっと前までは、暴力マシマシなガールクラッシュばかりでほんとうにうんざりしたのだが、最近はマーベルの女性ヒーローみたいな、変身して飛んでいきそうなコンセプトばかりで引き続きうんざりしている。なにかひとつ、飛び抜けた楽曲なりグループが出てくれば面白いのだが、IVEにせよNMIXXにせよ、及第点取りにいってる新人ばかりで残念だ。

もう結構前からK-POPに関しては愚痴ばっかり言っているのだが、not for meだと認めてすっかり無視できないのは、まだなんらかのブレイクスルーを期待しているからに違いない。

2022/02/17

お寿司を食べた。本マグロ赤身、はまち、うなぎ、カニ味噌軍艦、あぶりえんがわ(みそ)、あぶりえんがわ(塩レモン)、サーモンユッケ、海苔すまし汁。ひさびさだったので冒険せず、真摯にいつメンを食べた。武蔵小杉と目黒はいつも行列なのだが、中目黒に新しくできた店舗はがら空きで、たいそう快適な食事ができた。

2022/02/16

恵比寿映像祭に行ってきた。今年はこじんまりとした規模感で、有料の展示もスキップしたため、1時間半ぐらいで見終わってしまった。たいていの作品はわけわからんのだが、ひらのりょうの映像インスタレーション《ガスー》はちゃんとしていてよかった。また、わけわからん作品のわけわからなさにもヴァリエーションがあったのだが、サムソン・ヤン《The World Falls Apart Into Facts》はシンプルにわけがわからなくて、いくらか好感を持てた。

それはそうと、昨年の恵比寿映像祭でなにを見たのか、プログラムを見てても一向に思い出せないのが悲しい。今年見たものも、来年にはほとんど忘れてしまうのだろうか。それはそれでいいことなのかもしれない。

2022/02/15

芸術だろうがホラーだろうが、選言的定義やクラスター説に納得させられたことがほとんどない。それは、シンプルに言って、「Xであるとは、F1あるいはF2あるいは……のどれかである」や「Xであるとは、F1、F2……のうちの多くを満たすものである」と言われても、Xについて肝心なことを知れた気がしないからだ。(ずらりと並んだ性質セットが美的にエレガントでない、という問題はいったん置いておこう。)

ほとんどの選言的定義やクラスター説は、説明項となる性質セットの歴史的変化を認めている。ある時代にホラーだとみなされている作品は、その時代のホラー性質セットのどれか/多くを例化するからホラーであるのだが、今日のホラー性質セットからすれば、それはホラーだと言えないのかもしれない。それは、ある程度までは実態に即したものだろう。しかし、そういった選択肢やクラスターの変遷にもかかわらず、カテゴリーが同一性を保てているのは、制作者や鑑賞者の間に期待のネットワークが成り立っているからだと述べられるとき、芸術哲学者は肝心な探求を仕事半ばで放棄しているように思われるのだ。この定義では、時代ごとにそのカテゴリーに関して形成されていた期待を調査し、最終的にある作品があるカテゴリーに属するかどうかを判定できるのは、歴史家や社会学者だけだという話にもなる。

美学者や哲学者が、そういった解決にどうして満足できるのか私には分からない。繰り返しになるが、あるカテゴリーの内実が選言的だったりクラスター的であることは、世界や人間や文化に関する真実なのかもしれない。しかし、紛れもない真実なのだとしても、クールすぎて、知ったところでうれしさの少ない真実だろう。前にも書いたが、結局、私には定義論の正解がぜんぜん見つからない。

2022/02/14

エスパスルイ・ヴィトンでギルバート&ジョージを見てきた。ルイ・ヴィトンは毎回入るたびに緊張するのだが、スタッフの方々はほんとうに親切で、今回もぼーっと突っ立っていたら作品の解説をしてくれた。《Class War, Militant, Gateway》はステンドグラスのようなツヤツヤした写真コラージュで、でかいとは聞いていたが相当でかかった。メキシコ壁画運動っぽさもある。印象としては、Singing Sculpture》の人を食ったような奇抜さやシニカルな態度はほとんどなく、問うべきものを問い、向かうべきところへ向かう実直さ、素直さの感じられる作品だった。

2022/02/13

朝食:ソーセージキャベツサルサチーズのメキシコ風ホットサンド、コーヒー

昼食:昨日作った麻婆豆腐の残り、白米、きゅうりのキューちゃん、紅茶

夜食:先週実家に帰ったときに貰い、冷凍していた肉まん、ラスイチ

2022/02/12

先輩方からの鼓舞によって、博論を書かねばという気持ちを新たにした。もっぱら悪い意味だが部分的には良い意味において、私はいまだに博論のことをほとんど気にすることなく読んだり書いたりしている。しかし、当然ながら、博論というのは書かれなければ書かれることはないのだ。

2022/02/11

ワークショップのミーティングで、図らずも美的価値の話についての理解が深まり、マネについての理解も深まった。私はやはり少なからず美的快楽主義者にシンパシーを覚えているらしい。2021/09/13に書いたように、「快楽」という語では狭すぎるので「利得」という語を使いたいのだが、ともかく、人間には生物的・社会的にポジティブな経験とネガティブな経験があり、前者を追い求める傾向性が、美的な価値や選択や規範に関しても基礎づけになると考えている。それから、線引き問題についてはあまり気にしていないというか、直感としても、あえて切り出すほど“美的”快楽が独特とは思っていない。ナナイの例で言えば「セックス、ドラッグ、ロックンロール(私の理解では、ものをぶっ壊す快楽)」を、映画を見る快楽や、海を眺める快楽から質的に区別することが実態に即しているとは思えない。「休日の余暇」というカテゴリーに、選択肢となるコンテンツがフラットに並んでいるのが、私の目から見た美的生活だ。

それから、私がマネの絵を好きなのは、ちょっと怖いからだと分かったし、ちょっと怖いのはぎこちないからだと分かった。たいてい、描かれている人々の目はうつろで、視線は合わず、堅苦しいポージングをしている。それを踏まえて見ると、《ラテュイユ親父の店》における男性の覗き込むようなポーズはぞっとするし、明るい色使いのわりに、マネのなかでもとりわけ怖い絵だと思う。

2022/02/10

ビアズリーとシブリーの比較は、もう今更感があるかもしれないが、分析美学という分野の関心や射程を考える上でよい切り口だ。

まず、とりわけ興味を持っていたトピックということで切り分けるなら、ビアズリーは芸術批評で、シブリーは美的なもの、ということになるのだろう(もちろんふたりとも両方やっているのだが)。ビアズリーは、キャロルによってリバイバルされる批評の哲学の重鎮であり、美的経験についてあれだけこだわっていたにもかかわらず、基本的には芸術の話に重点が置かれていたと思う。シブリーは、同様に芸術批評の言葉づかいに大きく触発されつつも、それに限られない、あらゆる美的判断に関心があったはずだ。日常美学などへとつながっていく、プロパーな美学=感性学は、ビアズリーよりもシブリーによって担われていたはずだ。

方法としては、私は長いこと誤解していたが、言語論的転回をより重く受け止めたのはシブリーであり、ビアズリーの議論には少なからず現象学的な成分がある。というか、シブリーはイギリス人で、オックスフォード周辺で学んでいたのだから、さもありなんといったところか。ビアズリーがいたアメリカでも日常言語学派の影響は大きかったと思うが、ビアズリーの議論が言葉やその用法にこだわっているかというと、必ずしもそうではないと思う。とりわけ、パンチラインとして出てくる美的経験や、それをもたらす美的性質(unity, intensity, complexity)ついては、明らかに言葉上で確認できるものではなくて各々の現象学的経験において確認できるものであり、その共有可能性にベットされているように思う。

人物としては、ビアズリーがなんちゃら会長やらをたくさん担い、同時代のアメリカ美学会のドンだったのに対して、シブリーはもっと求道者的というか、遅筆で、完璧主義者なイメージがある。ビアズリーは公民権運動に参加していたのもあり、社会改革にかなり関心があったようで、その延長で美的経験や美的観点といったアイテムを訴えていたような感もある。つまり、美学を通して社会の構成員がより豊かな暮らしを送れるようになることを目指すという、社会奉仕的な態度が少なからずあったと思われる。その点、シブリーは良くも悪くも内省的というか、人前に出て改革を訴えるより、粛々と自分のことをやっているイメージがある。教え子だったコリン・ライアスによれば、めっちゃ厳しいけどユーモアのある先生で、長いことうつ病に、晩年は白血病に苦しめられていたらしい。

どちらも読んでいて面白いというのは言うまでもないが、分析美学の紹介として一冊訳すなら、たしかにシブリーの論集のほうがいいなと思う。主題や方法のオタクっぽさというか、万人受けしない感じというか、地味だからこそエキサイティングだというのを感じ取れるかどうかで、向き不向きを読者に分かってもらいやすいと思う。ビアズリーだと思いも寄らない方面から変なディスが飛んできそうだが、シブリーなら畑が違うことを察して貰えそうというか。とはいえ、Amazonにとんちんかんなレビューを書かれそうなのはどっちにせよ変わりないのだが。

2022/02/09

フレドリック・ジェイムソンの映画論をつまみ読みする会、最終回をしてきた。『目に見えるものの署名』はほとんどの章を読んだことになる。いろいろと学びの多い会だったが、この人はまったく信念の人で、信念の異なる作品や批評家に噛み付くのを基本ムーブとする点は最後までブレなかった。本人が映画批評のつもりで書いていたのかすら定かではなく、いわゆる「作品をダシにした社会批評」を堂々とやっているのだろう。私に限らず、表象文化論のフレンズにとっても苦痛の多い読書だったのは、部分的にはわれわれがジェイムソンほどオラオラしていないからだろう。総じてよく分からないことばかりの読書会だったが、分析系の文献ばかり読む暮らしの解毒にはなったかもしれない。

2022/02/08

表現主義に続き、抽象絵画に関するスライドを作っているのだが、この手の試みの意図はともかく、面白さを伝えるのは一筋縄ではいかないなと感じている。ある態度を徹底した結果、装飾が剥ぎ取られミニマルになった、みたいな話を聞かされても、だからなんだとなりかねない。芸術的価値を理解できることと、作品を面白がれることは当然別問題だ。遅ればせながらというか、最近はますます後者の重要性に気づきつつある。

2022/02/07

ダムネーション』がいい映画だったので気分がいい。相変わらずタル・ベーラという監督のことは頭では分かっていないのだが、タル・ベーラ的な質感というか、その特徴的な美的性質のことは目を通して分かりつつある。それにふさわしい美的用語はまだ見つけていないのだが、強いて言うならば、「終末を前にしたポーカーフェイス」のような質だ。無気力、自暴自棄、退屈をブレンドしたような情緒で、色はもちろん黒だ。実物は見たことないが、マーク・ロスコの《Black on Maroon》や《Black on Gray》には似たような質があると思う。

2022/02/06

depi読でカルヴィッキ本のメタファー章を読んだが、画像におけるメタファー以前に、言語的メタファーすらよく分かってないことに気づいた。「隠喩」ということであれば、比喩表現のうち直喩のマーカーがないもの、ということになるのだろうが、論文を読んでるとどうもmetaphorっていうのは隠喩よりも広かったり狭かったりする現象として扱われているような気がする(あるいは、metaphorの用法は隠喩とぴったり対応するそれ以外にもある)。例えば、日常的には結び付けられることのない、距離のある概念ふたつを並置すること(いわゆるデペイズマン)も、しばしばメタファーだと言われているだろう。この意味合いで行くと、「ミシンと蝙蝠傘との解剖台の上での偶然の出会い」はメタファーだし、キリコやマグリットの絵はメタファーだということになる。話に聞くには、キャロルが考えていた隠喩はこういった概念連関のことらしい。さらには、日本語の「隠喩」も、このような広くて狭いmetaphorの訳語として使われることがあるため、一層ややこしい。

それはそうと、義務教育の国語では直喩と隠喩と擬人法を教えるのだが、擬人法だけカテゴリーミステイクだろう、というのはいつも気になっている。問題などで、三つのうちどれかを答えさせるものが定番なのだが、直喩の擬人法もあるし隠喩の擬人法もあるだろう。

2022/02/05

ナナイのAesthetics: A Very Short Introductionを読み終わった。美的経験まわりの話をサクッと読めるいい本だ。ただ、ここでも西洋中心主義を反省する成分が強すぎて、「美学はこうあるべき」と「美学はこうなんです」がいくぶん混同されているきらいはある。普遍の追求はやめて謙虚になろう、というメッセージは耳障りがいいが、普遍を追求する論者は近代も現代も少なからずいるだろう。いずれにしても、美学史の紹介をあまり期待すべきではなく、「今日において美学をどうやっていくか」という本として読むのが最適だと思う。

「注意」を中心に美的なものを構築していく(ナナイにとっては主要の?)アイデアははじめて知ったが、汎用性が高く、いいなと思う。美的経験にはさまざまなモードがあるが、主要なもののひとつは、分散的でオープンエンドな注意なのだそう。それは、張り詰めた集中とは区別される経験であり、気晴らしになり、世界を初めて見たかのような仕方で見せてくれる。ナナイが少なからず異化のモデルに依拠しているのは知らなかった。

また、映画批評家をしていた経験から、映画祭でのエピソードをたくさん紹介しているのも、ナナイならではで読み応えがある。美的に「色あせてしまった」せいで、どんな映画を見ても楽しめなくなってしまった大御所批評家は、集中力がありすぎてオープンエンドな注意ができていない、という話はわりと説得的だろう。

2022/02/04

最近の主なプロジェクトは、「美的関与における知識ないし偏見、カテゴリーなど文脈の役割、それによる美的知覚や美的判断の変質」と言えそうなのだが、その反対の現象にも興味がある。シブリーが言うところの述定的な美的判断、ザングウィルが言うところのカテゴリー独立な美的経験、すなわち、絵画のプロフィールや描写対象を脇に置き、デザインとしての色や線や形を愛でるような美的関与のことだ。そういったデザインのみに注目し、堪能し、(そうしたければ)判断を下すことは、場合によっては困難だと言われるのだが、それでもなお確かに実感としてなされるときがある。抽象画を見るときはとくにそうだろう。言い換えれば、ウォルトンが論じたようなカテゴリーの呪縛には、たぶん例外があるのだ。

もちろん、美しいとされるデザインにはサークル相対性があるのだが、それでもなお、単なる色や線や形が美的関与の対象となる、という現象は興味深いものだ。最近だと、印象派展でユリィのポストカードが売れまくったという話なんかは面白い。作者や作品の背景とは関係なく、物販でポストカードでも買って帰ろうというときに多くの人から選ばれたわけだ。なんだか知らないがデザインを気に入り、ポストカードを買って帰る経験こそ、プロパーな美的関与なんだと思う。

2022/02/03

美的経験に関する任意の説明は、お酒が入っているときに芸術作品(とりわけ音楽作品)への没入感が増す現象について説明できなければならないと思う。知らんけど、LSDでもマリファナでもいい。こう、身体的にしかじかの状態であるからこそ強調される快楽経験を美的経験と呼びたくない向きは、ちょっと潔癖すぎるし、実のところ美的経験などしたことがないのではないかとすら思われる。夜中に暗い部屋でビールを飲みながら、宇宙船に乗って飛来してくるスターチャイルドを目の当たりにすることで成立する経験が美的経験でないとしたら、私にはどれが美的経験なのか分からない。取り憑かれたように絶叫するグレン・ゴインズと、爆撃のようなホーン隊、煙を吹き出して着陸するマザーシップ、そこから出てくる銀ピカのジョージ・クリントン。残念ながらその強度は、シラフでいるときには半減する。

2022/02/02

新年を迎えてもたいした実感はないが、恵比寿映像祭が迫ってくるとまた一年過ぎたなぁ、という手応えがある。私の一年というのは、この2週間という短すぎる会期のイベントを、キャッチできるか逃すかで決まるような感さえある。

今年のテーマは「スペクタクル後」ということで、趣意文でもドゥボールが言及されていたりするのだが、この類のテキストの例にもれず、なにを言っているのか/言いたいのかはほとんど分からない。とりわけ、「後」でなにを意味しているのか謎だ。すでにスペクタクル的でない時代が到来しているというのは控えめに言っても不正確だろうし、スペクタクル的な時代を乗り越えていこうという宣言なのだとしても、その努力を映像作品が具体的にどう担っていくのかは不明確だ。前に勉強会でもこの類の趣意文について話したことがあり、基本的には雰囲気作りでしかないということで納得しつつあるのだが、展覧会に行ってこう中身のない文章を延々読まされると、ある段階でむかついてくることもあるだろう。

あるいは来場者に特定の事象について考えてほしいというぐらいのことであれば、「スペクタクル後」という題だけ投げて、なんの説明もしない、というスタイルこそクールではないかという気もする。懇親丁寧説明しているかのようなポーズだけとるのが薄ら寒いのだ。なんにせよ、恵比寿映像祭には行くことになるだろう(不幸にも忘れない限りで)。

2022/02/01

表現主義に関するスライドを用意していて、村山さんのプロジェクトであるところの画像表出や視覚的修辞のことがようやく分かってきた。画像はいろんな内容を持つ。その中には、一方で「この画像はXを描いている」といった描写対象(ナポレオン)に関する内容もあれば、「この画像はXを性質Fとして描いている」といった描写対象の視覚的性質(しかめっ面である)に関する内容もあり、他方で「この画像は性質Eを表出している」といった情動的性質(怒り)に関する内容もある。画像表出の非修辞的なルートとは、XをFとして描くことで、視覚的性質Fと紐付いた情動的性質EをXに帰属する、すなわち「XはFなのでEである(ナポレオンはしかめっ面をしているので怒っている)」を伝達するというルートだ。一方、画像表出の修辞的なルートとは、ある視覚的性質を描写されている視覚的性質Fとみなさず「この画像は性質Eを表出している」だけを取り出し、これを「この画像はXを描いている」と合わせて、「XはEである」を伝達しているとみなすルートだ。エル・グレコだったら、「縦に引き伸ばされたような造形」を人物に帰属される視覚的性質とみなさず、あくまで特定の非視覚的性質(ここでは神聖さや霊性)を表出するマーカーとみなし、こちらを人物に帰属させる、というのが視覚的修辞になる。

「彼はしかめっ面だ」は「彼はしかめっ面であり、かつ怒っている」を伝達しうるが、「彼は狼だ」はふつう「彼は狼であり、かつ獰猛な性分だ」を伝達することなく「彼は獰猛な性分だ」を伝達しうる。このように、文字通りの意味が、伝達過程において消去(変換)される現象は言語においても存在し、それに相当する画像表現こそが視覚的修辞なのだろう。

私と村山さんの、昔からの対立点は、視覚的修辞において役割を果たしている記号を、描写内容という語のもとに含めるかどうかである。エル・グレコにおける「縦に引き伸ばされたような造形」や、アボガド6における「頭を締め付ける万力」や、少女漫画なんかにおけるコマ縁を彩る花々は、「描写」されているのか、という問題だ。村山さんがそれらを描写内容ではないと考えているのは、それらが果たす視覚的修辞という「機能」に依拠しているからだろう。それらの記号を通してなんらかの非視覚的な性質を伝達することは、たしかにそれら記号の意図された機能であり、「人物Xは縦に引き伸ばされたような造形を持つ」といった命題を伝達することは意図されていない。

私はそれにもかかわらず、エル・グレコは「縦に引き伸ばされたような造形を持つ人物」を描いているし、アボガド6は「頭を締め付ける万力」を描いているし、少女漫画コマ縁花々を描いている、という言葉遣いを好む。それは、他の描写対象とまったく同じ原理でseeing-inされるからというだけでなく、視覚的修辞という意図された機能を果たすことは、それらを描写内容から除外する理由にはならないと考えているからだ。実際、これらは言葉遣いの問題と、概念マッピングの問題でしかないのだが、単純に言って「描写する[depict]」という語のより日常的な用法としては、こちらに分があると思わないでもない。すなわち、エル・グレコは「Xを縦に引き伸ばされたような造形を持つ人物として描いている」し、アボガド6は「頭を万力で締め付けられた人物を描いている」し、少女漫画は「人物Xと、その周囲に花々を描いている」というふうに、ふつうわれわれは説明する。《ウルビーノのヴィーナス》の足元にいる犬は、忠誠といった高次性質を人物に帰属させる記号であるからといって、「犬は描かれていない」というのはまったく許容不可能である。思うに、分析すべき「描写」とは、このレベルでの現象である。そして、村山さんが懸念されている「人物Xは縦に引き伸ばされたような造形を持つ」のような内容は、さらなるコミットメントを要する主張内容であり、ただちには伝達されるものではないため、実のところ懸念する必要はない。

別の言い方をするなら、村山さんは画像表面という歪んだレンズの先にある整合的な別世界を「画像世界」とみなしており(だからこそ、フィクション作品や物語的な宗教画などを例示されるのだろう)、私はもっと浅瀬の、画像表面と近い位置にある、歪みっぱなしの世界を「画像世界」とみなしている、ということになるのだろう。

2022/01/31

玄関の電球をついに交換した。廊下照明の立ち上がりが遅い&白色なのが不都合なので、よほどのことがなければ玄関の照明で済ませているのだが、酷使された挙げ句昨年11月ごろにプツリと切れてしまった。そして、電球ひとつ買ってくるという作業は、痛いほど困難だ。なにかのついでに思い出せることでもないし、わざわざ出かけてどうにかするほどのことでもない。また、交換するにしても脚立はなく、デスクチェアはいちど解体しないと居間から搬出できない。私は惰性と暗闇に浸かって2ヶ月を過ごしたわけだが、Amazonに頼んだら翌日には届いたので、折りたたみのローテーブルを足場にして交換した。光あれ、といってスイッチを押すと光があった。

2022/01/30

『ビリディアナ』を見ている途中、トイレの天井から水漏れが発生するという珍事に見舞われた。方方とやりとりをし、水漏れもやがて自然に止まった。しかし、こういうときに誰に連絡してなにをしてもらえばいいのかとっさには思いつかないのは、方方(不動産と管理会社と大家と保険会社)が結託して、責任の所在をあいまいにしているからでもあるだろう。保険会社の24時間サポートに電話したら、つながるまでに10分以上もかかった。今回はポツポツぐらいの水量だったのでバケツで一時しのぎできたのだが、ザーザーぐらいの勢いで噴水しているときに、「オペレーターが空きしだいお繋ぎします」とか言って待たされたら気が狂うかもしれない。

2022/01/29

アピチャッポン特集の原稿を書いているのだが、批評を書くときには論文を書くときにはない、摩擦のようなものがある。いくらやっても、こんなんでいいのかという自問と、ちょっと強引でもそこは押し切るしかないという切迫感がつきまとう。人様にお金出して読んでもらうだけのものを生み出せたという達成感とともにパリッと校了したことはほとんどなく、世にさらされたものはいつもゴワゴワしていて不格好だ。摩擦の何割かは、やたらと短く、期限の定まった執筆条件(加えて、報酬というプレッシャー)にも由来するのだろうが、にしても、作品についてなにかクリティカルなことを書くのはほんとうに難しい。いわゆる、正解のないことをやる、というのはまさにこういうことなのかもしれない。

とはいえ、アピチャッポンについてはまずまずのものが書けているし、なんにせよ〆切を守って提出できれば、書き手としてはとりあえず及第点なのかもしれない。

2022/01/28

久々に目黒(JR目黒駅のこと)まで出たが、なんだかすごく気分がよかった。私は目黒のことがかなり好きなのかもしれない。下目黒には4年住んでいたのだが、あそこから自転車で権之助坂をがーっと登り、白金を通って三田まで登校するのは、私の人生におけるもっとも豊かな経験のひとつだろう。もうとっくにさくらデリはないし、やきとん玉やもフィッツロイもないと知って悲しくなった。マヤバザールは相変わらずあの変わったアパートの一室にあった。今日はシナモンパウダーを買ってきた。

2022/01/27

先日YouTubeで見た、Nick RiggleとBrandon Politeのディスカッションが良かった。Riggleはいまや美的なものの議論のメインプレイヤーだが、ちょっと変わったことを考えているので、この動画を見るまでなかなか理解できずにいた。彼はよく「コミュニティ」という語を出すのだが、それはおおむね個人主義的な従来の美学に対するオルタナティブのようだ。美的経験にせよ美的価値にせよ、従来の美学は、その基礎づけをなんらかの個人経験に求めがちだ。個人的な快楽を与えてくれるからこそ、Xには価値があり、Xにアクセスすべきだ、といった具合に。これに対しRiggleは、個人主義的なモードを認めつつ、共同体主義的なモードを提唱しようとしている。Riggleはそういった美的経験を「vibing」と呼んでいるが、good vibesとか言うときのvibeのことだ。たぶんそのニュアンスは、集団と場の共振とも言うべき「いい感じ」であり、面白いのは、そのために必ずしも考えや行動が収束する必要はないという点だ。私とあなたは、結果として合意に達しないにせよ、vibingできる。なんとも西海岸らしい精神性で、スケボーやってるのも含めて、Riggleという美学者のことがかなりよく分かった気がする。ガツガツせず、勝ち負けにこだわらず、ポカポカ陽気に仲のいい友達とつるむ感じ。それはもう、理論というかひとつのライフスタイルなのだろう。

2022/01/26

認知シャッフル睡眠法で「ちゃ」から始まる語を回していたのだが、「茶色」がなぜ茶の色なのか腑に落ちず、考え込んでしまった。お茶の色なんてさまざまだろうに、なぜあのbrownの色を指す語として「茶色」が生き残ったのか。「土色」とかのほうがずっとそれらしいのではないか。そういえばbrownの語源はなんなのか(これは後で知ったがクマらしい)。あれこれ考えていたら入眠したが、ひさびさに夢遊病が発動して、朝起きたら隣にもうひとり分の枕がカバー付きの状態で設置されていてびびった。

2022/01/25

日本酒は美味しいが、720mlは買ったそばから切らしてしまう。1000円ちょっと出せば、ビール半ダースか、日本酒720mlか、ウイスキー700mlが買えるので、よくスーパーで迷っているのだが、日本酒だけ圧倒的に消費が速い。コスパを考えると、バランタインのファイネストとコーラを買いだめしといて、普段飲みをコークハイにするのがいちばんいい気がしている。私がYouTuberになって「銀色のヤツ!」的な件をやるとしたら、「コーラと混ぜるやつ!」にするだろうな。最近はレモンハイボールの美味しさも分かってきた。

2022/01/24

2ヶ月ぐらい前からちまちま読んでいた『白の闇』を読み終えた。学部のころに一度読んだので二周目だ。視界が真っ白になって失明する感染症の話なので、『ペスト』と並んで近頃受けて売れてるとか売れてないとか。ほとんど改行がなく、地の文とセリフの区別もないのでわりと読みにくい(しかなり長い)のだが、設定されている状況が状況なだけに、最後まで面白く読める小説だ。しかしこう、危機的状況において人間の醜悪さが溢れ出すというのは、フィクションにおいても現実においても必然であって、ところどころ教訓じみているわりにはそんなに学びがあるわけではない。多少の慰めにはなるかもしれないが。

2022/01/23

流行ってる?ので、美的理由、美的規範、美的価値まわりの議論を追っている。Alex KingがPhilosophy Compassに書いているサーベイ論文を読んで、だいたいのノリはつかめた。基本的には、以下のような概念群からなるっぽい。

  • 美的実践:われわれは日常的に、さまざまな美的なふるまいをしている。(ex. 着る服を選ぶ、夕日に感動する、映画を批評する)

  • 美的理由:美的実践はしばしば美的な理由に基づいているっぽい。(ex. 快楽が得られるからそうする、達成を目指してそうする)

  • 美的規範:美的理由にはしばしば拘束力がありそう。それをする理由があるなら、それをするべきである。

  • 美的価値:美的価値のあるものは美的理由を与える、あるいは美的理由を与えるものは価値がある。

この辺りの概念をうまいこと連関させて整理することが主な課題らしい。具体的には「美的理由の源泉はなにか」「どんな拘束力がどれだけの強さであるのか」といったトピックが論じられている。あとは森さんが整理されていたとおり「快楽主義とその敵」という構図があるようだ。

私としては、そんなのケースバイケースだろうと思ってしまうのだが、それはあらかじめお題として出されている美的実践が広すぎていまいち飲み込めていないからだろう。基本的に理論は、実践や現象のここからここまでを説明しますと明示してくれないことにはしんどさがあるのだが、この分野は論者によって射程が結構違うはずなので、なかなか難しさがあると思う。Everyday Aesthetics一般にいまいちのれない理由もこれだ。例えば、美的実践のなかでも芸術実践だけに絞れば、さらには批評実践にまで絞れば、もうちょっとはっきりと言えることも増えるだろう。ビアズリーやシブリーがガチャガチャやっていた議論は、基本的に「批評的理由」をめぐるものだったのでまだ追いやすかった。シンプルに、現代の哲学者はもっと広く抽象的でテクニカルなことをやっていてすごいな、とは思う。

その上で、①プロパーな美的価値とはプロパーな美的経験を与える能力に基づいており、②そういった美的経験は基本的に快経験の一種であり、③個人的により大きな快を与えるものはより積極的に選択するべきである、という快楽主義はそんなに悪くないと思う。山より海を見に行くほうが快楽を得られそうなら、その点に限って言えば、海を見に行くべきだろう。それは美的実践そのものというよりも、批評実践とオーバーラップしつつも並置されるような、ある種の美的実践と考えたほうがいいだろう(感動実践、とでも言うべきか)。もちろん。批評的に良いとされるものが良いとされる理由は、美的経験という快楽を与えてくれるからだけではない。

2022/01/22

問題なり可能性を「はらむ」という表現が昔から気に食わないのだが、今読んでいる美術史の本で多用されているのがしんどい。魚卵じゃないんだからそんなにたくさんはらんでどうするんだ、と思う。「を持つ」「がある」「を含む」「を伴う」あたりでいくらでも代替可能であるにもかかわらず、不必要に気取った(そのくせ死んでいる)隠喩に拘泥する惰性が気に食わない。2021/07/20に書いたように、他人の言い回しの好き嫌いを云々言ってもしょうがないのだが

2022/01/21

近所のスーパーにレジ打ちが遅すぎるおばあがいて、わるい人ではなさそうなのだが威風堂々とちんたら打つので、客一人につき一王国の興隆から衰退ぐらい待つことになる。私以外の聡明なカスタマーたちは鋭くも彼女の担当レジを回避しているようだが、私はレジ選びのセンスが地についているので、よく考えずに並んだ先に件のおばあがいる確率がきわめて高い。スマブラ64なんかで懲らしめてやりたい気持ちはあるが、なんなら私よりスマブラ64強そうな感さえある。

2022/01/20

なんにせよ集団というのは怖いものだ。なんらかの達成を目指して行動する集団というのが、私にとっては恐怖そのものでしかなく、達成される事柄がどれだけ高潔かまでは頭がまわないことが多い。高潔な運動や団体はたくさんあるし、それらが社会において意義を持つことはまったく否定できない(否定する必要もない)のだが、異口同音になにかを述べる集団に対して、私個人が感じる根源的な恐怖もまったく否定できないものだ。「#○○に反対します」みたいなハッシュタグや、オープンレターの類に参加しようとまったく思えないのは、集団の一員になるのが嫌だから、それだけだ。自分の経験に嘘をつかなければならないのだとしたら、私は臆病者でいい。

2022/01/19

魯肉飯つくった。今回は八角をふたつ入れたので、かなり香り豊かな仕上がりとなった。なんとなく、サイコロ切りだけでなく、大きめのざく切りも投入したが、齧るときの肉肉しさがあって、これはこれでかなりいい。

2022/01/18

スーパーで5,000円も買い物したのにまだ買えていない食材があり、別のスーパーにはしごしたらそちらでも5,000円も使った。鍋とナポリタンと魯肉飯を作るつもりだ。

2022/01/17

どういう流れか忘れたが、ジンギスカンにツボってしばらくリピートしていた。改めて見ると、東ドイツに資本主義の全能感を見せつけてやるかのようなグループだ。私の人生はこれまでもこれからも、こんなふうに馬鹿馬鹿しいコスプレをして歌って踊ることはないのだと思うと、ちょっとさみしい気持ちになった。

2022/01/16

『ブルーピリオド』は主題からしてかなり面白いマンガなのだが、芸大編になってから教授陣がヴィランに当てられていて、ハラスメントだらけの環境を努力と根性で乗り切る話になったのが残念ではある。少年漫画にありがちな対立構造を作る上で致し方ないところはあるのだが、講評のたびに立場が上の人間から言葉を選ばず非難されるのは見ていてしんどい。美大がとりわけこういう環境ではないのだとしたら風評被害だし、まさにこういう環境なのだとしたら、講評する側も甘んじて講評される側も仲良くなれそうにない。少なくとも、「何者かになる権利はあっても義務はない」とか「俺より下手な教授の言葉なんかにショック受ける必要なんかないのに」と言ってくれる世田介みたいなキャラクターがいてくれてよかった。彼には媚びず怯えずトガり続けて欲しいし、彼が教授陣に対して従順になった瞬間には私は読むのをやめるだろう。

2022/01/15

ヴィルヘルム・ハンマースホイというすごくいい画家を知った。1900年ごろのデンマークの画家で、フェルメールとホイッスラーをあわせたような画風だが、フェルメールほどカラフルではなく、ホイッスラーほどゴージャスではない質素なタッチで、住んでいたアパートの室内と妻の後ろ姿ばかり描いている。日本では2008年と2020年に回顧展があったらしい。国立西洋美術館にもコレクションがあるらしいので、絶対に見に行きたい。

2022/01/14

本日のTwitter迷言は「大学院は主婦のカルチャーセンターではない」だろう。匿名という安全圏から癪に障ることつぶやくネットユーザーの醜悪さは改めて強調するまでもないのだが、見て反応する側も問題だろう思えてきた。立場と権力のある特定個人がそういう発言をしたなら、それを追及するのはもっともだろう。顔も名前も知らんやつのツイートなんて、スクリーン上の0と1の集積でしかないのだから、放っておけばいいのだ。そういうしょうもない人のしょうもない人生は当人の問題なので、「大学院は主婦のカルチャーセンターではない」とか勝手に思わせておけばいいのだ。1000件近い引用RTで、ムキになった有象無象が「大学院とは……」語りをしていることも、見ていて気持ちのいいものではない。結局、正論かどうかを問わず「分かったふうな口をきく」というムーヴ自体にきしょさがあり、それはそれで他人事じゃないので気をつけていきたい(この日記は分かったふうな口でTwitterを語っているのだが)。

2022/01/13

ほとんどの分野において、西洋中心主義はおおいに反省されて然るべきだろうが、そういった闘争に私個人がいまいち乗り切れないのは、結局自分のナショナリティの問題だと思う。大義名分はなんであれ、西洋的なものを批判する書き手の一部は、私には、アンチテーゼないしオルタナティブとしての自文化(日本的なもの、etc.)を称揚する目論見があるとしか思えないのだ。今日の多文化主義なんていうのはマクロに見たときの結果でしかなく、コスモポリタンの集まりというより、いろんなところのナショナリストが群れているというだけなのではないか。言うまでもなく、ナショナリストがコスモポリタンぶっているというのは、かなり気味が悪い。

個別的なものに安住できる人間は、その個別的なものを所有している人間だけだ。私は血を除けばほとんどの点において“日本人”なのだが、日本文化が私のものだと思えたことは一度もないし、だからといって中国文化も私のものではない。そういう根無し草は、しばしば二択を迫られる。第一の道は、どちらかの文化を選択することで他方を裏切り、やたらとナショナリストぶることで、少なくとも一方は所有したかのように自己暗示をかけることだ。よくあることだが、そんなのはペルソナレベルのパフォーマンスでしかなく、後からよりストイックなナショナリスト(純○○)がやってきて、ルーツを暴かれることになりがちだ。第二の道は、私が歩きがちなものだが、どちらも選択せず、普遍を求めて実質としては西洋中心主義に傾くことだ。普遍的なものは異常に心地がよい。たとえそうして追求される普遍が、普遍を謳っているだけの西洋中心主義だとしても、心地よさに変わりはない。私にとって、「英語圏」とはそういう場所なのだ。あるいは、おそらく、私は数学なり自然科学をやるべきだったのだろう。

2022/01/12

身体の不調な一日だった。2:30ごろに就寝したのに6:30ごろに目が覚め、それからどうしても寝れなかった。頭のなかではなぜかエゴン・シーレの《死と乙女》とVulfpeck「Back Pocket」のCメロがこびりついている。しかたないので、起き上がってBASE BREADとナッツ入りのヨーグルトを食べ、白湯を飲む。なんだか身体が重く、重いというより節々がしっかりめに痛い。熱とかあるときの痛み方なのだが、熱はない。身体に対してはもとより期待していないので失望は小さく、痛みは痛みとしてやり過ごすほかに打つ手もない。通り雨とか交通渋滞みたいなものだ。

勇敢なので、この身体で大学まで行って本を買ってきた。天気も良かったし、久々に午前中から自転車を転がしたので気分は良かった。それで何割か不調は相殺されたと思う。大学はこれまた半年ぶりぐらいに行ったのだが、本を買う以外にはなんの用事もなかったので直帰した。

2022/01/11

Notionで、今までに行ったことのある展覧会ログを作った。行ったかどうか思い出せないものと、たしかに行ったがなにを見たのかほとんど覚えていないものが多くて、儚い。2018年横浜美術館のヌード展なんてロダンの《接吻》しか記憶がないのに、知らない間にフランシス・ベーコンもシンディ・シャーマンもロバート・メイプルソープも見てたとは恐れ入った。映画や小説と同じく、私は見たものを片っ端から忘れてしまうので、もう一度見たい展覧会はいっぱいある。

2022/01/10

日記に書いた矢先、↓のライブが延期になった。オミクロンが暴れん坊将軍しているので賢明な判断だ。昨年は毎日のように報じられる感染者の数字に臨場感があったが、現在は、数ヶ月に一度デビューする新たな変異株、その名称に臨場感を得ている趣がある。

ところで、一昨日ぐらいから私のアパートの塀に飲みかけのいろはすが捨てられている。前にもあったことで心底腹が立つのだが、ひとつ違うのは、数年前だとただのゴミだったのが、今日だとゴミかつ毒というので嫌悪感が倍増する点だ。道に落ちたペットボトルを素手で拾って捨ててやるだけの親切心を発揮するリスクは、数年前の比ではない。われわれの塀にはずっと毒が鎮座しており、リスクを取ってまでそれをどうにかしようとする命知らずは皆無だ。それをそこに置いた人間に出会ったら、私は自分を制御できる自信がない。

2022/01/09

来月、数年ぶりにライブをするということで、楽器の練習をしている。ギターは1日サボると3日分下手になるとか言われるが、現役時代からとくに変わりなくて安心した。技量で言えば、私の上手さは学部3年で止まっており、それから上がることも下がることもなかった。上げようという努力、具体的には理論的な学習と練習を何度も試みたのだが、なぜか本腰を入れられず、こんなしゃらくさいことをするぐらいならペンタの手癖で乗り切ればいいだろうという惰性がずっとあった。今も昔も面倒くさいことはいろいろやっているのだが、なぜ楽器に関しては頑なに拒んできたのかは自分でもよく分からない。もうひとレベル上になると、もう音楽じゃなくて数学だろう、という嫌気はそれなりにあったかもしれない。

2022/01/08

ちゃん読でビアズリーの論文を読んだ。ビアズリーが芸術の定義に参入したのはけっこう遅く、『美学』を書いていた時期はその手の定義論争に巻き込まれたくないとのことで、「芸術作品」の代わりに「美的対象」の語を用いていたほどだ。いろいろ読んで思うのだが、ビアズリーが擁護しようとしていたのはあくまで美的経験とそれをアフォードする対象であり、前衛にせよポピュラーにせよ最近のよくわからんものは興味がないという点で、けっこう素朴な古典主義者なのかもしれない。ダントーやディッキーは明らかにポップアートから触発されていたが、ビアズリーが同時代の作品を論じている文章はほとんど読んだことがない。芸術扱いされているものでも、美的経験を与えない限りで「芸術ではない」とまで言いきってしまうのが、ビアズリーの偏屈だが独特なところで、そこまで強いことを言う論者は現代だとまったく考えられない。最近の人々は美的経験を忘れてしまった、という嘆きが、ビアズリーによる芸術の定義を駆動しているように思えてならない。

2022/01/07

現代美術館で「クリスチャン・マークレー展」と「ユージーン・スタジオ展」を見た後、近代美術館で「民藝の100年展」を見るというので、大移動の一日だった。

マークレーは『シミュレーショニズム』を読んでからずっと気になっていたアーティストなので、こう本格的な個展で見られてうれしい。レコードの盤やジャケットをコラージュした作品は、ものとして可愛らしく、《レコード・プレイヤーズ》のすごく安直な感じも一周回って笑える。いちばん良かったのは《ビデオ・カルテット》で、クラシックな映画から演奏の場面をサンプリングし、四つのスクリーンで同時に再生するというもの。コードが別のコードに上書きされ続ける感触が面白く、ごくたまに混沌のなかからハーモニーが生まれるのも心地よい。《インベスティゲーションズ》もよかった。ピアノを弾く手の写真から音を再現するという作品で、五線譜付きのカードがしゃれている。ただ、もうひとつの筋である、コミックのコラージュにはあまり興味なかった。

どっちに行くかかなり迷ったが、久保田成子はもう少しナムジュン・パイクやフルクサス周辺を勉強してから見たかったので、ユージーン・スタジオにした。Twitterでも流れてきたが、かなり「映える」展示で、デート向きだと思う。でかい人工の海、丸焼きの部屋、チェス盤の乗ったドラムセット、さらさら落ちてくる光のつぶ。全体的に白っぽく、親密さの痕跡を感じさせる作品が多めで、「心地よい破滅」の味わいがあった。

現代美術館の常設展も見たが、ボルタンスキーとアピチャッポンの部屋がすごくどんよりしていた。ボルタンスキー作品はほんとうに格好いいのだが、あまりにシリアスなので、こちらの元気が奪われるときがある。マークレーとは正反対だ。

現代美術館ではどんどん抜かされるぐらい私の歩みが遅かったようだが、近代美術館ではどんどん抜かすぐらい周りの歩みが遅かった。「民藝の100年展」はふだんならほとんど興味ない分野だが、窯元に入った友達におすすめされたので見てきた(あと、さいきん柳宗理が好きだから)。民藝がもとは収集活動だったというのも知らなかったので、美的経験はともかく、かなり勉強になる展示だった。個人的には新作民藝運動以後のモダンなデザインが好きで、吉田璋也のバイカラーな皿なんかはかなり欲しかった。売店では柳宗理がいっぱい売っていて、ぜんぶ欲しかった。

ラーメン食べて帰ると、出かけるときにはまだ少しだけ玄関先に残っていた雪がすっかり消えていた。

2022/01/06

雪だ!

足元もおぼつかないなか、慣れない電車出勤でよいしょよいしょとようやくたどり着いたのに、1コマだけ働いたところで塾は臨時閉館になってしまった。仕方がないのでうんしょうんしょと帰宅する。

雪はきれいで、服についたのを袖で払うと、クシャッと溶けるのがいい。

2022/01/05

最近はペペロンチーノを作るのにハマっている。これもまた料理のお兄さんリュウジに教わった方法だが、パスタは別鍋を用意せずとも、ガーリックオイルを炒めるフライパンでそのまま茹でればいいのだ。今日は唐辛子を切らしてしまったので、ラー油とタバスコでそれっぽくごまかした。オイルがよく絡んでいると、あつあつで食べられるのがうれしい。

2022/01/04

論文なり本の検討会で、「なんでこの著者はあれを引いてないんだろう」と言ってもしょうがないだろう、とよく思う。「この話題に関連して、あっちの人はああ言ってて、それを踏まえるとこの人の議論はしかじかだ」というフォーマットであれば健康だと思うのだが、筆者の文献収集力を直接的に貶める物言いと、それに対して参加者みんなでうんうんと優位を噛みしめる時間がけっこういやだ。百歩譲って、貶す分にはいいのだが、疑問文のかたちをとっているのがいやらしい。特定の文献を読んでいない理由なんていくらでもあるだろう。純粋にそんなの知らんかもしれないし、金銭的・言語的・権利的にアクセスできないのかもしれないし、知っててアクセスも出来るが、優先順位が低くてたどり着けていないか、ただただ興味がないから無視しているだけかもしれない。理由がどれであれ、だからなんやねんで落ちそうな話でしかないのが、「なんでこの著者はあれを引いてないんだろう」疑問文のしょうもないところだ。

2022/01/03

家族と散歩でシーパラダイスに行ったが、いつのまにかブルーフォールが無くなっていた。私は一度も乗ったことがないのだが、妹が小さい頃、身長制限で乗せてもらえずにぐずっていたのを覚えている。100メートル超の高さから落下する経験を得られないことに7歳だか8歳の女の子が抗議するエピソードからして、妹の胆力は私のそれとは格が違うものであり、だからマリパも強いのだと言われれば私は納得すると思う。当人は今日が誕生日で、またひとつ歳をとることに抗議していた。

2022/01/02

夕方ぐらいに眠くなったので、犬を抱いて仮眠した。すやすやねむれた。

2022/01/01

新年なので毎年恒例の「面白かった映画選」を書いた。キューブリックやらゴダールをアフィリエイトみたいな敬語で紹介していた一年目から比べると、ここ二年はずいぶん重めでフォーマルな文体になったと思う。とはいえ、私の書くレビューは作品外のコンテクストをほとん