日記

2022/07/06

選挙シーズンになると毎度思わずにはいられないが、若者の投票率を上げるための「投票ついでに美味しいごはんを食べて…」「投票用紙の質感が面白くて…」「選挙はワクワクする…」みたいな言説は、とどのつまり小細工であって、それを認めないなら欺瞞だろう。若者がそれで心惹かれると本当に思っているのだとしたら、子供扱いが過ぎる。それによって促される行為(たいていは、野党候補者への投票ということになるのだろうが)にどれだけ大義があったとしても、小細工というのはやはり格好悪いものであり、子供扱いはそこだけ取ればわるさがある。コンビニトイレの「いつもキレイにご利用いただきありがとうございます」みたいなものだ。

選挙にかかわらず美味しいごはんは食べに行けたり行けなかったりするし、投票用紙の質感の面白さはたかが知れているし、オンライン投票すらできず列に並ばされるイベントはそうワクワクはしない。釣りなのだとしても、餌が貧相すぎるだろう。

2022/07/05

人にせよ芸術作品にせよ、分類するのはダメだという言説が今も昔も根強いが、そういう人たちへの嫌がらせとしてカテゴリーを研究している部分が5%ぐらいある。habitとしてbadかどうかはともかく、分類と期待が人間の世界認識のデフォルトなのだとしたら、それとどう付き合っていくかを考えたほうが生産的だろう。思うに、重要なのは期待はずれを楽しむ余裕と適時カテゴライズし直す素直さを持つことであって、はなからなにも期待しないことではない。おそらく分類はダメ派の言いたいこととは、「あるカテゴリーに固執し、ディテールを見逃してはならない」という程度のことなので、よくよく考えてもらえればこちらとの対立点はほとんどない。とにもかくにもカテゴライズとはわるいものなので、あらゆるカテゴライズを拒め、みたいなモードを推し進めるほうがよっぽど弊害が大きいと思う。作者の死もそうだが、そうやってナイーヴなままに尖っていくムーヴに、なにか名前がないものか。

2022/07/04

先日の講義でアプロプリエーション・アートを教えながら、ポピュラーカルチャーにおけるパクリについても生徒たちの意見を聞いてきたのだが、「作風をパクるのはNGか」という問いに対して、「作者本人に許可を取ればOK。勝手に商業利用するのはNG」という線引きの人がかなり多かった。

私はあまり共感しないが、それはともかく考察ポイントはいくつかある。

  • 作風が特定の作者と結びつくことや、オリジナリティについてはナイーヴに捉えられがちで、どんなスタイルであれ寄せ集めのエクリチュールなのである意味ぜんぶパクリなのだ、みたいな芸術観はぜんぜん受け入れられていない。

  • 作者というのは、連絡して許可を取れる相手として想定されていることが多い。おそらくは念頭においている作者とは、Twitterやpixivで活動しているイラストレーターのようなもので、距離的にかなり近い人物なのだろう。

  • 金銭が絡むと不当さを感じる人が多い。単純に、そのほうがわるさが分かりやすいからだろう。

  • パクリは悪なので、なんにせよ許してはならない、という極端にナイーヴで尖っている人がもう少しいるかと思ったが、ほとんどいなかった。Twitterのトレース警察みたいなの。

ふたつ目なんかはなるほどなぁと思った。

2022/07/03

ちょっと歩いたところでずっと大規模な工事をしていたが、今日見に行くとでかい道路ができつつあった。目黒通りまで貫通する予定らしい。なんだかストーリーを進めたことで、前まで使えなかったショートカットが使えるようになったという趣だ。生活の動線としては、塾まで行くのに狭苦しい商店街を走らなくて良くなるので、わりと期待している。

2022/07/02

お寿司DAY。今回はたいそうお腹が空いていたのでばくばくと食べた。行きつけの店舗、数年前にできたばかりでいつ行っても空いてるのがhappyだったのに、いつのまにか行列店になっていた。待ち時間でぷらぷら本屋を見れたのでそれはそれでよかった。

2022/07/01

遅ればせながらトム・ヨークらのThe Smileを聞いているが、尖ってるのにめちゃ聞きやすいアルバムでびっくりした。いくつか書かれているのを見たが、最近のUKジャズ〜ポスト・パンクとも呼応するような曲が多くて、「面白そうじゃん、俺らも混ぜろよ!」な趣がある(Sons Of Kemetのドラマーが入っているのでそりゃそうだが)。それが大御所の「やってみた」感にとどまらないのは、いつもながらトム・ヨークの歌声によるところが大きいのだろう。パンクやマスロックっぽい音(どれもblack midiがやってそう)が目立つが、トム・ヨークがファルセットで歌うとぜんぶトム・ヨークになる。私は前半終盤のThe SmokeThin Thingみたいなタイトな音がとくに好きだし、ちょうど折返し辺りにOpen The FloodgatesFree In The Knowledgeというグッド・メロディな弾き語り曲が配置されているおかげで、構成としてだいぶと安心感がある

2022/06/30

今日の講義で簡易的にとった投票では、「批評は①作者の意図を踏まえるべき、②鑑賞者の自由である」の比率が6:4で、「倍速鑑賞は①あり、②なし」の比率が7:3だった。僅差ではある&前後の話でやや誘導してしまったところがあるが、今の大学生たちはどちらかというと作者を尊重するが、どう鑑賞しようが人の自由なのでとやかく言う気はないし言われたくない、というのがデフォルトなのかもしれない。割と予想通りの比率にはなったので、秋学期でも同じ質問をして、サンプル数を増やしたい。

しかしこう、ネットの人にせよ生徒たちにせよ、「映画を倍速で見ることのなにがわるいのか」をただちに「人に迷惑をかけていて、咎められ、差し控えるべき行為なのか」という問いでとってしまうのは問題だと思う。こちらの問い方にも問題があるのかもしれない。きっと、「わるい」という言葉がわるいのだろう。欠陥、不備、至らなさ、不適切さあたりで言い換えたほうが、議論のポイントが伝わりやすいかもしれない。とはいえ、実際の選択や規範を脇において、ある行為のわるさなり不適切さを語るというのもおかしな話ではあるので、そこを切り分けて考えている哲学者のほうが変なのかもしれない。

2022/06/29

掘り出してきた『どうぶつの森 e+』をポチポチしていたが、初対面からオラオラと乱暴な言葉づかいで、始終不機嫌な狼がいて腹立たしかった。私がなにをしたというのか。きっと、小学生なんかはこういうキャラクターをキャラクターとしてすんなり落とし込めるのだろうが、私は変に人と人のコミュニケーションを求めてしまったせいで、腐れ狼の態度に対する閾値が低すぎたのだろう。近所の温厚な雌羊が「言葉づかいは乱暴ですけど、本当はやさしいんですよ」とか言っていたが、乱暴な言葉づかいがevilであることに変わりはないし、おまえ羊が狼にそんな油断してていいのかよとしか思わなかった。明らかに私がどうぶつの森に向いていないのだが、件の狼が不快であることに変わりはないので、つきまとったりアミでしばいたりして、早めに引っ越してもらおうと思っている。

2022/06/28

アメリカンプレスで水出しコーヒーを作るのにハマった。なんでいままでこの用途に気づかなかったのかというぐらい快適にgood vibesなコーヒーを獲得できる。注ぎ口だけ空いてて困るので、キッチンペーパーを詰めている。

2022/06/27

ちゃん読で昨日の日記の話を松永さんとお話し、ウォルトンの言う可変的特徴に関して学びを得た。芸術のカテゴリーは標準的/可変的/反標準的な特徴のセットと紐付けられているが、可変的特徴はさらに、そのカテゴリーにとって美的に関与的なパラメータと、どうでもいいパラメータとで区別がある(あるいはグラデーションをなしている)。ホラーにとって標準的でも反標準的でもない特徴のなかに、ホラーの事例としての特殊性(個性や、その作品ならではの工夫)につながるようなパラメータとそうでないパラメータの区別があるわけだ。すると、概念の抽象度を落としたときに起こることは、①可変的特徴が標準的ないし反標準的特徴として振り分けられるというのに加え、②可変的特徴の重み付けが変わることで、一部のパラメータが強調されるというのもあるのだろう。

あるいは、「可変的特徴」を美的に関与的なものに限定するならば、そもそも特徴群はカテゴリーに従って標準的/可変的/反標準的/美的に関与的でない特徴の四つに振り分けられることになる。この場合、概念の抽象度が落ちると、可変的特徴は“増える”ことになる。重み付けで考えるか、線引きと増減で考えるかは好みだが、この辺をウォルトンがどう考えていたのかは気になる(細かく考えていない、という可能性はそれなりにあるが)。

2022/06/26

松永さんのエントリーを読んで考えていたが、概念(カテゴリー)は抽象度を落とすと、可変的特徴だったものが標準的特徴か反標準的特徴のいずれかに振り分けられて減っていく、というイメージがいいのかもしれない。あるレベルのカテゴリー、例えば〈ホラー〉は一連の標準的特徴反標準的特徴を持ち、それ以外可変的特徴において事例の差分が比較される。そのサブカテゴリー、例えば〈ゾンビ・ホラー〉は、なにを表象するかという可変的だったパラメータを「ゾンビを表象する」という標準的特徴として固定することで、可変的特徴を減らしている。〈ゾンビホラー〉の事例たちは、残った可変的特徴において、それぞれの個性を発揮することになるもっとも抽象度の低い絶対的にdeterminateなカテゴリー、すなわち〈ある個物aと同一である〉というカテゴリーは、aが持っているあらゆる性質を標準的とし、aが持たないあらゆる性質を反標準的とするため、可変的性質がまったくない。determinableとdeterminateの区別は前からよう分からんかったが、こういう理解の仕方があると知って自分もかなりすっきりした。

ややこしいのは、数学に出てくるような概念(例えば、四角形>台形>平行四辺形>長方形>正方形)とは違い、芸術カテゴリーのような類は標準的特徴を論理的な必要十分条件として期待できない点だろう。ウォルトンもそう考えたように、標準的特徴や反標準的特徴は芸術カテゴリーのメンバーシップにとって論理的な条件にはならない。そうなると、カテゴリーの階層関係だとみなされているものを下る際に、可変的特徴の振り分けが行儀よくなされるとは限らなくなる。〈ホラー〉のサブカテゴリーを下っていくと、どこかの段階で、〈ホラー〉としての標準的特徴を可変的ないし反標準的特徴として持ったり、反標準的特徴を可変的ないし標準的特徴として持つようなサブカテゴリーに出会うかもしれない。上位概念と下位概念同士がきれいな入れ子になっておらず、はみ出していることがあるのだ。それはもっぱら、芸術のカテゴリーが細分化されたコミュニティやそのメンバーたちの信念によって成立する、社会的な面を持つことに起因するのだろう。厳密に正方形であることは厳密に四角形であることを含意するが、厳密にフリー・ジャズであることは厳密にジャズであることを含意しない。階層関係がなあなあであることは、芸術のカテゴリー(というか、社会的なカテゴリー一般)考える上でかなり面白ポイントだと思う。

2022/06/25

近代美術館でゲルハルト・リヒター展を見て、日比谷のTOHOで『ベイビー・ブローカー』を見た。その前後でミロンガ・ヌオーバに行ったり眞踏珈琲店に行ったり牛カツに行ったりしたので、盛りだくさんの土曜日だ。激暑で移動がしんどかったが。

リヒターは、フォト・ペインティングと写真の上に絵の具載せるシリーズがバキバキに良かった一方で、抽象画はどれもそんなに興味がなかった。出展作品のけっこうな部分を占めるアブストラクト・ペインティングは、何個見たって同じだろうとやさぐれそうになる。私がリヒターに期待しているのは、絵画と写真を脱構築するような、モダニズムの歴史と不可分の作品であって、その期待が先走りすぎたのかもしれない。大きいキャンバスに巨大なへらで絵の具をベチャベチャ塗る作業は、画家にとってよほど楽しいのだろうが、そういうアナログな楽しみに留まっている印象を受けた。

『ベイビー・ブローカー』はそこそこだったが、映画館で映画を見る楽しみがおおいにあったのでOK。シメの串カツ、うまかった。

2022/06/24

今回の健康診断で、コロナ禍に入ってから1cm身長が伸び、7kg増量したことが明らかになった。もともとBMIが基準値を下回っていたのでこれでようやく標準体型ということになるのだが、どこから7kgもやってきたのか。数年前の身体に7kgのおもりをつけて生活していると考えると、これは結構たいしたものだ。

2022/06/23

〈他所で書いたものと一貫しているかは分かりません〉という文言がふと頭に降ってきて、すっかり気に入ってしまった。物書きするたびにこの注を入れておきたいし、Twitterのプロフィールなんかにも掲げておきたい。首尾一貫性が美徳であるのはその通りだが、現代の文壇に必要なのは矛盾を認める寛容さと、手元の議論だけを相手取る公平さだろうとつねづね思っている。死んだ後に墓石を設置されることになるとしたら(希望はしていないのでその可能性は低いのだが)この言葉を刻んでもいいかもしれない。死という結果は、おそらく私が生きているうちに書くことになるどれかしらと矛盾するものであろうから。

2022/06/22

私がはじめて美学という学問に触れたのは、三田で履修した西村清和先生の美学講義だ。あの講義はすごく感じがわるかった。西村先生は大学生に(慶應生に?)よほど恨みがあるのか、教室の前方2列ぐらいにしか届かない声量でぼそぼそと喋り、資料も板書もなく、デュシャンの便器がアートかどうかをたらたら話していた。当時の私にとってそんな問いはまったくどうでもよかったので、結局2回ぐらいしか出席しなかった。成績評価は期末試験だけだったので一応受けたのだが、それもデュシャンの便器についての記述問題だった。ふつうに落単したが、なんの知識もない大学3年生が《泉》に関してでっち上げた文章に単位をあげない程度にはちゃんと採点しているんだなぁ、と関心したのを覚えている。過ぎたことにもう恨みはないのだが、あのとき私がどんな文章をでっち上げたのかまったく覚えていないので、どうにか答案を見れないものかと思ったり思わなかったりする。

2022/06/21

講義で現代アートを教えているが、よくもわるくも、わけわからん作品を提示して生徒を戸惑わせることが主旨となってきた。難解であることは現代アートの一部であり、戸惑うことは芸術経験においてごく基本的な反応だ。それは、なにもかも明瞭に理解したい人にとってはストレスかもしれないし、とくに試験でちゃんと点が取れるのか不安にさせるかもしれない。が、少なくとも、高校までのお勉強とは異なることをやらされているという自覚を与えることが、大学での講義にとって課題となるだろう。

2022/06/20

家でおとなしくしていた。Joseph Kosuthってふつうにコースーだと思うんだけど、なぜコスースが定訳になっているんだろう。

2022/06/19

今日も今日とて美味しいもの(ステーキランチにティラミスとプリン)を食べに行ったが、朝から喉に痛みがあり、夜には微熱も出た。

2022/06/18

鎌倉へ遠足に行った。紫陽花見頃の土曜日で激混みだったが、行きたいところはおおかた回れた。帰り際に寄ったディモンシュではオムライス、プリンパフェワッフルを欲望のままに注文し、コーヒーで流し込むと脳汁がすごかった。タイミングが合わず、オクシモロンのエスニックそぼろカレーにはありつけなかったが、あれは似たようなものを自宅で作れるのでOK。

2022/06/17

文化的盗用のわるさが実際のところよくわからない。

2022/06/16

なんとなく『リア王』を読み直していて、なぜラストのシーンにはフランス王がいないのか気になった。イングランドへの侵略戦争を、イングランドから娶ったばかりの新妻にまかせ、自身は関与しないというのはふつうなのか。それも、勝ち目のある戦争ならともかく、コーディリアらはあっけなく敗戦し、悲劇が悲劇たるラストへとつながっていく。第一幕では、地位も持参金も顧みずコーディリアを救う良識ある人物だったのに、その後は一切登場せず、最後は妻を見殺しにしているようにも読める。

そもそも、あのタイミングでフランスが突然侵略してくるのも不可解だった。一応、ひどい扱いを受けているリアを救出するというポーズで話が進んでいくのだが、合流できた後も撤退せず、イングランド軍と全面衝突となったからにはやはり侵略戦争だったのだろう。いろいろ鑑みるに、おそらく物語の冒頭からしてイングランドとフランスの関係はよろしくなく、コーディリアの縁談も多分に政治的なものだったのだろう。もし、戦争を見越して後々利用するためにコーディリアを娶ったとしたら、フランス王はいくらなんでも狡猾すぎるが、さすがに考えすぎだろうか。それにしたって、結果的にイングランドは瓦解し、一番得をしたのはフランスだ。ありきたりな推理だが、密かに得をした奴はやはり怪しいのだ。

2022/06/15

先日のちゃん読での学びのひとつは、道具的価値-内在的価値の説明打ち止め問題に関しては、われわれが日常的にそれ以上説明しない辺りで適当に打ち止めればよいのであって、究極の内在的価値までたどる必要はない、ということだ。ビアズリーは内在的価値を認めないが、それでも価値について語れるのは、そういったプラグマティズムを採用しているからっぽい。これは割と説得的な話だ。価値の話になるたび、それ以上追及される余地のない究極的価値に基礎づけを求めなければならないのはたいへんだろう。

では、内在的価値ではないにも関わらず、快楽や幸福を説明項として使えることをなにが担保しているかと言うと、集合的信念なり、ある種の思考の均衡なのだろう。Xには価値があるという常識が、価値に関してそれ以上追及することを免じている。これは、私があまり好きではない「議論におけるジョーカーカード」たちがジョーカーカードたる所以でもある。

あるいは、価値の源泉に関してそれ以上追及すべき場面と、しなくていい場面というのがあるのだろう。それがどう区別されるのかは、まだよく分からない。

2022/06/14

中学のころはJ-POPを聞いて、歌詞を調べてはノートに書き写したり、といった作業をしていたのだが、それというのも公認で掲載している歌詞検索サイトがどれもコピペをさせてくれないからだ。当時はそんなもんか、と思っていたが、改めて考えてみると馬鹿らしい文化だ。現行の著作権は多くの点で馬鹿らしいと思っているが、歌詞に対するそれは最たるものだろう。音楽や映画の違法アップロードが、商売にとって不利益であることは明らかだが、歌詞を転載することのなにが困るのか。そして、なにか困るのだとして、コピペ不可能にすることでどれだけ保護できるというのか。ひと手間かけて手打ちすればよいのだから、個人ブログでもYouTubeのコメント欄でも好き放題に転載されている。転載されたものは当然、コピペ可能だ。

走行速度もエスカレーターの乗り方もそうだが、実際に落ち着いている均衡と、制度が定めるルールに齟齬があるケースには、なんらかのイタさがある。もちろん、イタいのは制度設計側であり、行為者側ではない。

2022/06/13

親知らず②をぶっこ抜いた。すでに勝手が分かっているものはずいぶん気楽だ。風呂にビールがNG、というのがきびしい。

2022/06/12

実家で犬と遊び、ティラミスを食べた。

2022/06/11

山下達郎がサブスクを一生解禁しないことのなにがわるいのか。

幸い、これはまったく切羽詰まった問いではない。山下達郎を聞く人は山下達郎がそういう精神性でやっていることに賛同するだろうし、山下達郎を聞かない人はサブスク解禁によってなんら利得がない。私は山下達郎を聞く人であり、また、ああいう職人気質の人が何人かいないと、世の中回らないだろうと思う。数年前に生で聞いたヤマタツは本当に素晴らしかった。

それよりも、話の流れで「サブスクは搾取だ」といった趣旨のことを述べたのが、一部の人の気に障ったらしい。あんなの使ってるリスナーも搾取の加担者だ、ぐらいに深読みして怒っているのだろう。いつものインターネットだ。ちなみに山下達郎は、自作のサブスクは解禁しないが、人の曲を聞くのにSpotifyを使っているらしい。

こう書いてみてもどこにもオチのない話だった。怒りたくて怒っている人は怒らせておくほかない。

2022/06/10

右上の親知らずをぶっこ抜いた。初診はとりあえず見てもらうだけかなと思ったが、即日で問題の1/2が解決した。麻酔のチクッは記憶していたよりだいぶ余裕があったが、力を入れてメリメリと引っ剥がす音が記憶していたよりけっこう嫌だった。私は中学のときに矯正で歯を4本ぶっこ抜き、下の親知らずをそれぞれほじくり返し、それらに際して何本も麻酔をぶっ刺したので、口内の拷問に関してはそれなりの権威だ。地動説で異端審問にかけられてもそこそこのところまでは粘れるだろう。来週の月曜に左上も抜くので、ようやく私というアバターの歯の部分が完成するわけだ。長い道のりだったし、ずいぶん課金した。

2022/06/09

コミュニタリアン(共同体主義的)な美学理論がポツポツ目立つようになり、私も広い意味でここに足並みを揃えていると思うのだが、共同体の価値や規範の話を聞いただけでうげっとする気持ちは私にもある。イメージが悪いのだ。理念としてのcommunitarianismは全体主義も共産主義も含意しないと分かっているのだが、直観はどうしてもそこに滑り坂を見て取ってしまう。共同体の中でポジションを持つことがアイデンティティにとって重要だとか、あるものがどういう身分を持つのかは共同体次第だとか、私にとっては当たり前すぎるほど当たり前なのだが、他方で、うるせぇ自由意志だ!というふつふつ湧き出るものもある。シラー=リグルの美的自由のような議論が、まさにその両立可能性を論じているのだとしても、湧き出てくる個人主義はもっと天の邪鬼で、「両立」なんて解決とみなさなそうとしない。私ならそれを「サブカル」精神と呼ぶだろう。「あなたの好きはみんなと共有できるんですよ」というメッセージはまったく的外れであり、誰も理解してくれないからこそ私にとって大切なものが、少なくともいくつかある。反快楽主義は分業なのだという割ともっともらしい前提に立てば、こういった特殊な価値づけを説明する理論もひとつはあったほうがいいだろう。

2022/06/08

久々にホットサンドを食べたが、BASE BREADとは格が違った。後者はもう一年ちょいちまちまと食べてきたが、いい加減飽きてきた。栄養があるのは確かなので(確かなのか?)、3食に1食はこれにしようかというぐらいの気持ちではいる。

2022/06/07

昨日の日記で愚痴ったことから勇気を得て、今日はスーパーに行ってきた。タコライス、ビビンバ、焼き肉漬け、サルサホットサンド、トマト卵炒め、きゅうりのにんにくポン酢漬けなどの食材と、サッポロ一番みそラーメンを買うてきた。8000円ぐらいしたが、私の計算では15〜20食はこれで回せるはずだ。米とビールは買いきれなかったのでバイト帰りに買ってきたが、5kg+2kgちょいは「重い」ということを見逃しており、帰り道が筋トレとなった。

2022/06/06

先日の意図WSでの村山さん発表に関連して思いついたことだが、創造的行為における「意図の明確化」という現象は、私の場合、昼食の選択において最も頻繁かもしれない。ほぼ毎日のように作業しすぎでランチタイムを逃すのだが、15:00ごろになると空腹にもかかわらず、自分がなにを食べたいのか自分でも分からないゾーンに入ってくる。そして、Googleマップを開いて行きつけの店を吟味し、コンビニ弁当という妥協案を検討し、どれもこれもピンとこないうちに不毛すぎる30分が過ぎていく。

この場合も創作行為と同じように、何が失敗なのかは、すなわち何を食べたくないかははっきりしている。ある選択肢が目に止まっても、それを口に入れることを想像した途端、生理的嫌悪感に「蹴られる」のだ。そして、これだと決めてアクセスしても、本当に「それ」だったのかは舌で批評するまでは分からない。失敗によるコストはたいして大きくないのでさっさと妥協してしまったほうが時間の節約になるのだが、私の「その瞬間もっとも食べたいものを食べたい欲」がそうさせてくれない。

これはなにかのパラノイアかもしれない。梅雨が始まったので、昼食選択の問題はより一層深刻になる。明日も明後日も明々後日も「何を食べようか。あれでもないこれでもない」という時間を迎えると考えると、ちょっとしたホラーだ。

自炊のいいところは、ひとつには作り置きしてしまえば、日持ちという制約が選択をシンプルにしてくれる点だ。よく日記で愚痴っているが、実のところ私は時折のカレー地獄に感謝している。その週は、食べたいもの探しという認知的課題をサボれるのだ。しかしこれは、売れ線の作風で量産するアーティストと同じで、創造的ではないし、自己欺瞞ですらあるかもしれない。

2022/06/05

ズーラシアに行ってきた。目当てはヤブイヌだ。野毛山ぐらいの規模感を想定して行ったらだいぶと広くて、閉園時間ややオーバーでどうにか一周回れた感じだ。雨予報は回避できたが、どうもアニマルたちにはオネムな日だったようで、おとなしめの子が多かった。オランウータン、オットセイ、ライオンは迫力があったし、チーターはすごく近くで寝ててもふもふだった。セスジキノボリカンガルーは園が推すだけあって、シルバニアファミリーのような毛並みが愛くるしい。ピグミーゴートはめっちゃ賢い。ミーアキャットが駆け回っていたのは大興奮だったし、犬っぽいやつ(ドール、リカオン)は総じてわれわれ好みだった。ケープハイラックスという意味不明な生き物も個性的でよかった。マレーバクがすっかり寝てたのと、カワウソが見つからなかったのは痛手だったが、カワウソは昨年の油壷マリンパークで見たのでよしとしよう。

そして肝心のヤブイヌはといえば、寝ていた……!ぐっすり!小屋の中で……。寝顔もキュートだが、やや消化不良のまま次へ。帰り際にもう一度立ち寄ったところ、飼育員さん待ちでうろちょろしているところをちょっと見れた。ぼてぼてしていてかわいい。こんなにかわいいのに、まったくグッズ化されていないのが不可解だ。

2022/06/04

作者の意図を再訪するワークショップをしていた。内容的にはだいぶ余裕を持って準備できた発表だった。原さんは、仮説意図主義と現実意図主義が実のところかなり似通った立場であることを、村山さんは、制作における意図のあり方はもっとダイナミックであることをそれぞれご発表されていて、どちらも個人的に同意できる内容だった。

「作者の死ガー」な現代思想ヤクザはいなくて始終快適な回だったが、逆に言えばそういう尖ったスピーカーもオーディエンスもおらず、分析美学の作法と議論史をふまえた人たちのクローズドな会になったのだとしたら、ちょっと残念な気もする。が、殺伐よりは和気あいあいとしたほうが気分がいいのは確かなので、難しいところだ。私は(Twitterによくいる)極端な意図主義者も極端な反意図主義者も全員論破するつもりで意気込んでいたが、全然そんな必要はなかった。

2022/06/03

「作者の意図、再訪」ワークショップに先駆けて、ラマルクの再構成した「作者の死」を読んでいた。序盤の「私が興味を持っているのは議論であって、作者たちではない」というくだりも、終盤の「authoredなテクストに統制された意味や構造を求めることと、威張りちらした権威主義の作者の復位はなんら関係がない」というくだりも、たいへん鋭くてお気に入りだ。こういう態度をとりたいと思うし、こういう態度をとる人とのみ付き合いたいと思わされる。

2022/06/02

『経済学の哲学入門』にしょっちゅうアマルティア・センが出てくるのでふと思ったが、Senだけ見るとインド人っぽさがあるし、なんならKiyohiroもヒンドゥーの神にいそうなスペルだ。ちなみにインドではサンスクリット語の「軍隊[Sena]」に由来する名字らしい。それで特に困ることはなさそうだが、そういえば銭の中国語読みのQian(あるいはChien)で活動する選択肢もあったな。

2022/06/01

なぜか私のPCは昔から重い(なぜかといいつつ心当たりは少なからずあるのだが)。今日は片っ端からいらないファイルを見つけては削除していた。とくに、中高時代にレンタルCDからリッピングしまくった音楽をごっそり削除した。一体だれがこんなもの聞くんだ、というEDMやポストロックがぎょうさんあって恥ずかしかったのは、昔の私がセンスなかったからなのか、今日の私がスノッブになったからなのか。

ふとMUSEが目に止まり、「MUSEってバンド、いたな〜〜〜〜」としみじみ感じた。ほんとうにもう7、8年はMUSEのことが意識に上らなかったように思う。みんなそうなんじゃないか。スタジオ練なんかで唐突にStockholm Syndromeのリフなんかを弾き出したらユーモアとして機能しそうだが、スタジオ練の予定はない。

2022/05/31

美的自由や自律性といったアイテムが内在的価値を持つことに対して私は懐疑的なのだが、そこには私が小論文を教えるときにしつこく念を押している「自由やら平等やらを議論のジョーカーカードにしてはいけない」と同根の問題意識がある。あまり自主的に論証を構築したことのない生徒は、しばしば主張の理由づけに際し、そういった西洋近代の一般的美徳を持ち出しがちだ(もっとひどい場合には、単に違法であることをジョーカーカードにしてしまう小論文すらある)。たしかに、哲学者のように「よろしい。ではなぜ〜」と問い続けるときりがないのだが、心のノートで仕入れたような概念で話が済むなら、はじめから問うべき問いなどなかったも同然だろう。

2022/05/30

健康診断のため、ひさびさに駒場に出向いた。もはや大学には人がほとんどいないのが当たり前だと思っていたのだが、対面授業も再開した平日の昼間はわりと賑わっていた。生協で『経済学の哲学入門』と『論証の教室』を買った。まだそれぞれ2章ほど読んだ程度だが、とくに前者は美的快楽主義や価値や理由に関して私が考えていることの整理にも使えそうな内容で、美学者にもおすすめできそうな本だ(ちょっと難しいが)。

駒場の近くにはティラミスホームメイドといううますぎるティラミス屋があり、欲望にまかせて二瓶も買って帰ってきた。

2022/05/29

日曜の渋谷はとんでもなく人が多かったが、うまいアフォガートも食べたし、シャツも買ったので収穫の多い一日だった。冬の間は夏のギラギラした感じを心待ちにしていたが、この暑さだともう冬のひんやりした感じが待ち遠しい。

2022/05/28

発表してきた。ビアズリーを対象説に親和的な立場として読もう、という内容。ツメツメでだいぶ駆け足になってしまったが、去年よりは心持ちに余裕があった。人の発表を35分聞くのはずいぶん長く感じるが、自分が喋っている分には35分なんてあっという間だ。学生は毎週私の話を90分聞き続けていることになるので、心中お察しする。

ビアズリーを対象説として読むという本筋に大きなツッコミはなかったが、統一性・複雑性・強度の身分に関する松永さんのコメントはなかなか悩ましかった。ICUがつまるところ経験において立ち現れる性質だとしたら、対象説をどう維持していくのかはちょっと考えなければならない。私個人としては、ICUがもっと実在寄りの身分を持っていることを直感しているし、仮に実在論を諦めたとしても維持可能な立場だと思う(Shelleyは実在論にはコミットしていない)のだが、理屈とセットのディフェンスはとっさには思い浮かばなかった。

ホットトピックというのもあって、快楽主義とその論敵に関する問題設定レベルでの疑問を多くいただいた。この辺はまだまだ勉強不足で、いくらか議論を単純化しがちな自覚があるので、もっと時間をかけてすり合わせたいと思っている。ひとつ、になって自覚したのは、私自身がサポートしたがっている立場を「美的快楽主義」と呼ぶのはややミスリードで、心配されやすいという点だ。2022/02/112021/09/13にも書いたように、私が考えているのは「誰もが利得に突き動かされて行為選択をしている」という、ゲーム理論の前提になるような合理主義でしかない。「ロペスやリグルのアイテムも、要は快楽につながるから規範問題に答えられるのでは」と述べるときにも、快楽ではなく利得の語を用いたほうが共感してもらいやすいかもしれない。ともかく、これは今回の発表では二次的な話題だ。

森さんコメントへの応答のなかで、思いつきで喋った対象説ディフェンスは、わりとありかもしれない。対象説は規範問題にどう応えるのかという点だが、われわれが「美的」規範と仰々しい形容詞を付けて論じている規範性は、いろんな場面でいろんな都合があって生じている、源泉も強度も種類も異なる規範性のカオスなんじゃないか。美的価値とは対象側のイケてる性質ゆえの価値に過ぎず、そういった対象への関与に義務や権利が伴うのは、セカンダリーな事情による(快楽主義も、反快楽主義も、そのバリエーションについて述べていることになる)。思うに、真であることの価値もそういうものだが、認識論はレベル0なのでとやかく言わないことにする。

2022/05/27

明日は応用哲学会なので、せっせとレジュメを切っている。減量という意味での「切る」だ。早め早めで準備を進めると、当日までに喋りたいことが増える一方なので、締め切りギリギリから動き出すぐらいが丁度いいのかもしれない。

2022/05/26

ピザを食べた。皮膚科帰りにピザを食べるのが、私のルーティンとなっている。相変わらず、サラダにかかってる謎ドレッシングがうまい。夜には激辛麻婆豆腐も作って食べた。あれもこれも作り置きのカレーからの一次逃避であり、プレッシャーは日に日に高まるばかりだ。

2022/05/25

欲望にまかせて、近所で評判のプリンを買ってきて食べた。たいそううまいが、それなりに手間暇かけたプリンは一般的にいってたいそううまいので、感動するほどではなかった。映画もそうだが、ほんとうに意表を突くような傑作はごく稀にしか出会えない。たいそううまいものを食べれる人生はすでにたいそう豊かなものだが、私は強欲なので、たまには感動するほどうまいものも食べたい。

2022/05/24

最近のロペスみたいな、可愛げのあるオリジナルタームを散りばめた論述は、好きか嫌いかで言えば嫌いだ。理由は、論文を読んでいて知らない単語が出てきたり、妙に凝っていて解釈を要するような表現が出てくるとむかつくからだ。それは思考を停止させ、なくて済んだような知的負担を読者に強いている。そして、その目的はたいていの場合、書き手の格好つけだったりウケ狙いでしかないのも、付き合いきれないなと思う。いつも述べていることだが、基本的に私は「論文」というカテゴリーにおける修辞的要素を一律憎んでいる。真水のように透明で、DeepLに流し込めば外国の中学生にも飲めるような文章を絞り出すよう努力すべきではないか。

複雑な言葉でしか説明できない事柄を複雑な言葉で説明するのはなんの問題もない。しかし、人文科学では不必要に難しい文章が多すぎる。そして、「難解さにとどまることこそが人文科学の味わいなのだ」とそれっぽいことを述べる輩がそれなりにいることは、悲惨だと思う。

2022/05/23

学部時代にはあんなに嫌々読んでいたのに、いまでは経済学の話が面白くてしょうがない。あるものを面白がれるかどうかはタイミング次第、というのは生きる上で無視できない事柄のように思う。そのときどきの偶然的なプリセットが、目下のものを面白がれるかどうかを左右し、面白がったかどうかが次のプリセットを左右する。そのフィードバックループが好循環をなしているのが、やりがいないしwell-doingのある人生というものだろう。経済学を面白がれるタイミングは私にとってずいぶん遅かったようだが、結果としてそれを面白がれるプリセットを得たことは、なんにせよめでたいことだ。

2022/05/22

倍速鑑賞の話題でとりわけ不可解なのは、「倍速で見るのは自由だが、分かった気になって批評しないでほしい」というそれなりに人気の意見だ。

第一に、「倍速で見るとちゃんとした批評はできないから、やめておけ」ということであれば、「倍速で見てもちゃんとした批評ができる場合がある」で十分差し返せる。『死霊の盆踊り』が下品なうえに不必要なダンスシーンだけで構成された駄作であること、『東京家族』が伝統的な日本家族の崩壊という主題を端正に扱い、優美な構図を練り上げた傑作であることは、4倍速だろうが分かる。速度とは関係のない作品性質だからだ。倍速だろうが、作品については多くのことを知りうるのであり、それに基づいた批評は真正で気の利いたものとなりうる。問題があるとすれば、「動きやセリフが速すぎて不自然だった」「展開のテンポがサクサクしていて良かった」のような、倍速ゆえに得ている偶然的性質を評価の理由づけとして用いるケースだけだろう。しかし、そんなことをあえてしようとする人はまずいない。

第二に、倍速否定派は前提として、隅々まで目の行き届いた、作品の良さ/悪さを余すところなく引き出した批評のみを批評として期待しているのかもしれない。「倍速で見ると十全な批評はできないから、やめておけ」というわけだ。確かに、「倍速で見ると十全な批評はできない」は認めざるを得ない。速度が関わる作品性質もあるからだ。しかし、批評に十全さを求めるのは明らかに理不尽だ。間が大事な作品の間に言及しないからといって、その作品の真正な批評にならないというわけではない。批評は選択的でいいのだ。(「倍速で見ると、真正だろうがあまり面白みのない批評になる見込みが高い」ぐらいなら、言いたいことは理解可能だ。)

第三に、「倍速で見たくせに作品の良し悪しを語るなんて、傲慢だ/ずるい/不当だ」ということであれば、情動表出以上のものではないので、言い返せることはない。「作品に対する誠意のない人とは付き合いたくない」というのは、誠意の基準について対立しうるが、十分に理解可能だ。そのようなことを言う人は、作品への愛が強すぎるので、そもそも批評を嫌っている見込みが高い。実際、倍速で見ただれかが作品についてとやかく批評したところで、上のような見解の人にとって実質的な損害はなにもない。しかし、愛は功利主義では説明できそうにない。

ということで、「倍速で見るのは自由だが、批評はダメ」という線引きを持ち出すのは悪手であり、無根拠であるか単にお気持ち表明であることがほとんどのようだ。倍速によって取りこぼされる重要ななにかがあるとすれば、それは知覚・経験のレベルにあるのであって、批評云々はぜんぜんまったくなんの関係もない。

2022/05/21

キャロルの「Forget Taste」(2022)を読んだ。基本的には「Art Appreciation」(2016)の話を趣味概念の批判として再構成したもので、特に新しい話はしていないが、詳細な説明が加えられ分量は倍ぐらいになっている。キャロルのアプローチには全面的に同意できるわけではないが、私にとっては何度も立ち返るデフォルト理論となっている。

キャロルによれば趣味概念は(たいてい理想的批評家が基準となるような)快楽概念と結びついたものであり、ラフに言えば作品を好むか嫌うかの問題だ。実際になされている芸術批評は明らかに好き嫌いや快楽の問題ではないので、趣味概念はいらないというわけだ。この点、キャロルは芸術的価値に焦点を合わせているものの、最近の反快楽主義と同じ方向を向いている。アートワールドにせよ美的生活にせよ、価値を快楽で一元的に説明するにはあまりに多様なのだ。キャロルの主張は、美的経験を快楽や価値ある経験に訴えず定義する内容アプローチとも一貫していて、ざっくり要約すれば、クールな芸術批評を推し進めたい人なのだろう。キャロルの師匠筋にあたるディッキーもそういう論者だった。

キャロルは代替案として、作品の構成的目的およびこれを実現する手段に基づいた、趣味ナシ評価を好んでいるが、「美しさや優美さを追求する」のような目的を持った作品はどうするのか、という反論は気になっていた。今回読んだ論文では面白いことを述べており、曰く、美的性質の検出にも趣味は必ずしも必要ではないとのことだ。これはシブリーの前提と真っ向から対立する見解のように読めるが、はっきり決着がつけられているわけではなさそうだ。おそらく、美的性質(美しさや優美さ)を検出する心理的プロセスが、なにかを好んだり快楽を感じるような心理的リソースと不可分であるかどうかが争点なのだろうが、この場合、ときにはそうでないと述べるキャロルに対し、つねにそうだと考える趣味論者のほうが不利にはなるだろう。キャロル的にはたいていそうではない、ぐらいの主張をすることがフェアだと思う。

別の話として、「好き嫌いはともかく──」というスタンスを広めることが、アートワールドや美的生活を豊かにするのかは分からない。「『死霊の盆踊り』は大傑作であり、大好きだ!」という人を捕まえて、「お好きなのはおおいに結構だが、駄作なのは認めてください」というのは、いかがなものか。それは客観世界のより正確な表象を手助けしている点では認識論的に美徳があると思われるが、当人の経験世界を否定している点ではふつうにハラスメントだろう。必要なのは、教育する側のケアなのか、教育される側の割り切りなのか。これもよく言われる(真偽不明の)話だが、西洋人は「好き嫌いはともかく──」に慣れており、日本人はもっと感情的な尊重を求める、という背景もある。どちらのスタンスが人生を豊かにするのか、なんていうのはでかい話すぎて私には分からない。

2022/05/20

近所のフランス料理屋で食べたパプリカの冷製スープとチーズパンが美味しかった。家の近くに小洒落た店がいくつかあるのは、東京に住む利点のひとつである。

2022/05/19

美的なものを考える上でappreciationを中心に据えるのは狭すぎ、という(最近よく聞く)見解は、実のところ話題を変えてしまっているのではないかと思う。少なくとも私には、アジェの写真を収集・保存する営みと、アジェの写真を鑑賞する営みが同種であり、包括的な説明を要するというのがいまいち飲み込めていない。美的な生活の多様性を強調するのは結構だが、美的なものへの関与と美的関与を混同してはならないだろう。あるいは、混同しているわけではなく、意識的に話題をシフトさせようとしているのかもしれない。

少なくとも私の関心はダンス教室やスケボーや洋服選びより、芸術鑑賞や批評にある。

2022/05/18

あらゆる学問は意義があるという前提のもとで、しかし中高生の貴重な時間をとって学ばせ、受験で競わせるのは不当だろうという科目はいくつかある。個別の評価は人それぞれだ。私にとって不当なそれは古文漢文であり、別の人にとっては三角関数だったりするのだろう。

まず、教育を設計する側が怠惰であり、これまでやってきたことを見直したり修正するのを面倒がっているせいで、優先順位の低い科目を教え続け、優先順位の高い技量を教えていないというのは、紛れもない事実だろう。必要に迫られて古典を紐解いたり、三角関数を用いた計算を行う人は、正味な話まれだろう。その辺を過大評価している人は、単に世界を誤表象している。また、まれであることを暗に認めた上で、それが重要となる個別の場面を列挙し、「ほら、必要知であろう」と示そうとするのも悪手だ。争点はいずれにしてもその優先順位が低いことにあるのだから、まれに役に立つことを示されても不毛なのだ。

そうは言っても保守は人間にとって自然なシステムなので、「Xはいらない」式の議論を精緻に展開し、改革につなげることはたいてい無理がある。だいたいそういうのは「XよりYのほうがいらんだろう」と脱線していったり、個人の思い出話に流れたり、果ては教養をめぐる人格攻撃合戦に転じるので、救いがない。理不尽を押し付けられるのは中高生なので、どうにかならないものかとは思う。

2022/05/17

ガクシーンの応募資格を誤解していたせいで、朝から方方に問い合わせ、頭を捻り、一日が終わった。それでなくても私は雰囲気で博士に属しているようなところがあるので問題だ。反省した。

2022/05/16

ちゃん読でビアズリーの美的経験論をちゃんと読んだ。来週末にはビアズリーについて発表する予定であるにも関わらず、ビアズリーのことがますますわからなくなってスリル満点だった。

美的快楽主義といえば、美的価値を美的経験から説明するビアズリーが代表だと思っていたのだが、どうも後期のビアズリーは「美的経験≒美的な性格を持った経験」を快楽には還元したくないそうなのだ。踏み込んだ説明はないので、実のところ美的経験(≒美的楽しみ≒美的満足)=快楽の一種だと考えるのが無理なく整合的なのだが、どうなのだろうか。快楽じゃないとしたらなんなのか、そのことは規範問題をどう説明するのか。

2022/05/15

今年もせっせと学振を書いている。学振に受かるとうれしいことのひとつは、向こう2年は学振を書かなくていいということだ。

2022/05/14

中華を食べに行ったら平日しかランチをやっていなかったので、近くにある別の中華に行った。カサゴの唐揚げに甘酢あんをかけたものを初めて食べたが、THE中華料理といった感じの味付けで美味しかった。

A WORKSは、7年前に行ったときには古民家風の落ち着いたお店だったが、いつの間にか移転し、行列のできる映えカフェと化していた。テイクアウトしたチーズケーキはしっかりうまかった。

中目黒にあるバカ高ジュース屋さんにも行ってきた。さすがにかなり美味しいジュースだったし、お店の向かいにあるペットサロンでパピヨンとテリアの子犬がじゃれていたのでかなり得をした。

2022/05/13

なんで新譜に収録されていないのか謎だが、ケンドリック・ラマーの「The Heart Part 5」はヒップホップについぞハマれたことのない私にとってもかっこいいトラックだ。すごいすごいとは何年も聞かされてきたが、ようやくケンドリック・ラマーを聞き始めるきっかけを得た気がする。それにも増して、マーヴィン・ゲイの『I Want You』を聞くきっかけを得たことがラッキーだった。『What's Going On』『Let's Get It On』ばかり聞いてたが、アルバムとしては『I Want You』が一番好きかもしれない。

2022/05/12

アンディー・ウォーホルのマリリンが20世紀の作品としては史上最高額で落札されたというニュースを授業で紹介した。ついでにちょっと前のサザビーズの話もしたが、アンケートをとったところ、ウォーホルのマリリンよりもマグリットの《光の帝国》が欲しいという人が倍ぐらいいた。純粋にインテリアとして考えるなら、マグリットのほうが色も落ち着いているし、ちょっと風変わりなのも「アート」な感じで好まれやすいのだろう。どでかいマリリンの肖像画なんてけばけばしくて趣味が悪いと思われているのかもしれない。

2022/05/11

均衡したルールというのは怖いもので、一旦定着してしまったからには、そこから逸脱する人に対してオートマチックに反感を抱かせる。具体的には、マスク生活がデフォルトになってしまった今、隙あらばすぐマスクを外したり、なにがなんでも鼻だけは出しておきたい人を見ると、なんてわがままで非常識な人なんだろうと、とっさにそう思ってしまう。実際、そのような反感は自分への健康リスクに基づいている点では合理的であり、またノーマスクを推進する人のなかにはやばめの人が相対的に多めである点でも合理的なのだが、全面的に合理的とは言えない。いまさらマスクを嫌がるのは単に忍耐力の欠如であり、そういう輩はどうせ他の場面でも短気でずぼらで自民党支持者なのだろうと思っているうちは自分へのリスクなど考えておらず、相手の品性を勝手に裁断しているだけなのだ。お腹が空いていたり天気が悪いときには、私もすぐそういう思考モードになってしまう。もしかしたら彼/彼女らには呼吸器系の疾患があり、マスクをつけ続けると危険なので、人に迷惑をかけないタイミングを必死に探して、申し訳無さとともにマスクをずらしているのかもしれない、という風に想像力を働かせることは容易ではない。

それはそうと、空気を気にすると言われがちな日本人が、一度定着してしまったマスク生活からはたして脱却できるのか、なにがきっかけで脱却するのかは、社会科学的に大注目の事象だろう。私は本当にどっちでもいいのだが。

2022/05/10

ミュージカルの「突然歌い出すのがきしょくてイヤ」問題は、作品をミュージカルというカテゴリーで見ておらず、突然歌い出すことのない作品をも含むより一般的なカテゴリー(映画)で見ているから、というのが無難な答えになるだろう。リアリズムとして期待しているからだという説明だと、それは単にカテゴリーミステイクだという話になるのだが、より一般的なカテゴリーとして期待する分にはカテゴリーを誤っているわけではない。稀な可変的特徴にうまく反応できていないだけだ。能やオペラはそのカテゴリーに精通したマニア向けであり、それらを含むより一般的なカテゴリー(舞台芸術)のもとで見られることが相対的に少ないのだろう。ミュージカルは、ミュージカルを期待しておらず単に映画を期待している人が見るからこそ、きしょくてイヤという評価になることが相対的に多くなる。

それだけではない。そもそもの話として、人が突然歌いだしたり踊りだすことを標準的特徴としているカテゴリー自体が馬鹿げている、という見解のミュージカル嫌いもいるだろう。これはカテゴリーのもとでの評価ではなく、カテゴリーの評価だ。その人は、人が突然歌いだしたり踊りだすのを見聞きすることが愉快であったり、あるいは人生にとって有意義な経験であることを飲み込めていないだけなのだ。この場合、「突然歌い出すの不自然だ」とか言う必要はなく、それはそれでそれとして自然なことだが、だからなんだという話になる。このようなミュージカル嫌いは、ジェットコースター嫌いやホラー嫌いと同類であり、対立は人生において求めているもののレベルにあるので、説得の余地も必要もない。

2022/05/09

批評の中心は解釈か評価かというちょっとした話題があり、ダントーは前者推しキャロルは後者推しなのだが、解釈にせよ評価にせよ(そして記述やら分類やら分析にせよ)、現になされたりなされなかったりするような作業のどれかひとつだけが中心なのだ、と言ってなにを言ったことになるのかいまいち分かっていない。「解釈なし評価」「評価なし解釈」の一方だけが批評と呼ばれるに値するとして、どちらがそうなのかという点で対立があるのだろうが、美学者が「批評とはこっちだ」と言っても仕方がなかろうし、そういう物言いをするから疎まれるような場面もあろうと思ってしまう。

「たいていの評価には解釈が伴う」「たいていの解釈には評価が伴う」「たいていの解釈や評価には○○が伴う」といったテーゼを立てるのは、まだ面白くなりようのある論じ方だろう。

2022/05/08

カレー屋さんに行ったらクリームのダックスちゃんがいてお得だった。アイスクリーム屋でアフォガートも食べた。

2022/05/07

不道徳なアーティストのキャンセリングはほとんど意味がないどころか、美的エイジェンシーとしての自律性を脅かし、芸術作品による豊かな経験を没収するだけなのでやらなくていい(やらないほうがいい)という議論をMary Beth WillardがWhy It's OK to Enjoy the Work of Immoral Artistsでしている。思うに、そのようなキャンセル観は、利他的なキャンセルを想定しており、利己的なキャンセルを見逃しているのではないか。ボイコットが制裁としてほとんど有効な手段でないというのはその通りだろうが、なんでもかんでも粗を探してキャンセルしようとする類は、実のところ社会正義実現のための制裁にほとんど興味がないのだろうと思うときがある。キャンセラーにとって重要なのは正義ではなく正義感である。自らが道徳的に無誤謬であり、立つべき場所に立っているという感覚を得るためにキャンセルという身振りするのだとしたら、それが実用的に不毛だと言われても止まるわけがないだろう。むしろ、彼彼女らは、エイジェンシーとしての自律性のためにこそキャンセルを行うのだ。もちろん、寄り添うべき側に寄り添っている感覚、と言い換えればいくぶん温かみのあるものではあるが、利己的なインセンティブであることに変わりはない。そして、そのインセンティブは単にしばしば美的に利己的なインセンティブを超える、という話だ。それは全体としては、合理的な判断と言わざるをえないと思う。

もうひとつには、2022/04/29の話だが、美的価値と道徳的価値は比較しようがなく、加点減点で前者が大きければ鑑賞してよいなんていうことにはなりようがない。

さて、では不道徳な芸術家の作品をエンジョイするにはどうすればいいのか。ひとつには、自らがエイジェンシーとして自律的でも無誤謬でもなく、しばしば無意識に加害者であり、搾取する側であることに開き直る、というオプションがあるだろう。私にはそれがほとんど唯一の選択可能で、現に選択されている態度だと思われるのだが、誰もそんなヒールではない、そんな態度を公言するヤツこそキャンセルしてしまえ、という社会に向かっていくのは、まずもって欺瞞だし、ひどくグロテスクだと思う。

2022/05/06

実家の庭でバーベキューをした。両親の選ぶ肉は、脂肪分が高すぎて一家誰も得をしないがちなのだが、おそらくは部位やら産地やらを吟味するのが億劫なのだろう。とりあえず高い国産ものを選んで買う結果として、毎回脂肪分の高すぎる肉が食卓に並ぶ。私はアメリカ産の豚バラにタレびしゃがけでよい(がよい)のだ。焼肉屋に行っても、とりあえず特上カルビばかり頼むので、ハラミや豚タンの美味しさを知ったのは大学に入ってからだ。なんにせよ、一人暮らしで牛を摂取することは稀なので、油にまみれながらばくばくと食べた。母が唐揚げ用に漬け込んでいた手羽先を即席で焼いたやつは、かなり美味しかった。

2022/05/05

キャベツを一玉買ったが、紙袋に入らなかったので素手で抱えて持ち帰った。

2022/05/04

友人の赤ん坊を見てきた。ちょうど今月来月で二足歩行を習得しそうな段階で、いちいち勢いのある一挙一動が一同大注目のパフォーマンスと化していた。私のメガネが気に入ったらしく、執拗に付け狙われた。ただ動き回り、積み上げたものを破壊し、ティッシュを引き抜きまくるだけで周囲を笑顔にしてしまうのだから、赤ん坊はすごい。

2022/05/03

ねぎしの牛タンを食べた。あの米をかっくらうためだけに設計されているセットが、本当に好きだ。しばらく食べていなかったが、ねぎしも寿司ぐらいの頻度で食べたいもののひとつだ。

2022/05/02

東京都美術館で、スコットランド国立美術館展を見た。先日のメトロポリタンに比べたら、よく知らない画家が多くて学びが多い。ベラスケスとゴーギャンがたいそう良かったが、ナビ派の画家エドゥアール・ヴュイヤールを知れたのがかなりお得だった。どこかで聞いた名前だなと思っていたら、Abell (2009)が事例として作品を挙げていたのを後で思い出した。

上野に行くのもずいぶん久々だ。カヤバ珈琲のサンドイッチとルシアンは相変わらず美味しかったし、初めて頼んだアフォガートも絶品だった。今年の夏はアフォガートを食べまくる夏にしたい。

2022/05/01

東京タワーの台湾祭に行ってきた。雨で屋根のある席が大混雑だったため、難民祭になりかけたが、どうにかこうにかじゃんじゃか飲み食いできた。ビーフンと胡椒餅が美味しかった。ずっと台湾のちゃちーポップスが流れているのがかなり屋台感があってよかった。

2022/04/30

ダントー『アートとは何か』を読んでいたら、マネの画面手前にギチギチに詰まった空間は写真の影響だという話が出てきた。遠くから望遠レンズで撮ると、本来は離れているものが密着しているように映る。野球中継や江島大橋みたいなやつだ。《皇帝マキシミリアンの処刑》が異常に近くから発砲しているように見えるのも、写真からの影響らしい。また、マネ独特のグラデーション処理のないベタ塗りも、写真の効果を真似ているとか。真偽は定かではないが、そうだとすると従来とは異なるモダニズム観が得られて面白い。写実主義のプロジェクトを写真が最終的に終わらせて、絵画は抽象へと向かっていった、というのがよくある説明だろう。しかし、ダントーが正しければ、マネはむしろ絵画による写真の模倣を通して、結果的に奥行きのない画面へと接近していったことになる。絵画におけるモダニズムは、写真からの離反ではなく、写真への接近に始まった、というのはびっくりだがわりと腑に落ちる話だ。こういう話ばかり聞きたい。

2022/04/29

『ゴールデンカムイ』まわりの「センシティブな主題を中立的かつ誠実に描いている」という道徳的期待は、度を越していてきついと常々思っている。『ゴールデンカムイ』がアイヌ文化に対して誠実なものかどうか、私には判断できないし、当事者か専門家でもなければたいていの人には判断できないだろう。あの暴力だらけの殺伐とした漫画に、なおかつ文化への道徳的な期待を寄せるのはあきらかに相性がわるいし、なんらか疵瑕が見つかるのは当然といえば当然だ。そもそも道徳的かどうかをゼロイチで判断するほうが変なのだが、(前に勉強会でも話題に上がったように、)道徳的価値というのは加点減点方式ではなく、ひとつでも深刻な欠点があると−∞に落ち込むような、ヤバすぎる領域なのだろう。「良いところもあるし、悪いところもある」というのはほとんど任意の事物に当てはまる真理なのだが、そう言わせない雰囲気がある。どうにかしようという話にはなりようがなく、どうにか凌ごうという話にしかならない。

2022/04/28

今日の講義で、学生から「Zoomでの講義映像がVTuberの配信みたいで面白い」というコメントがあり、ちょっと嬉しかった。実際、VTuberではないが、顔出しのゲーム実況などにインスパイアされた講義形式で、スライドをバーチャル背景にする機能を使っている。まだベータ機能らしいが、それなりに見栄えがいいので、今後の学会発表などでも使っていきたい。私はもう勉強会ですっかり慣れてしまったのだが、そうでない人にとって、顔の見えない相手の声だけを聞き続けるのは、やはり苦痛を伴うのだろう。実際、生身の肉体であるところの顔である必要はそんなにないので、アバターを用意して喋るのも割とありなのかもしれない。

2022/04/27

ハウスダストにまみれながらコタツをしまった。日記によると、出したのは11月半ばなので、半年そこにあったわけだ。なんとなく、冬の間の3ヶ月ぐらいしか出していない印象があったので、年に半分はコタツが出ている、という事実にはちょっと凄みがある。いろいろと片したら、部屋がずいぶんすっきりした。コタツは温かいが、美的にはないほうがいい。

2022/04/26

映画は1960年代フランスとイタリアの白黒モダニズム映画しか見ないとか、美術館行ってもポップアートの部屋は避けるとか、両思いの女の子の家に行ったらダサい音楽をかけられて萎えたとか、Bence Nanayのスノッブエピソードはたくさんあって面白い。見た目も相まって、私のなかでは狩野英孝的なキャラクターなんじゃないかと思っている。

ナナイの立場は、私の理解ではもはやピュアな快楽主義者なのだが、ポイントはむしろ理想的鑑賞者説へのアンチにあるのだろう。理想的鑑賞者説が、おのおのの主観的な経験を超えてものの客観的な価値を規定するためのアイテムなのだとしたら、ナナイはそういう価値を端的に諦める立場なのだと思われる。価値とは個々人の経験であり、経験にヒエラルキーがないのだとしたら、価値にもヒエラルキーはないのだ。

美的生活はまったくの自由、というのは耳障りのよいテーゼで、私も大きく異論はない。しかし、それは話をハイアートに限定せず、広く美的生活一般を問題にしているからこそ出てくるテーゼなのではないか。こう雑多な領域を統制する規範がそもそもないので、自由が唯一の規範になるのは当たり前といえば当たり前だろう。芸術、あるいは芸術でも広すぎるなら各芸術実践には、依然としてshouldやmustがつきまとうように思われるのだ。

私がAesthetic Life and Why It Mattersの三者いずれにもあまり共感できないのは、彼らが反西洋中心主義を掲げつつ、しばしば自由や個性といった最近の欧州でpoliticallyにcorrectな規範に訴えて話を落としがちだからだ。ブレイクアウトで、まさにこの話をナナイがリグルに振る場面があるのだが、リグルがごにょごにょとシラーの話をしていたのはかなり残念さがあった。

2022/04/25

授業準備でデュシャンのレディメイドをいろいろ見ていたが、どれも抜群に面白い。視覚的に面白いのだ。こうデジタル時代に生きていると、ふつうの櫛やスコップですら視覚的関心の的になるのは、デュシャンも予期しなかったことだろう。ボトルラックなんかは、もはやありふれた日用品として見ることのほうが難しい。

2022/04/24

暗い部屋でカービィのエアライドをやっていたらめちゃめちゃに車酔いした。

2022/04/23

前に、美的快楽主義に関連して「美的に画一的な世界」という記事を書いたが、それとほぼほぼ同じ話をAesthetic Life and Why It Mattersのイントロダクションで見つけた。どちらも有名なネハマスの悪夢にインスパイアされているので珍しいことではない。誰もが同じものに美を見出し、好み、美的な意見対立がもはや存在しない世界は悪夢ではないか、というわけだ。Lopesらは、デヴィッド・フォスター・ウォレスの小説に出てくるアイテムをちょっとアレンジして、「面白すぎて一度見てしまえばもう他を見る気になれなくなる映画」を挙げている。いくら面白いと言われても、われわれはそれだけを見る生活をきっと選ばないだろう、というのが著者らの見解だ。この思考実験は、反快楽主義を動機づける直感ポンプとして機能している。

私の思考実験は、もうちょっと工夫している。第一に、「最後の美的対象」を鑑賞するには、知識や経験を備えた理想的鑑賞者でなければならない。それは、受け身でも快楽を与えてくれるLSDのようなものではなく、能動的に価値を見出す必要のあるものだ。Nanayのように、能動的な努力による達成を持ち出す論者には、これがいくらか予防線になるだろう。第二に、私が問題にしているのは、「「最後の美的対象」を選択することは、個々人にとって望ましいか」ではなく、「誰もがそれだけを選択することになった世界Zは、われわれにとって望ましいか」だ。前者の問いにおいてどうしても心理的抵抗があるのは、Lopesらの映画や「最後の美的対象」がもたらす画一的な美的生活を、いまだ十全に想像できていないからだろうと思わずにはいられない。いいものだと言われても、なかなか信用できないだけなのだ。問うべき問題は、世界Zにおいてあらゆる人が至上の美的満足を報告しているなか、そのような世界が美的に欠けているとしてなにがどう欠けているかだ。Riggleのように個性を持ち出しても、Lopesのように冒険心を持ち出しても、それがとにかく価値なのだというのはわれわれの世界Aに限った話で、世界Zでもそうなのだ(そして世界Zではそれが欠けているのだ)と述べるのは論点先取だろう。

記事にも書いたが、私は美的に画一的な世界のほうがよいとはまったく考えていない。この思考実験は、 しばしば反快楽主義に都合のいいように細部が隠されているか、十全に想像された場合にはもはやわれわれの直感では手に負えない。反快楽主義を動機づける直感ポンプとしては不当だ、とまで言えれば私は満足である。

2022/04/22

一昔前のJ-POPによくある文言だが、「君との出会いは運命」と「偶然だらけの世界で君と出会えた」の両方がロマンチックなものとして歌われるのは、よくよく考えてみると奇妙でおもしろい。どちらも特定の人間関係に価値があり、維持・促進すべきものだと伝えたいわけだが、ある出会いが必然である(あらゆる可能世界において出会っている)ことも、偶然である(一部の、おそらくはごく限られた可能世界においてのみ出会っている)ことも、同様に価値づけられるとはどういうことか。ひどい場合には、一曲の間に両方が歌われることになる。「偶然君と出会えた これはきっと運命」といった具合だ。(というか、「偶然の出会い」と「運命の出会い」はしょっちゅう交換可能なものとして使われているような気さえする。)

もちろん、形而上学的により正確なのは偶然性を述べるほうの文言だ。どう考えても、任意の出会いについて、出会わなかった可能世界が少なくともひとつはあるだろう。もっとも、歌われているのはそういったトリヴィアルな事実ではなく、出会っている可能世界が極小であり、おそらくは「貴重である」ということだ。もっともらしいかはともかく、「レアなものには内在的な価値があり、維持・促進すべきだ」という価値づけ規範が背後にはある。一方、運命や必然性を述べるほうの文言は、それとはぜんぜん違う価値づけ規範に則っているはずだ。正直、私にはこちらがなぜロマンチックなものとして機能するのかが昔からあまりピンときていない。天命を授かった高揚感ぐらいしか思いつかないのだが、それが価値であるためには、自由意思を差し置いてでも絶対的な導きに従って生きることを価値づけていなければならないと思うのだが、はたしてそうなのか。

あるいは、よりもっともらしい解釈としては、民間形而上学(撞着語っぽいが)では、運命とは必然性とは別のなにかなのかもしれない。それはむしろ、数ある可能世界のなかで、まさにいまここの世界にたどり着いてしまった不可解さをより直接的に指し示す語であり、偶然であることと両立可能な事態なのかもしれない。

さらにもっともらしいが面白みのない解釈として、「君との出会いは運命」「偶然だらけの世界で君と出会えた」も単なる表出だ。そこに「好きだ」という以上の含みはない。

2022/04/21

昨晩書いた「グルーヴとはなにか」の記事が、はてブでそこそこ伸びていた。書いたものが読者に恵まれるというのはやりがいを感じさせられるが、それと同時に多方面からマウントが飛んでくるのは、毎度ながらどうにかならないものかと思う。「グルーヴ」という主題もちょっと地雷ではあった。「考えるな、感じろ」という蒙昧がはびこっている分野だからこそ、ひとつひとつ概念を解剖し、整理し、反省可能な仕方で提示しているのに、そのような作業まで含めて野暮だとちゃぶ台返しされたらお手上げだ。「芸術」という概念がそもそもそういう人々に囲まれているので、批評にも美学にも救いはない。基本的に、まともにものを考えたり、長めの文章(言うても5000字ぐらいのブログ記事)を読むのに難がある人は、難を自覚してもっと謙虚になってほしい。

ということで結構むかついたのだが、実のところむかつくようなことを述べるコメントはそんなに多くなく、せいぜい5〜6個といったところだ。しかし、その5〜6個の存在が、数百の肯定的なコメントにもかかわらず書き手を直ちにむかつかせるというのは、ネットで活動している人であれば誰でも経験したことがあるだろう。今日は友人と『TITANE/チタン』を見てきた。序盤、無実の人々が理不尽に殺害されるのだが、見ていてしんどかったので、私にむかつくコメントをしてくる連中だということにして見た。

2022/04/20

スーパーでお菓子をドカ買いしてきた。カラムーチョ、ピザポテト、かっぱえびせん、フラン、チョココ、たけのこの里、鈴かすてらという欲望メンツだ。お菓子というのは、買わなければ買わないで別に不都合ない食べ物だが、家にお菓子があると生活にメリハリが出るのも確かだ。

2022/04/19

美的経験に関する分析美学上の論争といえば、ビアズリーvsディッキーと、ステッカーvsキャロルが有名だ。ビアズリーは経験に特別な内在的性質がある(統一性、強度、複雑性のある経験)と論じたのに対し、ディッキーはそんな現象学は疑わしいと考えた。ディッキーによれば、統一されていたり強度を持っているのは、美的対象(典型的には、芸術作品)そのものであって、経験ではない。ビアズリーとディッキーの立場は、ほとんどそのままステッカーとキャロルの立場に投射できる。ステッカーは美的経験には「それ自体のためになされる[for its own sake]」という内在的性質があることを重視するが、キャロルは美的対象側の美的な形式や質に注目さえしていれば十分に美的経験だと考えた。

こう見ると、内在主義定義をとるビアズリーとステッカー、外在主義定義をとるディッキーとキャロルで陣営ができており、このことはキャロルがディッキーに教わっていたことを踏まえるとかなり腑に落ちるものだが影響史はもうちょっと複雑だ。外在主義定義のルーツは、意外にもビアズリーであり、とりわけ、ディッキーに批判されて自説を修正したビアズリーなのだ(前に訳した「美的観点」(1970)なんかは、ディッキーに対してかなり譲歩的な定義になっている)。キャロルの立場はビアズリーvsディッキーの論争全体から引き出された、かなり分析美学分析美学した立場であり、対するステッカーは近代美学に由来したより伝統的な立場をとっているものと見られる。

伝統的に「美的経験」としてラベルづけられていた現象Xsがあるとして、それは単に対象の形式や質に注目することなのかと言われれば、キャロルの内容アプローチにはいくらか厳しさがあるように個人的には思う。一方で、伝統はともかく、今日の多様な美的生活におけるある特別な現象Ysを、包括的に捉える定義としては、ステッカーのように「それ自体のためになされる」という方が大げさで狭すぎるのだろう。ここでも、定義によって捉えたい現象のレベルで、いくらか対立があるように思われる。

こと美的価値を問題にするとき、ビアズリー=ステッカー的な価値ある経験を踏まえて、ものの価値を道具主義的に規定する(快楽主義)のがデフォルトではある。これに対し、改ビアズリー=ディッキー=キャロル的に美的経験を空虚に定義するとしたらどういう帰結が出るのか。そういう話を、今度の応用哲学会でする予定だ。

2022/04/18

デスクチェアのガスシリンダーが音を立てて昇天した。ハイデガーのハンマーばりに、壊れてはじめてガスシリンダーという仕組みを理解したのだが、そもそもこんなんで人の尻を持ち上げようというのがおこがましいのではないか。まったく、使えば使うほど安物を実感させられる椅子で、二年なら存外持ったほうだが、これを捨てる手間と新たに買う手間を考えるとうんざりする。これが生活だ。私はきっとあれこれ面倒臭がって、この壊れたままの低〜い位置からディスプレイを見上げる生活を、なんだかんだ二年ぐらい続けることになるのだろう。それもまた生活だ。

2022/04/17

今日も今日とてホットサンドを焼いている。私の朝食はすっかり、かの器具におんぶに抱っこだ。

2022/04/16

27歳になった。15歳の頃には、早々にロックスターになって、27歳にはジミヘンやカート・コバーンのように早死にするものだと信じて疑わなかった。残念ながらロックスターにはなれなかったが、幸運にもまだ生きている。

土曜の世田谷公園は人ん家の犬をたくさん見れるのでお得だ。とんかつも食べたし、激ウマチーズケーキも食べたので、休日の過ごし方としては言うことなしだろう。

恋人がおしゃれなテーブルランプをくれた。こまごまとしたものを片したらデスク周りがかなりすっきりした。27歳も張り切って読み書きしようと思う。

2022/04/15

Aesthetics: The Key Thinkersでウォルハイムのことを勉強した。精神分析にも明るいとは聞いていたが、人間の心にかなり関心を寄せていた哲学者らしく、理解が深まった。創作も鑑賞もある種の心の働きであり、画像表象も芸術表出も、①鑑賞者による心的関与+②芸術家による意図(画像表象だったら、seeing-inと正しさの基準)というふたつの契機から説明している。図式としてはダントーの芸術観に近いような印象も受けた。ダントーはこれから読む。ビアズリーはもう読んだ。ビアズリーについてはほぼ知っていることしか書いてなかったので、かなりイタコに近づいてきていると思う。

2022/04/14

非常勤の講義、初回のイントロダクションをしてきた。予定では1時間で一通り喋るつもりだったが、当日のタイムキープがガバで、後半のディテールを切りつつなんとか90分で喋りきった。基本的には、資料を上から下へと読んでいけばいいものだが、Zoomの虚無に向けて喋っているとなかなか相手の理解度が掴めず、不必要に説明を足してしまいがちだ。論文に注をつけまくってしまうのは読者への不信だというのをいつぞや書いたが、それと似ている。とはいえ、コメントシートを読んだ感じの手応えはまずまずといったところ。あとは場数だろう。

それにしても、こう授業後に質問やコメントが寄せられることには特別な充実感がある。mixiをやっていた頃(mixiをやっていた頃!?)はバトンというリレー式の自己紹介文化があったし、Twitterには質問箱文化がある。恥知らずにも前者に参入していたのは質問への回答が充実感を与えたからであり、後者に参入しないのはその充実感が自己承認欲求と結びついているのを自覚し恥じるようになったからだ。ちなみに、自己承認欲求を恥じるようになったら、いよいよ自意識過剰というやつだ。まぁ、そんなバックグラウンドとはなんの関係もなく、寄せられた意見のいくつかはシンプルにおもしろくてためになる。

ところで、「ティツィアーノとルーベンスの《アダムとイヴ》、どちらが好きですか」という投票は、きれいに半々に割れた。これはちょっと予想外だった。

2022/04/13

散髪してきた。もうかれこれ3年は「いつも通り」で注文している。なんらか新しい髪型を試す機運がないわけではない。学生で誰からも文句を言われないうちに、坊主をやってみたさはある。

2022/04/12

なんとなく『BLEACH』を読んでいたが、記憶していた以上に「難しいことはわかんねぇけどよぉ」な精神のマンガだった。ジャンプのバトル漫画の主人公は悟空にせよ花道にせよルフィにせよナルトにせよ、いわゆる「バカ」なのだが、ここぞというときに物事の本質を把握してすぐに行動できる、そんな人物ばかりだ。黒崎一護はもう少し精神年齢の高い人物なのだが、それでもごちゃごちゃ考えるのが苦手なタイプで、考えなしに突っ込んでは大怪我してばかりだ。無責任な一般化として、平成とはそういう人格が尊ばれる時代だったような気もする。頭だけいいやつもうGood nightというわけだ。

最近の竈門炭治郎とか緑谷出久はもっと理性的に行動できる人物として描かれている(虎杖悠仁はバカだが)。別に子供は好きなのを読めばいいのだが、模範となる人物像がこのように相対化されたのは、教育的にはよいことだと思っている。「竈門炭治郎が長男の生きづらさを再生産している」なんて言う人々は、ろくにマンガを読んでいないのか、よほど暇なのか、その両方なのだろう。

2022/04/11

アルヴァ・ノエのStrange Toolsについて、ノエル・キャロルが書いた書評を読んだ。キャロルの紹介だけ読むとノエの立場は、われわれの組織化された日常を異化し、意識に上らせ、反省させ、再組織化を促す点に芸術の本質的目的があるとするものらしい。発想源はもちろんハイデガーの壊れたハンマーだ。道具は生活へと有機的に組み込まれており、普段は自覚なしに使われるが、壊れたときのみそのメカニズムに注意を向けられる。芸術ははじめから壊れた日用品「奇妙な道具」として提示され、生活を異化するというのが基本的な図式らしい。もちろん、そんなアヴァンギャルド偏重の一般論がうまくいくはずもなく、キャロルもその点を問題視しているのだが、個人的に気になったのは、ノエの立場がほとんどそのままグレアム・ハーマンのそれである点だ。オブジェクト指向存在論における「魅惑」や「代替因果」あたりの発想源もハイデガーのハンマーやシクロフスキーの異化だったはずだ。どうもこう、芸術や美的なものを左翼革命的な図式で理解したい人はどこにでもいるらしい。

キャロルの立場は、芸術の非前衛的機能、たとえば宗教的な機能や政治的な機能をフェアに認めるもので、端的にいってほとんどの芸術は「奇妙な道具」などではなくふつうの日用品だと認める立場だ。批評におけるキャロルのヒューリスティックを見ても、そこには芸術作品とその他の人工物を区別せず評価する態度が見て取れるし、総じてノエル・キャロルは芸術に芸術ならではの本質やアプローチを認めたくない立場なのだろう。進化心理学的に見て、芸術とその他の実践で目的や手段がカブっているのは冗長性の担保であって、はっきり区別できると考えるほうがおかいという説明は、それなりに頷けるところだ。

2022/04/10

「○○に関する議論は、あらかじめある客観的な真実をめぐるものではなく、構築的な真実をめぐる交渉なのだ」という話の落とし方は、多くの場合○○という事象に関して正確なものだろう。しかし、そこから導かれがちな帰結「○○に関する議論は不毛である」を回避するために出される論証、すなわち交渉という活動の意義づけについては、あまり賛同できないことが多い。何度か書いた話だが、そうしてディベートすることに積極的な意義を見いだせるのは、健康的にディベートできるコミュニティに限られる。XがFであるかどうかは話し合い次第なので、ちゃんと理由を添えて主張せよ、という規範がいつでもどこでも成り立つと考えるほうが間違いだろう。理由付けられた主張をしたりされたりすることは、すでにひとつのスキルなのだ。そのようなスキルを養い養わせることは一種の啓蒙主義にほかならないわけだが、教育が○○に関する個々人の経験を豊かにしない限り、学ぶ意義は見いだされづらいだろう。

結局、声が大きく口先の回る人物の意見が構築的真実になる、という帰結も不都合だ(それもまた真実である見込みが高いのだが)。「エビデンスに基づいて議論しよう」という規範は、それはそれで気味の悪さを伴いがちだが、ともかく、その背景には「どうせ客観的な真実はないので交渉しましょう」というより一層気味の悪い規範への反動があるように思う。

2022/04/09

国立新の「メトロポリタン美術館展」に行ってきた。目当てのカラヴァッジョも良かったし、サムネイルのラ・トゥールも良かった。出展数はやや少なく感じたが、中世における宗教との結びつきから、絶対王政のバロック・ロココを経て、セザンヌやモネらの前衛に至る流れを作っている。土曜日で人も多かった。なんだか異常に早く一日が過ぎてしまい危機感を覚えたが、異常に楽しい一日だったというだけかもしれない。

2022/04/08

読み直していて、ウィムザット&ビアズリーによる「意図の誤謬」は実際のところ、表出説の誤謬なんじゃないか、という気づきを得た。意図主義というのは、作者がなんらかの命題的な心的状態を持ち、それを作品によってコミュニケートし、その事実が作品の意味論的内容を定める(正しい解釈によって引き出される意味とは、作者の意図した意味である)、というものとしてざっくり理解できる。一方、「意図の誤謬」で叩かれているロマン主義的な芸術観・批評観は、感情や精神性の現れとして作品を捉える立場のように読める。おそらくは、言語哲学やフィクション論に十分な積み立てがなく、作者による表出と意図伝達が同一視されていたのだろう。しかし、両者は区別すべき問題だろう。たぶん、「意図の誤謬」が言っていることを現代哲学の用語で要約するなら、作者の持った心的状態は、作品の表出的性質にとって必要でも十分でもない、ということだろう。厳粛態度で記されたからといって、小説が厳粛なものになるとは限らない。このことは、「意図の誤謬」のほとんどが(解釈と意味の話ではなく)評価と価値の話になっている点も説明してくれるかもしれない。意味論的内容は価値とはただちには結びつかないが、表出的性質はしばしば価値含みだからだ。

表象内容の帰属、具体的には「『インセプション』の最後でコマは停止したのか」は意図によって定まるのか、といった事柄は、どうも「意図の誤謬」の射程外のように読める。いずれにしてもこの読みに自信はない。そして、自信を深めるために精読するには、「意図の誤謬」は感じの悪いテキストだ。いちいち格好つけているのウィムザットのせいなのかビアズリーのせいなのかは分からない

2022/04/07

いつも17:00ごろに家を出てバイトへ向かうので、外の明るさで季節の移り変わりを実感している。昨日はほのかに西日が差していた。冬は辛気臭くてきらいなので、はやく夏になってほしい。

2022/04/06

Notionのプラグインがあったので、ポモドーロテクニックを導入して作業しているが、けっこうよい。25分集中して5分休むというペース配分も割と気に入っているし、その25分でやることを明確にして、それだけをやるという気持ちの引き締めが、飽き性にはいい薬だ。25分ごとに立ち上がって体を伸ばすのは、死を遠ざけている実感が具体的にあってうれしい。

2022/04/05

Evan Malone「ふたつのグルーヴ概念:音楽的ニュアンス、リズム、ジャンル」を読んだ。JAACでforthcomingになっている音楽の哲学論文だ。グルーヴに関する議論は、2014年に出たTiger C. RoholtのGroove: A Phenomenology of Rhythmic Nuance以降、じわじわ注目されている模様。グルーヴとは言うまでもなく、「Cold Sweat」や「Hang Up Your Hang Ups」に含まれるアレのことだ。

Maloneがふたつのグルーヴ概念と呼ぶのは、①Roholtらが扱っている、マイクロタイミングなどの音楽的ニュアンスを取り入れていることを指すgroove-as-feelと、②リスナーを踊りたくさせるような喚起能力を指すgroove-as-movementの区別だ(命名は正直イマイチだと思う)。前者は、個々のノートがオンタイムの演奏よりもわずかに(知覚はできるが言語化ができない程度に)早いか遅いかで、プッシュとかレイドバックと呼ばれる演奏法のこと。後者は、単にダンサブルであることでもあり、BPM100〜120のテンポ、パーカッシヴさ、シンコペーション、低音域の明瞭性など、さまざまな要因によって実現される。理論家や哲学者がしばしば取り上げるのは前者だが、心理学者が実験などで問題にするの後者らしい。心理学的実験では、①プッシュやレイドバックの採用が、必ずしも②踊りたくなるような感覚を与えないどころか、場合によっては低減することが報告されているらしく、これを根拠に①はグルーヴ理論として間違っているとも思われがちだが、そもそも異なるグルーヴ概念を扱っているのだ、というのがMaloneの主張になる。真理条件で言えば次のようになる。

  • ある楽曲/演奏/録音Xは、groove-as-feelを持つ ⇔ 特定の音楽的ニュアンス(マイクロタイミングにおいて早い/遅い)を持つ。

  • ある楽曲/演奏/録音Xは、groove-as-movementを持つ ⇔ そのリスナーに、踊りたくなるような感覚を喚起する(すなわち、ダンサブルである)

説得的な話だ。「グルーヴを持つ」「グルーヴィーだ」という帰属はこの意味で多義的であり、①特定の内的な形式的性質の指摘にも使われるし、②リスナーに与える特定の効果の指摘にも使われ、一方は必ずしも他方を含意しない、というわけだ。前者はさしあたり非美的性質だが、後者は美的性質ということにもなるだろうか。また、この区別や、語られ方の違いの由来を、ジャンルの違いに対応付けているのも面白い。楽曲や録音よりも、演奏を重視した実践であるジャズではしばしば①groove-as-feelが問題となる一方で、楽曲や録音も重要であるポピュラー音楽(この中にはポップスやファンクが含まれる)では②groove-as-movementが問題となりやすい。ある楽曲/演奏/録音に「グルーヴを持つ」「グルーヴィーだ」を帰属できるかどうかは、その音楽やミュージシャンやリスナーが属するジャンルに左右される。

ジャンルごとに期待される閾値が異なる(「パンクとしてはグルーヴィーだが、ファンクとしてはそうでもないね」)という話ではなく、ジャンルごとに適用される概念の中身が変わっているという話だ。Maloneは"なので"一般的に美的概念を考える上では(RiggleとかNguyenとかKubalaの)コミュニタリアンな理論を持っておいたほうがいいかも、という話に持っていこうとする。このムーヴは最後にちょっとだけ出てくるのだが、議論の流れ的に妥当でも必要でもないだろう。Riggleらのやっていることに関してはまだ全貌が見えているわけではないが、ここでMaloneがしている話とは主題においても道具においてもまったく別物の領域なんじゃないだろうか。あるいは、「美的なものは、ジャンルとか実践集団単位で考えるのが重要だよね」ぐらいの話でしかないのだろうか。ちゃんと読んでいないので分からない。

それよりも、Roholtはマイクロタイミングで性質としてのグルーヴを説明しつつ、その「知覚」に関しては、メルロ=ポンティを引きつつ身体動作との相互作用を必要条件としているらしく、そちらにも興味を持った。メルロ=ポンティは博論でも使おうと思っているアイデア源のひとつだ。

2022/04/04

星のカービィは、小さい・丸い・柔らかい・淡いなどの非美的性質によって「かわいい」という美的性質が適切に差し向けられる対象なのだが、その正反対、でかい・四角い・硬い・濃いものといえば、モノリスである。デデデ大王は、丸っこいしカラフルで柔らかそうなので、カービィとは好対照になっていない。もっとシリアスなラスボスは、黒っぽくて・非物質的で・スケールがでかい。煎じ詰めればその形態は物言わぬモノリスになるだろうし、カービィvsモノリスという対立は、赤ん坊と宇宙の対立にそのまま落とし込んで理解できる。かなり硬派な主題を持ったSFなのだ、星のカービィというのは。

カービィシリーズのゲームはたくさんやってきたが、あの赤ん坊のメタファーを操作し、宇宙のメタファーに打ち勝つ経験は、私の人間形成にとって少なからぬ影響を与えたと思う。小さい・丸い・柔らかい・淡いものが、でかい・四角い・硬い・濃いものを打ち勝つというのは筋が通っておらず、ほとんど夢物語だ。しかし、子供に必要なのは、「あなたは宇宙の崇高さに比べたらなんてことない塵なのだ」という正真正銘の真実よりも、耳あたりのよい夢物語であることは言うまでもない。カービィとは人間の肯定である。

2022/04/03

Frank Hindriksの「制度理論を統一する:ペティットのバーチャル・コントロール理論への批判」という論文を読んだ。話題的にはちょっと当てを外したが、哲学美学にも関わるメタ理論の話で面白かった。

話題は、競合するふたつの理論を統一[unify]するやり方に関するもので、調停[reconciliation]と統合[integration]が区別される。ヒンドリクスは統合推しだ。ざっくり言えば、理論Aが「事象Xは要因Aで説明できる」と述べ、理論Bが「いやいや、事象Xは要因Bで説明できる」と述べているときに、「事象Xのうち、X1は要因Aで説明され、X2は要因Bで説明される」みたいに被説明範囲を住み分けさせるのが調停による統一だ。ペティットの「バーチャル・コントロール理論」によれば、①人間はリスクの低いデフォルト状態では特に反省せずルールに従い、②リスクが高くなると自己利益を意識して行動する(仮想的な背景と化していた自己利益の原理が前景化する)。前者は制度の持続性を説明し、後者は制度の回復性を説明していることになる。ここでは、ルール遵守の原理と、ルールを破ってでも自己利益を追求する原理(これは均衡をもたらす)が、区別された状況の区別された事象(持続性と回復性)に即して別々に使われている。もともと競合しているとされた理論(ルール説と均衡説)は、別々の被説明項を持つ点で、もはやライバルではなくなる。

これに対し、ヒンドリクスの「ルールかつ均衡理論」は、ルール理論と均衡理論を統合する試みだ。曰く、制度とはルール(規範)によって支配された社会実践(=社会的規則性=繰り返し均衡)である。ヒンドリクスはグァラと仕事をしていた人で、二人のアイデアはかなり似ている(ヒンドリクスは相関均衡は使っていなかったが)。社会規範による社会実践の支配[govern]については、ルールによる動機づけを要件としており、行動選択においてルールと自己利益は同時に関与することになる。実際、本論文を読んだだけではヒンドリクスの理論は(とくにグァラとの差分)はあまりわからないのだが、ともかく、「ルールかつ均衡理論」は統合による統一を通して、制度の持続性も回復性も、おまけに脆弱性も説明できる。統合とは、「事象Xは、要因Aと要因Bの再構成によって説明される」ような統一を指す。

結論としては、事象をしっかり区別すべきだったり、異なる道具立てがどうしても必要でない限り、調停による「分割統治」よりも、統合による「解体・再構築」のほうが望ましい、ということになる。私のメタ理論的直観にも沿った結論だった。特定の個別者の描写は意図主義だが、性質・種の描写は非意図主義でやる、という私が持っていた描写の理論も再考の余地がありそうだ(最近はあまり描写のことを考えられていない)。

2022/04/02

金沢21世紀美術館の「フェミニズムズ」展に関してとやかく言ったら上野千鶴子に怒られた人のツイートが流れてきた。もろもろ目を通したが、いわゆる「評価に関しては合意しているのに、その過程において批評的対立がある」ケースだ。

上野論考の論点はいくつかあるが、①マジョリティ(男)としての安全圏からフェミニズム関連の諸々がこわい/こわくないみたいな価値判断をするな、という論点はともかく、②脱ジェンダー化への価値づけはクリシェだからやめろ、という論点はそれなりに学びがあった。「…男性には決して向けられない、「ジェンダーを超えた」という評価が、女性のアーティストに対する褒め言葉になってきた」というのはそれなりに実情に即している手触りがあるし、自分も気を抜くとそういったクリシェで作品を価値づけてしまうことは白状しなければならない。具体的には、『ジャンヌ・ディエルマン』に★5.0を付けつつ、「フェミニズム映画として意図された目的を十二分に達成していることは言うまでもなく、その枠にとらわれない大傑作だ」と述べている私もまた、上野論考の矛先にあるのだろう。

脱構築っぽいことを書いておけば締まりがいいだろうということで、批評的に楽を取っている点には反省があり、批評として新鮮味がないと言われれば私は両手を挙げて降参するだろう。それはそうと、であるとして、ヘテロ男性の立場から『ジャンヌ・ディエルマン』を褒めるにはほかにどんな言葉がありえたのかと、開き直りたくなる気持ちもないではない。いずれにしても、そのフェミニズム映画は私に特定の経験を与えたわけだが、それを言葉にする主体がヘテロ男性であった途端に、批評が挫折するとしたらあんまりだろう。にも関わらず、上野論考の語り口には、まさにそう考えている感が見え隠れする。端的に言って、男は黙れ、というわけだ。(精神分析は趣味が悪いが、上野論考も半分ぐらいが人様への精神分析なのでイーブンだろう。)

任意の社会運動に関して言えることだが、特定の集団の経験を改善するという目標を忘れて、〈刺し違えてでも自尊心を守る〉フェイズに入ってくるともう救いがない。粛々とスモールワールドのことを優先し、欲望と理性の均衡において行動を選択し、好きなものを好きと述べ、意識できる範囲で道徳的に振る舞いつつも無意識に人を傷つけ、取り繕い、一日一日を過ごす。それ以上にpolitically correctな批評も生活も、私には思いつかない。

今日はちょっと歩いたところにできた評判のラーメン屋に行ってきた。抜群に美味しかった。

2022/04/01

新入社員の憂鬱がこちらまで伝播してきそうなタイムラインだが、いつもながら、怒鳴ってくる目上の人間というのが一人でも減れば、世界はひとつベターになりそうなものだ。人間はどんなミスをしたって、他人によって大声で恫喝されなければならない、なんてことはない。怒鳴る怒鳴られるは実存に関わる問題だ。我が子に対してもそんなことするべきではないし、法のもとに平等である赤の他人に対してそんなことができる人間はどこかひどく損なわれている。二十歳を超えて、不満に対して大声を出すことでしか対処できないなんてみじめ過ぎるだろう。無視するとか、見放すとか、あるいは粛々と経済的制裁を加えるといったハラスメントは、私が思うに、怒鳴るというハラスメントに比べると遥かに軽い問題だ(是正すべき問題に変わりはないが)。怒鳴らず、怒鳴られずということで生きていけるなら、私はそれでいい。

2022/03/31

年度終わりなので、幾人かの教え子たちとお別れをしてきた。かつての私と私が教わった塾講師のように、もはや互いに二度と会うこともなく、やがて顔も名前も定かではなくなっていくのだろう。忘れられた思い出はミオによってミルラのしずくへと変換され、ミルラのしずくがクリスタルを清めることで、世界は循環していく。

2022/03/30

カフェノマドで、AbellのFictionを読んでいた。この本は前に書評を書いたのだが、後ろのほうを読み込めていないので、4月上旬までにそちらを片付けられればいいなと思っている。今日は前のほうしか読めていないが、Abellの議論にはやや変な前提があるのが気になった。

Abellの関心はフィクションの認識論であり、鑑賞者がいかにして正しい虚構的内容にアクセスするかである。詳しくは書評を読んでくれれば結構なのだが、Abellを理論的に動機付けているのは、フィクション解釈の場合、現実のコミュニケーションみたいに発話者の意図へとアクセスする諸々の解釈戦略(会話の含み、合理性の前提など)が使えないことだ。ここで、Abellは現実の話者とフィクションの作者の間に、シャープな線引きをしている。それで、後者を相手取った解釈のガイドとして、フィクションの制度が持ち出されることになる。

その過程で、これはダメだとして退けられているのが、Waltonらが出している、「作品は、作者が属する共同体において、作者の虚構的発話内容と、矛盾しない範囲だと信じられている範囲の虚構的内容を持つ」という原則だ。あるキャラクターAがBと結婚している場合、明示されていなくても、作者の属するコミュニティーのメンバーにとってAみたいな人はふつうBとの結婚を後悔すると信じられているならば、「AはBとの結婚を後悔している」という内容を作品に帰属して構わない、ということになる。Abellが問題視するのは次の点だ。この原則を取った場合、作品の正しい虚構的内容は膨大に膨れ上がることになる。例えば、明示されていなくても、「Aにはへそがある」みたいな虚構的内容もまた真だろう。しかし、作品解釈において、「Aにはへそがある」みたいなどうでもいい内容を見落としたからといって、解釈が失敗したとは言われない。ゆえに、解釈のための原則は、実際の解釈が取り出すような内容の範囲内に即して、もっと限定的でなければならない。(4-5)

論証としては、おそらく次のようになるだろう。Waltonらの原則を「矛盾しない範囲」説と呼ぶ。

  1. 「矛盾しない範囲」説だと、虚構的内容は異常にリッチになる。

  2. 適切な・正しい解釈は、虚構的内容をきっちり取り出すべきである。

  3. 虚構的内容が異常にリッチだと、虚構的内容をきっちり取り出すのがほぼ無理。

  4. 2∧3より、虚構的内容が異常にリッチだと、適切な・正しい解釈がほぼ無理。

  5. 1∧4より、「矛盾しない範囲」説だと、適切な・正しい解釈がほぼ無理。

  6. 適切な・正しい解釈をほぼ無理にするような、虚構的内容の理論は間違っている。

  7. 5∧6より、「矛盾しない範囲」説は間違っている。

引っかかるのは前提2だ。Abellの言うとおり、「Aにはへそがある」みたいなどうでもいい内容を見落としたからといって、解釈が失敗したとは言われない。しかしそれを、「矛盾しない範囲」説では広すぎることを示す反例として読むのはいささか奇妙だろう。「Aにはへそがある」は依然として正しい内容であり、理論的に十全な解釈を行う上では見落としてはならない内容なのだが、実践的になされている解釈は断片的に正しい内容を取り出していれば十分に適切・正しいと言える(十全な解釈をする必要がない)、というのが実情ではないか。「矛盾しない範囲」説がどこまで有望かはわからないが、Abellはこの立場を十分に退けられていないのではないか、というのが最序盤へのツッコミだ。

2022/03/29

薬を飲むのが苦手で、n錠あるとn回飲む動作を反復しなければならない。薬を飲んでいるという事実が喉が緊張させ、通りがわるくなるのだ。おいしいうどんなんかは、一口2噛みぐらいで丸呑みしている。

2022/03/28

紙のノートをほんとうに使わなくなったのだが、紙になにかを書くこと自体は好きなので、(また、使うあてもなく買った良さげなノートをいくつか積んでいるので、)どうにか生産性の一部に組み込めないかと考えていた。紙でしかできないことを考えたが、とっさに図を書くことぐらいしか思いつかないし、それだったらメモパッドでよいのだ。そもそも、大学受験が終わって以後、ちゃんとコンセプトを守って一冊のノートを使い切った試しがないかもしれない。たいてい雑記帳になるか、使い切らないうちに押入れ行きだ。

この前、実家に帰ったとき、高校時代に使っていたモレスキンを発掘したが、それも雑記帳と化していたし、2/3ぐらいしか使っていなかった。Evernoteとコラボしたやつで、付属のステッカーを貼ったページを専用のアプリで読み込むと、タグ付きでデジタル化できるという触れ込みのモレスキンだった。結局、ステッカーはもったいなくてほとんど使ってなかったし、Evernoteはすっかり時代遅れになってしまった。内容としては、ライフログ、受験勉強のToDo、お絵かき、写真のクリップなど、わりに充実しており、楽しかった受験生活を思い出す

2022/03/27

ビールを切らしていると買いに行くのも億劫なので、しばらくの間禁酒できる。飲むとQOLが格段に上がるが、飲まなくても平均以上のQOLで暮らしている自覚がある。嗜好品が嗜好品と呼ばれる所以だ。

2022/03/26

天気がわるく、元気の出ない一日だった。

Darren Hudson Hickによる美学の教科書をちょっとだけ読んだ。解釈と意図の章だ。解釈において意図はどれだけ関わるのか/関わるべきかというトピックはもうほとんどデッドロックだと思っている。というのも、カバーすべき事例をカバーできているかで理論が評価される以前に、カバーすべき事例についてのコンセンサスなさすぎるのだ。Hickの挙げる例だと、トム・ウェイツは「Last Leaf」を「ただの葉っぱについての曲」だと語っているが、同曲はどう考えても死のメタファーであり、死のメタファーとして説明できないなら意図主義には問題がある、という流れになっている。問題はこの「どう考えても」の正当化だろう。それはもう、どの理論が事象をうまく捉えられるかの対立ではなく、肝心の事象とはどれなのかの混乱でしかない。Hickも章の最後にGautのパッチワーク理論を置いているように、ケースバイケースというのが恒例のオチになるだろう。ケースバイケースであることを認める慎重さは重要だが、「ケースバイケースである」という結論自体は正しいとしてもほとんど面白みがない。それは、問題設定のサイズが不適切であったことの告白ですらある。

2022/03/25

お寿司を食べた。はまち、えんがわ、マグロ赤身、あぶりえんがわ(塩レモン)。海苔すまし汁を二杯飲んだ。今日は直前にカフェでフライドポテトとトリカラを食べていたので、少数精鋭だ。

2022/03/24

親子丼はわりに好きな丼だが、特別美味しい親子丼というのは食べたことがない気がする。いつでもどこでも75点ぐらいの食べ物だ。感動するレベルの親子丼を一度は食べてみたい。

2022/03/23

Peter Shiu-Hwa Tsu「Of Primary Features in Aesthetics: A Critical Assessment of Generalism and a Limited Defence of Particularism」というずいぶん長いタイトルの論文を読んだ。批評的基準に関する三人の一般主義者(ビアズリー、シブリー、ディッキー)がそれぞれ失敗していることを示し、個別主義をちょっとだけ擁護する論文だ。各立場に対する反論は論争史的に既出のものが多く、目新しいツッコミはなかったものの、当のトピックについてさっくり読める良いサーベイになっている。

思うに、ビアズリーの一次的基準(unity、complexity、intensity)がうまくいかなかった理由のひとつは、欲張って三つも挙げたからだ。たしかに、どれもよい芸術作品の持つ性質としてしばしば言及されるものだが、あればあるだけ作品がベターになるというには、組み合わせたときの反例があまりにも多い。

例えばだが、つねに一次的基準となるのはもうとにかく統一性だけだ、という一元論ではどうだろうか。私には複雑性や強度がなんぼあってもいい性質というのがいまいちピンとこないが、統一性(首尾一貫性+完全性)というのであればまだ分かる。この場合も、「脱構築な作品にとって統一性は欠点である」という反例が残るが、そうして挙げられる反例が脱構築な作品という極端なケースぐらいでしかなければ、反例に対する直観を修正する道もいくらかは生きるだろう。すなわち、カオスな作品は、別の偶然的な長所において全体としてはよいのだとしても、カオスだけとればより悪い作品なのだとか、カオスなように見えて、実はそこには高次の統一性があるのだとか、言えそうなものなのだ。後者としては、例えば「カオスを生み出す」という中心的な目的に沿って、適切なパーツが適切に配置されている様を、目的に対する手段のunityとして語れなくもないような気がしないでもないかもしれない。

おそらくは、一面を単色で塗っただけの絵画のように、unityはあっても傑作とは言い難い作品のほうが、反例としては深刻なのだろう。これを回避する道はとくに思いつかないが、その価値のなさを論じるためにcomplexityの欠如を言い出すと、一元論は破綻することになる。実のところ、unityがないのだ、というのは結構無理があってしんどいと思う。

いずれにせよ、その一元論をとるためには気合を入れてunity概念を定義しなければならないが、あらゆるケースをカバーするためには内包的にかなりゆるいもので満足しなければならず、最終的には「統一性がある」と「(端的な)良い」がほとんど区別がなくなってしまうのではないか、という懸念もある。上述の論文にも、一次的基準の一元論が可能性として一瞬だけ触れられるのだが、歴史的に見てもこういった立場をとった論者はいないのかもしれない。

2022/03/22

ポモの悪口はそれなりに言ってきたほうだが、実のところ私はポストモダニズムとして総称される思想的文化的動向がそれなりに好きだし、そこに含まれるアイデアや視点には価値あるものが多いとさえ考えている。ボードリヤールを読んでいなければ、私が哲学をやることはなかっただろう。結局のところ私が憎悪しているポモは、ポストモダニズムの思想群というより、そこに傾向的に含まれる蒙昧主義なのだと言うのが正確だろう。蒙昧主義は必ずしも、ポストモダニズムの書き手に限った問題ではない。ろくにものを考えず、それっぽい雰囲気作りのために修辞を凝らすというのは、芸術作品のステートメントから政治家の発言まで、ろくにものを考えていない人々からなる現実世界においてありふれている。問題は、無知に対してどれだけ謙虚になれるか、言えることを言える範囲でどれだけ明瞭に言えるかであり、カオスを正当化することではない。

2022/03/21

実家で水餃子を食べた。実家で出る点心は、私が地上で最も上手いと思っている食物のひとつだ。夕飯にはすき焼きも食べた。どちらも、一人暮らしではまず食べることのない料理だ。

2022/03/20

意見対立や論争の意義に対して英語圏の論者がやたらと楽観的なのは、健康的でリスペクトフルな議論をしょっちゅうしているからにほかならないのだろう。「必ずしも意見の収束を目指したものではなく、互いの意見を交換することで、他者理解や世界理解が深まる」云々の見方は、最近かなり目にする気がする。しかし、そういった見解においては、自分とは異なる意見を提示されたときの被侵害感、自分の意見を(字面上だけにせよ)否定されたときの不快感を、まったくもって無視しているか、そういった感情を脇に置いてこそ理知的な現代人だと言わんばかりの趣がある。

日本人はそういう態度をとれないとか、大学を出ていない者はそういう態度をとれない、みたいな話に落とす気はないが、そういう態度をとれない人がいるのは事実だし、それもめちゃくちゃたくさんいるのだろう。それは必ずしも悪しきことではなく、「言い争っても友達」みたいなクールネスこそ、ヒトにとっては無理のあるものではないかと思うときすらある。もちろん、これらの反対にある「気を遣って意見を言わない」「意見対立はなあなあで済ます」は別の地獄に繋がっているので、どうしようもない。結局のところ、議論したければそこが否定共同体かどうかを適切に見定め、それ以外の場所での意見対立についてはもうちょっと感情に気を配る、といういつものオチになりそうだ。

2022/03/19

ドレイファスによる行為論を学んだ。私の一昼漬けの理解ではそれは、行為の一部は世界との関係においてアジャストされた身体が目下の状況に対して反応することでなされる、という説明だ。そのような反応は、命題的・概念的な計画や意図によらず、知覚対処[coping]の積み重ねによるフィードバックループに基づいている修士の頃に信原幸弘先生の講義で人工知能の哲学を学んだときにも同じようなアイデアがいくつかあった(ギブソンのアフォーダンス、私がレジュメを担当したティム・ヴァン・ゲルダーの力学系理論)が、いずれも源泉はハイデガーとメルロ・ポンティらしい。計算主義・表象主義的な知能観や行動観の乗り越えとして、世界内存在や肉といったアイテムが重宝されているのだろう。

芸術哲学に関しても、創作と美的経験はこの種の説明によっていくらか見通しが良くなるかもしれない。芸術家ははっきりと述べられる計画において創作することはまれであり、トライアルアンドエラーの積み重ねや、熟練によって自動化された運動、産物と自己が調和する感覚の役割が大きいのだろう。このことは、意図主義が念頭に置くような作者の意図についても見直しを求めるだろう(この辺は最近お話した感じだと村山さんの関心に近いようだ)。他方で、作品を見たときの美的経験にも、同じようなプロセスが言えそうだ。私は作品のうちになにかを求め、見逃し、探し続け、見つけ、ハーモニーを経験する。あるいは、作品と自己が調和する感覚こそが美的経験なのだとしたら、創作こそ部分的には美的経験なのだという、それなりに穏当で見栄えのいい主張も出てきそうなものだ。

2022/03/18

見逃していたが、存じ上げない方から一年前の倍速記事へのコメントをいただいていた。

彼/彼女の論は、私がざっと読んだところでは、「場合によっては倍速鑑賞は構わない」という結論を私と共有しつつ、私が倍速否定派に対して譲歩している前提「倍速鑑賞のわるさのうち少なくともひとつは、作者の意図した仕方(等速)ではない鑑賞をしている点に起因しうる」に反対し、私の退けた見解「意図とか真正性とか失礼とかどうでもいいだろ!」が正当であるような場面もあると主張するものになっている。基本的には、私の意図主義に対する譲歩を、意図主義に対する擁護として読んでいるようなきらいがある。

「これらの議論は、論者の立場上、作品の意義(芸術的価値)を不当に取りこぼす・損なうといった事態について大きな関心が払われており、だからこそ「真正でないかつまたは失礼である」という批判にまともに付きあうかたちで、こうした批判を回避するための道筋を探るものだった。

だが、ぶっちゃけた話、作者が前もって「意図」したような「真正な」鑑賞体験であるということは、そこから生まれる批評が正当なものであることをサポートしない。」

上に引用した段落で、彼/彼女はすでに私の記事の意図(!)を十分に汲んでいるはずなのだが、以下段落ではどうも意図主義への批判を私に差し向けているようで、そうだとしたら的外れというものだ。というのも、「倍速鑑賞は作者の意図を無視していてダメだ」という主張は、私において「たとえ〜だとしても[even if]」のスコープに入る仮定でしかなく、そうせずに倍速鑑賞を肯定できることは、私にとっておおいに結構だからだ。私が立てた論証は、「たとえ意図主義的に見なければならないのだとしても、倍速鑑賞が構わないようなケースがある」というものであり、「意図主義的に見なければならない!」なんて主張していないのだ(チャートに書いた文言がややミスリードだったことは認めなければならない)。「作者の意図を重視しない解釈実践があり、当の実践と相対的に言えば倍速鑑賞もただちにはわるいとは言えない」という趣旨の主張は私も完全に同意することであり、総じて彼/彼女の見解と私の見解にはなんら実質的な対立点がないのだ。

学びとしては、「たとえAだとしてもBだ」を「筆者はAだと言っている」で読んでしまうのはネット論壇にありがちな誤読なので、気をつけていきましょう、といったところだ。受験現代文の誤答でもよくある。

2022/03/17

2021/10/12ぶりに雨のなか自転車を漕いで退勤した。瀬戸内海はさんさんと日が照っていたのに、東京はねちねち雨が降っていてむかつく。

2022/03/16

最終日。連日の遅寝早起きのツケを払いつつ、朝風呂をいただき、チェックアウトして朝うどんを食べに行く。セルフのお店で、自分でうどんを湯がくスタイルだった。美味しかったので、お土産の半生うどんもここで買っていく。

高松港からフェリーで男木島へ渡る。目当ては猫だ。港では茶色い子に目をつけられ、熱烈な歓迎を受ける。私は犬派なのだが、あの甘え方をされては党派も揺らぐというものだ。

山に登ったところにある休憩所で、親切なおじさんの作ったタコ飯をいただく。港が一望できるテラスで、たいへん心地よい。さっき会ったのはミミちゃんという、島内外で大人気のスーパーアイドルだということを教えてもらう。島の猫たちはどの子も名前がついているらしく、おじさんの知識がすごかった。気配をかもしながら歩いていると猫の方から出てきてくれるらしいので、言われたとおりにしながら島を練り歩く。はじめの方はなかなか見つからなかったが、水辺の日陰にはくつろいでいる子がたくさんおり、存分にモフることができた。フェリーの時間ギリギリまでモフっていたので、またしても港まで走る。

高松港へ戻り、ベトナム料理店でバインミーを食べる。会計が間違っていることに後で気づいてバタバタしたが、なんとか解決した。空港へ向かう前に、うどん締めを執り行う。高松のうどんは最後まで最高に美味しかった。うどんという食べ物には、基本的に飽きが無縁だということを実感する。

成田までジェットスターで飛び、バスで帰る。終電近くだったので結構バタバタした移動になり、水分補給のチャンスがなかったので、二人してカピカピになった。溜池山王でやたらと車両が揺れていたので、なんてヤクザな駅なんだろうと思っていたら、バカでかい地震だったらしく、一時的に運休になってしまった。地下鉄は地震に強い構造になっている、というアナウンスが頼もしかった。

どうにか帰宅に成功し、シャワーを浴びて寝る。停電しておらず、ものも落ちていなかった。

2022/03/15

三日目。南珈琲店でお得なモーニングセットをいただいた後、岡山へ向かう。大きな町だ。

後楽園は時期がいまいちで大きな見どころはなかったが、ほどよい散歩スポットだった。タンチョウ、でかい。

倉敷へ移動。昼食はとんかつかっぱが目当てだったが、すごく並んでいたので断念し、みそかつを食べる。みそかつは美味しかったが、追加で頼んだ1200円のエビフライが2本で、「2本!?!?」となった。が、ブリッブリで美味しいエビではあった。

美観地区をめぐる。金沢よりももう少しモダンな町並みで、川もサラサラできれいなところだ。倉敷珈琲館でいただいた琥珀の女王も抜群に美味しかった。地ビールの独歩を購入し、高松に戻る。

夕飯は奮発して、スペイン料理のコースをいただいた。ステーキもアヒージョよかったし、パエリアも久々に食べたので美味しかったが、閉店ギリギリだったのやや急いで食べた。恋人の体調が優れなかったが、不屈の精神で晩酌を決行し、寝る。

2022/03/14

二日目。朝からうどんを食べ、小豆島へ向かう。香川のうどん屋は朝昼と夕夜で別れており、両方やっているところはめずらしい。朝から数百円でうどんがすすれるのは素晴らしいことだ。

昼はそうめんを食べる。小豆島はそうめんが有名らしい。たしかに、市販のものとは違い、極細うどんのような噛みごたえのあるそうめんだ。美味しい。

小豆島はかなりでかいので、さっさと歩いてエンジェルロードへ向かう。道中立ち寄ったカフェのコーヒーとチーズケーキも美味しかった。

エンジェルロードは干潮が予定よりも遅れており、海を見ながらぼんやり座って待つ。スケジュール的にギリギリになってもまだ道が現れ切っていなかったので、靴を脱いで渡ることにした。3月の水はまだ殺人的に冷たく、裸足で渡るには貝殻のギザギザがしんどかったが、どうにかこうにか向こう島までたどり着いた。たどり着いたからには戻らなければならない。

それで、フェリーの時間がギリギリになってしまったので、諦めるかレンタルサイクルを利用するか走るかで、走ることを選択する。文系の大学院生にとっては結構な距離だ。荷物を持って走るには遠い。この数年で最も過酷な移動であり、数分前の海渡りとあわせて、一種目除いたトライアスロンでしかなかった。15時前になんとか港に到着したが、なんたることかフェリーの時間を間違えており、まったくの走り損だった。ともかく、精神的にも肉体的にもいい思い出ではある。

予定よりやや遅で高松港に戻り、本日二食目のうどんをいただく。窯バターうどんは、うどん版の卵かけご飯といった趣で、おいしい。ドーミーイン近くの商店街でジェラートを食べ、骨付肉を買って帰る。骨付肉は、親鶏のほうが噛みごたえがあり、食べ物として面白かったが、シンプルに美味いのは雛鳥だ。スーパーで買ってきたビールを飲み、風呂に入り、寝る。

2022/03/13

実質的な一日目。高松港から高速艇に乗り、豊島へ向かう(とよしまではなく、としまらしい)。瀬戸内海は波が穏やかで、遠くにぼんやりと見える島々が美しい。全体的に空気がしめっぽいのに、陽は燦々と照っている感じが好みだ。広島は小学校2年生のときに去ってから一度も戻っていなかったので、瀬戸内海を見たのは18年ぶりだ。

海のレストランで昼食を食べる。トタン造りのクールなお店で、オリジナル果実酒の「ウミトタの麦とホップと檸檬のシュシュワっとしてるやつ。」もよかった。テラス席は景色が抜群によいので、当日予約が取れてラッキーだった。豊島を出て、直島へ向かう。

直島では、アカイトコーヒーでコーヒーとトーストをいただく。安くて美味しい。基本的に、香川の喫茶店はどこも安くて美味しかった。窓から向かいの家の玄関先で、でかい犬が2匹日向ぼっこしていた。

地中美術館。安藤忠雄によって設計されたコンクリ造の建物に、モネとジェームズ・タレルとウォルター・デ・マリアが恒久設置された施設だ。地中なのに陽の光が差し込む建物がほんとうに格好良く、設置されている芸術作品が半ば食われていたぐらいだ。モネは睡蓮シリーズから5作が展示されていたが、靴を脱いで入ったところの向かいに一番大きい作品を置いているのが、かなりよかった。ジェームズ・タレルはかなり好きなアーティストで、地中美術館ではくぼんだ部屋のなかに入り込む作品がよかった。奥まで行くと距離感が失われ、目は照明の色を追う以外の機能を奪われる。きれいな作品だ。ウォルター・デ・マリアははじめて見たが、教会のような広い部屋に、木でできた無数の柱と、中央にGANTZのような黒玉が設置された作品だった。木の柱は三角形、四角形、五角形のものがあり、3本セットで{三角、四角、四角}みたいな感じになっているのが計27セットあった。数列的なリズムがあり、不思議な作品だ。

ベネッセハウスミュージアムへの心残りとともに、直島から高松港に戻る。到着後24時間にしてようやく香川のうどんにありつく。うまい。うどんはもちろん、天ぷらも安くて盛々なのが最高だ。店員がこっぴどく叱り・叱られていたが、それは彼彼女らの問題なのでとくにできることはなかった。

せとしるべ灯台を散歩する。かなりの距離があり、夜なのに釣りをしている人が多かった。周辺はバイカーのたまり場になっていた。風呂に入り、部屋に戻り、寝る。

2022/03/12

3/12から3/16まで恋人と観光で香川〜岡山に行ってきた。

この日はLCCの夕方便に乗る予定だったので、荷物をまとめ成田へ向かう。銀座からバスに乗るのが行きやすいことを知った。

成田ではフレッシュネスバーガーを食べた。第3ターミナルはその他のふたつに比べるとしょっぱい施設だったが、時間をつぶすには十分である。私は飛行機が割と苦手ではあるが、ジェットスターは思っていたよりも揺れず、無事に目的地まで運んでくれた。

ドーミーインには9時に着いた。ご飯を食べに出かけたが、まん防もあってお店はどこもやっておらず、商店街にはとくになにかをしているわけでもないホストとキャバ嬢しかいなかった。ドーミーインに戻り、夜鳴きそばと大浴場を利用する。露天風呂に入っているとものすごい音量でバイカーが通り過ぎて行ったので、香川はよほど治安の悪い街なのでは、という疑惑を深める(最終的に、そんなことはなかった)。部屋に戻り寝る。

2022/03/11

シネマカリテでブレッソンの『たぶん悪魔が』と『湖のランスロ』を見てきた。ブレッソンはほとんど見ているが、めちゃくちゃ好きだと思えるのは一番最初に見た『ラルジャン』だけかもしれない。私はブレッソンのことを厳格な形式主義者だと思いこんでいたが、今思えばそのフレーミングこそ不適切だったのだろう。アキ・カウリスマキやジム・ジャームッシュにパクられている即物的なカットも、濱口竜介にパクられているセリフ棒読みも、ドラマを排除し、むき出しの理不尽を突きつけるための手段なのだろう。一度見ただけでその中心にある目的を拾い、手段を評価するのは厳しい。なにかが始まる直前にぶった切られたり、なにかが終わった直後から始まる場面が異常に多いし、人物のプロフィールに関する説明はどれも明示的でなく、顔と名前が一致したころには映画が終わっている。きっと私はいろいろ読んだ上で、もう一周ブレッソンを巡礼すべきなのだろう。そして、このような作業を要求する作家がいることは、ネタバレや倍速の否定派に対するミニマルな応答になるんじゃないかと思ったり思わなかったりする。

2022/03/10

これは自己分析だが、基本的に作り置きをすると作り置いた分ぜんぶ食べ切るまで、別の食べ物を口にしなくなる類の強情さがある。昨日今日で3食キムチ鍋を食べた。まだ2食分は残っている。

2022/03/09

学部四年のとき、所属していたゼミを含む専攻の合宿で、八王子の大学セミナーハウスに宿泊した。吉阪隆正によるきしょい建物についてはまだ再認能力もなく、変な建物があるとしか思わなかったが、宿泊していたさくら館のコンクリがかっこよかったのは覚えている。森に囲まれているので虫が多くて嫌だった。

私は他学部からの参加だったのでアウェイ感がすごかった。あれだけアウェイな外泊は、後にも先にもあれぐらいだったと思う。どうも、親睦会で飲んだくれ、冷たいコンクリの床で夜を明かすのが風物詩らしいのだが、例年盛り上がってそうなってしまうというより、当の風物詩を風物詩として維持せんがために盛り上げようとしている雰囲気で、痛ましさがあった。大学生の飲み会は、バイブスが合う仲間たちと盛り上がって粗相かます分には可愛らしい思い出だが、特定のイベントが伝統的規範として酔いつぶれることを個々人に要求しはじめると、途端にきつさが増す。サークルなどで定例の飲み会はほとんどがそうなりがちだ。私は程よくビールをいただいてさっさとベッドに潜ったのだが、深夜に同ゼミの人がグロッキーで帰還し、しばらく息を整えた後、もうひとイッキせねばという使命感とともに再出兵するのを見てちょっとだけ同情した。なんにせよ、世界がまだ平和だったころの話だ。

翌朝の、教員と学生による採点付き卒論中間発表で、私は全評価項目ぶっちぎっての1位を取るのだが、それというのも私以外の構成員はほとんどが二日酔いで、デリケートな判断が出来なかったからに違いない。

2022/03/08

最終日のバンクシー展に行ってきた。一般的に風刺的な作品には「うまいこと言わんでええねん」的なやかましさがある。バンクシー展にも、NONSTYLE石田のボケを立て続けにかまされているかのようなやかましさがあった。はじめはなかなか見方がわからなかったが、井上になりきってツッコむポーズをとってみると、それなりに気分良く相手取れるように思えた。

思いがけずアンディ・ウォーホル見れたのはホクホクした。一方で、「天才か反逆者か」というウリ文句はほんとうにずさんな二者択一で、来場者投票によると天才のほうがやや優勢というのも含めて感じが悪かった(あと、動線がいまいちで人がジャムってたのはこのご時世キツさがある)。アーティストに許可なくやってる巡回展だというのを後で知ったが、まぁ、許可なく壁に絵を描くアーティストなので、どっちもどっちといえばどっちもどっちだ。反消費主義を掲げる芸術が骨の髄までむしゃぶられるという構図は、今も昔もcommonplaceすぎて、もはや皮肉としても通用しないだろう。

2022/03/07

京都みやげのおいしいわらび餅を食べた。

2022/03/06

ほんの3、4年前まで富士フィルムのSUPERIA X-TRA 400 (36枚撮り)が3本パック1500円程度で買えていたのが、いまやSUPERIA X-TRAもなくなり、代替品を謳うPREMIUM 4001本1,200円ちょいするのは、本当にあほらしくて笑えてくる。倍の枚数撮れるオートハーフに、monogramの学割を使って現像+CDデータ化を1000円でやってもらうとして、前までなら(¥500+¥1,000)÷72枚=¥20弱/枚だったのが、いまでは¥30弱/枚だ。この数年でランニングコストが1.5倍になったわけだ。

¥100弱/枚するスクエアチェキもたいがいだが、あれは物理でプリントしてしかじか値段なので、デジタルでパシャパシャ撮って、気に入ったものだけプリントするぐらいが、今日写真を趣味とすることの限界だろう。35mmフィルムカメラは、いつの日か不動産収入なりが入ってきたら再開したい。

2022/03/05

ダミアン・ハーストの桜は、見に行く気がそこそこあったが、ある必要最低限の説明を聞いてすっかり行く気が失せた。鑑賞選択の動機づけになるという点で、それらはいい批評だったと思うし、行く前に聞けてよかったと思う。しかしこう、「なるほど、そんなもんなら行かなくていいな」と納得させられることと、「そんなこと言われると、行きたかったのに行く気失せるなぁ……」と萎えさせられることの違いはどこにあるんだろう。おそらくは、批評家との信頼関係や、その語り口の繊細さや、こちらの期待のベクトルといった、絶妙なバランス関係に依っているのだろう。

で、ある必要最低限の説明とは、「ダミアン・ハーストなら、インスタレーションが見たい」だ。

2022/03/04

ここ半年で知ったなかでは、Robson Jorge & Lincoln Olivettiの同名アルバムが群を抜いてよい。一曲目「Jorgeia Corisco」からブギーなディスコで景気が良いし、「Pret-à-porter」「Squash」のようなソウルギターも大好物だ。ブラジルのソウルはTim Maia周辺が激アツとは聞いていたが、いかんせん情報が少なくて、なかなかdigれずにいたジャンルだ。この二人はTim Maiaとも仕事をしていたプロデューサーらしい。今年はブラジル音楽に詳しくなろうと決意した。

2022/03/03

連載中の作品に対して展開の考察を行い、それが的中していたときに誰がどう得するんだろうか、と思うようになってきた。『タコピーの原罪』は私が能動的/受動的に見てきたいくつかの考察通りに進展しつつあるが、考察を見てなければもっと面白く読めたんじゃないかと思いつつある。あぁ、やっぱりこうなるか、という答え合わせの要領で最新話を紐解くことは、なにかもっと重要な経験を取りこぼしているような気がする。Nanayの言い方だと、注意が凝り固まっており、自由でオープンエンドな美的経験をしそこねているのだ。

考察というのは、当たっていたら当たっていたらで、フォア向きのネタバレでしかないんじゃないか。ネタバレになんらかの落ち度があるのだとしたら、同じタイプの落ち度が考察にもあるはずだろう。ただ、考察は当たっているとは限らないので、鑑賞を毀損する可能性が相対的に低いというだけだ。そして、この「当たっているとは限らない」という事情が考察を正当化し、ネタバレにはあるような批判と配慮がほとんどまったく見られないというのは妙な話だと思う。加えて、ネタバレにはない考察の弊害として、物語が予期せぬ方向へと転回していく妙ではなく、それを予想し的中させただれかの目を称賛するモードが、少なからず入り込んでしまう点もありそうだ。そんなことをしたって、鑑賞にとってはなんらプラスではないだろう。

変な話だが、良い考察というのは、①極めて整合的で(的外れではなく)、②しかし意外性があり(予定調和ではなく)、③蓋を開けてみたら外れている、というのを合わせて満たすような考察なのだと思えてきた。ファンコミュニティでああだこうだと予想し、極めてもっともらしくかつ意外性のある予想が立ったにもかかわらず、まったく異なる方向へと物語が舵をとった瞬間こそ、連載作品の醍醐味だろう。当たっていた考察は、優れた考察であり、考察としては“成功”した考察なのかもしれないが、鑑賞に対するポジティブな貢献はほとんどないのかもしれない。だとしたら、考察における成功基準こそ考え直すべきだろう。

2022/03/02

手元にあった15,000字ちょいの原稿をせっせと英語に訳した。とはいっても、大半の仕事はDeepLとGrammarlyがやってくれるので、銭のやることは確認と微調整に尽きる。DeepLGrammarlyはいまや私の知的活動の絶対的基盤であり、それらなしには私はベルイマンの映画に出てくる牧師並に無力だ。修士のころはせっせと辞書を引きながら、呆れるほどの時間を書けてようやく論文が一本読めるという始末だったのが、今ではDeepLにおんぶに抱っこだ。もちろん、あれはあれで英語を読む基礎体力には繋がったのだが、当時からDeepLを使っていれば、もっと立派な修士論文を書けただろう。Grammarlyは昨年有料会員になって使い始めたのだが、同年、DeepLとのコンボで査読を一本乗り越えたのがだいぶと大きな自信になった。

DeepLに投げる前提で文章を書いていると、「こんな言い回しはDeepLが困っちゃいそうだな」というので、書く段階からしてすでに表現がすっきりしてくる。工程としては、あたかも英語から日訳されてきたような下書きを私が打ち出し、それをDeepLが英訳し、Grammarlyが添削するという具合になる。「ここは一文が長い」「この類義語を使うべし」「これはいらん」というGrammarlyの添削に従って文章を切り詰めるのにも、特別な快楽がある。つまるところ、私はこのような論文執筆スタイルをかなり気に入っているのだ。それは、詩的にかっちょいいエクリチュールを編み出して格好付ける類の、私が薄ら寒いと思っている執筆活動のちょうど正反対にある。

ところで、前述の原稿を一通り訳した成果として、5000ワードちょいの英文が得られたのだが、これは「日本語の文字数:英語のワード数は、だいたい2:1だ(日本語2000字なら英語1000ワードになる)」という通説とずいぶん違わないか。ウイスキーで言うところの、天使の取り分というやつなのだろうか。

2022/03/01

はじめてパッタイを食べたが、かなりfor meだった。あまり意識して食べてこなかったが、タイ料理が相当口に合うというのはここ一年で発見したことのひとつだ。もう3月だが、今年はタイ料理をいっぱい食べる年にしたい。

2022/02/28

ディズニーシーに行ってきた。ラインナップは、トイ・ストーリー・マニア、アクアトピア、スモークターキーレッグ、ビッグバンドビート、マリタイムバンド、ホライズンベイ・レストラン、シーライダー、センター・オブ・ジ・アース、海底2万マイル、シンドバッド、チュロス(フォンダンショコラ風)、ソアリン、タートル・トーク、マジックランプシアター、チュロス(シナモン)。いつのまにか導入されているスタンバイパスというシステムがやたら難しかったが、めぼしいものには一通りアクセスできてよかった。タートル・トークの挨拶が無言になっていたの情緒があった。

2022/02/27

カレー、四食目からは祈りになる。

2022/02/26

カレーというのは一食目は喜びだが、二食目からは作業になり、三食目からは修行になる。

2022/02/25

カルヴィッキ本のレジュメをちょきちょきと切った。最近、描写の哲学に対する関心が薄れてきているのだが、その何割かは、私のやりたいことをそっくりそのままカルヴィッキがやっているからだろう。そして、問題に対する回答も私の考えている回答とおおむね重なっており、じゃあもう彼に任せればよかろう、という気持ちが少なからずある。

一般的に言って、哲学をやっていると、自分の考えていることなんてだいたい先人が考え切っているみたいなことが往々にしてある。とはいえ、翻訳したり整理したり敷衍してりとやることはそれなりにあるので、そこは別にいいのだが、同時代でかなり尊敬できる研究者がすでにやっていることを、ラディカルな差別化の目処もなく追従するのはやっぱりむずかしいだろうなと思う。「博士論文を書く者は、誰であれ、そのトピックについて世界一詳しいのでなければならない」とまで言うのは大げさだなぁといつも思うのだが、「そのトピックについて書く者が、誰であれ、読まなければならないような博士論文を書かなければならない」はそれなりに真実だと思っている(思っている、というよりも覚悟している)。

2022/02/24

昨日作ったタコライスが残っていたので、今日の昼はタコライスを食べ、夜はもちろんタコライスを食べた。なにか書こうとしたが、タコライスについては「作った」「食べた」という以上に書くことがなにもなかった。タコライスに哲学はない。

2022/02/23

イタコになってずっとビアズリーのことを調べているうちに気づいたが、1973年の「What Is an Aesthetic Quality?」を除けば、ビアズリーはほとんどシブリーに言及しておらず、いろいろとツッコまれてきたはずなのにすっかり無視している。これは、ビアズリーが絶えずやり取りをしてきたディッキーとは対照的だ。アメリカ美学会とイギリス美学会ではまだ距離があったということなのか、ビアズリーのプロジェクトにとってシブリーの理論は対して関わらなかったのか、その辺はよくわからない。

2022/02/22

去年導入したガジェットでもっともよかったのは、Notionとホットサンドメーカーだろう。Notionについては、論文ノートの管理や、アイデアの整理、論文の下書き、ライフログ、博論計画までぜんぶこれ一本でやるようになった。基本的には記憶力が人並み以下であることを自覚しているので、こう脳の役割を外部化できるとストレスフリーだ。Notionはまだまだ使いこなせていない機能がありそうなので、Notion大好き人文系研究者を集めて活用セミナーをやってくれるならぜひ聞きにいきたい。ホットサンドメーカー活用セミナーでもいい。

2022/02/21

芸術の理論はなんぼあってもいいのだが、生活の理論はたいてい野暮かつ余計なお世話なのだ。私を理論へと駆り立てる原始の問いはいつだって、ゴダールはどう見ればいいのか、タランティーノはなぜあんなに笑えるのか、私はなにゆえこんなにもエドワード・ヤンが好きなのか、といった問いなのだ。この点、私は近年の分析美学が、芸術哲学からのバックラッシュで日常美学に接近していることを、必ずしも好意的に思っていない。『Aesthetic Life and Why It Matters』を着手したので、対談だけさくっと読んだのだが、三人の書き手はみな「どうすれば美的により良い生活を送れるのか」という問題を共有しているようで、ノリが違うなと感じた。「美的福祉」とか言っていたビアズリーもその手の人だったので、JAEに載っている一連の論文が再評価される日も近いだろう。それはともかく、という話だ。

「美的な生活とはどういう生活か」という、whatで始まる問いなら私もそれなりに気になる。他方、「どうすれば美的により良い生活を送れるのか」という問いは自己啓発セミナーじみていて胡散臭いだけでなく、生活というものに対する根本的な誤解に立脚しているようにすら思う。美的価値の本性がなんであるにせよ、また、それを最大化する方法がなんであるにせよ、本や論文で理論を仕入れて実践するようなものとはとても思えないのだ。むしろ、即興とトライアルアンドエラーが生活の本質なのだとしたら、美的生活のhow to理論ははじまりからして見当違いなのだ。もちろん、理論によってトップダウン的に、暮らし向きが美的にベターになる可能性は少なからずある。しかし、それとは別のところで(そして、私の考えではより核心的なところで)、即興とトライアルアンドエラーのなかでしか出会えない生活上の美的経験があるのだとしたら、それを取りこぼすのは片手落ちだろう。そして、それは理論というフォーマットですくい上げようとしても、どうしても取りこぼしてしまうものなのではないか。だとすれば、われわれは粛々と生活する以外になにができるのか。

結局、哲学には「どうすればいいのか」と「とはなんなのか」というふたつのグランドクエスチョンがあり、私の興味はもっぱら後者に傾いているということになるだろう。それはそうと、『美的生活とその重要性』なんていうタイトルの本、ロペスらを知らなかったとしたら私にとても手を伸ばそうとは思えない訳される予定の森さんにはセンスいい邦題をお願いしたいところ。

2022/02/20

美的理由と快楽主義まわりのサーベイを書いた。基本的には森さんのサーベイに詳しく書かれているトピックなので、改めて紹介するべきか迷ったが、ネットワーク説に対する快楽主義の擁護をひとつ提出しておきたかったわけだ。今年の応用哲学会は出すかどうか迷っていたが、これを書いているうちに「ビアズリーの美的価値論再考」というテーマが浮かび上がってきたので、そちらで発表しようと思う。いずれにせよ博論のテーマ的に、一度はビアズリーのイタコをしておかなければならないはずだ。

2022/02/19

日記をはじめてから一年が経った。総文字数は10万字ちょい。毎日ちょっとずつなにかしらを書く状態を保つのは、精神衛生上それなりによいことだったと思う。とくに、研究上の立場はころころ変わるので、その時々で直観を表明しておくことは、後で見返したときに自己発見があってよかった。

辞める理由もないので、今後も続けていこう。

今日はTyler Taorminaの長編デビュー作『Ham on Rye』を見た。気味の悪い映画だった。

2022/02/18

K-POPにもすっかり飽きたのだが、結局のところ、次になにが出てくるのか分からないフェイズが面白いのであって、60〜70点ぐらいのものがコンスタントに量産されるようになった文化はしょうもなくなる。ちょっと前までは、暴力マシマシなガールクラッシュばかりでほんとうにうんざりしたのだが、最近はマーベルの女性ヒーローみたいな、変身して飛んでいきそうなコンセプトばかりで引き続きうんざりしている。なにかひとつ、飛び抜けた楽曲なりグループが出てくれば面白いのだが、IVEにせよNMIXXにせよ、及第点取りにいってる新人ばかりで残念だ。

もう結構前からK-POPに関しては愚痴ばっかり言っているのだが、not for meだと認めてすっかり無視できないのは、まだなんらかのブレイクスルーを期待しているからに違いない。

2022/02/17

お寿司を食べた。本マグロ赤身、はまち、うなぎ、カニ味噌軍艦、あぶりえんがわ(みそ)、あぶりえんがわ(塩レモン)、サーモンユッケ、海苔すまし汁。ひさびさだったので冒険せず、真摯にいつメンを食べた。武蔵小杉と目黒はいつも行列なのだが、中目黒に新しくできた店舗はがら空きで、たいそう快適な食事ができた。

2022/02/16

恵比寿映像祭に行ってきた。今年はこじんまりとした規模感で、有料の展示もスキップしたため、1時間半ぐらいで見終わってしまった。たいていの作品はわけわからんのだが、ひらのりょうの映像インスタレーション《ガスー》はちゃんとしていてよかった。また、わけわからん作品のわけわからなさにもヴァリエーションがあったのだが、サムソン・ヤン《The World Falls Apart Into Facts》はシンプルにわけがわからなくて、いくらか好感を持てた。

それはそうと、昨年の恵比寿映像祭でなにを見たのか、プログラムを見てても一向に思い出せないのが悲しい。今年見たものも、来年にはほとんど忘れてしまうのだろうか。それはそれでいいことなのかもしれない。

2022/02/15

芸術だろうがホラーだろうが、選言的定義やクラスター説に納得させられたことがほとんどない。それは、シンプルに言って、「Xであるとは、F1あるいはF2あるいは……のどれかである」や「Xであるとは、F1、F2……のうちの多くを満たすものである」と言われても、Xについて肝心なことを知れた気がしないからだ。(ずらりと並んだ性質セットが美的にエレガントでない、という問題はいったん置いておこう。)

ほとんどの選言的定義やクラスター説は、説明項となる性質セットの歴史的変化を認めている。ある時代にホラーだとみなされている作品は、その時代のホラー性質セットのどれか/多くを例化するからホラーであるのだが、今日のホラー性質セットからすれば、それはホラーだと言えないのかもしれない。それは、ある程度までは実態に即したものだろう。しかし、そういった選択肢やクラスターの変遷にもかかわらず、カテゴリーが同一性を保てているのは、制作者や鑑賞者の間に期待のネットワークが成り立っているからだと述べられるとき、芸術哲学者は肝心な探求を仕事半ばで放棄しているように思われるのだ。この定義では、時代ごとにそのカテゴリーに関して形成されていた期待を調査し、最終的にある作品があるカテゴリーに属するかどうかを判定できるのは、歴史家や社会学者だけだという話にもなる。

美学者や哲学者が、そういった解決にどうして満足できるのか私には分からない。繰り返しになるが、あるカテゴリーの内実が選言的だったりクラスター的であることは、世界や人間や文化に関する真実なのかもしれない。しかし、紛れもない真実なのだとしても、クールすぎて、知ったところでうれしさの少ない真実だろう。前にも書いたが、結局、私には定義論の正解がぜんぜん見つからない。

2022/02/14

エスパスルイ・ヴィトンでギルバート&ジョージを見てきた。ルイ・ヴィトンは毎回入るたびに緊張するのだが、スタッフの方々はほんとうに親切で、今回もぼーっと突っ立っていたら作品の解説をしてくれた。《Class War, Militant, Gateway》はステンドグラスのようなツヤツヤした写真コラージュで、でかいとは聞いていたが相当でかかった。メキシコ壁画運動っぽさもある。印象としては、Singing Sculpture》の人を食ったような奇抜さやシニカルな態度はほとんどなく、問うべきものを問い、向かうべきところへ向かう実直さ、素直さの感じられる作品だった。

2022/02/13

朝食:ソーセージキャベツサルサチーズのメキシコ風ホットサンド、コーヒー

昼食:昨日作った麻婆豆腐の残り、白米、きゅうりのキューちゃん、紅茶

夜食:先週実家に帰ったときに貰い、冷凍していた肉まん、ラスイチ

2022/02/12

先輩方からの鼓舞によって、博論を書かねばという気持ちを新たにした。もっぱら悪い意味だが部分的には良い意味において、私はいまだに博論のことをほとんど気にすることなく読んだり書いたりしている。しかし、当然ながら、博論というのは書かれなければ書かれることはないのだ。

2022/02/11

ワークショップのミーティングで、図らずも美的価値の話についての理解が深まり、マネについての理解も深まった。私はやはり少なからず美的快楽主義者にシンパシーを覚えているらしい。2021/09/13に書いたように、「快楽」という語では狭すぎるので「利得」という語を使いたいのだが、ともかく、人間には生物的・社会的にポジティブな経験とネガティブな経験があり、前者を追い求める傾向性が、美的な価値や選択や規範に関しても基礎づけになると考えている。それから、線引き問題についてはあまり気にしていないというか、直感としても、あえて切り出すほど“美的”快楽が独特とは思っていない。ナナイの例で言えば「セックス、ドラッグ、ロックンロール(私の理解では、ものをぶっ壊す快楽)」を、映画を見る快楽や、海を眺める快楽から質的に区別することが実態に即しているとは思えない。「休日の余暇」というカテゴリーに、選択肢となるコンテンツがフラットに並んでいるのが、私の目から見た美的生活だ。

それから、私がマネの絵を好きなのは、ちょっと怖いからだと分かったし、ちょっと怖いのはぎこちないからだと分かった。たいてい、描かれている人々の目はうつろで、視線は合わず、堅苦しいポージングをしている。それを踏まえて見ると、《ラテュイユ親父の店》における男性の覗き込むようなポーズはぞっとするし、明るい色使いのわりに、マネのなかでもとりわけ怖い絵だと思う。

2022/02/10

ビアズリーとシブリーの比較は、もう今更感があるかもしれないが、分析美学という分野の関心や射程を考える上でよい切り口だ。

まず、とりわけ興味を持っていたトピックということで切り分けるなら、ビアズリーは芸術批評で、シブリーは美的なもの、ということになるのだろう(もちろんふたりとも両方やっているのだが)。ビアズリーは、キャロルによってリバイバルされる批評の哲学の重鎮であり、美的経験についてあれだけこだわっていたにもかかわらず、基本的には芸術の話に重点が置かれていたと思う。シブリーは、同様に芸術批評の言葉づかいに大きく触発されつつも、それに限られない、あらゆる美的判断に関心があったはずだ。日常美学などへとつながっていく、プロパーな美学=感性学は、ビアズリーよりもシブリーによって担われていたはずだ。

方法としては、私は長いこと誤解していたが、言語論的転回をより重く受け止めたのはシブリーであり、ビアズリーの議論には少なからず現象学的な成分がある。というか、シブリーはイギリス人で、オックスフォード周辺で学んでいたのだから、さもありなんといったところか。ビアズリーがいたアメリカでも日常言語学派の影響は大きかったと思うが、ビアズリーの議論が言葉やその用法にこだわっているかというと、必ずしもそうではないと思う。とりわけ、パンチラインとして出てくる美的経験や、それをもたらす美的性質(unity, intensity, complexity)ついては、明らかに言葉上で確認できるものではなくて各々の現象学的経験において確認できるものであり、その共有可能性にベットされているように思う。

人物としては、ビアズリーがなんちゃら会長やらをたくさん担い、同時代のアメリカ美学会のドンだったのに対して、シブリーはもっと求道者的というか、遅筆で、完璧主義者なイメージがある。ビアズリーは公民権運動に参加していたのもあり、社会改革にかなり関心があったようで、その延長で美的経験や美的観点といったアイテムを訴えていたような感もある。つまり、美学を通して社会の構成員がより豊かな暮らしを送れるようになることを目指すという、社会奉仕的な態度が少なからずあったと思われる。その点、シブリーは良くも悪くも内省的というか、人前に出て改革を訴えるより、粛々と自分のことをやっているイメージがある。教え子だったコリン・ライアスによれば、めっちゃ厳しいけどユーモアのある先生で、長いことうつ病に、晩年は白血病に苦しめられていたらしい。

どちらも読んでいて面白いというのは言うまでもないが、分析美学の紹介として一冊訳すなら、たしかにシブリーの論集のほうがいいなと思う。主題や方法のオタクっぽさというか、万人受けしない感じというか、地味だからこそエキサイティングだというのを感じ取れるかどうかで、向き不向きを読者に分かってもらいやすいと思う。ビアズリーだと思いも寄らない方面から変なディスが飛んできそうだが、シブリーなら畑が違うことを察して貰えそうというか。とはいえ、Amazonにとんちんかんなレビューを書かれそうなのはどっちにせよ変わりないのだが。

2022/02/09

フレドリック・ジェイムソンの映画論をつまみ読みする会、最終回をしてきた。『目に見えるものの署名』はほとんどの章を読んだことになる。いろいろと学びの多い会だったが、この人はまったく信念の人で、信念の異なる作品や批評家に噛み付くのを基本ムーブとする点は最後までブレなかった。本人が映画批評のつもりで書いていたのかすら定かではなく、いわゆる「作品をダシにした社会批評」を堂々とやっているのだろう。私に限らず、表象文化論のフレンズにとっても苦痛の多い読書だったのは、部分的にはわれわれがジェイムソンほどオラオラしていないからだろう。総じてよく分からないことばかりの読書会だったが、分析系の文献ばかり読む暮らしの解毒にはなったかもしれない。

2022/02/08

表現主義に続き、抽象絵画に関するスライドを作っているのだが、この手の試みの意図はともかく、面白さを伝えるのは一筋縄ではいかないなと感じている。ある態度を徹底した結果、装飾が剥ぎ取られミニマルになった、みたいな話を聞かされても、だからなんだとなりかねない。芸術的価値を理解できることと、作品を面白がれることは当然別問題だ。遅ればせながらというか、最近はますます後者の重要性に気づきつつある。

2022/02/07

ダムネーション』がいい映画だったので気分がいい。相変わらずタル・ベーラという監督のことは頭では分かっていないのだが、タル・ベーラ的な質感というか、その特徴的な美的性質のことは目を通して分かりつつある。それにふさわしい美的用語はまだ見つけていないのだが、強いて言うならば、「終末を前にしたポーカーフェイス」のような質だ。無気力、自暴自棄、退屈をブレンドしたような情緒で、色はもちろん黒だ。実物は見たことないが、マーク・ロスコの《Black on Maroon》や《Black on Gray》には似たような質があると思う。

2022/02/06

depi読でカルヴィッキ本のメタファー章を読んだが、画像におけるメタファー以前に、言語的メタファーすらよく分かってないことに気づいた。「隠喩」ということであれば、比喩表現のうち直喩のマーカーがないもの、ということになるのだろうが、論文を読んでるとどうもmetaphorっていうのは隠喩よりも広かったり狭かったりする現象として扱われているような気がする(あるいは、metaphorの用法は隠喩とぴったり対応するそれ以外にもある)。例えば、日常的には結び付けられることのない、距離のある概念ふたつを並置すること(いわゆるデペイズマン)も、しばしばメタファーだと言われているだろう。この意味合いで行くと、「ミシンと蝙蝠傘との解剖台の上での偶然の出会い」はメタファーだし、キリコやマグリットの絵はメタファーだということになる。話に聞くには、キャロルが考えていた隠喩はこういった概念連関のことらしい。さらには、日本語の「隠喩」も、このような広くて狭いmetaphorの訳語として使われることがあるため、一層ややこしい。

それはそうと、義務教育の国語では直喩と隠喩と擬人法を教えるのだが、擬人法だけカテゴリーミステイクだろう、というのはいつも気になっている。問題などで、三つのうちどれかを答えさせるものが定番なのだが、直喩の擬人法もあるし隠喩の擬人法もあるだろう。

2022/02/05

ナナイのAesthetics: A Very Short Introductionを読み終わった。美的経験まわりの話をサクッと読めるいい本だ。ただ、ここでも西洋中心主義を反省する成分が強すぎて、「美学はこうあるべき」と「美学はこうなんです」がいくぶん混同されているきらいはある。普遍の追求はやめて謙虚になろう、というメッセージは耳障りがいいが、普遍を追求する論者は近代も現代も少なからずいるだろう。いずれにしても、美学史の紹介をあまり期待すべきではなく、「今日において美学をどうやっていくか」という本として読むのが最適だと思う。

「注意」を中心に美的なものを構築していく(ナナイにとっては主要の?)アイデアははじめて知ったが、汎用性が高く、いいなと思う。美的経験にはさまざまなモードがあるが、主要なもののひとつは、分散的でオープンエンドな注意なのだそう。それは、張り詰めた集中とは区別される経験であり、気晴らしになり、世界を初めて見たかのような仕方で見せてくれる。ナナイが少なからず異化のモデルに依拠しているのは知らなかった。

また、映画批評家をしていた経験から、映画祭でのエピソードをたくさん紹介しているのも、ナナイならではで読み応えがある。美的に「色あせてしまった」せいで、どんな映画を見ても楽しめなくなってしまった大御所批評家は、集中力がありすぎてオープンエンドな注意ができていない、という話はわりと説得的だろう。

2022/02/04

最近の主なプロジェクトは、「美的関与における知識ないし偏見、カテゴリーなど文脈の役割、それによる美的知覚や美的判断の変質」と言えそうなのだが、その反対の現象にも興味がある。シブリーが言うところの述定的な美的判断、ザングウィルが言うところのカテゴリー独立な美的経験、すなわち、絵画のプロフィールや描写対象を脇に置き、デザインとしての色や線や形を愛でるような美的関与のことだ。そういったデザインのみに注目し、堪能し、(そうしたければ)判断を下すことは、場合によっては困難だと言われるのだが、それでもなお確かに実感としてなされるときがある。抽象画を見るときはとくにそうだろう。言い換えれば、ウォルトンが論じたようなカテゴリーの呪縛には、たぶん例外があるのだ。

もちろん、美しいとされるデザインにはサークル相対性があるのだが、それでもなお、単なる色や線や形が美的関与の対象となる、という現象は興味深いものだ。最近だと、印象派展でユリィのポストカードが売れまくったという話なんかは面白い。作者や作品の背景とは関係なく、物販でポストカードでも買って帰ろうというときに多くの人から選ばれたわけだ。なんだか知らないがデザインを気に入り、ポストカードを買って帰る経験こそ、プロパーな美的関与なんだと思う。

2022/02/03

美的経験に関する任意の説明は、お酒が入っているときに芸術作品(とりわけ音楽作品)への没入感が増す現象について説明できなければならないと思う。知らんけど、LSDでもマリファナでもいい。こう、身体的にしかじかの状態であるからこそ強調される快楽経験を美的経験と呼びたくない向きは、ちょっと潔癖すぎるし、実のところ美的経験などしたことがないのではないかとすら思われる。夜中に暗い部屋でビールを飲みながら、宇宙船に乗って飛来してくるスターチャイルドを目の当たりにすることで成立する経験が美的経験でないとしたら、私にはどれが美的経験なのか分からない。取り憑かれたように絶叫するグレン・ゴインズと、爆撃のようなホーン隊、煙を吹き出して着陸するマザーシップ、そこから出てくる銀ピカのジョージ・クリントン。残念ながらその強度は、シラフでいるときには半減する。

2022/02/02

新年を迎えてもたいした実感はないが、恵比寿映像祭が迫ってくるとまた一年過ぎたなぁ、という手応えがある。私の一年というのは、この2週間という短すぎる会期のイベントを、キャッチできるか逃すかで決まるような感さえある。

今年のテーマは「スペクタクル後」ということで、趣意文でもドゥボールが言及されていたりするのだが、この類のテキストの例にもれず、なにを言っているのか/言いたいのかはほとんど分からない。とりわけ、「後」でなにを意味しているのか謎だ。すでにスペクタクル的でない時代が到来しているというのは控えめに言っても不正確だろうし、スペクタクル的な時代を乗り越えていこうという宣言なのだとしても、その努力を映像作品が具体的にどう担っていくのかは不明確だ。前に勉強会でもこの類の趣意文について話したことがあり、基本的には雰囲気作りでしかないということで納得しつつあるのだが、展覧会に行ってこう中身のない文章を延々読まされると、ある段階でむかついてくることもあるだろう。

あるいは来場者に特定の事象について考えてほしいというぐらいのことであれば、「スペクタクル後」という題だけ投げて、なんの説明もしない、というスタイルこそクールではないかという気もする。懇親丁寧説明しているかのようなポーズだけとるのが薄ら寒いのだ。なんにせよ、恵比寿映像祭には行くことになるだろう(不幸にも忘れない限りで)。

2022/02/01

表現主義に関するスライドを用意していて、村山さんのプロジェクトであるところの画像表出や視覚的修辞のことがようやく分かってきた。画像はいろんな内容を持つ。その中には、一方で「この画像はXを描いている」といった描写対象(ナポレオン)に関する内容もあれば、「この画像はXを性質Fとして描いている」といった描写対象の視覚的性質(しかめっ面である)に関する内容もあり、他方で「この画像は性質Eを表出している」といった情動的性質(怒り)に関する内容もある。画像表出の非修辞的なルートとは、XをFとして描くことで、視覚的性質Fと紐付いた情動的性質EをXに帰属する、すなわち「XはFなのでEである(ナポレオンはしかめっ面をしているので怒っている)」を伝達するというルートだ。一方、画像表出の修辞的なルートとは、ある視覚的性質を描写されている視覚的性質Fとみなさず「この画像は性質Eを表出している」だけを取り出し、これを「この画像はXを描いている」と合わせて、「XはEである」を伝達しているとみなすルートだ。エル・グレコだったら、「縦に引き伸ばされたような造形」を人物に帰属される視覚的性質とみなさず、あくまで特定の非視覚的性質(ここでは神聖さや霊性)を表出するマーカーとみなし、こちらを人物に帰属させる、というのが視覚的修辞になる。

「彼はしかめっ面だ」は「彼はしかめっ面であり、かつ怒っている」を伝達しうるが、「彼は狼だ」はふつう「彼は狼であり、かつ獰猛な性分だ」を伝達することなく「彼は獰猛な性分だ」を伝達しうる。このように、文字通りの意味が、伝達過程において消去(変換)される現象は言語においても存在し、それに相当する画像表現こそが視覚的修辞なのだろう。

私と村山さんの、昔からの対立点は、視覚的修辞において役割を果たしている記号を、描写内容という語のもとに含めるかどうかである。エル・グレコにおける「縦に引き伸ばされたような造形」や、アボガド6における「頭を締め付ける万力」や、少女漫画なんかにおけるコマ縁を彩る花々は、「描写」されているのか、という問題だ。村山さんがそれらを描写内容ではないと考えているのは、それらが果たす視覚的修辞という「機能」に依拠しているからだろう。それらの記号を通してなんらかの非視覚的な性質を伝達することは、たしかにそれら記号の意図された機能であり、「人物Xは縦に引き伸ばされたような造形を持つ」といった命題を伝達することは意図されていない。

私はそれにもかかわらず、エル・グレコは「縦に引き伸ばされたような造形を持つ人物」を描いているし、アボガド6は「頭を締め付ける万力」を描いているし、少女漫画コマ縁花々を描いている、という言葉遣いを好む。それは、他の描写対象とまったく同じ原理でseeing-inされるからというだけでなく、視覚的修辞という意図された機能を果たすことは、それらを描写内容から除外する理由にはならないと考えているからだ。実際、これらは言葉遣いの問題と、概念マッピングの問題でしかないのだが、単純に言って「描写する[depict]」という語のより日常的な用法としては、こちらに分があると思わないでもない。すなわち、エル・グレコは「Xを縦に引き伸ばされたような造形を持つ人物として描いている」し、アボガド6は「頭を万力で締め付けられた人物を描いている」し、少女漫画は「人物Xと、その周囲に花々を描いている」というふうに、ふつうわれわれは説明する。《ウルビーノのヴィーナス》の足元にいる犬は、忠誠といった高次性質を人物に帰属させる記号であるからといって、「犬は描かれていない」というのはまったく許容不可能である。思うに、分析すべき「描写」とは、このレベルでの現象である。そして、村山さんが懸念されている「人物Xは縦に引き伸ばされたような造形を持つ」のような内容は、さらなるコミットメントを要する主張内容であり、ただちには伝達されるものではないため、実のところ懸念する必要はない。

別の言い方をするなら、村山さんは画像表面という歪んだレンズの先にある整合的な別世界を「画像世界」とみなしており(だからこそ、フィクション作品や物語的な宗教画などを例示されるのだろう)、私はもっと浅瀬の、画像表面と近い位置にある、歪みっぱなしの世界を「画像世界」とみなしている、ということになるのだろう。

2022/01/31

玄関の電球をついに交換した。廊下照明の立ち上がりが遅い&白色なのが不都合なので、よほどのことがなければ玄関の照明で済ませているのだが、酷使された挙げ句昨年11月ごろにプツリと切れてしまった。そして、電球ひとつ買ってくるという作業は、痛いほど困難だ。なにかのついでに思い出せることでもないし、わざわざ出かけてどうにかするほどのことでもない。また、交換するにしても脚立はなく、デスクチェアはいちど解体しないと居間から搬出できない。私は惰性と暗闇に浸かって2ヶ月を過ごしたわけだが、Amazonに頼んだら翌日には届いたので、折りたたみのローテーブルを足場にして交換した。光あれ、といってスイッチを押すと光があった。

2022/01/30

『ビリディアナ』を見ている途中、トイレの天井から水漏れが発生するという珍事に見舞われた。方方とやりとりをし、水漏れもやがて自然に止まった。しかし、こういうときに誰に連絡してなにをしてもらえばいいのかとっさには思いつかないのは、方方(不動産と管理会社と大家と保険会社)が結託して、責任の所在をあいまいにしているからでもあるだろう。保険会社の24時間サポートに電話したら、つながるまでに10分以上もかかった。今回はポツポツぐらいの水量だったのでバケツで一時しのぎできたのだが、ザーザーぐらいの勢いで噴水しているときに、「オペレーターが空きしだいお繋ぎします」とか言って待たされたら気が狂うかもしれない。

2022/01/29

アピチャッポン特集の原稿を書いているのだが、批評を書くときには論文を書くときにはない、摩擦のようなものがある。いくらやっても、こんなんでいいのかという自問と、ちょっと強引でもそこは押し切るしかないという切迫感がつきまとう。人様にお金出して読んでもらうだけのものを生み出せたという達成感とともにパリッと校了したことはほとんどなく、世にさらされたものはいつもゴワゴワしていて不格好だ。摩擦の何割かは、やたらと短く、期限の定まった執筆条件(加えて、報酬というプレッシャー)にも由来するのだろうが、にしても、作品についてなにかクリティカルなことを書くのはほんとうに難しい。いわゆる、正解のないことをやる、というのはまさにこういうことなのかもしれない。

とはいえ、アピチャッポンについてはまずまずのものが書けているし、なんにせよ〆切を守って提出できれば、書き手としてはとりあえず及第点なのかもしれない。

2022/01/28

久々に目黒(JR目黒駅のこと)まで出たが、なんだかすごく気分がよかった。私は目黒のことがかなり好きなのかもしれない。下目黒には4年住んでいたのだが、あそこから自転車で権之助坂をがーっと登り、白金を通って三田まで登校するのは、私の人生におけるもっとも豊かな経験のひとつだろう。もうとっくにさくらデリはないし、やきとん玉やもフィッツロイもないと知って悲しくなった。マヤバザールは相変わらずあの変わったアパートの一室にあった。今日はシナモンパウダーを買ってきた。

2022/01/27

先日YouTubeで見た、Nick RiggleとBrandon Politeのディスカッションが良かった。Riggleはいまや美的なものの議論のメインプレイヤーだが、ちょっと変わったことを考えているので、この動画を見るまでなかなか理解できずにいた。彼はよく「コミュニティ」という語を出すのだが、それはおおむね個人主義的な従来の美学に対するオルタナティブのようだ。美的経験にせよ美的価値にせよ、従来の美学は、その基礎づけをなんらかの個人経験に求めがちだ。個人的な快楽を与えてくれるからこそ、Xには価値があり、Xにアクセスすべきだ、といった具合に。これに対しRiggleは、個人主義的なモードを認めつつ、共同体主義的なモードを提唱しようとしている。Riggleはそういった美的経験を「vibing」と呼んでいるが、good vibesとか言うときのvibeのことだ。たぶんそのニュアンスは、集団と場の共振とも言うべき「いい感じ」であり、面白いのは、そのために必ずしも考えや行動が収束する必要はないという点だ。私とあなたは、結果として合意に達しないにせよ、vibingできる。なんとも西海岸らしい精神性で、スケボーやってるのも含めて、Riggleという美学者のことがかなりよく分かった気がする。ガツガツせず、勝ち負けにこだわらず、ポカポカ陽気に仲のいい友達とつるむ感じ。それはもう、理論というかひとつのライフスタイルなのだろう。

2022/01/26

認知シャッフル睡眠法で「ちゃ」から始まる語を回していたのだが、「茶色」がなぜ茶の色なのか腑に落ちず、考え込んでしまった。お茶の色なんてさまざまだろうに、なぜあのbrownの色を指す語として「茶色」が生き残ったのか。「土色」とかのほうがずっとそれらしいのではないか。そういえばbrownの語源はなんなのか(これは後で知ったがクマらしい)。あれこれ考えていたら入眠したが、ひさびさに夢遊病が発動して、朝起きたら隣にもうひとり分の枕がカバー付きの状態で設置されていてびびった。

2022/01/25

日本酒は美味しいが、720mlは買ったそばから切らしてしまう。1000円ちょっと出せば、ビール半ダースか、日本酒720mlか、ウイスキー700mlが買えるので、よくスーパーで迷っているのだが、日本酒だけ圧倒的に消費が速い。コスパを考えると、バランタインのファイネストとコーラを買いだめしといて、普段飲みをコークハイにするのがいちばんいい気がしている。私がYouTuberになって「銀色のヤツ!」的な件をやるとしたら、「コーラと混ぜるやつ!」にするだろうな。最近はレモンハイボールの美味しさも分かってきた。

2022/01/24

2ヶ月ぐらい前からちまちま読んでいた『白の闇』を読み終えた。学部のころに一度読んだので二周目だ。視界が真っ白になって失明する感染症の話なので、『ペスト』と並んで近頃受けて売れてるとか売れてないとか。ほとんど改行がなく、地の文とセリフの区別もないのでわりと読みにくい(しかなり長い)のだが、設定されている状況が状況なだけに、最後まで面白く読める小説だ。しかしこう、危機的状況において人間の醜悪さが溢れ出すというのは、フィクションにおいても現実においても必然であって、ところどころ教訓じみているわりにはそんなに学びがあるわけではない。多少の慰めにはなるかもしれないが。

2022/01/23

流行ってる?ので、美的理由、美的規範、美的価値まわりの議論を追っている。Alex KingがPhilosophy Compassに書いているサーベイ論文を読んで、だいたいのノリはつかめた。基本的には、以下のような概念群からなるっぽい。

  • 美的実践:われわれは日常的に、さまざまな美的なふるまいをしている。(ex. 着る服を選ぶ、夕日に感動する、映画を批評する)

  • 美的理由:美的実践はしばしば美的な理由に基づいているっぽい。(ex. 快楽が得られるからそうする、達成を目指してそうする)

  • 美的規範:美的理由にはしばしば拘束力がありそう。それをする理由があるなら、それをするべきである。

  • 美的価値:美的価値のあるものは美的理由を与える、あるいは美的理由を与えるものは価値がある。

この辺りの概念をうまいこと連関させて整理することが主な課題らしい。具体的には「美的理由の源泉はなにか」「どんな拘束力がどれだけの強さであるのか」といったトピックが論じられている。あとは森さんが整理されていたとおり「快楽主義とその敵」という構図があるようだ。

私としては、そんなのケースバイケースだろうと思ってしまうのだが、それはあらかじめお題として出されている美的実践が広すぎていまいち飲み込めていないからだろう。基本的に理論は、実践や現象のここからここまでを説明しますと明示してくれないことにはしんどさがあるのだが、この分野は論者によって射程が結構違うはずなので、なかなか難しさがあると思う。Everyday Aesthetics一般にいまいちのれない理由もこれだ。例えば、美的実践のなかでも芸術実践だけに絞れば、さらには批評実践にまで絞れば、もうちょっとはっきりと言えることも増えるだろう。ビアズリーやシブリーがガチャガチャやっていた議論は、基本的に「批評的理由」をめぐるものだったのでまだ追いやすかった。シンプルに、現代の哲学者はもっと広く抽象的でテクニカルなことをやっていてすごいな、とは思う。

その上で、①プロパーな美的価値とはプロパーな美的経験を与える能力に基づいており、②そういった美的経験は基本的に快経験の一種であり、③個人的により大きな快を与えるものはより積極的に選択するべきである、という快楽主義はそんなに悪くないと思う。山より海を見に行くほうが快楽を得られそうなら、その点に限って言えば、海を見に行くべきだろう。それは美的実践そのものというよりも、批評実践とオーバーラップしつつも並置されるような、ある種の美的実践と考えたほうがいいだろう(感動実践、とでも言うべきか)。もちろん。批評的に良いとされるものが良いとされる理由は、美的経験という快楽を与えてくれるからだけではない。

2022/01/22

問題なり可能性を「はらむ」という表現が昔から気に食わないのだが、今読んでいる美術史の本で多用されているのがしんどい。魚卵じゃないんだからそんなにたくさんはらんでどうするんだ、と思う。「を持つ」「がある」「を含む」「を伴う」あたりでいくらでも代替可能であるにもかかわらず、不必要に気取った(そのくせ死んでいる)隠喩に拘泥する惰性が気に食わない。2021/07/20に書いたように、他人の言い回しの好き嫌いを云々言ってもしょうがないのだが

2022/01/21

近所のスーパーにレジ打ちが遅すぎるおばあがいて、わるい人ではなさそうなのだが威風堂々とちんたら打つので、客一人につき一王国の興隆から衰退ぐらい待つことになる。私以外の聡明なカスタマーたちは鋭くも彼女の担当レジを回避しているようだが、私はレジ選びのセンスが地についているので、よく考えずに並んだ先に件のおばあがいる確率がきわめて高い。スマブラ64なんかで懲らしめてやりたい気持ちはあるが、なんなら私よりスマブラ64強そうな感さえある。

2022/01/20

なんにせよ集団というのは怖いものだ。なんらかの達成を目指して行動する集団というのが、私にとっては恐怖そのものでしかなく、達成される事柄がどれだけ高潔かまでは頭がまわないことが多い。高潔な運動や団体はたくさんあるし、それらが社会において意義を持つことはまったく否定できない(否定する必要もない)のだが、異口同音になにかを述べる集団に対して、私個人が感じる根源的な恐怖もまったく否定できないものだ。「#○○に反対します」みたいなハッシュタグや、オープンレターの類に参加しようとまったく思えないのは、集団の一員になるのが嫌だから、それだけだ。自分の経験に嘘をつかなければならないのだとしたら、私は臆病者でいい。

2022/01/19

魯肉飯つくった。今回は八角をふたつ入れたので、かなり香り豊かな仕上がりとなった。なんとなく、サイコロ切りだけでなく、大きめのざく切りも投入したが、齧るときの肉肉しさがあって、これはこれでかなりいい。

2022/01/18

スーパーで5,000円も買い物したのにまだ買えていない食材があり、別のスーパーにはしごしたらそちらでも5,000円も使った。鍋とナポリタンと魯肉飯を作るつもりだ。

2022/01/17

どういう流れか忘れたが、ジンギスカンにツボってしばらくリピートしていた。改めて見ると、東ドイツに資本主義の全能感を見せつけてやるかのようなグループだ。私の人生はこれまでもこれからも、こんなふうに馬鹿馬鹿しいコスプレをして歌って踊ることはないのだと思うと、ちょっとさみしい気持ちになった。

2022/01/16

『ブルーピリオド』は主題からしてかなり面白いマンガなのだが、芸大編になってから教授陣がヴィランに当てられていて、ハラスメントだらけの環境を努力と根性で乗り切る話になったのが残念ではある。少年漫画にありがちな対立構造を作る上で致し方ないところはあるのだが、講評のたびに立場が上の人間から言葉を選ばず非難されるのは見ていてしんどい。美大がとりわけこういう環境ではないのだとしたら風評被害だし、まさにこういう環境なのだとしたら、講評する側も甘んじて講評される側も仲良くなれそうにない。少なくとも、「何者かになる権利はあっても義務はない」とか「俺より下手な教授の言葉なんかにショック受ける必要なんかないのに」と言ってくれる世田介みたいなキャラクターがいてくれてよかった。彼には媚びず怯えずトガり続けて欲しいし、彼が教授陣に対して従順になった瞬間には私は読むのをやめるだろう。

2022/01/15

ヴィルヘルム・ハンマースホイというすごくいい画家を知った。1900年ごろのデンマークの画家で、フェルメールとホイッスラーをあわせたような画風だが、フェルメールほどカラフルではなく、ホイッスラーほどゴージャスではない質素なタッチで、住んでいたアパートの室内と妻の後ろ姿ばかり描いている。日本では2008年と2020年に回顧展があったらしい。国立西洋美術館にもコレクションがあるらしいので、絶対に見に行きたい。

2022/01/14

本日のTwitter迷言は「大学院は主婦のカルチャーセンターではない」だろう。匿名という安全圏から癪に障ることつぶやくネットユーザーの醜悪さは改めて強調するまでもないのだが、見て反応する側も問題だろう思えてきた。立場と権力のある特定個人がそういう発言をしたなら、それを追及するのはもっともだろう。顔も名前も知らんやつのツイートなんて、スクリーン上の0と1の集積でしかないのだから、放っておけばいいのだ。そういうしょうもない人のしょうもない人生は当人の問題なので、「大学院は主婦のカルチャーセンターではない」とか勝手に思わせておけばいいのだ。1000件近い引用RTで、ムキになった有象無象が「大学院とは……」語りをしていることも、見ていて気持ちのいいものではない。結局、正論かどうかを問わず「分かったふうな口をきく」というムーヴ自体にきしょさがあり、それはそれで他人事じゃないので気をつけていきたい(この日記は分かったふうな口でTwitterを語っているのだが)。

2022/01/13

ほとんどの分野において、西洋中心主義はおおいに反省されて然るべきだろうが、そういった闘争に私個人がいまいち乗り切れないのは、結局自分のナショナリティの問題だと思う。大義名分はなんであれ、西洋的なものを批判する書き手の一部は、私には、アンチテーゼないしオルタナティブとしての自文化(日本的なもの、etc.)を称揚する目論見があるとしか思えないのだ。今日の多文化主義なんていうのはマクロに見たときの結果でしかなく、コスモポリタンの集まりというより、いろんなところのナショナリストが群れているというだけなのではないか。言うまでもなく、ナショナリストがコスモポリタンぶっているというのは、かなり気味が悪い。

個別的なものに安住できる人間は、その個別的なものを所有している人間だけだ。私は血を除けばほとんどの点において“日本人”なのだが、日本文化が私のものだと思えたことは一度もないし、だからといって中国文化も私のものではない。そういう根無し草は、しばしば二択を迫られる。第一の道は、どちらかの文化を選択することで他方を裏切り、やたらとナショナリストぶることで、少なくとも一方は所有したかのように自己暗示をかけることだ。よくあることだが、そんなのはペルソナレベルのパフォーマンスでしかなく、後からよりストイックなナショナリスト(純○○)がやってきて、ルーツを暴かれることになりがちだ。第二の道は、私が歩きがちなものだが、どちらも選択せず、普遍を求めて実質としては西洋中心主義に傾くことだ。普遍的なものは異常に心地がよい。たとえそうして追求される普遍が、普遍を謳っているだけの西洋中心主義だとしても、心地よさに変わりはない。私にとって、「英語圏」とはそういう場所なのだ。あるいは、おそらく、私は数学なり自然科学をやるべきだったのだろう。

2022/01/12

身体の不調な一日だった。2:30ごろに就寝したのに6:30ごろに目が覚め、それからどうしても寝れなかった。頭のなかではなぜかエゴン・シーレの《死と乙女》とVulfpeck「Back Pocket」のCメロがこびりついている。しかたないので、起き上がってBASE BREADとナッツ入りのヨーグルトを食べ、白湯を飲む。なんだか身体が重く、重いというより節々がしっかりめに痛い。熱とかあるときの痛み方なのだが、熱はない。身体に対してはもとより期待していないので失望は小さく、痛みは痛みとしてやり過ごすほかに打つ手もない。通り雨とか交通渋滞みたいなものだ。

勇敢なので、この身体で大学まで行って本を買ってきた。天気も良かったし、久々に午前中から自転車を転がしたので気分は良かった。それで何割か不調は相殺されたと思う。大学はこれまた半年ぶりぐらいに行ったのだが、本を買う以外にはなんの用事もなかったので直帰した。

2022/01/11

Notionで、今までに行ったことのある展覧会ログを作った。行ったかどうか思い出せないものと、たしかに行ったがなにを見たのかほとんど覚えていないものが多くて、儚い。2018年横浜美術館のヌード展なんてロダンの《接吻》しか記憶がないのに、知らない間にフランシス・ベーコンもシンディ・シャーマンもロバート・メイプルソープも見てたとは恐れ入った。映画や小説と同じく、私は見たものを片っ端から忘れてしまうので、もう一度見たい展覧会はいっぱいある。

2022/01/10

日記に書いた矢先、↓のライブが延期になった。オミクロンが暴れん坊将軍しているので賢明な判断だ。昨年は毎日のように報じられる感染者の数字に臨場感があったが、現在は、数ヶ月に一度デビューする新たな変異株、その名称に臨場感を得ている趣がある。

ところで、一昨日ぐらいから私のアパートの塀に飲みかけのいろはすが捨てられている。前にもあったことで心底腹が立つのだが、ひとつ違うのは、数年前だとただのゴミだったのが、今日だとゴミかつ毒というので嫌悪感が倍増する点だ。道に落ちたペットボトルを素手で拾って捨ててやるだけの親切心を発揮するリスクは、数年前の比ではない。われわれの塀にはずっと毒が鎮座しており、リスクを取ってまでそれをどうにかしようとする命知らずは皆無だ。それをそこに置いた人間に出会ったら、私は自分を制御できる自信がない。

2022/01/09

来月、数年ぶりにライブをするということで、楽器の練習をしている。ギターは1日サボると3日分下手になるとか言われるが、現役時代からとくに変わりなくて安心した。技量で言えば、私の上手さは学部3年で止まっており、それから上がることも下がることもなかった。上げようという努力、具体的には理論的な学習と練習を何度も試みたのだが、なぜか本腰を入れられず、こんなしゃらくさいことをするぐらいならペンタの手癖で乗り切ればいいだろうという惰性がずっとあった。今も昔も面倒くさいことはいろいろやっているのだが、なぜ楽器に関しては頑なに拒んできたのかは自分でもよく分からない。もうひとレベル上になると、もう音楽じゃなくて数学だろう、という嫌気はそれなりにあったかもしれない。

2022/01/08

ちゃん読でビアズリーの論文を読んだ。ビアズリーが芸術の定義に参入したのはけっこう遅く、『美学』を書いていた時期はその手の定義論争に巻き込まれたくないとのことで、「芸術作品」の代わりに「美的対象」の語を用いていたほどだ。いろいろ読んで思うのだが、ビアズリーが擁護しようとしていたのはあくまで美的経験とそれをアフォードする対象であり、前衛にせよポピュラーにせよ最近のよくわからんものは興味がないという点で、けっこう素朴な古典主義者なのかもしれない。ダントーやディッキーは明らかにポップアートから触発されていたが、ビアズリーが同時代の作品を論じている文章はほとんど読んだことがない。芸術扱いされているものでも、美的経験を与えない限りで「芸術ではない」とまで言いきってしまうのが、ビアズリーの偏屈だが独特なところで、そこまで強いことを言う論者は現代だとまったく考えられない。最近の人々は美的経験を忘れてしまった、という嘆きが、ビアズリーによる芸術の定義を駆動しているように思えてならない。

2022/01/07

現代美術館で「クリスチャン・マークレー展」と「ユージーン・スタジオ展」を見た後、近代美術館で「民藝の100年展」を見るというので、大移動の一日だった。

マークレーは『シミュレーショニズム』を読んでからずっと気になっていたアーティストなので、こう本格的な個展で見られてうれしい。レコードの盤やジャケットをコラージュした作品は、ものとして可愛らしく、《レコード・プレイヤーズ》のすごく安直な感じも一周回って笑える。いちばん良かったのは《ビデオ・カルテット》で、クラシックな映画から演奏の場面をサンプリングし、四つのスクリーンで同時に再生するというもの。コードが別のコードに上書きされ続ける感触が面白く、ごくたまに混沌のなかからハーモニーが生まれるのも心地よい。《インベスティゲーションズ》もよかった。ピアノを弾く手の写真から音を再現するという作品で、五線譜付きのカードがしゃれている。ただ、もうひとつの筋である、コミックのコラージュにはあまり興味なかった。

どっちに行くかかなり迷ったが、久保田成子はもう少しナムジュン・パイクやフルクサス周辺を勉強してから見たかったので、ユージーン・スタジオにした。Twitterでも流れてきたが、かなり「映える」展示で、デート向きだと思う。でかい人工の海、丸焼きの部屋、チェス盤の乗ったドラムセット、さらさら落ちてくる光のつぶ。全体的に白っぽく、親密さの痕跡を感じさせる作品が多めで、「心地よい破滅」の味わいがあった。

現代美術館の常設展も見たが、ボルタンスキーとアピチャッポンの部屋がすごくどんよりしていた。ボルタンスキー作品はほんとうに格好いいのだが、あまりにシリアスなので、こちらの元気が奪われるときがある。マークレーとは正反対だ。

現代美術館ではどんどん抜かされるぐらい私の歩みが遅かったようだが、近代美術館ではどんどん抜かすぐらい周りの歩みが遅かった。「民藝の100年展」はふだんならほとんど興味ない分野だが、窯元に入った友達におすすめされたので見てきた(あと、さいきん柳宗理が好きだから)。民藝がもとは収集活動だったというのも知らなかったので、美的経験はともかく、かなり勉強になる展示だった。個人的には新作民藝運動以後のモダンなデザインが好きで、吉田璋也のバイカラーな皿なんかはかなり欲しかった。売店では柳宗理がいっぱい売っていて、ぜんぶ欲しかった。

ラーメン食べて帰ると、出かけるときにはまだ少しだけ玄関先に残っていた雪がすっかり消えていた。

2022/01/06

雪だ!

足元もおぼつかないなか、慣れない電車出勤でよいしょよいしょとようやくたどり着いたのに、1コマだけ働いたところで塾は臨時閉館になってしまった。仕方がないのでうんしょうんしょと帰宅する。

雪はきれいで、服についたのを袖で払うと、クシャッと溶けるのがいい。

2022/01/05

最近はペペロンチーノを作るのにハマっている。これもまた料理のお兄さんリュウジに教わった方法だが、パスタは別鍋を用意せずとも、ガーリックオイルを炒めるフライパンでそのまま茹でればいいのだ。今日は唐辛子を切らしてしまったので、ラー油とタバスコでそれっぽくごまかした。オイルがよく絡んでいると、あつあつで食べられるのがうれしい。

2022/01/04

論文なり本の検討会で、「なんでこの著者はあれを引いてないんだろう」と言ってもしょうがないだろう、とよく思う。「この話題に関連して、あっちの人はああ言ってて、それを踏まえるとこの人の議論はしかじかだ」というフォーマットであれば健康だと思うのだが、筆者の文献収集力を直接的に貶める物言いと、それに対して参加者みんなでうんうんと優位を噛みしめる時間がけっこういやだ。百歩譲って、貶す分にはいいのだが、疑問文のかたちをとっているのがいやらしい。特定の文献を読んでいない理由なんていくらでもあるだろう。純粋にそんなの知らんかもしれないし、金銭的・言語的・権利的にアクセスできないのかもしれないし、知っててアクセスも出来るが、優先順位が低くてたどり着けていないか、ただただ興味がないから無視しているだけかもしれない。理由がどれであれ、だからなんやねんで落ちそうな話でしかないのが、「なんでこの著者はあれを引いてないんだろう」疑問文のしょうもないところだ。

2022/01/03

家族と散歩でシーパラダイスに行ったが、いつのまにかブルーフォールが無くなっていた。私は一度も乗ったことがないのだが、妹が小さい頃、身長制限で乗せてもらえずにぐずっていたのを覚えている。100メートル超の高さから落下する経験を得られないことに7歳だか8歳の女の子が抗議するエピソードからして、妹の胆力は私のそれとは格が違うものであり、だからマリパも強いのだと言われれば私は納得すると思う。当人は今日が誕生日で、またひとつ歳をとることに抗議していた。

2022/01/02

夕方ぐらいに眠くなったので、犬を抱いて仮眠した。すやすやねむれた。

2022/01/01

新年なので毎年恒例の「面白かった映画選」を書いた。キューブリックやらゴダールをアフィリエイトみたいな敬語で紹介していた一年目から比べると、ここ二年はずいぶん重めでフォーマルな文体になったと思う。とはいえ、私の書くレビューは作品外のコンテクストをほとんど利用しないし、整った画面とコントロールされた物語(り)をひたすら褒め称える点において、なんら高尚なことをしてない形式主義だと思っている。今までも暗にそうではあったが、とくに今年は映画における見世物性をかなり意識した評価になった。少なくとも現在の私は、映画が映画である限りで、歴史的にも脱歴史的にも見世物であること、サーカスの子孫であること、情動を直接的に喚起するメディアであることからは逃れられないと思っている。そういう意味で、「画面がバッチバチにキマってた」とか「あのシーンが死ぬほど怖かった」といったレビューは、映画作品の見世物性に関する評価的言明として通底するものだと思うし、映画批評のもっとも純化されたかたちではないかとすら思うときがある。それが少なからず下品であることを自覚しないわけではない(だからブログではなく日記に書いているのだ)が、上品ぶった言説にほどがあるだろうというのが正直な気持ちではある。

2021/12/31

今年もおしまい。実家で妹とゲームをしているがマリパやっても桃鉄やっても一向に勝てない。

2021/12/30

Macのキーボードを打つときにタイプ音を鳴らすソフトを導入した。どうということはないが、気分がいい。

2021/12/29

先日、「failed-art」に関して難波さんと村山さんに応答記事を書いているときにも再実感したが、こうした言論の場はきわめて特殊な信頼関係とフェティシズムにおいて成立している面がある。すなわち、主張や立場を吟味するときにはあの手この手で粗を探し、侮辱的な言葉さえ使わない限りで、相手の感情を推し量ることなく自分の考えを表明するという作法を、双方が少なからず受け入れている場所なのだ。それを否定共同体と呼んでもいいだろう。否定共同体では、否定の身振りが許されるだけでなく、ときには称賛さえされる。すなわち、感情よりも主張を優先することそれ自体に、ほとんどエロティックと言ってもいいような価値を見出す点において、参加者はみな否定フェチなのだ。

もしそれが、「定義や議論の論理構造をはっきりさせ、明瞭な論述を行う」などとして分析哲学に帰属されがちな特徴のひとつなのだとしたら、分析哲学は哲学のなかでも相対的にホモソーシャルで、閉じたサークルということにもなるのだろう。もちろん、分野にもよるだろうが、アカデミアという場所自体が強い否定共同体である。その学問的有害さは、(あるとして)私がここで云々言える規模の話ではないが、ともかく言えることは、否定共同体の作法を日常的な対人関係に持ち込むと良からぬことになるという、当たり前だが忘れがちな事実だ。「会話」と「議論」の語を対置させるようないい加減な言説はきらいなのだが、ともあれ要点は分かるし、その意味合いにおいて「会話」と「議論」は目的と手段においてたしかに異なるのだ。否定共同体に一緒に参与してくれる人たちにはただただ感謝する一方で、「ここは否定共同体ではないな」と判断できるだけの見極め力がないといかんなというのは、年末年始に帰省することも含めて最近よく考えている。

2021/12/28

昔、SOMETHIN'のジャムセッションで私がソロをとっていたら、常連のおっちゃんが気を遣って歪みエフェクターを踏んでくれたことがある。「踏んでくれた」というかマナー的には「踏まれた」というべき奇行なのだが、とはいえ、私のフレージングが完全にロックギターのそれでありつつ、クリーントーンで弾いてるもんだから、ディストーションを踏み忘れたのだと判断してくれたのだろう。私としては気分良くGrant Greenをやっているつもりが、クリーントーンのSRVみたいになっていたのだとしたら、それはハズいので踏んでくれてよかった。油断するとすぐダサブルースになるのは、もうギタリストの宿命なのかもしれない。ジャズファンクマスターへの道のりは長い。

2021/12/27

高校時代の友人たちと数年ぶりに飲み会をした。みんな元気そうでなによりだ。冒頭で、「いまコミュニケーション能力を上げようとしており、なるべく感嘆・反復・共感・称賛・質問を心がけるつもりだ」と宣言したおかげで、その後はまっても外してもメタ的に面白がってもらえるので得をした。おすすめ。

2021/12/26

そういえば鶏むね肉ってよく食べるけど、鳥の乳首って見たことないし、気づかず鶏皮と一緒に食べてるんだろうか、という疑問が湧いたが、まもなくそのバカバカしさに気づいて自分でツボっていた。

2021/12/25

夜中にしかけた判断は寝て起きてからしたほうがよく、真冬にしかけた判断は春が来てからしたほうがよい。

2021/12/24

ガーデンプレイスのバカラシャンデリアなる展示物を見てきた。通ったことのない道を通ってガーデンプレイスまで歩いていったので、道中にも見どころが多くて面白かった。途中、目黒川あたりで建て替え中の清掃工場の前を通ったが、煙突がバカみたいに巨大で怖かった。

2021/12/23

余り物のキムチ鍋を雑炊にしたが、米入れる前に洗うのを忘れた。だめだこりゃ。

2021/12/22

勉強会でフレドリック・ジェイムソンを読み続けている。いままでイメージでしか持っていなかったマルクス主義批評(+ちょい精神分析批評)の具体例に触れられてたいへん勉強になるのだが、基本的には社会構造やその改革に関心があって、そのために作品をダシにしている感が否めなくてあまり好きにはなれないアプローチだ。なんだか結局、「みんな孤独が辛いんでしょう?核家族しんどいでしょ?」と言われ続けている気がする。そりゃそうだろうとしかコメントしようがない。

2021/12/21

「分析美学は批評に使えるのか」というおなじみのテーマがあるが、一家言ある人がこんなにもたくさんいるというのはなんだか不思議だ。これも問いの立て方に問題があって、「分析美学は批評の役に立つのか」ということであれば、キャロルとかを読むことが実際の批評を行う上で(なんらかの)役に立つことは自明だろう。批評の哲学なのだから、そりゃそうだ。しかし、それは倫理学が倫理的に生きる上で役に立つぐらいの話で、「大いに」役立つかどうかは定かでない。気持ち悪いのは「分析美学は批評に使えるのか」という言い方で、それはどうしてもポストコロニアル批評や新歴史主義批評と同レベルのカテゴリーとして分析美学批評がありうるのか、という問いのように見えてしまう(し、物申している人の多くはまさにそれを問題としているように思う)。私は、それについてはノーの立場だ。世の中には、①分析美学における議論や概念を援用した作品批評があり、また、②別の所では分析美学の論文を書いている人物による批評があるだろう。それらは、上で問題にされていたような「分析美学批評」の実例とは思えない。少なくとも、ポストコロニアル批評やら新歴史主義批評やラカンやらアルチュセールと並置できるような共有された方法論がない限りで、それがあるかのように振る舞うのは詐欺だ。

あるいは、そんなに強く退けなくとも、とにかく分野としてプライマリーにやっていることはもっとメタ的・一般的であり、個別作品の批評に“使える”ような分析美学批評があるとしてもそれはセカンダリーですよ(プロパーな意味で「分析美学をやっている」論者が気にするようなことじゃないですよ)、という落とし方でいいと思う。

2021/12/20

真穴みかんを買ってきた。こたつにみかんが設置されているという事態は、食べることを抜きにしてもうれしさがある。

2021/12/19

M-1を見た。昨年のマジカルラブリーのせいというか、あれがアリだということになったせいで、壇上を広く使って騒ぎ暴れるボケがかなり多かった。私としてはぜんぜんはまっていないので、嫌な流れだと思う。ともあれ錦鯉が優勝して、学部時代に友人の誰かしらが言っていた「バ行をでかい声で言う(""バ""ナナ!!!!)のが一番おもしろい」が証明される形となった。私はオズワルドが好きだが、ネタはM-1用にアレンジしたものより、YouTubeに上がってるオリジナルのほうが面白い。

2021/12/18

食材を買ってきてキムチ鍋をやる予定だったが、面倒になって、辛いインスタント麺を食べた後、チーズとごはんで雑炊にした。雑炊にする米は、あらかじめ洗ってでんぷんを落としておくといい、というのは今年学んだことのひとつだ。

2021/12/17

コタツの上で盛大に紅茶をこぼして元気が萎んだ。被害にあったのは青田麻未『環境を批評する』(軽症)、ジョゼ・サラマーゴ『白の闇』(中等症)、山本浩貴『西洋美術史』(重症)。『西洋美術史』の上に積んでいた北村紗衣『批評の教室』は無事だった。なにより、シブリーの論文コピーが身を挺して紅茶を吸ってくれたおかげで、これでも被害は抑えられたほうだ。ありがとう、シブリー。

ちょうど読んでいた藤田令伊『現代アート、超入門!』も無事だった。話変わって、この本のp.146にはディッキーの芸術理論について、がっつり誤った説明がある。

「ディッキーは、あるモノがアートであるか否かの判断を下す主体をより具体的に示し、それは鑑賞する側の人間だとした。鑑賞する側が「こういうものは(も)、アートと見なせる」という社会的文化的な了解を抱けるかどうかにかかっているとし、ただ単にアーティストが「これはアートだ!」と述べているだけではアートとはいえないと定義づけた」

よく見る偽ディッキーの主張だが、ディッキーはそんな定義していない。2021/08/29の日記を参照。初期ディッキーによれば、芸術作品とは鑑賞候補の身分を授かった人工物であり、身分の授け手はアート・ワールドを代表して振る舞う人(々)なのだが、これを鑑賞者として誤解する人は後をたたない。ディッキーが繰り返し強調しているように、「アート・ワールドを代表して振る舞う人(々)」でまずもって意図されていたのは、芸術家本人だ。そして、芸術家たった一人であっても、身分の授け手になれることまで認めている。

よく読まれている本なので、Twitterで周知してもいいのだが、ツイートしたくない気持ちが勝った。

2021/12/16

ナミブ砂漠に設置された水飲み場のライブカメラ、というかなり魅力的なコンテンツを知った。だいたいチュンチュンと鳥が鳴いており、たまにバサッと逃げたかと思えば、オリックスが群れがのそのそやってきたり、イボイノシシのコンビがちょこちょこ駆け寄ってくる。スプリングボックの群れが30頭ぐらいでやってきたときはすごく感動したし、突然やってきたジャッカルがそれを蹴散らしたのもびっくりした(ジャッカルは水だけ飲んで帰った)。夜中にはうさぎやヤマアラシも来てたし、いくらなんでも見どころが多すぎる。なんだか、バーの時間帯別の常連たちといった趣で、かわいげがある。

2021/12/15

『東京卍リベンジャーズ』をすごい速さで読み進めたが、不都合な未来を変えるために何度も過去に戻って事実を修正しまくる主人公が、その営みにまったく躊躇していないところがなんだか不気味だった。そこには、そうして修正された都合のいい未来でいいのか、というタイムリープものにつきものの自問はまったくなく、主人公はうれしくて鼻水たらして号泣するだけだ。なんだかリセマラのような話で、スマホゲー世代ならではの想像力なのかもしれない。あるいは、与えられたカードで勝負する、みたいな宿命に対する屈服ではなく、ズルしてでもいいカードを引こうという野心の表れなのであれば、それはそれで健全なことなのかもしれない。私には納得がいかないだけだ。

それはそうと、そうして未来を改変しまくるにもかかわらず、過去において協力関係にある人たち(一人を除く)に対して未来から来たことを隠すのは、「現代にどういう影響を及ぼすかわからないから」と言うのは、プロット上の欠陥どころか欺瞞であり、腹立たしい。

2021/12/14

私が理想とする文章の十分条件はシンプルで、DeepLに投げるとすっきりした英文が得られ、その英文をDeepLに投げるともとの日本語とそっくり同じになるような、そんな文章だ。The sufficient condition for my ideal sentence is simple: if I throw it into DeepL, I get a neat English sentence, and if I throw that English sentence into DeepL, it becomes exactly the same as the original Japanese sentence. 私の理想の文の十分条件は簡単で、DeepLに放り込めばきちんとした英文ができ、その英文をDeepLに放り込めば元の日本語文と全く同じ文になることです。

2021/12/13

Kubala (2021)によれば、美的な実践には、内的規範の問題と外的規範の問題がある。前者は「Xをやるなら○○すべきであり✕✕すべきではない」といった実践内のルールに関する問題で、後者は「XよりもYをやるべきである」といった実践間の優劣・選択に関する問題だ。前者は、批評の哲学でよく問題になる正しい解釈/評価の問題と直結しているのでよく考えているものだが、後者についてはあまり考えたことがなかった。クバラと同じく、実質的で強い外的規範があるとは思えないからだ。「ロックはしょうもないからクラシックを聞け」みたいな言説はどう考えてもしょうもない。

とはいえ、実践間の優劣が重要でないことは、カテゴリーをまたいだ作品比較が難しいという問題と、実際のところ同じ話なのではないかと思えてきた。キャロルの『批評について』(今日レビューを書いた)でも、カテゴリーをまたいだ比較については、最後の最後で軽く触れられている。ある作品があるカテゴリーのもとでどういう達成をしているのか考えることは相対的に容易だが、別のカテゴリーで別の達成をしている作品と引き比べることはしばしばややこしい。シェイクスピアとP・G・ウッドハウスのどちらを読むべきか、みたいな話だ。クバラや私と同様キャロルは、そうして優劣をつけることが往々にしてしょうもないと認めた上で、しかし、カテゴリーの目的が持つ文化的重要性に基づいたカテゴリー間比較もできなくはないと考えているようだ。「ロックよりクラシックのほうが文化的に重要だ」とは言っていないが、それに準ずるようなことは確かに『批評について』に書いてある。いずれにせよ、文化的に重要で価値的に優れているからといって、それを選択する理由がある(選ぶべきである)かどうかは定かでないし、キャロルはその辺を問題にしていなかったはずだ。なんとなく、価値において実践間の優劣は付けられるとしつつ、しかし、行為選択に関する外的規範まではいかない、という立場もありえて、キャロルはまさにこれではないかと思っている(実践内的規範に関して、好みと価値測定を区別する議論でも、同様の立場を取っているはずだ)。いずれにしても、実践外的な規範の話は、そこまで強く興味があるわけではないので、誰か別の人に扱ってもらえればと思う。

2021/12/12

音はともかく、美的な格好良さに関して、ストラトキャスターはテレキャスターに完敗している、というのが私の美的センスだ。エレキギターというジャンルにおいて、テレキャスターはもっとも原始的で、シンプルかつミニマルなモデルだ。それに対し、ストラトキャスターは多機能的で、はるかにモダンなモデルだと言えるだろう。正直、ストラトのハーフトーンに憧れたことは一度や二度じゃすまないのだが、それでも私はもっぱら見た目的な理由でテレキャスターをメインのギターに選んだ。見た目が好きなギターを使うことの快楽は、いい音を出すことの快楽を往々にして上回るものだ。しかし、これは私にとって二本目のギターだ。中学生のとき、はじめて買うギターでテレキャスを心に決めていたのにストラトを買うことになった話は、そのうち書こうと思う。

2021/12/11

ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地、ジャンヌ・ディエルマン』というほんとうに傑作としか言いようのない映画を見て二年ぶりの★5.0をつけたあとで、『ラストナイト・イン・ソーホー』というかなりしょうもない映画を見に行った。一日で、がっつり褒めたしがっつり貶したわけだ。ノエル・キャロルなんかは、作品を貶す批評にはほとんど意義がないと書いているが、これは私が同意できない主張のひとつだ。たとえば、『ラストナイト〜』の欠点のひとつに、安っぽいイジメっ子キャラの登用がある。本作にとって重要な主題のひとつが「男性恐怖症」であることは、議論の余地がないだろう。ブランド物で着飾って、主人公を田舎者扱いしてくるギャルたちは、この主題をブレさせるだけで物語の大筋にほとんど関わらない、単なる装飾と化している。このような欠点の指摘が、どこまで的を得たものであるかはともかく、書くことで作品の不備を指摘し、読むことで不備とされているものを理解することは、作品の利点を指摘し理解するのと同じ能力を動員しているはずだ。悪さが分かれば良さも分かるし、良さが分かれば悪さも分かるのだ。そして、このことは『Why It's OK to Love Bad Movies』に対する道具主義的な回答だと思っている(この本ははやく読みたい)。

2021/12/10

ここ数日、川尻こだまで知った認知シャッフル睡眠法をやっているが、ほんとうにスムーズに入眠できるのでびっくりしている。こういう、身体をモノ扱いできるライフハックは大好きだ。「脳を取り仕切ってる存在」の造形もかなりいいし、ブレーカーのメタファーも感覚に合っている。そうなってくると、寝る前に『溶ける魚』とか読んでおけばいいということにもなりそうなものだ。

2021/12/09

陽の光に当たってなさすぎるので、隣駅まで適当に散歩してきた。古本屋で、四方田犬彦の『映画と表象不可能性』を買う。ストローブ=ユイレはひとつも見たことないし、パゾリーニもゴダールもファスビンダーも、取り上げられている作品は見たことがない。こういった監督たちの話をする人も、最近はめっきり影を潜めたように思う。それぞれ見たら読もうと思うが、いつ見る機会があるのかは分からない。

今日も今日とてホットサンドを作り倒している。いまあるレパートリーは、①タコス風ソーセージ、②クロックムッシュ風ハムエッグチーズ、③あんこバター、④エルヴィスサンド、といったところだ。夏に何度か作った生ハムズッキーニセミドライトマトのパニーニもこれで作りたいのだが、生ハムに火が入ってしまいそうなので作戦を練る必要ある。

2021/12/08

キャロルが『Routledge Companion to Philosophy and Film』に書いた「Style」の項目を読んだ。ここ最近はメタカテゴリー(genre、style、form、mediaなど)についての論文を書いており、スタイルもその一環で調べている。

キャロルはスタイルをふたつの方面から、すなわち、(1)区分概念としてのスタイルと、(2)説明概念としてのスタイルから、それぞれ考えている。

スタイルは、ある作品群をその他の作品群から区別するのに役立つ。キャロルが念頭においているのは、①時代や地域のスタイル(30年代スタジオシステムのスタイル)、②流派や運動のスタイル(ネオリアリズムやヌーヴェルヴァーグ)、③ジャンルのスタイル(コメディやホラー)、④個人のスタイル=個人様式(キューブリックや小津のスタイル)であり、また多くのスタイルはそれらのハイブリッドだとする(30年代のギャング映画のスタイル、など)。要は、ここで言われていることは、個別作品群が時代、地域、流派、運動、ジャンル、作者といったさまざまなメタカテゴリーによって区分できる、ということに過ぎない。それぞれに関して、各カテゴリーと紐付けられたスタイルを語ることはあるが、それらと並置される仕方で、スタイルというメタカテゴリーがあるわけではないのだろう。これは結構学びがあった。なんとなく、私はジャンルとスタイルが横並びだと思っていたのだが、それは幾分カテゴリーミステイクなのかもしれない。つまり、純粋にスタイルでしかないようなカテゴリーは存在せず、すでに別のメタカテゴリーに属するカテゴリー(あるジャンル、ある運動、ある作者の全作品)が得られた上で、そのスタイルが語れる、という塩梅なのかもしれない。このことは、あるジャンルのスタイルについて語ることは自然でも、あるスタイルのジャンルについて語ることが不自然であることとも整合的だ。

キャロルが一層関心を寄せているのは、個別作品の構造を説明する概念としてのスタイルだ。これは、上で見たグループ-スタイルとは違い、個別作品におけるスタイルの話になっている。実際、キャロルが問題としているのはスタイルそのものというより、スタイル分析[style analysis]であり、ここはやや期待はずれだったのだが、スタイル分析はキャロル的な「形式分析[form analysis]」と同じものとして捉えられている。すなわち、キャロルにおいて、個別作品の「スタイル」を分析することと「形式」を分析することは同義であり、その差分は問題にされていないのだ(あるいは、個別作品のstyleということで、もっぱらformのことしか考えていない)。また、「形式」も中立的な仕方では理解されていない。キャロルのformと言えば例の機能主義的なやつであり、「作品の目的を達成するために意図的に選択された手段のアンサンブル」であるとされる。それを分析の切り口(のひとつ)とすることには私も賛同しているのだが、その切り口をformと呼ぶのはやや修正的であり、良くも悪くもキャロル節が効いているところだ。結局、個別作品におけるスタイル分析の話は、キャロルの主要なアイデアをすでに知っている読者にとっては、ほとんどインフォーマティブでないものになっている。

2021/12/07

先日、念願のホットサンドメーカーを手に入れたので、せっせとパンを焼いている。昔からよく作っていたエルヴィスサンドはバナナがぼろぼろ溢れるのが難点だったので、しっかり封をしてくれるのはかなり助かる。コーヒーとのペアリングに関して、ホットサンドはかなり上位に食い込んでくるので、朝昼はしばらくこれでいい。

2021/12/06

ライナー・ヴェルナー・ファスビンダーの『ペトラ・フォン・カントの苦い涙』を見た。当たり外れはともかく、そして本作は個人的にははずれなのだが、ファスビンダーの映像は大好きだ。ざらざらしていて、マットで、触感的な映像だ。ことによると、それは私のマルチモダリティを文字通り刺激するような映像なのかもしれない。ファスビンダーの映像は、手で触れているような感覚がする。それは、編集によるところもおおいにあるだろうが、戦後ドイツという描写内容の時代・地理によるところもおおいにあると思っている。つや消しされていることは、あの時代・地理の様式にとって、標準的特徴のひとつではないかと思う。

2021/12/05

『ONE PIECE』の101巻まで追いついた。前は鬼ヶ島突入直前で止めていたので、5巻分後追いしたわけだ。昔は新刊が出るたびにチェックしていたが、鑑賞のペース配分として数ヶ月に1巻というのは性に合わず、思い出したときに数巻まとめてスタイルになった。本誌で週刊連載を追える人は、いい意味でもわるい意味でもなく自分とはぜんぜん違うなぁと思う。そういえば、まだ完結していない連載中の作品を追うという経験自体、伝統的な芸術鑑賞とはかなり異質なものだと思うが、その辺を深堀りした話は読んだことがないな。

2021/12/04

カール・テオドア・ドライヤーのリマスター上映なんて本当に素敵なことなのに、蓮實重彦の帯文で「彼のすべての作品を見ていなければ、映画について語る資格はないと断言したい」なんて言われると、唐突に見る気が失せるので勘弁してほしい。すっかり権威主義老人になってしまったので、どうしてはやく引退しようと思わないのか不思議で仕方がない。蓮實さんは本当に尊敬できない知識人の一人なのだが、そんな御仁が幅を利かせていた研究室に所属している(かつそこで学位をとる)ことは、私にとって多分に恥ずべきことであると同時に、絶対に空気を変えてやるぞと強く決意させられるところである。

2021/12/03

買い出しに行こうかと思っていたが、面倒くさくなって、インスタントラーメンに作り置きの豚キムチを投入して、なんかいい感じのラーメンにして食べた。粉末スープが半分ほど残ってしまったので卵スープでも作ろうとしたが、面倒くさくなってキッチンの隅に放っておいた。きっと来週も再来週も触れられることなく、そこにあるのだろう。

2021/12/02

美大や音大で習うような芸術理論は、哲学的な芸術理論とは毛色の違うものであり、後者やる上で前者は必ずしも必須のものではないと思うが、あればあったで見方が変わってくるんだろうなと思う。具体的には、美的なものの最も基礎的な説明項に美的性質を据えるような論者が念頭に置いているのは、美大音大の理論がサポートするような「(統一性、多様性、強度を備えた)良い構成」なのではないかと思う。彼らがそれを基礎的なアイテムとして扱えるのは、それがまさに教科書的なアイテムであり、少なくとも彼らのサークルでは共通知識として成立しているようなアイテムであるから、というのが物事の一側面なのかもしれない。

2021/12/01

耳鼻科で錠剤と一緒に漢方薬を処方してもらった。粉薬にはものすごく苦手意識があったのでたいへん心配だったのだが、適当に湯に溶かして飲んだら楽勝だった。プーアル茶のほうがよっぽど癖があるし、私はプーアル茶はぜんぜん大丈夫なのだ。いやはや、これが大人になるということだなぁとしみじみ。

2021/11/30

好きな画家は、ぱっと思いつくのだと、ジョルジョ・デ・キリコ(ワクワクするから)、フランシス・ベーコン(かっちょいいから)、ルシアン・フロイド(ガツンとしてるから)。あぁ、好きだなぁとしみじみ思うのはマネ。

2021/11/29

某サービスの解約証明書が必要になったため、音声サービスの案内に従ってポチポチしていると、どのルートを通っても「あとはWEBで確認してね」ということで通話までこぎつけない。WEBで解決しないからこうして電話しているわけなのだが。一つ学んだ教訓としては、要件がはっきりしていても、「その他のご用件」の選択肢を選ぶことだ。これで繋がる。ようやく捕まえたオペレーターさんはとても丁寧で、さっさと解決したため、それでイライラは相殺された。実は伝えたメールアドレスのtかpかがちゃんと伝わっておらず、再度問い合わせなければならないことは、24時間後に発覚する。

2021/11/28

千葉雅也さんが、分析美学の「音楽の存在論」における(J. Doddに代表される)「発見説」に関して、物申していらっしゃる(1)(2)。曰く、それは「音楽の音構造それ自体はすでに客体的に存在していて、音楽家はそれを発見し指示するのである、とかいう説」であり、「日常的直観に反することを言って常識を生きる人をいじめたいというサディズム」から、「幼稚」「男性的」であり、「それを自覚する必要があるし、そこに享楽を感じる理由の自己分析をしないようでは哲学をやる資格なし」とのことだ。

メタファーによる印象操作はこの手の人たちの常套手段なので、それでなにかを言った気になるのは哀れとしか思えないのだが、「幼稚」はともかく、「男性的」なのを「自覚」しろという裁断は、教会からの破門じみていておぞましい。自分の書いたものについて、彼のような立場の人からこんなことを言われたら、なかなか立ち直れないと思うご自身がどれだけご自覚を持ち、老練なことをやってらっしゃるかは存じ上げないが、人がリソース割いてやっている議論に対して、かのような比喩によって攻撃する権利を、いつだれがこの人に与えたというのか。もちろん、批判するならこちらのゲームに則って主張を検討しろ(ちゃんとDoddを読め)、と応答しても、千葉さんはその強制こそ「男性的」なのだと言うのだろう。

きっとこの人は私がそちらの庭を軽蔑しているのと同じぐらい、こちらの庭を軽蔑しているのだろう。お互い違うゲームをやってますね、という話で済むのに、あっちのゲームのあれはマッチョでけしからんとケチつけてくるのは、かなり気分が悪い。のだが、私もポストモダンの悪口を言ってきたので、人のことは言えない。つまるところ、人間はTwitterで小競り合い、マウントを取り合うだけの悲しい生き物なのだ。私にできる「男性的」であること「自覚」は、Twitterを控えることぐらいだ。

2021/11/27

勉強会でPaul Ziffの論文を読んだ。Ziffは基本的に反本質主義で、芸術作品は必要十部条件では定義できないという立場なのだが、その代案としてスケッチされるのは、範例との家族的類似を元にしたモデルであり、芸術かどうかは「程度問題」だとされる。一見すると奇妙なことを言っているが、「XとYはどちらも芸術だが、Xは余裕をもって芸術であり、Yはかろうじて芸術であり、XはYよりも芸術的[artistic]である」といった言い方は、そんなに無理のないものではないかとも思われる。それでどこまでうまくいくのかは、次回の後半戦に期待だ。

もうひとつ、関連して面白かった雑談は、ラテアートやお弁当アートが「アート」と言われるときの前提に模倣説があるというものだ。たしかに、ふつうは描写ではないものを描写にしたというだけで、「アート」だとされる用法はあるように思われる。それは、「芸術形式の範例とは絵画であり、なんであれ絵画っぽいものはアートである」という直観の表れなんだと思う。健全な直観かどうかはともかく、そういった直観があることは面白い。

2021/11/26

中華のディナーコースに行ってきた。食べたことない味付けをした、食べたことのないものばかりで、たいへん楽しかった。スパイスに特化したコースなだけに、ここ数日のシビアな鼻詰まりを抱えて行くのは心苦しかったが、それを差し引いても素晴らしい体験だった。なんかあまいタレに漬けたホタテもおいしーし、クミンをあしらった……なんかもおいしかった、という風に語彙力がハチワレちゃんみたいになってしまった。毎日が記念日だといいのにな。

2021/11/25

今月だけで4回、中国の知らん番号から電話がかかってきている。Twitterを見てると、同じ目にあっている人がちらほらいて、どうやら詐欺電話らしい。とても新手とは言えないクラシックなスタイルで、毎回異なる番号を用意しつつ、異国のカモを狙うなんて、用意周到なのかアホなのか分からない。発信地も、上海、上海、杭州、北京と、バラエティ豊かだ。

2021/11/24

勉強の出来ない子供に対してできることはたくさんあるが、やる気のない子供に対してできることはほとんどない。私もそういう子供だったから分かる。飴を約束するか、罰で脅すか、というのが大人側のオプションだが、どちらも一時的な対処であり、実質的な解決にはならない。やる気スイッチというのは、こちらで探して押すものではなく、自重で切り替わる瞬間を待つしかないものなのだ。具体的には、自己に対する恥の感覚が立ち上がるまで待つしかないのだ。そういった感覚は、社会生活のなかでこそ立ち上がるという点で、クラスルームが必要なのだ。

やる気を出さず、舐めた態度でその日暮らしをすることが、持続可能なスタイルではないと自覚できるのは、ひとつには高校受験というタイミングだろう。まわりみんなが当然のように頑張り始めたのでなければ、自分も頑張るきっかけが得られないのだ。中学受験に挑む小学生が、しばしば本気になれないのは、高校・大学受験のような「みんな当然のように勉強している」感がなく、むしろ自分だけ不当にやらされている感があるからだろう。

そういうときに、親が取りがちなダメムーブとは、「お前は公立中学に行くバカどもとは違うのだ」という刷り込みである。そういった選民思想は、十歳そこらのキッズにとってはプレッシャーでしかないし、受験に失敗しても成功しても、その後の思想形成にとって有害でしかない。中学受験というのは、よほど勉強できてなおかつ勉強が好きな、一部の特殊な子供の可能性を潰さないためのものであり、そうでない子に無理をさせたり、親の見栄でやらせるようなものではない。

2021/11/23

私は技術的にカラーが可能になって以後に、モノクロを選択することにいやみを感じるのだが、にもかかわらずマイケル・ケンナが好きだし、タル・ベーラが好きだ。そこに一貫した理屈を立てることは可能なのだが、言い訳がましくない仕方でそれを説明することは困難だし、私は矛盾しているのだと開き直るほうが健康的だと思っている。前に勉強会で知ったが、Routledgeの『Why It's OK to〜』シリーズで、『Why It's OK to Be of Two Minds』というのがあるらしい。しかし、開き直るのに理屈が必要である、というのはなんだか奇妙で不健康な気もするので、読むべきかどうか分からない。

2021/11/22

ちゃんこ鍋、うまい。鶏もも肉、肉団子、えのき、しいたけ、白菜、大根はデフォルトで入れるとして、冷凍のギョウザやらシュウマイを入れるのにはまっている。適当によそって、半分ぐらい食べたところで味変にポン酢を加える。冬は鍋さえ炊いておけばたいていの問題は解決するのでちょろい。

2021/11/21

『イカゲーム』を見始めた。ロメールのしけた映画は10分見ただけでうんざりするのに、『イカゲーム』は立て続けに6話見てもまだまだ見足りない。画面に集中させる、という一点だけをとっても、娯楽は徹底的に進化している。娯楽の進化は芸術の進化とは別物だと言いたいのだが、「娯楽性を抜いた芸術的価値」というスノビズムにむなしさを感じる限りで、私も広義の快楽主義をとっているのだろう。

2021/11/20

ミヤシタパークという施設に行ってきた(2日連続の渋谷だ)。昨年新しくできただけあって、ピカピカで、若者で賑わっている。フードコートでパンダエクスプレスを食べたが、ふつうに美味しく、もう少し安くしてくれれば普段づかいしたくなるようなレストランであった。一階には飲み屋の横丁があり、祭りかというほど繁盛していた。人だかりのなかで、クリームのダックスフンドにチンチンをやらせているおっさんがいた。見せびらかしてんなぁ、と思いながらしばらく見せびらかされた。

2021/11/19

まるまる1年ぶりに大学の友人と街飲みをしてきた。金曜夜の渋谷はまさにSHIBUYAMELTDOWNで、いやはや凄みがあった。ポジティブにもネガティブにも、私の生活における感情の振り幅をぶっちぎるような街で、金曜夜はとりわけガッツがある。帰りにセンター街を歩いていると、もう終電間近にもかかわらずなにをしているのか皆目検討もつかないような外国人たちが一クラス分ぐらいの人数でたむろして、タバコを吹かしていた。彼らはどこに帰っていくんだろう。

2021/11/18

Silk SonicのMVにはWarner Music Japan提供で日本語字幕付きのものがある。のだが、3本中3本に誤字があって、頭をひねっている。具体的には「Skate」の「おまえを知りたいん おまえを知りたいんだ」、「Smokin Out The Window」の「この女は 俺に家賃を払わせて 旅行代まだ払わせて」、「Leave the Door Open」に至ってはしょっぱな出だしが「何してるだい?(何してんの?)」でズコーッといったところだ。せめて、日本語よく分かっていない外国人スタッフが担当したのか、仕事できない日本人スタッフが担当したのか教えてほしい。こう、労力を投入してしかるべきところでずさんさが見えるのは非常に腹立たしいのだが、KPOPを見ててもこういうのばかりだ。日本語和訳をつけてくれるのは大変ありがたいのだが、DeepLのほうがずっと自然な日本語になるだろうというレベルなことが多い。責任をもって目を通す人はいないのかと思う。たったひとつの論理的な説明とは、いない、ということだ。

2021/11/17

私は現代文を教えて日銭を稼ぐこともあるのではっきりと分かるのだが、現代文の試験問題が前提としているのは現実意図主義ではなく仮説意図主義だ。テキストから合理的に再構築される限りでの“作者の意図”に基づいて、整合的な選択肢を選んだり正しく要約することこそが、求められているスキルなのだ。よって、センター試験のあとで、出題された現実の作者が、「模範解答は私の意図したところとは異なる」といった発言をしたところで、それは現代文教育のいい加減さを暴露する決定的な材料にはならない。現実の作者がちゃんと書けていない可能性もあるし、抜粋された部分だけから仮説された意図が、現実の意図と一致しないというケースもありそうだ。「人の意図なんて、本質的にはわかり得ないのだ」みたいなアイロニーも、ここではなんの関係もない。この手のアイロニーから抜け出せないままの人は往々にして現代文の出来がわるい(現役のころの私のように)。

もちろん、問題作成者も全能ではないのだから、どう読んだってその答えにはならないだろう、という模範解答もたまにはある。2011年の小説で、ある情景描写から象徴内容を取り出す問題があったのだが、あの抜粋部分だけで正解の選択肢を選ぶのはかなりしんどさがある(し、それによって試されているスキルに一般性があるとも思えない点では、いわゆる悪問なのだろう)。それでも、各予備校の講師陣による解釈がおおむね一致するときには、それこそが問題文の“正しい意味”なのだと言って差し支えないだろう。受験現代文とは、そういうゲームだからだ。もちろん、受験現代文のルールを自覚することと、批評のルールを知ることは、別問題だったりする。

2021/11/16

私は小説を読むのが遅い。昔から、他の人はなぜ小説を読むのがあんなに速いんだろうと不思議に思っていた。文庫本400ページぐらいの長編小説なんて2時間で読めるという人や、上下巻のものを一晩で読んできたという人がいて、いや、私はそれに一週間も二週間もかけているのだが……という気持ちになる。集中力やら没入感が、私の読書経験とは違いすぎるのだ。私は一日に15分だけ読んだり、途中で別のことをしたり、他のことを考えながら何度も同じ行を読み返す仕方でしか小説を読めない(作品にもよる)。ページをめくる手が止まらない、といったゾーン経験をすることはめったにない。もしかすると、私はかなり非効率的な読み方をしているのかもしれないが、走り方や泳ぎ方とは違って、小説の読み方をチェック・矯正してもらう機会がぜんぜんない。こと小説に関しては、この〈タラタラ読む〉ことが私の批評的与件となるわけだ。批評的に言って、つまり、作品に関してより正確で有益な記述を行うゲームに関して言えば、これがどこまで大きなハンディキャップなのかは分からない。

2021/11/15

やるやると言い続けていた「ジャンル」研究に、ついに着手した。個別ジャンルのどれかから入るつもりだったが、やっぱりジャンルというメタカテゴリーのあり方からアプローチすることにした。形式、様式、メディアといった、似て非なるメタカテゴリーとの比較検討がさしあたりの作業となるだろう。基本的なアイデアとしてはわりといいものが見えつつあるのだが、インスピレーションのもとになったのは、まったく別の文脈で別の話題を扱う論文だった。詳細はまた固まったらなんらかの形で発表するが、こういう仕方で、ある方面での勉強が別の方面で役立つ感じは、哲学研究の醍醐味のひとつだと思う。

こたつを出した。ついでに掃いたり叩いたりしたせいで、ハウスダスト地獄を味わった。

2021/11/14

タコライスを作って食べた。冷蔵庫でずっと眠っていたサルサソースをついにやっつけられそうで一安心だ。

結局こたつは出さなかった。明日こそ出す。

2021/11/13

アメリカンプレスで淹れた深入りコーヒーと、キャラメリゼしたナッツを入れたヨーグルトが抜群に合ったので、QOLが上がった。それはそうと寒すぎるので明日こそコタツを出そうと思う。

2021/11/12

Silk Sonicのアルバム『An Evening With Silk Sonic』がついにドロップされたわけだが、本当によくできた音楽で感心している。Bruno Marsはここ数年、R&B〜ソウル〜ファンクをメインストリームに昇華させる上でとんでもない貢献をしてきたので、今回もやってくれるだろうと思ってはいたが、いやはや文句なしの名作を生んでしまった。Anderson .Paakはあまり聞いてこなかったが、ヴォーカリストとしての存在感がとんでもない。シンプルに声がめちゃくちゃいい。本作のキラーチューンはなんといっても「Smokin Out The Window」だと思うのだが、「oh no!」と合いの手を入れてるだけで華がある。この曲も、貢いだ女に振られる情けない男の哀愁漂う一曲で、これをちょび髭グラサンの二人が軽快に歌っている姿がもう面白い(何度見ても.Paakが倒れるところで笑ってしまう)。総じて暗い時代にもかかわらず、ここまでスウィートでソフトなグッドメロディに、くすっと笑ってしまうようなビジュアルで来るとは。歌声のフェティッシュというべきか、結局のところ、ビシッと決まったコーラスを耳にする快楽には代えがたいものがあるのだ。しかしこう、オマージュともアップデートとも言い難いほどにどストレートな70sサウンドがこんなにもフィールグッドなら、結局のところ人類に必要だった音楽はこれだけなのだという話になりそうなものだ。

2021/11/11

先日のテロ事件のせいで『ジョーカー』が地上波放送禁止(見込み)とのことで、表現の自由ウォーリアーがいきり立っている、いつものインターネット風景だ。そもそも、どこかの局が禁止宣言をしたわけでもなく、実在するかも定かではない“テレビ関係者”発の噂が、あたかも公式発表であるかのように騒がれるのは、もはやひとつの様式美だろう。一般論として、薄い理論武装に慢心して、森羅万象を理解した気になってはならない。小論文を教えるとき、いつも早めに釘を刺しているのだが、「自由」「多様性」「個性」「平和」「平等」といった教科書的道徳に落とせば、なんでもかんでも話が済むわけではない。そういった道徳は、議論のジョーカー・カードにならないのだ。肝心なのはケースごとの細部、文脈であって、「表現の自由」から演繹的に批判できる以上の事情があるのではないかという、想像力だ。いつもながら、作品への“愛”がことをややこしくしている。愛するものが不当に扱われてしまったときの人は、驚異的な攻撃性を発揮する。これはまったく正当な心理だが、それがもたらす帰結は必ずしも正当ではない。The Plattersも歌っているように、煙で目がしみているのだ。

2021/11/10

今日はレジュメ担当のイベントがふたつあったので、ずっと喋っていた。ふたつ目でフレドリック・ジェイムソンの「映画のマジックリアリズム」(1986)を読んだのだが、内容はともかく、ジャンル研究の方法論としてはわりと学びの多いテキストだった。とくに、確立したカテゴリーを/から批評するのではなく、批評によって/とともにあるカテゴリーを確立させていく実践になっていて、これはちょうど気になっているものだった。マジックリアリズム映画に対するジェイムソンの特徴づけ(およびポストモダニズム映画=ノスタルジア映画との対比)は、ガルシア・マルケスやらのマジックリアリズム文学とどう繋がるのかいまいち分からないところが惜しいのだが、ともかく、あるカテゴリーをスケッチして色付けしようという具体的な試みであり、そのやり方は大いに気になるところだ。批評の哲学で具体例が必要になったら、引くことにしよう。ところでジェイムソンははじめて読んだのだが、細かいところはともかく論文の構造はわかりやすかったので、意外ととっつきやすい書き手だった。「カヴェルよりは読みやすい」という意見が出て、まったくその通りだなと思った。

p.s.日記ページがでかめのブルテリアぐらい重くなり、にっちもさっちもいかなくなったので、少しだけ体裁を変えたらすっきり軽くなった。生まれたての豆柴ぐらい。

2021/11/09

ディッキーの『Art Circle』(1984)に対するレヴィンソンの書評を読んだ。レヴィンソンの評価は手厳しく、ディッキーの本はほとんど制度説に対する防御のための防御にしかなっておらず、目新しいことを言っていないどころか、以前の制度説よりもしょうもなくなっているという。

Dickie (1984)は、相互定義的な5つの概念をセットで提出することで、「ねじれた概念[inflected concept]」として芸術を特徴づけようとするものだ。

  • 芸術家[artist]とは、芸術作品の制作に理解を持って参加する人である。

  • 芸術作品[work of art]とは、アートワールドの公衆に提示されるために制作される種の人工物である。

  • 公衆[public]とは、提示された対象を理解するための準備がある程度できている人々の集合である。

  • アートワールド[the artworld]とは、すべてのアートワールドシステムの総体である。

  • アートワールドシステム[an artworld system]とは、芸術家が芸術作品をあるアートワールドの公衆へと提示するための枠組みである。

レヴィンソンは、正当にもこのバージョンの課題をいくつか指摘している。第一に、5つの概念の周辺で前提されている「理解を持って」や「提示するために」「準備がある程度できている」といった要素は、日常語のままでとるにしては曖昧である。これらについて細かい説明を与えない限り、定義のサークルはミステリアスなままだろう。第二に、レヴィンソンは「アートワールドシステム」の定義に満足していない。それはおそらく、絵画や演劇、ホラーやヌーヴェルヴァーグといった、各芸術実践を念頭に置いているのだろうが、その内実については十分明らかになっていない。私が思うに、芸術実践や慣習に関して、最近KubalaやXhignesseがやっていることは、その辺りの補完になるだろう。第三に、ディッキーは定義における循環性に満足しているのだが、これはレヴィンソンをはじめ多くの分析美学者を戸惑わせている。ディッキーはもはやゲームを鞍替えしてしまったのか。個人的には、定義論に関するこのメタ哲学的問題が一番気になっている。

2021/11/08

NotionでTo Do List管理するようになって改善されたことはいくつもあるが、なにより、ゴミ出しを忘れないようになったのが嬉しい。

2021/11/07

自由が丘で焼肉ランチをした。自由が丘は時代を感じるというか、小さい頃に中国で見たような風景やお店の多い街だ。帰りにチャイを買いに中目黒まで行ったが、目当てのお店は不定休だった。よく考えたら最寄りのカフェでもチャイは買えるので、そちらに寄って帰宅(結局頼んだのはヘーゼルナッツラテだが)。自由が丘土産のBAKEのチーズケーキと一緒にティータイムすると、猛烈に眠くなったので30分ほど仮眠をとった。

2021/11/06

ちゃんこ鍋を作った。

2021/11/05

二日前に作ったねぎ塩チキンライス、ラップして冷蔵庫に入れたのは幻覚で、ずっと炊飯器に入ってたことが発覚して萎えた。いつもとは違い、フライパンではなく炊飯器のほうで混ぜ合わせようと思い至ったのが仇となったわけだ。

2021/11/04

人文学系の大学院博士課程なんぞいう奇怪なところに迷い込んでしまうと、人文学がさぞ肝心で、気の利いたものだと思われてしまいがちだが、世間の大部分はそれをまったく無視し、なんの不都合もなく維持されているという端的な事実については、なんら言い訳すべきではないし、大いに認めるべきだと常々思っている。とんでもないマイノリティであることはどうしたって事実なので、高尚ぶっても仕方がないだろう。

しかしながら、これは確かに面白いものであり、携わる者に特別な快を与えるものであり、無視している世俗の連中は「人生損している」、これもまた部分的には事実を構成している事柄だろう。趣味の快とはそういうものであり、それ以上のものである必要はない。

楽しい趣味は人を引きつける。初学者には教師が必要だ。こういう、楽しさを中心に駆動する文化産業に携われるならば、その他なにか意義のあることをしようというつもりはあまりない。

2021/11/03

白菜とバラ肉を煮込んで、サッポロ一番の粉末スープで食べる鍋が、最近の主食になっている。シメはもちろんラーメンを茹でて入れる。完全食だ。鍋は完全になりがちなので、冬場は大助かりしている。セブンイレブンに行ってもしょっちゅう鍋ものを買う。「一日に必要な野菜1/2」みたいなポップがあると、ほいほい買ってしまう。

2021/11/02

冬服買いに表参道のCOSまで行ってきた。本当はシネマリンでケリー・ライカートを2本見てからみなとみならいのCOSに行き、急いでバイトに向かう予定だったが、面倒になったのでCOSだけ見てくることにした。表参道まで自転車で行ったので、それはそれで面倒だった。

白のボアジャケット、ブラウンのカーディガン、黒のタートルネックと、黒のニットスウェットを買った。ボアジャケットは変なのを攻めたが、黒のふたつは守りに徹した。ニットスウェットのほうは形状も素材感もかなり理想的なものが手に入り、うれしさがある。カーディガンは去年手に入れ損ねたやつだ。オンラインには黒しかなかったが、店舗には目当てのブラウンがあった。

2021/11/01

台湾風唐揚げを作った。味付けはいいが、やはり揚げの工程がだめだ。なにもわからない。温度も時間も。結局、カリカリというよりはブニブニの、でかい肉片ができた。そこそこうまかった。

夜更けに煮玉子を作ろうと思いたち、卵を茹でたが、ザルに上げるのが早すぎてまともに固まっていなかった。四苦八苦して殻をむき、べちゃべちゃになった温泉卵もどきをやけくそで口に放り込むと、たいていのことはたいした問題ではないような気がしてきた。

2021/10/31

恵比寿で白いカレーうどんを食べた。白い部分はじゃがいもをメインに、生クリームなどが入っているらしい。出オチかと思ったがかなりうまかった。よく考えたら、カレーにじゃがいもも生クリームも、合わないわけがないのだ。

今日は炭治郎も見たし、禰豆子もしのぶさんも見かけた。

2021/10/30

実家で犬と遊んできた。母の水餃子づくりを手伝ったのだが、noobなので、生地に対して具を相当少なめにしないとうまく包めない。母は私の2倍ぐらい詰めていたので、極めし者はちげぇなと思った。

2021/10/29

メガネのレンズ交換で、自由が丘まで自転車を飛ばした。ポカポカ温かいのはいいが風が強い。メガネを預けたあとはとくに用事もなかったので直帰した。洗濯機回しっぱなしだったし。

最近またプランクワークアウトを再開し、意思の力でまる一週間継続したのだが、筋肉痛のターンがやってきてプルプルしている。

2021/10/28

社会存在論をもとに、ディッキーやダントーの制度説を批判する論文を読んだ。もっぱらディッキーの話だ。いろいろと不満はあるのだが、話がちゃんと噛み合っているのか、というのがもっとも大きい。2021/08/29にも書いたが、ディッキーの制度説はたしかにミスリーディングだ。後期バージョンまで含めるとディッキーの枠組みはそこまで大げさなものではなく、芸術作品とは(1)適切な文脈において、(2)もっぱら芸術家によって作られる人工物、というぐらいのものだ。(1)の関連で、いろいろと細かい概念(アートワールド、観賞候補、身分の授与、etc.)の記述をしたうえで、おそらくは便宜的にそれらが含まれる社会構造全体を「制度」と呼んでいるに過ぎない。これを差別化のために制度Dと呼んでおくならば、それが(例えば)サールが定式化したような制度Sの特徴を満たし損ねることは、なんら不思議なことではない。私の知る限り、ディッキーはサールなんて読んでいないからだ。実際、ディッキーのそれは社会構造説とか実践説と呼んだほうが、無難だと思う。

ということで、サールやルイスやグァラの制度理論を踏まえて、ディッキーの枠組みを批判的に読み解くには、①前者こそが制度に関する正当な諸理論であり、②ディッキーの説明はそれにそぐわず、③それにそぐわないからには芸術の制度説はうまくいかない、といった手順を踏む必要があるのだが、本論文が言えているのはせいぜい②だけなような気がしている。

一般的に、ある論文がXという名称の事柄について話しているときに、Xという名称の別の事柄についての理論を参照してきてしまう恐れがある(とんちんかんな質疑応答にもこの手のズレがよく見られる)。これに関してはちょっと前の松永さんのポストがためになる。もちろん、同じ名称で呼ばれているからにはいくらかの共通点があるのかもしれないが、事柄のほうがある程度以上一致していない限り、それではなにか言えたうちには入らない。

2021/10/27

令和何年なのか書かされるたびにスマホで調べるか周囲の人に聞くかを強いられるので、私は元号がほんとうにきらいだ。一桁の数字をひとつ覚えるだけなのだが、それも一年二年と過ぎていけば混同してくるし、そもそも覚える気がないので覚えられるわけがないのだ。日本(にほんではなくニッポン)の伝統がどうのこうのという言説一般が心底うざいのだが、それはごく端的に言って、私のメンタリティが在日としてのそれだからだろう。その手の抗弁がまったく刺さってこないのは、前提として、私が“純ジャパではない”からだ。そして、その手の抗弁をする類(ネット上にはわんさかいる)は、二言目には祖国へ帰れというカードを切ってくるのだが、私は生まれも育ちも日本なので帰る場所はここなのだ。ということで、想像力が欠如しており、お国抜きでは自分が誰なのかも分からない連中をとても軽蔑しているのだが、多くの社会構造はそういった連中によってシェイプされたものだ(変革はめんどうくさい、という自然の自己保存力はおおいに認めるが)。受験で古文・漢文をやらされたことは、いつまでも根の持っているだろう。

2021/10/26

日本酒の熱燗はかなりおいしいが、ごくごく飲んでいるとあっという間に消えてしまうのがきびしい。

2021/10/25

数日前に『ペドロ・パラモ』を読んだ。楽しい小説だ。どこへ行っても幽霊だらけで、死んでそうなやつはだいたい死んでいて、生きてそうなやつもみんな死んでいる。生死の境目があやふやだし、過去現在未来の境目もあやふやだ。どこから読んでもいいし、通読したところで冒頭に戻ってしまう。いまWikipediaを見たら、時系列順のあらすじが載っていることに気づいた。たいへんありがたいのだが、こうして系統化された知識に落とし込むことは、少なくともひとつの意味において作品の意図するところではないのだろう。意図のアクセス不可能性問題に対して、意図主義者は「ふつうに推測できるでしょ」という応答を持っているのだが、なるほどある程度まではふつうに推測できる。

2021/10/24

お寿司を食べた。えんがわ、はまち、うなぎ、あぶりエンガワ(塩レモン)、サーモンアボカドモッツァレラバジル、石垣貝、あさりすまし汁、えび味噌軍艦、藁焼きかつおのたたき風、はまち、あぶりエンガワ(味噌)。うまいカフェラテも飲んだので、元気が出た。

2021/10/23

勉強として小田部『美学』を読んでいるのだが、カント(というか古代~近代美学全般)に対してほんとうに心から関心を持つのは難しいな、というのを再確認している。もちろん、昔の彼らが言っていたことはぜんぶブルシットだというのはまったく不適切なのだが、諸問題に対してより多くの整理された道筋が存在する今、あえて古典に分け入ろうとするモチベーションがそんなには湧かない。無関心性の話をするなら、ストルニッツやディッキーから入ればよい。for its own sakeの話ならステッカーとキャロルの論争をたどればいい。カントは認知科学も知らなければ、映画を見たこともないのだ。真の意味で私の問いだと思えるのは20世紀以降の諸問題であって、それ以前の人がそれ以前の文化を踏まえて考えていたことは、参照するにはずいぶん遠回りである。なにより、概念の語源や間テクスト的な変遷をあらかじめ踏まえなければ本文に入れないのがしんどい。これが美学専攻の学生だったら、不勉強なくせに傲慢だという話にもなるのだろうから、文化系の専攻でよかったなと思う。

2021/10/22

先日、映画論の講義で、論文を読む上で「なんらかのかたちで個別作品に関する自分の理解が深まるなら、論文において提出されている概念や議論の妥当性はどうでもいい」という見解と出会い、自分では決してそんな読み方はしないので感心した。筆者の主張と根拠を整理し、その妥当性を評価する、いわば「パチこいてんじゃねぇだろうな」読みは、哲学(とネット論壇)の外ではそんなに主流ではないのかもしれない。無論、いろんな読み方ができるに越したことはないのだが、論文の主張を十分に検討せずとも「個別作品に関する自分の理解が深まる」ような読み方ができるというのが、そもそも私にはもうひとつ信用ならない。それは、いわゆる古典からスタート勢と同じで、分かってない分だけ深みを感じるデフレスパイラルな状態なのではないか。

2021/10/21

中学生に教えている英語長文で、「芸術とはなんであれ創意を発揮したものなのだ」というフォーク美学を見つけた。いつもながら思うことだが、「そうではない。創意は芸術以外でも発揮するし、創意を発揮すればただちに芸術足り得るわけではない。反例は~~」みたいなマジレスをするより、「芸術とはなんであれ創意を発揮したものなのだ」と適当に断言したほうが、創作のエンカレッジになってアートワールド的にはうれしいのかもしれない。生徒にもどう思うか聞いてみればおもしろかったが、聞きそびれてしまった。

2021/10/20

いまメインでかけているメガネ、紫外線だけでなく寒さに対しても暗くなる調光レンズを使っているのだが、この感じでいくと真冬にはつねにサングラスを掛けている人になるってコトではないか。それでもいいのかもしれないが。

2021/10/19

皮膚科行ったついでに、前に住んでいたアパート近くのピザ屋に寄った。半熟卵とハムのピザに、前菜のサラダとエスプレッソ。ここで出てくるサラダのドレッシングがほんとうに美味しい。どうも醤油ベースのドレッシングらしいことが分かったので、探してみようと思う。BGMではJBが「Try Me」を歌っており、かなり気分がいい。

外はあほみたいに寒い。

この一ヶ月ほどステロイド禁でねばってみたのだが、プロトピックだけではどうもかゆみが収まらないので、諦めてリドメックスをもらってきた。この、親の顔より見た赤地に白抜きのロゴだけで、肌ツヤがよくなるというものだ。私の身体は基本的にヒルドイドソフトとリドメックスとプロトピックで出来ているので、身体について語るなら彼らについて語らなければ嘘になる。私はよくパワポのスライドなどに黒字に白抜きの見出しを使うが、これはリドメックスにインスパイアされている。これは後付けで、たったいま思いついた。

2021/10/18

肉屋に弁当を買いに行ったら、備え付けのテレビでなんらかの洋画を流していた。午後のロードショーだろうか、ものすごい音量で、誰かが誰かを追いかけている(おじいちゃんおばあちゃんのやっている店は基本的にテレビのボリュームがでかい)。画面は見えなかったので詳細は分からないが、待っている間ずっとチェイスしており、私が帰るときも「待て!話を聞け!」的なことを叫んでいたので、結局追いついたのか巻かれたのかは知らない。

2021/10/17

オンラインゲームをやっていると、中国人はつねになにかにキレていて、ロシア人はつねになんだかわからない話を長々としている。前者は言っている内容も理解できるので「まーた怒ってらぁ」といった感覚なのだが、後者はとにかくわけの分からない事柄を、抑揚をつけたり途中で絶叫を挟んだりで、延々と垂れ流してくるので、迷惑といえば迷惑だ。それも、ゲームに関するやり取りだったり突発的な感情表現ということであれば分かるのだが、そんなに長々と話し続けることなんてないはずので、ゲームしながらドストエフスキーでも朗読しているのかという気になってくる。『動くな、死ね、甦れ!』を見たときにも思ったことだが、喋りまくってないと耐え難いほどに寒い場所に住んでいるのかもしれない。

2021/10/16

滑り込みでマーク・マンダースを見に東京都現代美術館までやってきた。木片が顔に刺さったり、顔が木片に刺さったりと、たいそう大味でこってりな味付けだ。絶妙なバランスで机に足をかけたり、椅子に上体をあずけた欠損身体もあれば、壁に貼り付けられたネズミの死体もいる。とりわけ、ビニール袋が異常に格好良かった。あのなんの変哲もない素材が異化されているのを見れただけでも儲け物だろう。それは一方で、(ローラ・パーマーのように)遺棄された死体を連想させ、他方で、展示外における作品の物質性を強調している。なるほど「展示と保存」という題目がにくい。作品が作品として生活している状態が展示なのであれば、保存とは作品が死んでいる状態なのか。であるとすれば、まさにその宙ぶらりんにおいて再展示されることになった、これらの作品は一体どういう状態なのか。

2021/10/15

めったにないことだが謎に8:00前に目覚めきったので、一時間ほど『ペドロ・パラモ』を読んだあとで散歩に出かけた。世田谷公園は朝からにぎやかで、噴水前のベンチには真っ赤になるまで日光浴をしているおっちゃんがいた。

2021/10/14

適当なタレとトッピングでささっとつくる油そばにハマっている。油そばはかなり好きな食べ物のひとつなのだが、蕎麦アレルギーなので、ネーミングのせいでいつもテンションが不必要に下がる。しかし、汁なしラーメンという否定的特徴づけではなおテンションが下がるだろう。

2021/10/13

論敵には悪いが、たけのこの里は明らかにきのこの山に勝っている。たけのこの里はチョコクッキーだが、きのこの山はチョコとクッキーである。前者は融合であるのに対し、後者はただの集合だ。たけのこの里を噛む経験は、統一された単一の存在であるチョコクッキーを噛む経験だが、きのこの山は、あのトュルトュルしたクッキーと、なんの変哲もない一口チョコをそれぞれ噛む経験である。口の中で食事を混ぜるな、という一般的な規範があるが、きのこの山が推奨しているのはまさにそのような食事なのだ。アルフォートというこれもたいそう美味しいチョコクッキーがあるが、その形状がたけのこの里をベースとしていることは言うまでもない。

あるいは、たけのこの里は没入型であり、それを食べる経験は受動的だが、きのこの山は参加型であり、それを食べる経験は能動的だと言うべきかもしれない。だとすれば、私はたいていなにかをしながらお菓子を食べるので、お菓子を食べる運動にまで認知のリソースを割くつもりはない、というより穏健な主張が得られる。

2021/10/12

小雨のなか自転車を漕いで出勤した。日記によれば、前回同じイベントに見舞われたのは2021/06/29らしい。ひさびさだし、霧雨ぐらいの感じだったのでもののうちに入らないのかもしれない。 査読対応をひとしきり片付けた。ということは、ぼちぼち別の話題について読んだり書いたりしてもいいということだ。次はディッキーの芸術制度理論、とりわけ1984年のバージョン(ディッキーズ・セカンド・チャレンジ)についてなにか書こうと思っている。

2021/10/11

俳優さんがテレビ番組で言及したかなにかで、イ・チャンドンの『オアシス』(2002)がFilmarksのトレンドに上がっていた。有名人の影響力はすげぇなと思うと同時に、こんな地上波向きではない作品を名指しで勧めるかたちになってすげぇなと思う。私ははじめて見たとき、この作品について語る言葉も見つからず、見たことも含めて自分ひとりの秘密にしたほうがいいのではないかと思ったぐらいだ。

『オアシス』は社会から疎まれている男(おそらくは知的なハンディキャップがある)と、社会からまったく無視されている女(重度の身体的なハンディキャップがある)の交流を描いた、配給会社曰くところの〈極限の純愛物語〉だ。しかし、共感性も法遵守意識も皆無の男が、便所にでも行くかのような気軽さで脳性麻痺の女を強姦しようとする「運命の出会い」からして、この関係性を純愛と呼ぶことの困難が待ち構えている。結局、後日になってから女の方が男へとアプローチし、その実質的な交友が開始されるのだが、それは言うまでもなく、こんな男であろうと女にとっては社会との唯一の接点だからだ。結果として、お互いWin-Winな関係を得るわけだが、このような形で得られた関係については、“純愛”なんかよりもっと別の言葉があってしかるべきだよなと思う。あるいはそれは、当事者ではない外野がなんらかのものとしてカテゴライズできるようなものではなく、もっと主観的な痛みを伴う関係性なのだと言うべきかもしれない。

『タイタンの妖女』におけるコンスタントとビアトリスの和解も、このような関係性のひとつだ。それはビアトリスが臨終において語ったように、当人たちが自由意志で選んだものではなく、社会ないし宇宙の摂理において強制されたものだが、孤独という大問題を癒やすなにかが、たしかな強度において伴うような関係性だ。そんな言葉をすり抜けるような結びつきを描いているのだから『タイタンの妖女』はすごいし、『オアシス』はすごいのだ。

2021/10/10

ここ数日の話で、またしてもちいかわがやらかしている。みんなで気持ちよく寝ていたところ、たまたま目を覚ましたちいかわのところにモンスターが出現する。ちいかわは「アッ!!」と驚き、寝ている二人に目を向けるが、 「ヨシッ」と決意し、武器に手にとり一人で戦おうとする。この意思決定は、公益から見て徹底的に間違っているのだが、当人としては「みんなを守らなきゃ……」みたいな使命感に酔っているのだから、救いがない。結局ちいかわは初手でモンスターに捕縛され、絶体絶命のピンチに陥って涙目になる。漫画としてはこのあとハチワレとうさぎが“偶然”目を覚まし、救助に駆けつけるわけだが、ふつうはちいかわが美味しく平らげられたあとで、寝込みを襲われて3人とも全滅だろう。それだけのリスクを取りつつ、仲間を起こしてチーム戦に持ち込むのでもなく、一人で戦おうとするのがこのちいかわというやつだ。

ちいかわの心理は分かりやすい。前述の通り、使命感に酔っているのはその一つだろう。とりわけ彼は討伐に関して踏んだり蹴ったりが続いており、かつ自己肯定感が低いくせに理想はそれなりに高いので、この機に活躍できればみんなに認められるだろうという風に考えた口だろう。

もうひとつの心理は、より救いがない。ちいかわとしては、ただただ「みんなを起こしては申し訳がない」という目先のやさしさに駆動されているのだ。その結果として自分が死のうと仲間が死のうと世界が滅ぼうと、気持ちよく寝ている人を起こすというムーブ自体がちいかわにはできないのだ。その1階のやさしさを、規範的に内面化しているため、帰結を踏まえて臨機応変に判断することができなくなっている。先輩に質問ばかりしちゃ申し訳ないな、というのでとんでもないミスを連発する新人のそれと同じだ。新人のうちは、うんざりされるとしてもホウレンソウを心がけるべきなのだ。

2021/10/09

一人暮らしもたいそう長くなってきたが、いまだにWi-Fiの勧誘と戦い続けている。彼らは「(なんらかのよくわからない)工事の関連で」いらして、「ご周知したいことがある」ので「玄関先でのご対応」を希望する。〈警察署の方から来ました(警察であるとは言っていない)〉というのと同様、彼らは後で問題となるような嘘はつかない。ミスリードなだけだ。それは、あたかも確認が必要な事柄であるかのように装っているが、とどのつまり乗り換えの勧誘なのだ。ふざけるのも大概にして欲しい。

そっちがその気ならこちらにも考えがある。私は、もっとも大胆であるときには、居留守をするか、開口一番「間に合ってます」でインターホンを切るのだが、これでは万が一確認の必要な事柄であった場合に困る(それも見越した上での文言なのだから、彼らの徳はなお低い)。なので、まず「それは確認が必要な事柄なのか?」と尋ねるのがよい。Wi-Fiの乗り換え勧誘などというのは、全宇宙においてとびっきり確認の必要がない事柄のひとつであり、彼らとてそのことを知らないほど純粋無垢ではない。それで逃げるやつはセールスマンだし、逃げないやつはよく訓練されたセールスマンだ。

今日の彼はよく訓練されたセールスマンなのか、あるいは「それは確認が必要な事柄なのか?」という質問が理解できないアホなのか、押しても引いても帰ってくれなかったので、一言言ってやろうとこちらから出迎えてやった(玄関先での対応なんて冗談じゃない。オートロックの内側に入ろうなんて思うな)。一体どこの会社がこんなやつ雇ってるんだ、と思って話を聞いていたらSONYだった。うちではSONYのWi-Fiを使っている。

2021/10/08

ミキサーもないのに調子に乗ってサグチキンカレーを作った。包丁で叩きまくって準ペースト状にしたのだが、これじゃないという感が否めない。色味要員として登用した野菜ジュースが、思いのほか甘いフルーツジュース系のもので、そちらも足を引っ張っている。あと、私はカレー粉の加減がいつも分からないので、全体としてぼんやりとした塩加減になってしまう。一晩寝かせて、もう少し煮詰めればマシになったりするのだろうか。

ついでに作ったサフランライスは、かなりうまく行った。そんなにサフラン好きではないが。

2021/10/07

でかめの地震で本棚がピンチ!と思ったのだが、今回もアイリスオーヤマの突っ張り棒に救われた。にしてもうちのBILLYは不当に酷使しすぎなので、地震で倒れるより先に崩落するのではないかと不安だ。『西瓜糖の日々』では、風がふいて小さなものがいくつか倒れた、という一文があったように記憶しているが、うちの場合は地震が起きて白酒のボトルだけが倒れた。