日記

2021/09/22

駒場の10号館では資料閲覧と称して映画鑑賞ができるのだが、前にリクエストして買ってもらったハル・ハートリー「ヘンリー・フール・トリロジー」のうち、最後の『ネッド・ライフル』だけ見れないまま、コロナ禍に突入した。もう『ヘンリー・フール』も『フェイ・グリム』も覚えていないので、見るとしたら見直さなければならない。

大学に行く予定はないし、10号館の閲覧室が再開する見込みも低そうだ。これもまた、災厄によって失われた営みのひとつである。

2021/09/21

21st night of Septemberなので、「September」をtalkboxで歌った。この曲は聞くたびに新しい発見がある。シャックスの現役でしこたま弾いてたころは、G/AのところをずっとただのGだと思いこんでいた。今日は、サビ入りのところで、G/AとBmに間にG#/A#があることを知った。ベースだけ半音で登るのかと思っていたが、ほかのバッキングも弾いているような気がする。あと、原曲のピッチがふつうのチューニングより35centぐらい高い(これはそんなに珍しいことではないけど)。

2021/09/20

セブンの、サンドイッチの隣とかにある薄めのナンっぽい生地に具を包んでるやつ、しょっちゅう食べているのだが、いっこうに名前を覚えられない。今この瞬間も忘れている。

2021/09/19

数年ぶりにFPSをやった。面白かったのかどうかもよく分からない。

2021/09/18

『ツイン・ピークス』をシーズン2の最後まで見た。最初はあんなに面白かったのに、回を追うごとに話が破綻していき、最後のほうは完全に消化試合だった。こないだ読んでいた村上春樹もそうだが、「ここまで読んだ/見たからには、最後まで読ま/見なきゃ」というゾーンに入ってくると、あまり健康的ではない。ちなみにシーズン2の最終話は文句なしによかった。劇場版だけ見て、リミテッドシリーズをどうするかは様子見としよう。

2021/09/17

ルーローハンを作った。6月以来らしい。チンゲンサイを茹でてトッピングしたのだが、そんなに好きな緑ではない。ほうれん草のほうがいい。

2021/09/16

Rotten Tomatoesに相当するサイトは日本にはないし、今後出てくる見込みもそんなにはない。それはゆるい感想文の集積などではなく、サムズアップかサムズダウンかの熾烈な争いの軌跡であり、映画だけでなく批評家まで「Top Critics」かどうかで評価される。ここまで体系立った価値付けの実践があるからこそ、キャロルは『批評について』でああいう定義をしたのだろう。

見えている景色からして違いそうだ。私の観測範囲にいるのは、あらゆる価値付けを拒絶するなんでもあり自由主義者か、さもなければ「批評とレビューは違う」みたいな意味不明なことを言って悦に浸っているスノッブが主だ。映画にどういう利点と欠点があり、どういう達成をしているのか、といったごくシンプルな問題をストレートに論じ合う文壇がないのは貧しさの現れだ。明らかに、これも「角が立たないように」という大和規範のひとつなのだろう。

2021/09/15

日持ち的にそろそろキビシイかといった感じのお好み焼きタネに、ふつうにアウトと思しき豚バラを載せてランチにした。23:00、いまのところ、とくに困っていない。この先困らないといいのだが。

2021/09/14

件のかじるバターアイスを入手してきた。最寄りのセブンイレブンではたくさん置いてあったので、そんなに希少でもないのだろう。味はといえば、ふつうに美味しいアイスだった。その名の通り、もっちり食感で、かじりごたえがある。

2021/09/13

問題はこうだ。ある行為(特定の作品を鑑賞する、など)には美的価値がある。しかし、それゆえに行為すべきだといえるためには、美的価値から行為への橋渡しとなる「理由」が必要である。例えば、しばしばたたき台となる快楽説によれば、①xには美的価値がある、②美的価値とは快楽を与える能力のことである、③xには快楽を与える能力がある(理由)。ここまで言えれば、快楽をなるべく回避すべきだと考える狂人以外は、④xすべきだ、という結論を承認できるだろう。快楽説は、②の説明がおそらくは狭すぎであり、美的価値が行為の理由となる仕方は必ずしも快楽だけではないだろう、という点に問題がある。

多元主義を取るのはわるくない選択肢のように思われる。すなわち、快楽、達成、欲求充足、愛など、さまざまな橋渡しによって、美的価値は行為を導く規範性を持つようになる。これでふと思い出したが、これらをひとまとめにしてゲーム理論で言うところの利得[payoff]と呼んでも差し支えないのではないか。美的価値のある行為を実行する理由は、行為が行為者になんらかの利得をもたらすからだ。これは言い方の問題かもしれないが、快楽説やネットワーク説を包括しつつ、一元主義を維持できているように思われる。

利得というのが広すぎて、包括的なカテゴリーとして有効でないというのならば、快楽説や達成説もまた、実のところ一元主義と称した多元主義である、と言うべきではないか。

2021/09/12

伊之助ボディになるまで毎日腹筋ローラー」はコメディとして徹底的に完成されている。まず、さっそくのように「32歳サラリーマン」が『鬼滅の刃』の伊之助の被り物をしているビジュアルがすでに面白く、腹筋バキバキのボディを目指して毎日淡々と、動画には音声も付けずに、腹筋ローラーをやろうというのだからたまらない。ひとつには、理想とする伊之助ボディと現在のたるんだお腹(とはいっても、すでにだいぶと引き締まっている)のギャップが効いており、もう一つにはおよそ大正時代の伊之助が選択しないであろう腹筋ローラーという手段のギャップが効いている。結果、「伊之助ボディになるまで毎日腹筋ローラー」という文面がかなりいい味出している(@InosukeWorkoutもよい)。被り物も、公式かどうか疑わしいほど歪んでおり、ぼさぼさの野生児丸出しだ。極めつけは、元気よく飛び込んでくる子犬のポメラニアン・エマちゃん。遊びたい盛りのようで、ご主人が変な格好で変なことをしているもんだから、猛烈に邪魔せずにはいられない。被り物をかじられて床に倒れたり、スライムのぬいぐるみを投げて時間を稼いだり、いつも企画倒れで犬と戯れるだけの動画になるあたりが、愛でずにはいられない。

2021/09/11

8割方回復したので、とんかつを食べに行った。「好きな食べ物は?」と聞かれてとっさに思いつくことは少ないが、とんかつはとりわけ好きな食べ物のひとつだ。寿司はとっさに思いつく。

2021/09/10

しばらくちんたらと読み進めていた『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読み終えた。

昔は夢中になって読んだものだが、二十歳こえて小知恵もついてくると、その衒学的な物言いが耐え難くなってくるのも事実だ。「ハードボイルド・ワンダーランド」の「私」は気の毒にも大きな力によってささやかな人生をスポイルされてしまうのだが、本人がトラブルを(それこそ)ハードボイルドに受け入れようとする限りで、こちらから差し向ける同情はとくにない。一方で、それをクールだと思うには、この人物はあまりに雄弁すぎる。彼にはたくさんのこだわりや主義やジンクスや価値観があり、その一つ一つを語らずにはいられないようだが、総じて知ったこっちゃないのだ。

その点、主人公が異邦人である分「世界の終り」はまだ謙虚さがあるのだが、私にとってのそれは『西瓜糖の日々』の縮小再生産でしかなく、とくに語るべきポイントもない。

2021/09/09

グロッキーとロキソニンを交互に繰り返している。激ウマの塩チーズケーキと恋人が作ってくれた豚汁を食べたので、どうにか人間の形を維持している。

たしかに、このしんどさの副効果で、効き目が数ヶ月だとか三回目四回目が必要だというのはきびしいものがある。普通に生きていて数年に一度あるかないかのレベルの発熱を、これからずっと数ヶ月おきに経験しなければならないのか。社会がそのようなコストをカバーできるようになればまだよいのだが、とてもそうなるとは思われない。

2021/09/08

モデルナ二回目をうった。さっそく39.0になりグロッキーだったが、ロキソニンでおおむね静まった。ロキソニンはすごい。

2021/09/07

日吉のころよく通ったラーメン屋を覚えている。石造りの、洞窟みたいな内装で、入って正面左に円形のカウンター席があり、右手に券売機と二人用のテーブル席が一つある。看板メニューはその名も岩石ラーメンだ。私はその内装をありありと覚えているのだが、問題は当のラーメン屋が存在しないことだ。ある日、夢で見たついでに、足繁く通っていた記憶まで私の頭にインプットされたらしい。そんなことあるのか、と思うのだがあるらしい。こうなってくると、私が幼少期の記憶だと思いこんでいるものの一部も、本や映画で見たエピソードを自分のものだと勘違いしているだけなのかもしれない。

2021/09/06

初心に帰るつもりでキャロルの書いた分析美学の教科書を読んでいるが、この本の構成はなかなかよい。最終章以外の各章は2パートに分けられていて、各パート1では伝統的に影響力の大きかった芸術の定義を扱っている。具体的には、representation、expression、form、aesthetic experienceの4つが取り上げられている。芸術の定義としてのそれらはいずれも失敗しており(広すぎるか、狭すぎるか、その両方)、最後の5章では芸術の定義不可能性に関する議論へと進むのだが、面白いのはパート2だ。キャロルは、それらが依然として芸術においては重要な概念であることを踏まえ、それぞれに特化した議論を展開していく。分析美学の歴史や方法をコンパクトに学べる一冊だ。英語も易しい。

難点を挙げるならば、『批評について』もそうだったが、やや議論が冗長な点だ。「xはこういう主張だ、それにはこういう反例がある、なのでxはだめだ」と論駁したあとで、「あと、こういう反論もできる、のでやっぱりxはだめだ」というのが続き、さらに「そうそう、こういう反例もある、のでxはぜんぜんだめだ」と続いていく。この冗長性は初学者には親切なものなのかもしれないが、飽きられてしまうところなのかもしれない。

調べてみたら、邦訳されているライカンの『言語哲学』と同じシリーズらしい。

2021/09/05

タオルで体を拭くとき、バスタオル→フェイスタオルの順で使うより、フェイスタオル→バスタオルの順で使ったほうが、能率的に水滴を落とせることが分かった。理由はわからないが、そもそも宇宙の一部というのはそのようにできている、というだけの話なのかもしれない。

2021/09/04

フェルメールの絵画を修復(第三者?によって塗りつぶされていた箇所を剥がす)したところ、でけぇキューピッドの画像内絵画が現れたという話。修復前と後でどっちが人好きするかは置いておくとして、表象内容や表出的質ががらりと変わるケースとしてかなり見どころがある。開いた窓のそばで手紙を読んでいる少女は固定だが、修復前は、孤独を強調するようなだだっ広い壁があり、なにか悲しい知らせを読んでいるような印象を与える。スローシネマみたいな構図だ。修復後はどかんとフルチンのキューピッドが据えられており、その雰囲気はまるで異なっている。悲壮感のような質は相対的に失われ、おそらくはラブレターを手にして浮足立つような、軽快で希望に満ちた質が得られている。手前の、皿から溢れた果物も、修復前はなにか悲惨な出来事があったことを暗示していたが、修復後は取るものもとりあえずラブレターを読みふける姿に見えてくる。もちろん、褪色した部分を塗り直したのもあり、画面全体が明るくなっている。

2021/09/03

The Journal of Aesthetic Educationに載っているビアズリーやキャロルを読んでいると、彼らがある種の美的規範の構築を目指していたことがよく分かる。すなわち、ある立場が理論的に正当化できるというだけでなく、批評なり鑑賞に関わる規範的基準として推奨し、具体的な教育に取り入れようとしているのだ。そうして、より“正しい”鑑賞や批評ができるようになれば、我々の暮らしはより豊かなものになるだろうと、ビアズリーは信じている(「美的福祉」というやつだ)。

規範の中身、たとえばキャロルの鑑賞ヒューリスティックがどこまで気が利いているかは別で評価すべきだと思うが、そのような規範を立てようという前提については、私はほとんど異論がない。が、この手のパターナリズムへの反感があるのも理解できないわけではない。「鑑賞も批評も自由なのだから、とやかく言うな」というわけだ。倫理学ではこういうことを言う人はほとんどいないのだが、美学ではこういうことを言う人がかなり多い。反パターナリズムへのコメントはいくつかある。

  1. ある試みをパターナリズムとしてカテゴライズすることは、印象操作かもしれない。上から目線、権威主義、エリート主義といったコメントは、相手の主張の中身に一切触れることなく飛ばせる。それでは、相手が導入しようとしている枠組みや、それがもたらす帰結を十分に評価したことにはならない。

  2. 関連して、美的規範を立てようとする論者は、たいてい(注などで)その規範が美的自由と両立することを強調している。すなわち、個人の経験レベルでは、「鑑賞や批評は自由」でいいのだ。ある解釈なり評価を公表し、それを根拠付け、相手を説得する場面においてのみ、それらの規範は適用される。

  3. もちろん、そのような留保があったとしても、規範が誰かの美的自由を毀損する恐れがある(これは松永さんが指摘されていたことだ)。しかし、それは芸術教育の中身を具体的にどう設計するかという問題であって、パターナリズムなのでいかん、と退けられるような問題ではないように思う。

  4. 余談だが、大学での芸術教育、アワード文化、たいていの批評など、美的文化の小さくない部分はパターナリズムだとも言える。より物事を分かっている人なり集団から、初学者が教わるという形式は、美的文化においてもありふれたものである。少なくとも私は、「鑑賞や批評は自由だ」という一言でこれらの文化を一蹴することには問題があると思う。

2021/09/02

私にはまったく不可解な理由によって、トークボックス界隈はどこかヤンキー的なものと結びついている。日本・海外を問わずトークボクサーは、ツーブロ、グラサン、キャップ、プリントTを着たガタイのいい男ばかりだ。女性が興味を示すことが相対的に少ない楽器であることは納得がいく(範例となるようなアーティストがいないのもある)が、どうしてこうNAMIMONOGATARI行ってそうな男性ばかりがトークボックスに惹かれるのかは謎だ。いや、ヒップホップ経由なのだから、当然といえば当然か。残念といえば残念だし、どうでもいいといえばどうでもいい。

2021/09/01

夢でワンピースの最終回を見た。ルフィがラスボス(知らないキャラクター。デカかったので巨人族か)との戦いで、もはや戻ってはこれない精神世界に飛ばされてしまうのだが、仲間の声援とかなんとかで結局戻ってこれてめでたし、という筋だった。ちなみに「ワンピース」の正体とは全海軍の統治権であり、霧の中から現れたルフィの背後に、膨大な数の海軍船が並んでいるシーンもあった。兵士たちはマインドコントロールされているのか、ルフィに従順だった。最終話は麦わら海賊団の同窓会という感じで、シャボンディ諸島での2年後みたいなノリだった。最後はルフィが「海賊王だ!!!おれは!!!!(ドン!!)」と叫んで終わったが、なんじゃこりゃぁと思ったところで、朝方の冷え込みに目を覚ました。

2021/08/31

「drop dead」という罵倒語がかなり好きだし、おそらくはこの訳語として考案されたであろう「おっ死ね」という日本語も好きだ。死という深淵の穴に落ちてしまえという崇高さもあるし、すっ転んで急死しろというコミカルなスピード感もある。なによりdで頭韻を踏んでおり、パーカッシブなのがよい。

2021/08/30

『ツイン・ピークス』のシーズン1まで見終わったが、この世において私が見たい物語・映像を煮詰めたような作品だった。私はオードリーが好きだ。

デイヴィッド・リンチという作家と結び付けられることの多い作品だが、Episode 3以降は直接は手掛けていない、というのは知らなかった。集団制作の美学的問題についてはもう少し掘っておいてもいいなと思う。

2021/08/29

ディッキーからウォルハイムへの応答論文(めっちゃ短い)を読んだ。ディッキーの芸術制度説に関して、ウォルハイムは「芸術かどうかを定める代表者なんて、どこにいるんだ」と反論する。ディッキーからの応答は二点。(1)「鑑賞の候補かどうか」を定める話はしたが、「芸術かどうか」を定める話はしていない。(2)アートワールドの構成員として身分付与を行う主体は、基本的に作品の作者で考えており、評議会みたいなところで有識者たちが決めてるなどとは考えていなかった。

ウォルハイムの"誤読"がディッキーの説明する通りであれば、私はディッキーの肩を持ちたいところだが、芸術制度説にはミスリーディングなところがたくさんある。実際、字面から想像されるシステムは、ディッキーの公式の説明より、ウォルハイムの"誤読"のほうが近いだろう。はたして、作者ひとりが鑑賞の候補として宣言しただけのものが芸術になる、というのでよいのだろうか。その身分が、より公的な認知を得てはじめてなにかは芸術になるのではないか。そういった問いの是非はともかく、ディッキーがしかじかの譲歩的な立場を制度説と呼ぶのは、自ら誤解されに行くようなものだろう。

ところで、ここで触れているのは、ディッキーの制度説の初期バージョンだ。五つの関連概念を相互定義した後期バージョンはより込み入っていて、同じぐらい評判の悪いが、少なくとも「制度説」と呼ぶのにより適切な理論だと思う。

2021/08/28

ジャーマンポテトを作った。うまい。最近は料理のお兄さんリュウジのレシピばかり作っている。

2021/08/27

ハンバーグ焼いた。たくさん用意したので、冷凍分も含めて焼きまくった。それはもう焼きに焼きまくった。

2021/08/26

コロナでできなくなったこと、やりづらくなったことはたくさんある。失われてしまったを取り戻そうと世界中が躍起になっているのはいまだかつてない事態であり、それに対してどういう態度をとるべきなのか、私にはまだ分からない。無様なマスクをつけ続け、遠出を控え、文化祭も修学旅行もサークル活動も会食も飲み会もなしというのが、一時的ではなく今後ずっとそうなのだと知らされれば、とてもやるせないだろう(もちろん、その中には失われてしかるべきものもあるのだが、それはまた別の話だ)。残念ながら、工夫によって生み出された娯楽(リモート飲み会、リモート修学旅行、etc.)はそんなに色気がなく、失われてしまったものの強度を再確認させただけだ。結局、人は抗うか割り切るかの二択を迫られ、割り切り派が抗い派を冷笑したり、抗い派が割り切り派を憐れんだりという、いつもの構図になってしまった。

2021/08/25

行こうとしたセレクトショップが定休日で、行こうとしたカレー屋が完売で、行こうとしたチーズケーキ屋も定休日だった。けど、急遽行ったジェラート屋が美味しかったのでよし(どうしてジェラートというのはピスタチオだけ追加料金なのだろう?)。

2021/08/24

行きつけの薬局でいつもトムとジェリーをやっているのだが、最近はクラシックなMGM期のトムジェリではなく、毒にも薬にもならないターナー/ワーナー・ブラザースのトムジェリを流している。悲しい。

2021/08/23

麻婆豆腐を作った。

2021/08/22

遅れてきた副効果なのか、あちこちの関節が痛む。左肩と右手首に始まり、右肩、左手首、両手の指、足の指ぐらいまで広がってきた。昨晩と今朝がピークで、ちょっと買い物してくるのにも一苦労だったが、夕方ぐらいからだいぶ収まってきた。動けないのをいいことに、立て続けに映画を見た。『暗殺のオペラ』と『トリコロール/青の愛』。Amazonプライムの「シネフィルWOWOWプラス」チャンネルを無料体験中なので、期間内に見まくろうという魂胆でいる。

2021/08/21

原作のある映画やリメイク映画は、あらかじめ原作なりリメイク元を見るべきなのか、永遠の悩みだ。一方を鑑賞することは、必然的に他方のネタバレになる。『悪童日記』や『スローターハウス5』を小説で読む前に映画版を見てしまうのは損してると思うが、『スカーフェイス』や『オールド・ボーイ』や『時計じかけのオレンジ』を見る前に、まずリメイク元なり原作漫画・小説をチェックすべきだとは一概には言えない気がしている(私はチェックしなくてよかったと思っている)。

結局、「原作/リメイク元」と「映像化作品/リメイク作品」を引き比べて、個人的により気に入るだろうほうを先に見て、そうでない方はネタバレを踏まえて妥協的に鑑賞するのが望ましい、という話だ。問題は、鑑賞に先立ってどちらをより気に入るかをどうやって知るかだ。そのためには、ある程度ネタバレ情報に触れるしかない。

濱口竜介の『ドライブ・マイ・カー』を見に行きたいが、あらかじめ村上春樹を読んでおくべきなのか、分からない。(忘れているだけで、もう読んでいる可能性もある。『女のいない男たち』はいつの間にか本棚にある。)

2021/08/20

美的なものに関するビアズリーの三位一体(unity, intensity, complexity)を、直観的な日本語に落とし込んだらなんだろうとしばらく考えているが、「カチッとした感じ」「ガツンとくる感じ」「奥深〜い感じ」でよいのではないか。こうしてみると、どれも言ったもん勝ちな感じがして、海原雄山みがある。

2021/08/19

ここ数年、UKのギターロックが日の目を見ないなと思っていたが、単に私のアンテナが鈍っていることが判明して安堵した。ちゃんとdigる姿勢を持たないと、カルチャーはまったく不可視になってしまう、という不安も生じた。

2021/08/18

ここ数日、換気口のすぐ外で鳴いていたコオロギがいなくなった。コオロギの寿命を知らないので、死んだのかどうかは分からない。ヤク絡みでマフィアに前歯をへし折られ、もはやトランペットも吹けなくなったのかもしれない。そうではなく、単に移住したのだとすれば賢明な判断だろう。ヤブミョウガの根本でツウィツウィと鳴き続けることは、そんなに気持ちのいいことではないはずだ。

2021/08/17

昨日、Red Velvetがカムバした。「Psycho」が2019年の年末なので、ほぼ2年ぶりの活動再開だ。「Queendom」は贔屓目に見てもそんなにたいそうなトラックではないのだが、相変わらず振り付けが格好いい。1サビの後ろで、各々違う方をノックしながら向かって右にスライドする動きがあまり見たことない振り付けで面白い。合唱による個別性の融解とも一貫しており、Red Velvetらしさが垣間見えるのがよい。

2021/08/16

寿司を食べた。はまち、うなぎ、えんがわ、あぶりえんがわ(みそ)、あぶりえんがわ(塩レモン)、鰻天ぷらロール。寿司に行くと寿司に来たという感慨だけで少し腹が膨れてしまうところがあり、帰ってきてからあれもう一皿食べたかったなと思うことが多い。

武蔵小杉のグランツリーでゴジラのポップアップショップをやっていたので立ち寄った。とくにめぼしいものはなかったが、家に帰ってからちびゴジラのLINEスタンプを買った。東宝の説明によれば、ちびゴジラは「怪獣王」になることが夢なのだが、別の説明によればちびゴジラは「怪獣王」である。これは一体どういうことなのか。彼は怪獣王でありながら、そのことに気づかないまま目指しているということか。そもそも「怪獣王」とはなんなのか、彼はなんのために王を志しているのか。それは制度的な意味合いでの王なのか(つまり、領土・国民・主権を持ったシステムの長、という職種を指しているのか)、単に腕力や権力が著しい怪獣であることを指した比喩的な“王”なのか(海賊王もたぶんこちらだろう)。

2021/08/15

焼きカプレーゼなんていう洒落たものを作ろうとしたが、モッツァレラチーズが完全に液状化し、〈ズッキーニのトマトチーズ煮込み〉的ななにかになった。割とうまかった。

2021/08/14

村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読んでいる。中学のころによく読んだ小説だ。村上春樹についても語れることが増えてきたのだが、彼の小説は基本的に謎を中心に回っている。「ハードボイルド・ワンダーランド」には入り組んだ陰謀と得体の知れないテクノロジー(シャッフリング)があり、「世界の終り」にはその対応物(壁、夢読み)がある。中心人物となる男性は、始終「分からない」を繰り返す。彼らは、肝心なところはなにも分っていないのだが、その周囲に見えているものや、それに対する自分の評価を実に雄弁に語る。「分からない」状態でもってカッコつけてるのだ。これはよく考えれば奇妙なことだ。事態をガッチリと把握し、自らの手でぶん回しているほうがカッコいいはずなのだが、村上小説の男たちはそういうマッチョイズムとは別の場所でカッコつけている。自己憐憫と言ってしまえばそうなのかもしれないが、ことによると、これこそサブカル的な態度なのかもしれない。

「ハードボイルド・ワンダーランド」は動的で、サスペンスフルだ。それに対し「世界の終り」は抽象的で、ポエティックだ。前者における謎はまさにサスペンスのそれなのだが、後者における謎は気取っていて否定神学的なので、イラッとしないでもない。しかし、私の記憶が正しければ、この小説はサスペンスと否定神学がどちらかというと後者寄りのところで合流したところで終わってしまうのだ。

2021/08/13

しばらく米を切らしているのでヤクザなものばかり食べている。かつて一人暮らし先輩の友人に、「米さえ炊いておけば人間らしい暮らしができる」と教えてもらったことがあるが、わりとほんとうにそうらしい。

左腕の痛みはほとんどなくなった。ワクチンのせいなのか知らないが、平時より身体がかゆい。世の中には任意のXに関して思索を試みる輩がいるので、かゆみについて書いた思想家だって一人や二人はいるだろう。しかし、かゆみは私にとってシリアスなものであり(幸運なことに、そのシリアスさは二十歳をこえてから軽減されているが)、個人的な意味合いにおいて表象不可能であり、語り得ぬものだ。

2021/08/12

37.0の微熱。頭痛や寒気などはなく、左腕だけ使いにくい。洗濯物を干すのに苦労した。喉がイガイガするのと、風邪のときの目のつっぱりが少し感じられる。ソルティライチと白湯をぐびぐび飲む。

アートとグロテスクについて考えていた。私は真っ二つに分断された牛はそれなりに見たいが、皮膚に釣り針を刺されて浮かび上がる人体なんてぜんぜん見たくない。

2021/08/11

ワクチンを接種してきた。暑いなか本郷まで行くのがかなりしんどく、なぜか大迷子になり、キャンパスの内外を十数分歩く。高校のころ、模試かなんかで行った上智にぜんぜん入れず、迷いに迷ったことを思い出す。

書類もろもろをラリーし、サクッと刺されて15分休憩。アレルギー体質なので心配だったが、とくになんともなく帰宅。2時間たったぐらいから微妙に痛みはじめ、夕方ごろから肩がほとんど上がらない。その他の症状はなし。夜、結構痛むが、筋肉痛だと思えば並の痛みだ。風呂入って寝る。

換気口のすぐ外でよく鳴いている虫がいる。調べてみたら、どうもツヅレサセコオロギのそれらしい。私にはツウィツウィツウィツウィツウィツウィツウィツウィツウィと聞こえる。

2021/08/10

状況が状況なので、当面の間バイトをオンラインにしてもらった。始業時間まで家にいられるし、就業とともに家にいるので、移動とはなんだったのかという気持ちになる。が、しばらくやっていたら対面のほうが気軽に雑談とか出来て健康的だとか思いはじめるのだろう。

2021/08/09

機能美[functional beauty]についてのリサーチをはじめた。さしあたり、Parsons & Carlsonの有名な本はウォルトンのカテゴリー論を援用して機能美における「フィット」や「緊張」や「エレガンス」を説明したものらしい。最近、またしてもWalton (1970)が分からなくなって来たので、読み返さなければならない。なんだか、新しいテーマについて勉強しようとするたびに、ウォルトンにぶつかっている気がする。一回読めばすっきり理解できる書き方をしてくれないウォルトンがわるい。

2021/08/08

数年ぶりに『仮面/ペルソナ』を見た。格好いい映画だ。面白い映画、というわけではない。私における「格好いい」の条件はビアズリーの三位一体(統合性・強度・複雑性)からおおむね説明できそうだが、「面白い」の条件はもっと恣意的で非批評的だ。面白いものはだいたい格好いいが、格好いいものが面白いとは限らない。『叫びとささやき』は面白くて格好いい。

2021/08/07

クリームパスタレモンを食べ、お昼寝して、おいしいチーズケーキを食べた。ほぼちいかわだった。

2021/08/06

でかめのやらかしがあって反省した。

2021/08/05

オリジナルに比べて、コピーがある種の価値において劣っているのは言うまでもないが、別の種類の価値においてはコピーのほうが優れている、というのはずっと気になっている美学的話題のひとつだ。私はライブの生演奏にほとんど興味がなく、YouTubeで見るほうがよっぽど好きなのだが、佐々木健一『美学への招待』でも同じようなことが書かれていて腑に落ちた。

高校のころ、友人に誘われてエリック・クラプトン&誰かしらの来日公演を見に行った(どこだったかは忘れた)ことがあるが、はるか遠くに点のように見えるギタリストふたりのうち、どちらがクラプトンなのかすら分からずじまいだった。また、同じ頃のマウリッツハイス美術館展でフェルメール《真珠の耳飾りの少女》を見たが、大混雑のなか、案内に従って歩かされながら横目で見ることしかできなかった(せいぜい15秒しか見てなかっただろう)。そういった経験を真正なものとして特別視し、生で見たことを自慢し、YouTubeや画集で見るようでは見たうちに入らないとマウントするのは、どう考えてもアホらしいだろう。ゆえに、道はふたつしかない。王侯貴族ほどの権力を得て、クラプトンや《真珠の耳飾りの少女》にもっと近づくか、さもなければ、YouTubeや画集でなにがわるいと開き直ることだ。

とはいえ良かった経験もある。ベルリン国立美術館展の《真珠の首飾りの少女》は比較的ゆったりと見れて、美術に関心を持つきっかけになったし、数年前に神奈川県民ホールで見た山下達郎には胸を打たれた。問題は、そういった適切なサイズのライブをどう見つけ出すかだ。適切でないサイズのライブをしない山下達郎は、本当に尊敬すべきアーティストだと思う。

2021/08/04

放置していた親知らずのせいで奥歯が曲がってきている疑惑が浮上し、いやな気持ちになった。

2021/08/03

アイスコーヒーが美味しい季節なのでグビグビ飲んでいる。

2021/08/02

クーラーをつけると寒く、消すと暑い地獄では、設定温度が29度では暑く、28度では寒い。

2021/08/01

ランチで牛肉ステーキを食べた。それで妙に牛肉欲が刺激されてしまい、夕食はすき焼きにしたのだが、すき焼き用のロースを買う経済力がなく安い切り落としにしたせいで、なんだか気の毒な仕上がりになってしまった。ついでに作った山形だし(夏野菜を切り刻んで、醤油や納豆昆布でネバネバさせたソース)が白米のお供としてかなりよかった。単体でもよいし、納豆と混ぜてもおいしい。明日は鰹節と混ぜる予定だ。

2021/07/31

はじめて『シックス・センス』を見た。肝心などんでん返しについてはあらかじめネタバレをくらっていた(映画研究をしているとほとんど不可避だ)ため、これがかなりよい映画だということは分かったものの、なんらかの重要な要素を味わい損ねた感がある。一昨日の日記で情動的な鑑賞よりも理知的な鑑賞を擁護したいなどと書いていたが、あらためて前者も重要だなぁと思い知らされ、ちょっと反省した。大げさな話、私が『シックス・センス』をあと100回見たとして、もっと望ましい条件下で(ネタバレを食らうことなく)一度だけ見た人が味わうなにかは味わえないのではないか。この"味わい"は、解釈や評価とは別の話だ。適切な解釈や評価をする上で、あらかじめネタバレを受けていること(ないし、一定範囲内で倍速鑑賞すること)はさして問題ではない、という点に関しては譲るつもりはない。それでも、「ネタバレや倍速は、作品経験の重要な部分を損ねる」という主張については認めざるを得ないだろう。そこで言われている重要な経験こそ、味わいなのだろう。

2021/07/30

新選組の長はなぜ「組長」ではなく「局長」なんだろう。

2021/07/29

中学生に現国を教えていて、小林秀雄の文章を読んだ。美は頭で考えるのではなく、心で感じるのだ、というよくある話だ。美しい花も優れた芸術作品も、肝心なのは黙って目を向ける・耳を傾けることであり、言葉にしようとすることではない、という。そこに一抹の真理が含まれている(すなわち、ある種の概念的思考は情動的経験の妨げになる)ことはもっともであるが、なぜこれほどまでに多くの論者が多くの時代において似たりよったりなことを指摘してきたのかは分からない。『燃えよドラゴン』の「考えるな、感じろ!」もそうだし、サチモスの「頭だけ良いやつ もう Good night」もそうだ。いわゆる美的態度論・美的経験論はぜんぶこれだ。

実際のところ、私はそのような美意識にほとんど納得していない。私の美学的な野望のひとつは、理知的な/頭と言葉を使った/批評家気質な芸術経験を正当化することにある、といっても過言ではないだろう。「考えるな、感じろ!」のようなメッセージは密教的であり、反エリート主義の皮を被ったエリート主義の不誠実さがある。上から下に向けて「考えるな」というのは、つまるところ体制の保存・強化であって、ペテンでないにしても教師失格である。下から上に向けて「感じろ」というのも、考えることの苦しさを引き受けようとせず、惨めに目標を下方修正しているだけだ。つまるところ、「考える」に対置されるところの「感じる」という虚無を中心に、誰もどこにも行けない。

おそらく、これほど強く「感じる」ことの弊害を訴える必要もないのだろう。ディッキーが述べるように、ある種の「感じる」は「考える」と(実のところ)まったく両立可能であり、そもそも二項対立が不当なのである。また、ある種の「感じる」は「考える」と矛盾するように思えるが、(実のところ)実態のない神話ないし幻なのである。

考えることは重要だ。言葉は災いではなく、(融通が効かないにせよ)我々の友だ。そうでないのならば、私にはどうすればいいのか分からない。

2021/07/28

ひさしぶりに早起きし論文を読んだら、かなり自己肯定感が得られた。が、睡眠によって得られる満足感と天秤にかけたとき、どちらのほうが上なのかは分からない。

2021/07/27

何年も塾講師をやっていると、自分なりのオリジナルの教え方を編み出してくる。例えば、私は平叙文を疑問文にする(doを付けたり、be動詞や完了形のhaveを主語の前に持ってくること)を疑問文"処理"と呼んでいて、「疑問詞疑問文は疑問詞をつけるだけじゃダメで、疑問文の処理をする必要がある」「間接疑問文は実際のところ疑問文じゃなくて、疑問文風の名詞節を作ってるだけなので、疑問文処理はしない」みたいな教え方をする。実際のところ、"処理"という言い回しが学生にも分かりやすいのか、話をこじらせているだけなのか十分に反省できないところが、職業塾講師との違いなのだろう。私にとっての分かりやすさは、彼/彼女らにとっての分かりやすさとは限らない。一般論として、それはある程度仕方のないことだ。

2021/07/26

野村芳太郎の『鬼畜』と木下恵介の『楢山節考』を立て続けに見た。前者がかなりよかった。

2021/07/25

カレーしんどくなってきた。

2021/07/24

手厳しい批判の何割かは、「お前(ないしお前の属するカテゴリー)のことがふだんから気に入らんのだ」という以上のことをなにも言っていない。それはそれで正当なメッセージなのだが、本音を隠蔽し、あたかも目の前のテキストを検討しているようなポーズをとることはやはり不誠実だし、ろくでもないというやつだろう。

2021/07/23

またカレーをどっさり作ったので、夏野菜をトッピングしてもしゃもしゃ食べている。

2021/07/22

この前、中学生にelectronicという単語を教えていたら教え子から「エレクトロスウィングね」と言われ、(Tape FiveとかCaravan Palaceとか聴くんか。しぶいな)と思っていたが、音楽ジャンルのそれではなく、それをモチーフにしたFortniteのエモートであることにさっき思い至った。Electro Swingといえば私が高校生のころ、EDM全盛期に多少話題だったジャンルで、友人からコンピを貸してもらって聞いていたのを覚えている。その後はまったく追っていなかったのだが、調べてみると数年おきにプチ話題になっており、コンスタントにファンがいる模様だ。ジャズっぽい音を4つ打ちに乗せているだけの音楽なのだが、こういうシリアスでない音楽がじりじりと売れ続けることは、世界にとってよいことだと思う。フォートナイトにはダブステップのエモートもあるが、いまの中学生連中にはEDMがレトロに聞こえたりするのだろうか。

2021/07/21

『ルックバック』について研究室の先輩が書いた文章が話題になっていた。筆者の見解には乗れる部分もそうでない部分もあるのだが、〈『ルックバック』はセンシティブな作品であることを踏まえよう〉という大筋に関しては異論の余地がほとんどないだろう。それは現実世界における具体的な人殺しや被害者への参照を含み、かつそれを主な動力源とする作品なのだ。これは作品に付帯する歴史的事実であって、解釈以前の性質だ(それも解釈だ、と言いたい人はいるだろうが)。

にも関わらず、はてブやTwitterでは「芸術鑑賞は自由!」といういつもの有象無象がこっぴどく怒っていて、相変わらずインターネットは救えないことを再確認した。6000字ちょっとの文章を「長い」「面倒くさい」という人がこれだけ多いのも含めて、ほんとうにゾッとする。

「何もかも単純化されてしまう状況を「そんなもんだよ」と受け入れることは馬鹿にだってできるし、馬鹿は勝手にしておけば良いが、一人でも馬鹿が減るのならそれはきっと良いことだ。」

馬鹿への怒りが書かせた文章が、馬鹿から馬鹿にされるのはほんとうにやり切れないし、馬鹿・ヘイト・スパイラルへと飲み込まれてしまいそうになるが、どうか気落ちしない方法を見つけてほしいし、私も見つけたい。

2021/07/20

きらいな言い回し、というのは物書きなら誰しもいくつかあるものだが、言い回しの好き嫌いはとどのつまり読んできたものを原因とする偶然的な嗜好(に面白くもなんともないマウント欲を振りかけたもの)でしかなく、それはそれでまぁよいのだが、〈よい文章〉という客観的な基準と結びつけようとした途端に徳が著しく落ちる。例えば、私は気取った体言止めがいやなのだが、体言止めはわるい文章の必要条件でも十分条件でもなければ、標準的特徴ですらないことを知っているので、日記でそっと触れるに留めることが有徳だと感じている。好き嫌いとはそういうものだ。好き嫌いの表明は、それを見聞きした誰かを不必要にエンカレッジしたりディスカレッジするおそれがある。インターネットにおける居心地のわるさのひとつは、そういう条件に無自覚であるか、意識的に無視するようなところにある。

2021/07/19

マーク・ウィンザーによれば、フィクションにおける「ホラー」は(キャロルが定義したように)不浄で危険なモンスターによって特徴づけられ、「不安な話[Tales of dread]」は現実把握を脅かすような不気味な出来事によって特徴づけられる。前者は身体的脅威であり、後者は心理的脅威である。ウィンザーによれば、後者にはポー、クローネンバーグ、リンチらの諸作品や、『トワイライトゾーン』シリーズのような作品が含まれる。『ストレンジャー・シングス』はホラーに入るが、『DARK』はToDに入るだろう(エピソードにもよるが)。

この区別は、いくつかの点でうまく行っていない。まず、キャロルがメアリー・ダグラスから引いてきた「不浄さ[impure]」概念は、ウィンザーの述べる「見たところの不可能性」とおおむね重なる概念である。どちらも、われわれが現実世界に関して持っている文化的フレームから逸脱するような事物であって、キモいしゾッとする。ゆえに、共通点があるせいで、ウィンザーがやりたがっているホラーとToDの区別ができていない。そもそも、当の区別は(ウィンザーに反し)直観的にもほとんど自明ではない。実際、ホラーのなかにいくつかポイントの異なるサブジャンルがあり、そのひとつが不気味さの喚起に特化したToDである、という整理でダメな理由が見当たらない。ToDをホラーと並置されるジャンルとして輪郭づけようとする動機をほとんど共有できないのだ。われわれはそれらをひっくるめて「ホラー」と呼んでおり、それでとくに問題もなく暮らしている。こういった状況もまた、ジャンル研究をする上で考えたい事柄のひとつだろう。

2021/07/18

三崎まで遠足に行った。油壺のマリンパークでイルカショーを見たが、あの流線型で無駄のない身体がビヨンビヨン飛び跳ね・バルンバルン回転し・ザッパンザッパン着水するさまを見ていると、こちら側に座っている人間的身体の愚鈍さがグロテスクなまでに引き立つ。おまけにイルカは頭までいい(『銀河ヒッチハイク・ガイド』によれば彼らは人間よりも賢い)。アシカもスマートで、機敏だった(人類はやがてヒレを持つ海獣へと進化する。このことは『ガラパゴスの方舟』に書いてある)。

コツメカワウソに至っては、それだけですべてが許容される可愛さを誇っていた。人間はぜんぜんダメだ。ちなみに、いま調べたらオオカワウソという、全長が人間超えのバケモンがいることを知った。

2021/07/17

JINSのオールチタンがけっこうよいので、調光レンズをつけてサブの眼鏡にした。

2021/07/16

JINSのオールチタンがけっこうよい。調光レンズとかつけてサブの眼鏡にしたい。

2021/07/15

毎日たのしくトークボックスを練習している。中学2年生のころから、私がバンドでやりたかったのはボーカルだった。しかし、喉が弱いのとシンプルにそこまで上手ではないという理由から、あまり多くの成功体験はない。歌うことは、私がやりたいのにできない数多くの事柄のうちのひとつだ。トークボックスは、そんなフラストレーションの代償としてかなりうまくいっている。少し前は、ギターにヴォコーダーを繋げて遊んでいたのだが、あれのダメなところは、つまるところ「ピッチの外れた歌声をしかるべき音程にモディファイする」というプロセスのインプットにおける自己嫌悪にある。トークボックスはこの不備を解消している。私は口を適切なかたちにするだけでいい。あとはキーボードとトークボックスとチューブがうまく取り計らってくれる。

2021/07/14

ある種の物語的破綻がなぜおもしろいのか、というのは気になっている。『田園に死す』で川上からひな壇が流れてくるシーンなどのことだ。『ポゼッション』のアパートを出たところで高笑いしているおばぁもそれだ。こういう綻びはファスビンダー映画にとっての原動力ですらある。それをユーモアとかナンセンスで説明してしまうには、なにか取りこぼされているような気がしてならない。また、その過剰さにはどこか演劇的な手触りがある。つまり、映画的な設えとしての計画的誇張ではなく、失敗と紙一重の"攻め"が感じられる。おそらく、このような手法は時間性と深く結びついたものであり、文学的な鑑賞経験にはあまりこの手のショックがないような気もしている。感覚的にもっとも近いのは、アドリブソロでスケールからアウトしたフレーズだろう。多くの点でそれらはノイズであり、unityの妨げなのだが、うまくキマったそれはほんとうに格好良く、おもしろい。

2021/07/13

駐輪場を電子マネーで支払おうとしたら端末が故障しており、現金もなかったので内線で問い合わせたところ、後日支払うという形で出してもらえた。しかしながら、後日、どういう仕方で支払うのか謎だ。たかが100円のために、取り立て屋がうちにくるというのか(取り立て屋の自給は?)。先方の立場で考えたときに、どのような手段で回収したとしても、100円を上回るコストがかかりそうな気がするのだが、一体どうするのだろうか。まさか銀行振り込みになるのか(手数料だけで2.2倍するのだが)。

2021/07/12

今年も生ハムとトマトの冷製パスタを解禁した。トマトをセミドライにしている分、昨年よりも丁寧な暮らし度が上がっている。今日は賞味期限の危うかった(というか数日切れた)クリームチーズでチーズケーキも作った。土台もなく、適当な分量でフライパン焼きしたのだが、試験的にとりいれたコーンスターチがかなりよい仕事をしており、もちもち食感で大満足だった。

2021/07/11

適当な一般化だが、ミヒャエル・ハネケはブラックホールのような不条理を中心に据えた理不尽によってわれわれをupsetにするのに対し、ラース・フォン・トリアーはどこまでもリアリスティックな露悪によってわれわれをupsetにしている。ハネケの人々は動機がどこまでも無限後退するのに対し、トリアーの人々は利己的で、さもなければ偽善的だ。なので、「いやな気持ちにさせることをひとつの達成目標とするジャンルとしては同じだが、いやな気持ちの内実に関しては結構違うのかもしれない。

2021/07/10

大根とツナの煮物を作ろうとしたが、醤油が大さじ1弱しか残っていなかった。仕方がないので、ポン酢を入れ、だしの素を入れ、ノリでじゃがいもも入れた結果、よく分からんがまぁ食える煮物になった。前にも書いたが、私の味覚は認知的侵入を強く受けるので、オーセンティックな名称がついている料理に比べ、"よく分からん"ものはそれだけでちょっと位が落ちる。

最近はプチトマトのセミドライをよく作る。前に中目黒で買ったプリンの瓶、ぎりぎりかと思ったら一箱分のセミドライトマトを入れるのにぴったりだった。

2021/07/09

昨日、バイトしている最中、近くにずっとカナブンが鎮座していて、死体かと思ったら最後の最後で活動を始めたので、四苦八苦しながら屋外に逃してやった。今日コンビニ行こうと家を出たら、玄関出てすぐのところにカナブンが鎮座しており、こんな恩返しはほんとうにやめてほしいなと思った。あと、まったく部外者であるところの蚊が一匹ぶんぶん飛び交っていた。二匹とも帰ってきたときもいたので、部屋に飛び込まないよう素早くドアを開け閉めした。まったくわけがわからないのだが、帰宅した直後にクモが目に入ってきたので、再び素早くドアを開け閉めし、屋外に追い出した。屋外ではカナブンと蚊とクモの三つ巴が成立したことになる。誰が喰い、喰われるかなんてほんとうにどうでもいいので、全員どっか行ってほしい。

2021/07/08

ズッキーニ、セミドライトマト、モッツァレラチーズ、生ハムのパニーニを作って食べた。うまいものしか入っていないのでうまかった。

2021/07/07

夜中、近所を散歩しにいったら、草むらにでかめのカエル見つけたのと、ヤモリが4匹はり付いている壁を見つけた。

2021/07/06

半年以上抱えていた論文を投稿した。今年は短めの文章をポンポン書く、という目標はなかなか達成できずにいる。

そういえば、今年も裏窓の外でヤブミョウガが咲いている(昨年、アプリを使って再認能力を手に入れた)。痛くも痒くもないので別によいのだけど、「報われない努力」とかいう呪いのような花言葉を付与された花が裏窓の外で咲いているのは、象徴的にあまり望ましいものではない。もし私の日常が映画だったら、インサートでヤブミョウガが映ったりしないだろうか。

2021/07/05

Pagesで書いた論文をWordのテンプレに落とし込むのに二、三時間かかった。なんかひと仕事した感じがするが、プラマイゼロなのを忘れてはならない。

2021/07/04

中高の頃はすごくロックにこだわっていたし、学部生のころはすごくファンクにこだわっていた。「芸術のカテゴリー」を読む以前から、私は作品をカテゴライズすることに特別な思い入れがあり、理由もなくレッテル貼りを嫌う人を嫌っていた。「偏見から自由であれ」「無垢な目と耳で鑑賞せよ」という規範はもちろん"いい話"なのだが、世界というのは多かれ少なかれ概念によって分節化しないことには相手取れないカオスである。重要なのは、作品を見るための色眼鏡をなるべくたくさん用意しておいたり、適時新しい色眼鏡を自作できるようにしておくことであり、近視のくせに眼鏡を外すことではない。

2021/07/03

①後期資本主義社会におけるモノの価値は実用性ではなく記号的差異であり、②差異競争は強制参加である、というボードリヤールのふたつのテーゼは、私がなにかを書くときのエピグラフとしてつねにある。資本主義がこんなにも雄弁なシステムでなければ、私が書きたいと思える事柄はずっと少なかっただろう。もちろん、これは私に限らず、現代社会の書き手のほとんどが少なからずそうだと思っている。ということで、これまた使い古された言い回しにはなるのだが、社会を書いているのではなく社会に書かされているわけだ。

2021/07/02

『百年の孤独』を読み終えた。今回はペタペタと付箋を貼りながら読んだのだが、マジカルなシーンが思っていたほど多くはない。美女が飛んでいったり、村全体が不眠症に包まれたり、愛人とセックスして家畜が大繁殖するなど、そういった超自然的な出来事も目を引くが、それを淡々と語る語り手がときおり前景化してくるという、小説の遠近感が印象的だった。とくに、この語り手は人物たちが孤独のなかで一生を終える場面で文体にフックを入れており、憐憫とも嘲りともつかない比喩のなかでその死を語っている。終盤は主要人物たちの死が重なるので、文体もその調子を強めていく。アウレリャノ・ブエンディア大佐の死はこうだ。

「栗の木のほうへ行くのをやめ、アウレリャノ・ブエンディア大佐も表へ出て、行列を見ている野次馬の群れに加わった。像の首にまたがった金色の衣装の女が目についた。悲しげな駱駝が見えた。オランダ娘のなりをして、スプーンで鍋をたたいて拍子を取っている熊も見た。行列のいちばん後ろで軽業をやっている道化が目にはいったが、何もかも通りすぎて、明るい日差しのなかの街路と、羽蟻だらけの空気と、崖下をのぞいているように心細げな野次馬の四、五人だけが残ったとき、大佐はふたたびおのれの惨めな孤独と顔をつき合わせることになった。サーカスのことを考えながら大佐は栗の木のところへ行った。そして小便をしながら、なおもサーカスのことを考えようとしたが、もはやその記憶の痕跡すらなかった。ひよこのように首をうなだれ、額を栗の木の幹にあずけて、大佐はぴくりともしなくなった。家族がそのことを知ったのは翌日だった。朝の十一時に、サンタ・ソフィア・デ・ラ・ピエダがごみ捨てに中庭へ出て、禿鷹がさかんに舞い下りてくるのに気づいたのだ。(312)」

伝説的なアナーキストが小便の最中に息絶え、その死体を禿鷲に貪り食われる。死は凄惨だが滑稽だ。彼の死に際し、ほとんど唯一(間接的だが)関与したのがサンタ・ソフィア・デ・ラ・ピエダという、この物語でもひときわ地味な未亡人だというのも印象的だ。彼女の一言で、彼は表に出てサーカスを目にする。言うまでもなく、サーカスは波乱と虚飾に満ちた彼の一生のアナロジーであり、「何もかも通りすぎ」たあとの静けさのなかで、彼はその一生を終える。その遺体を発見するのもサンタ・ソフィア・デ・ラ・ピエダだ。他の誰であっても、その役割は務まらなかっただろう。まったくこの小説は、しかるべき場所にしかるべきものが配置されている。

2021/07/01

今日は中2の証明問題(偶数と偶数足したら偶数、みたいなやつ)をやたらとうまく解説できた気がする。気がするだけで、向こうがうまく理解できたかどうかは定かでない。

2021/06/30

BASEから新しく出たクッキーを食べている。アールグレイはいやなのでココア。パンは2袋で1食分の栄養素がとれるが、クッキーは4袋で1食分らしい。パンよりも1食分の単価が高いが、そもそもランチにクッキー4袋食べようという気にはならないので、1袋150円くらいの栄養価高いおやつと考えれば言うことなしだ。ヨーグルトに混ぜても美味しいことを知って得した。

2021/06/29

雨のなか自転車を漕いで帰宅した。日記によれば、前回同じイベントに見舞われたのは2021/05/13らしい。ここ数回の比にならないほどの大雨で、たいそう嫌な気持ちになった。職場の近くには、100円で借りられる屋根付き駐輪場と、50円で借りられる屋根なし駐輪場があるが、前者に停めた日に限って雨は降らず、後者に停めた日に限って雨が降る。おそらくはこういったディテールの積み重ねが、ペシミズムを作るのだろう。

2021/06/28

はじめてソルティライチを飲んだ。ジュースの類として認識していたが、どちらかというと経口補水液に近いコンテンツだと分かった。私はカテゴライズによって味覚がかなり認知的侵入を受けるため、ジュースとして飲むより経口補水液として飲んだほうがソルティライチを堪能できるようだ。それは、ジュースとして求められるなにかを満たしていないからだろうし、経口補水液としては予想外のポジティブななにかを含んでいるからだろう。

2021/06/27

ふらりと立ち寄った観葉植物のお店で、小さいパイナップルを買った。ミニパインと言うらしく、沖縄土産の定番らしい。名前はナポ男になった。

2021/06/26

学芸大にトムヤムクン食べに行ったら、立憲民主の枝野さんが演説をしていた。ものすごく大きな音量でものすごく怒っていて、遠くからでもなにかとんでもないことが起こっているんじゃないかと気が気でなかった。

2021/06/25

トークボックスをはじめた。RogerとかMrTalkboxとかなんであんなコミカルな顔するんやと思っていたが、人を小馬鹿にするときの喋り方で喉開くとうまく鳴りやすいことを知った。

2021/06/24

昨日、「哲学者は認知科学の論文を読むか?」という論考をブログに挙げた。哲学における自然主義についてはいろいろと思うところがあるのだが、私がいまだに自然主義に乗り切れないのは、どうしても「そこまで自然科学が肝心だと思うなら、なぜ哲学者はいまだにアームチェアに座っているのか」と思ってしまうからだ。「可能な限りで自然科学の成果を踏まえよう」と言いつつも、アームチェアから立ち上がって実験室に向かう哲学者、すなわち文字通り「理転」する哲学者はほとんどいない。これはブログにも書いた通り、制度的にほとんど不可能なのだ(「いまどき文理の区別を気にするなんて……」とマウントしてくる人はこういった制度的障壁に無自覚なだけ)。そうなってくると哲学者は、「自然科学ではこう言われていて……」という仕方で既存研究を紹介するだけの人たちになるのではないか。応用していると言えば聞こえはいいだろうが、基礎をやらないで応用だけやる半端者ということでいいのか。

こういった皮肉が皮肉として機能する必要はまったくないが、「哲学にはちゃんと哲学ならではの問いと方法があるのだ」というならそれはもっと先鋭化されるべきだろう。つまるところ、惨めったらしくない仕方で哲学の役割をマッピングするのは結構骨の折れるタスクだ。「自然科学は実験で、哲学は理論構築」というよく見る区別はかなり疑わしく、自然科学もふつうに理論を立てているし、それが哲学者よりも不得手であることはほとんどない。では、自然主義のもとでの哲学者はいったいなにを担当するのか。彼らは進路選択を間違え、もはや引き返せないところまで来てしまっただけではないか。これは分野の意義というよりも、例の実存に関わる問題だろう。

2021/06/23

「部分だけ取り出すな。わるさを見つけようとするな。よさに理由をつけるな。そもそも価値のジャッジを下すな。すべてをそのまま受け入れろ。etc.」という(批評的態度とは真反対の)態度に松永さんは「愛」という概念をあてがっているが、私はこの意味での愛をいかなる作品にも向けたことがないんじゃないかと思ってしまった。これまでの人生で一番コミットしたであろう作品や作家に対してひどく的外れな悪口を言われたとしても、上のような態度で返すことは考えにくい(批評として応戦する気にはなるかもしれないが)。クールを気取っているつもりではなく、機会と素質がなかったからだろう。これについては不幸とも幸運とも思わない。

思い返しても、人の好きなXに対してとやかく言ったせいでトラブルに発展したことは一度や二度ではない。たいてい私が悪い。当人にとってXは「好きな」どころではない「大切な」ものであり、例の実存に関わるものなわけだが、私にはトラブルに先立ってそれを察する能力があんまりない。ちょっと前にTwitterでK-POPファンの方から怒られが発生した。その際、「オタクとして〜云々」という点を強調されていたが、おそらくこの場面で「オタク」を自称するのは、「私は批評じゃなくて愛でる派なんで」という表明なのだろう。きっと、愛で駆動するファンコミュニティに属したことがあるかどうかで、見える世界も変わってくるのだろう。オフラインでの友情関係ですら、この手のトラブルで壊れかけたことがある。友人愛よりも肝心な作品愛があることが私には信じがたいのだが、当のケースのポイントはそこではなく、「人の大切なものを平気で悪く言う神経」が友人愛自体を困難にしたのだろうから、その点で言えばやっぱり私が悪い。二十歳超えてからは意識できる範囲で気をつけているが、それでも分からない愛は分からない。

2021/06/22

数日連続でAmazonの宅配が午前中にあるせいで、健康的な時間に起床できている。

2021/06/21

夏が来たので野菜カレーを作った。豚ひき肉とたまねぎのキーマに、Turkで適当に炒めたナス、ししとう、オクラ、ズッキーニをトッピング。今年も夏代表の完全食になること必至。

2021/06/20

論文を書くときには、全画面表示にしたほうが捗る。

2021/06/19

鶏肉のトマト煮を作ろうとしたが、放り込む直前になって、取っておいたトマト缶がカビていることに気がついた。仕方がないので、ケチャップと中濃ソースとウスターソース、カレースパイス一式をぶち込んで、よく分からないべちゃべちゃの鶏肉料理にしたが、あとから考えればほぼほぼカレー・ハンバーグだった。味はまとまっていなかったが、舌がバカなので問題なし。鶏肉の硬さだけは完璧でふつうに美味しかった。

2021/06/18

前日にアウレリャノの宿命的破滅とか書いたが、直後の章を読んだら思いっきりプロットツイストがあって、踊りに踊らされた。たったの数年で、私は『百年の孤独』の中身をすっかり忘れている。小説にせよ映画にせよ、フィクションのストーリーを忘れることに関しては私は師範レベルだ。忘れるおかげで、またいちから楽しめる。

2021/06/17

数年ぶりに『百年の孤独』を紐解いているが、毎章ぶっ飛ぶほど面白くて恐れおののいている。エピソードとエピソードが適当に散らばっているように見えて、その配置はそれ以外考えられないような必然性でもって、強力なグルーヴを構成している。極端な話、1967年以前の文学論はまったく読む気にならないほど、この小説はとんでもない文学的達成をしている。

学部生のころには表面的にしか読めていなかったが、いまちょうどアウレリャノが左翼テロリストに転身する章を読んでいて、胸が引き裂かれている。引きこもりの科学オタクで、暴力を嫌う人道主義者である彼が、一連の不幸と理不尽を経験し、保守党との戦争に飛び込んでいく様はあまりにも悲しい。とりわけ、その宿命的破滅は小説の冒頭からしつこいほど予告されている。アウレリャノはただひたすらに優しい人物であり、優しいからこそテロリズム以外の選択肢を奪われ、優しいからこそ破滅に取り憑かれる。この転身劇を、まったく関係のなさそうなエピソードから、20ページそこらの一章分で(これ以上ないほど説得的なものとして)書き上げる手腕は人間業じゃない。

2021/06/16

ストレートな意味での小説家になりたいという気持ちを、それはそれはずっと昔から持っている。文学がどういうものであり、どういうものでないのかは、それなりによく分かっているつもりだからこそ、哲学としてものを書く上で文学的な要素を組み込むのは、私にとってみじめでしかない。それは悪あがき的妥協、あるいは妥協的悪あがきであって、なんら建設的なことではない。論文を書く上で気にしていることの大半は、いかにして文学から離れるかであり、おそらくもっとも傷つくであろうコメントは「文学的」だとか「カッコいい文章」ということになるのだろう(幸い、そんなことを言われたことはない)。私は小説家になりたかった。なれなかったからこそ、なるべく文学的ではない哲学をやっている。精神分析では、こういう振る舞いを反動形成と言う。

2021/06/15

またしてもちいかわがもじもじしてハチワレちゃんが気の毒な感じになっている。シャイで、なかなか自分から前に出ていかないのがもどかしいとか、そういうレベルの話ではない。高速ドライブ中にトイレ我慢していた回もそうだが、ちいかわのダメなところは、「人に迷惑をかけるぐらいなら我慢する」という自覚が独りよがり過ぎて、結局のところハチワレちゃんはじめ周囲に気遣わせてしまうという点にある。「人に迷惑を掛けない」というのは、適度な報連相と、閾値以下の迷惑掛け合いのもとで成り立つのであって、自分だけ黙って我慢すればいい、というのはとんでもない誤解だ。おまけに、ちいかわは萎えることがあると萎えた顔をするため、空気の読めるハチワレちゃんもそれを見て元気がなくなってしまう。私がハチワレちゃんだったら、遅かれ早かれ鬱になると思う。

2021/06/14

辛ラーメンを食べた。最近はよくこれを食べる。からくてつらいので、それなりに労力を使い、結果的にすごくしっかり食べたような気がする。

2021/06/13

実家で『悪魔のいけにえ』を見てきた。母はしょうもないコントだと思ったらしいが、妹はそれなりに見れる映画だと判断した模様。父と犬は関心を示さなかった。

2021/06/12

近所のスーパーでまたしても年確をうけ、学生証しかなかったので、「いちおう大学院の博士課程でして、博士課程って二十歳以上しか入れないんですけど……」という説明をした。そりゃあそうだが、ピンとこられてない様子だった。ふつうに学生証に生年月日書いてあった(知らなかった)ので事なきを得たし、ビールを得た。

2021/06/11

Grover Washington Jr.の人間離れしたソロを聞いてぶったまげた。こんなアナログな楽器一個で、人間がこんな音を出せるというのはとても信じがたいことだ。昔、サックスをやってるサークルの先輩に、ギターはエフェクター踏めばギュイーンと盛り上げられるからいいなぁ、と言われたことがあったが、実はぜんぜんそんなことなくて、〈エフェクター踏めばギュイーンとなる〉のはエレキギターの標準的特徴なので、ピロピロしたところで盛り上がりはそこそこなのだ。良いサックスソロは、良いギターソロとはぜんぜん違う。すごいサックスプレイヤーは、やはりどこかびっくり人間的なところがあり、身体的に圧倒される。指をすばやく動かせるびっくり人間は、とんでもない肺活量のびっくり人間にはなかなか勝てない。

2021/06/10

ファズしか持ってないバンドの「Pretender」という、見出しからして面白いコンテンツがしっかり面白かった。音割れポッターといい、デカイ音はシンプルに笑えるのだが、なぜ笑いとして成り立つのだろう。よく言われるように、「笑える」は「怖い」とどこか隣接しているように思われる。

2021/06/09

昼にとんかつ、夜に麻婆豆腐を食べた。肉そぼろを作り置きしたのと、ナスも買ってきたので、任意のタイミングで麻婆茄子も作れる。

2021/06/08

ビールにコカ・コーラを混ぜたカクテル「ディーゼル」を飲んだ。少しだけ苦味のあるコーラだった。

2021/06/07

「匿名の知らんやつ」という他者がたいそう嫌だ。私は実名でインターネットをやっているので、これはもうひどくリスクを抱えているわけだが、そこにある非対称性を考えもせず、好き勝手に物を言う輩はやはりどこか損なわれていると思う。ということで、「匿名の知らんやつ」はなるべく相手にしない、というのが最適解だ。それはアルゴリズムが吐き出す0と1の集積でしかなく、重要な意味でのコミュニケーションではない。アイデンティファイできる人からのコメントを気にしたほうが、よっぽど生産的だし健康的だ。

2021/06/06

ミヒャエル・ハネケの『ファニーゲーム』を見たが、レビューを見るほうが面白かった。「無意味である」「内容がない」というのが、本作に対する定番コメントらしいが、こういった言葉遣いを正すのが芸術哲学の意義なのだろうと思う。「無意味である」も「内容がない」も、その実質は「ある特定の観点から期待される価値を持っていない」に過ぎない。リテラルな意味において、『ファニーゲーム』がなんらかの意味や内容を持つのは、明らかすぎるほど明らかだからだ。

ともかく、『ファニーゲーム』に反感を抱くレビュアーにおいて「特定の観点」とは、一階の快楽主義なのだろうと思う。なにもしていない家族が一方的に蹂躙される物語は、ただちにはなんら快楽を与えない。嗜虐的な欲望を持つレビュアーを除けば、ここまでは誰だって認める。問題は、一階の快楽主義にとどまることが果たして批評なのか、という点にある。『ファニーゲーム』は、(1)快楽うんぬんとは独立したより重要な評価軸において、価値を持つかもしれないし、(2)なんらかの独立した価値を持つことが、高次の快楽をもたらすかもしれない。まとめると、『ファニーゲーム』に対する「無意味である」「内容がない」というレビューは、言葉遣いがずさんなのと、見方が浅い、というよくある話になる。

2021/06/05

ホラーについての研究をちゃんとやりたい、というのは長らく思っているのだが、自分なりの問いがまだ見つかっていない。分析美学だと、フィクションのパラドックス(現実じゃないのになぜ怖いのか)やホラーのパラドックス(怖いのになぜ見ようとするのか)なんかがホットトピックだが、直接的な興味はそんなにはわかない。つまるところ、そういったパラドックスをどう紐解くかは心理学的な課題であって、哲学ではないような気がしている。

ホラージャンルの特徴づけ、というのはそれなりに気になる話題だが、帰結のない特徴づけは体裁が悪い。既存の特徴づけも、基本的には上述のパラドックスを解くためになされる。自己目的化した定義でも、個人的には面白がれるのだが、将来性はそんなにないだろう。

見込みがあるとすれば、ホラーの詩学か。プロットや表現の類型、それがもたらすホラーとしての良し悪し、といった話題はかなり気になる。

2021/06/04

ルーロー飯を作った。相当手間がかかったが、前よりさらに美味しく仕上がった。台湾パイナップルも買ってきたので、しばらく台湾フェスが続くことになる。

2021/06/03

カレー屋でナンを食べた。14時まで腹をすかすかにすかせ、ナン2枚食べてやるぞと意気込んでいたが、そんなにだったので、ナンではなくライスをおかわりした。学振を書いていた週に比べると、エネルギー消費がそうでもないのが分かる。

2021/06/02

少なくとも、インプットされる情報の確定度合いに関しては、「百見は一聞にしかず」だ。最大限の懐疑主義を前提するならば、目の前にXがあるからと言って、それがXであるという保証はなにもない。もちろん、Xに見える画像が、Xの画像である保証もない。同様に、Xが性質Fであるように見えていたとしても、その場においてF性が伝達されている保証はない。目から入ってくるインプットは、総じてぜんぜんダメなのだ。一方、「X」という言語表現は適切な文脈においてXについてのものであるし、「XはFである」という文がなにを述べているかというと、これはもうXはFであるということに尽きる。ここに、コミットされている情報に関する不確かさはほとんどない。もちろん、多義的な表現や曖昧な表現はあるだろうが、視覚的情報のそれに比べたら、言語は伝える情報に関してかっちりしている。その理由は簡単で、隠れた前提において、われわれは視覚的情報を言語に翻訳しようとしているからだ。翻訳というフィルターが、視覚的情報を情報として不確かなものにしている。

2021/06/01

一般的に言って、詐称の技量は恥ずべきことではあっても称賛されるようなことではないのだが、人狼やAmong Usではこれが称賛されることになる。正体を隠し、議論をミスリードし、無実の人に罪をなすりつけるのはまったく褒められたことではないはずなのに、これを巧みに行うインポスターは、やはりなんらかの達成をしている。言うまでもなく、これは人狼に限られた事態ではなく、ある種の知的スポーツに一般的なパラドックスだ。だが、思うに話はさらに一般的なものであり、巧みな話術によって他人を丸め込むことのできる人物には、どこか否定しがたい魅力がある。これを“人間的”魅力と呼ぶことにはためらってしまうが、場合によってはそうすべきだろう。つまるところ、「うそはうそであると見抜ける人でないと難しい」という呪いはいまだ現役である。

2021/05/31

ルイスの『コンヴェンション』を読み始めた。はじめに解説だけ読んだが、なるほど、前半は哲学者には訳したくないし、後半は経済学者には訳したくないような内容らしい。最終的に経済学者が訳を手掛けたという事実は、大筋としてはやはり経済学上の意義が哲学上のそれにまさるような本だということなのか、あるいは、本邦の哲学者よりも経済学者のほうがフットワークが軽い、ということなのか。

2021/05/30

ケンタッキーが安かったので、いっぱい食べた。チキンもクリスピーもナゲットもポテトもうまかったのだが、ビスケットを買わなかったので、片手落ちという感は否めない。

2021/05/29

寿司を食べて、身も心も潤った。食べたものは、トロタクロール、はまち、名物ちゃんこ汁、あぶりえんがわ(塩れもん)、あぶりえんがわ(みそ)、カニ味噌軍艦、うなぎ。

2021/05/28

真正性に関する伊藤さんのアイデアがよく分かっていないので、ここで整理しておきたい。基本的には、「xは本物である」の内実と条件に関わる話だと思うが、さしあたり①実質的用法と②評価的用法は区別できるだろう。これは「xは芸術である」に関してディッキーが区別したそれに相当するはず。「xは芸術である」が、あるものの(なんらかの)価値が高いことしか伝えておらず、実質的な意味での「芸術」として分類されるかどうかには関わらないことがある。同様に、「xは本物である」という述定も、②純粋な価値づけとしてなされうる。

トリヴィアルな真正性と言われているのは、①実質的用法のほうの話だろう。これは二通り考えられている。形式化するとたぶん次のような感じ。「xは本物のyである」をAxyで表記するならば、

  1. タイプ的な真正性:事物aが本物のタイプFであるのは、aがFを例化するとき、かつそのときに限る。(AaF⇔Fa

  2. 個物的な真正性:事物aが本物の事物bであるのは、abと時空間的に連続している(C)とき、かつそのときに限る。(Aab⇔Cab

こういった意味における「xは本物である」はたしかにトリヴィアルであり、「ポチが現に犬であるならば、ポチは本物の犬である」し、「目の前の人物aが、友人であるbと時空間的に連続した人物であるならば、aは本物のbである(b本人である)」という、いわば当たり前のことしか述べていない。前者はタイプの例化、後者は時空間的連続として言い換えても差し支えないことになる。

コメントとして、上のミニマルな意味合いを、真の/プロパーな/本来の意味での「真正性」と呼ぶのは難しくないか、と思った。つまり、切り詰めているうちにauthenticではなく別の概念に関する話になってはいないか(genuineとかrealとか)。私も「depict」のコアを限度まで切り詰めようとしてきたのだが、とどのつまり、気にされているのはコアではなくて、日常的なレベルで見たときの現象や関係性であるかもしれない。同様に、authenticityの問題系は、そもそもコアの水準にはないのかもしれない。

2021/05/27

タイポグラフィの美学についてなにか書こうと思いつつ、長らく着手できずにいる。

私が注目したのは、第一に、字体や文字組みに対する美的判断が、語や文に対する美的判断として流入するという事態だ。これは、絵画やイラストのうちに見て取れる〈誇張されて描かれた人物A(分離した内容)〉に対する美的判断(かっこいい、みにくい)が、現実の〈人物A〉に対する美的判断として流入する、という事態と似ている。フォントや体裁を整えることで観者の印象を操作するのは、タイポグラフィの一般的な機能だろう。しかし、正しい美的判断が直接経験を必要条件とするならば、流入による美的判断は、擬似的な美的判断ということになるのだろうか。この辺を整理してみたい。

第二に、タイポグラフィにはさまざまな美的用語が適用される。そのなかには、「男性的(masculine)/女性的(feminine)」「大人っぽい(mature)/子供っぽい(childish)」「モダン(modern)/クラシック(classic)」「上品(elegant)/下品(dirty)」「力強い(sturdy)/繊細(delicate)」などが含まれる。これらが、一定の形状を持つアルファベットへと適用されるというのが、そもそもどういうことなのか気になる。これは、美的判断が語や文の表示する事物へと流入する以前の問題だ。ボールドだと男性的で、セリフ体だとクラシックなのはどういうことか。この辺りは、タイポグラフィの歴史や制作実践を見ていく必要がありそうだが、加えて、ある種の比喩的な側面もありそうだ。

2021/05/26

アンジェイ・ズラウスキーの『ポゼッション』というたいそうよく出来たホラー/サスペンス映画について書きたいことがあるのだが、私の話なんぞでネタバレを食らうぐらいならお願いだから映画を見てくれ、という思いが強いため、どこにも発表できそうにない。

2021/05/25

天気がいいので、ついに部屋干し生乾きの呪縛から解放された。学振も出せたので、ようやく読みたい本が読める。

2021/05/24

毎年この時期になると研究の目的・意義・計画を反省させられる、というと聞こえがわるいので、反省する機会を得る、ということにしておこう。分析哲学はゲームだとか、いやいやどんな哲学だろうと無意味だとか、そもそも人文系全体が税金の無駄遣いだ、といった声と戦い続けること自体が哲学なのだ、といった14点ぐらいの返しをしたくなるほどには、この類の声は止まず(あるいは幻聴に移行しているのかもしれない)、むかついてもしょうがないので年に一度ぐらいは相手にしようと思っている。

とはいえ、自分のやっていることの是非について外野からとやかく言われないで済む、というのは健康で文化的な生活の条件にしてもいいとは思う。私はいっそ料理人になりたかった。料理になんの意味があるのか、と訪ねてくる輩に、お前は頭がおかしいのかと言い返せるのは、さぞ痛快なことだろう。

『ジョーズ』で海洋学者をバカにしていたサメハンターは、ホオジロザメの朝食となってくたばった。海洋学者が持参してきた酸素ボンベは、邪魔なだけだと非難されていたが、ホオジロザメを木っ端微塵に吹き飛ばすのに一役買った。つまりは、そういうことだ。

2021/05/23

昼過ぎに起きて学振を書きまくり、16時過ぎぐらいにカレー屋でナンを食べまくった。ジャック・ダニエルを買って帰宅。フロムザバレルの価格高騰は終わる気配がない。

2021/05/22

発表してきた。今回も今回とて意図主義と戦うことになったわけだが、勝敗はともかく、ある種の戦い方が見えてきた点、今後読むべき本が分かった点で、個人的に有益な発表だった。どこかで、作品の身分や意味や価値を、意図の手前で担保する類の形式主義を目指していたが、おそらくより有望なのは、それらが意図の先ではじめて得られる、という類の反意図主義だ。きっと、ここ半年の間に読んだ三木那由多さんやCatharine Abellの本が少なからず影響している。それ以上の必然性においてこっちの路線に導いてくれた本があるとすれば、やはり『タイタンの妖女』だろう。

2021/05/21

明日は学会発表なのだが、舌の裏側に出来た腐れ口内炎が、一向に治る気配を見せない。

明日は学会発表なのだが、学振の〆切も迫っており、白湯を飲みながら夜ふかしをしている。

布団カバーを洗濯したところ、丸一日干しても乾かない。

2021/05/20

ヨーグルトにバナナとはちみつ漬けレモンを入れてたくさん食べた。

2021/05/19

パエリアを作った。その他を除けばおおむねうまくいったが、水の分量調整が難しい。なかなか米が理想的な硬さにならないため、何度も加水しては蒸らすのを繰り返す。おこげは調子に乗らないこと。10秒でいい。20秒ではダメだ。

2021/05/18

天気がわるい。

2021/05/17

起床とともに突然思い至ったので、週末にやる発表のフライヤーを作った。目標はヘルムート・シュミットの大塚製薬。あの絶妙な工業製品みはほとんど再現できなかったが、とはいえ発表のたびにフライヤーを用意するのはわるい考えではなさそうだ。学会発表は研究者にとってのライブにほかならないし、ライブにはフライヤーが必要だ(表象文化論学会は毎度おもしろいフライヤーを用意しているが、あれは一体だれが担当しているんだろう)。

2021/05/16

ちまたで噂の台湾パイナップルを食べた。ふだんそんなに果物を食べない私でも美味しいと感じられる食物だった。ヨーグルトに入れるとなおよしな気がする。

2021/05/15

お好み焼きを作ったが、小麦粉の分量をミスったためほぼパンだった。

2021/05/14

タコライスを作った。おいしい上に完全食なので、たくさん食べた。

2021/05/13

嫌な感じの雨のなか自転車で出勤するという、たいそう嫌なイベントがあった。日記を見ると、前に雨のなか自転車を漕ぐはめになったのは2021/04/14らしい。きっと私は雨に見舞われるたびにそのことを日記に書くので、自分がいつ雨に見舞われたのかいつでも確認できるようになったということだ。日記は、今後もこの書き連ねていく形式を続けようと思う。「毎日が新しい一日なのだ」と言ったのはヘミングウェイらしいが、日々積み上がっていく文字列のほうが、私には好ましい時間モデルなように思われる。

2021/05/12

連日、自分で作ったスライドをカットし続けている。書き足すことが聴衆に対する不信なのであれば、省略することは聴衆への信頼ということになるのだろうか。

2021/05/11

James Brownはライブ盤ばかり聞いてきたが、改めてスタジオ録音のアルバムもかなりいい。最近は69年の『The Popcorn』をよく聞いている。インストナンバーだけで構成された珍しいアルバムなのだが、60sJBの精鋭揃いなので悪いわけがない。個人的には「Why Am I Treated So Bad」など、Jimmy Nolenのソロがたくさん聞けるのが推しポイント。リズムギタリストとしてのユニークさは言うまでもないが、ソロをとらせても完成度がすさまじい。後続のジャズ・ファンク・ギタリストたちは、相当Jimmy Nolenを研究したんだろうな。

2021/05/10

作品やテキストを褒めたり貶したりする際に使われる、運動と静止のメタファーには注意が必要だ。それは生と死のメタファーに直結していて、多かれ少なかれ「生は望ましく、死は望ましくない」という人間的な直観にフリーライドしている。絶えず流動し、動き回り、定まった形を持たないものをありがたがるのは、生きている感じがして好ましいというだけかもしれない。言うまでもなく、動いているが死んでいるものもあり、止まっているが生きているものもある。積分によって見えることもあれば、微分によって見えることもある。

これは動いている、あれは止まっている、という判断自体がしばしばいい加減であることは言うまでもない。

2021/05/09

昼お好み焼き、夜焼きそばのというメニューを3日ほど続けている。どちらも完全食だし、食材の共通集合が大きいため、一度の買い物で何食も解決できる。Turkのフライパンでキャベツとバラ肉を炒めると、肉の油と野菜がうまい具合に絡み合い、お店のような仕上がりになる。これを書いていて思い出したが、なお共通部分であるところの紅しょうがを買い忘れていた。紅しょうががあるかどうかで、お好み焼きと焼きそばのとくこうとくぼうは1.5倍ぐらい違う。こころのしずくだ。

2021/05/08

応用哲学会での発表を練った。今までの傾向上明らかなのだが、2万字ぐらいの内容にしようと心がけると、ラスト3000字ぐらいで面白いアイデアが閃き、そこから1万2万と書き連ねることになりがちなため、最初の段階で1万字ぐらいを心がけたほうがいい。2021年は短めの文章をたくさん書こうと意気込んでいたが、例年通り長めの文章をポツポツ書く感じになりそうな気がしてきた。

2021/05/07

駒場の表象文化論研究室において、近代性は評判がわるい。理性偏重だ、人間中心的だ、啓蒙主義的だ、というのは輪読コメントの定番であり、これらに無自覚であることは恥ずべきことだとされる。私もポストモダンの洗礼を少なくとも4年は浴びたので、約束された発展の裏に西洋中心主義、男性中心主義、植民地主義があるという見込み自体は念頭に置くべきものだと考えている。これらの暴露は、近代性を疑ったことによる成果である。問題は、これらを乗り越えるために必要な理性(メタ理性?)までが、理性だからとにかくダメだと退けられるときに生じる。一方で、表象文化論研究室はリベラリズムに献身的であるため、ここにジレンマが発生する。しかし、私にはこれがマッチポンプにしか思えない。

「既存の理性主義的オプションがどれも魅力的ではない」と「いずれにしても理性主義に根ざしたオプションではうまく行かない」の間には大きなギャップがある。不十分で失敗した啓蒙や、啓蒙を装う搾取はたくさんあるが、だからといって啓蒙自体をやめようという話にはならない。「理性や啓蒙に関しては慎重になるべきだ」という程度のことであれば誰だって同意するだろう。そうではなく、近代性一般に対するアレルギー反応を養っているのだとすれば、これはあまりよろしい教育ではないに違いない。

2021/05/06

数日前にキャラメリゼしたミックスナッツがだいぶと美味しい。スーパーのミックスナッツはどこかしっとりしていてイマイチなことが多いのだが、加熱したことで水分が飛んだのか、かなり口当たりがよい。ちょっと前に専門店で買ったハニーローストが割高だったので自分で作ろうと思い立ったわけだが、これはかなり気の利いたアイデアだったようだ。バターを混ぜるのがポイント。

2021/05/05

インドカレーを食べた。バターチキンとマトンとほうれん草。ナンを二枚弱、ごまドレッシングのサラダ、ジャスミン米、ピクルスを食べ、ラッシーを飲んだ。

2021/05/04

「(1)xはFならばGである、(2)aはFである、(3)aはGである」の三段論法を意識する限りで、いい加減なことを述べている文章のいい加減さは特定できる。例はこうだ。「(1)哲学は論争ファーストのスポーツであるならばダメだ、(2)分析哲学は論争ファーストのスポーツである、(3)分析哲学はダメだ」。分析哲学の擁護者はただちに「(¬2)分析哲学は論争ファーストのスポーツではない」と述べるか、あるいは「(4)分析哲学には論争ファーストのスポーツとしてのダメさがあるが、別の魅力Xもある」と言いだしがちだ。(¬2)はまったくもっともであり、その立証は分析哲学史に詳しい人に任せればいい。(4)は実質的な応答にはならない(別の魅力があろうがダメなものはその点に限って言えばダメだ)が、批判者の良心にはある程度訴えられるかもしれない。そうでないにせよ、たいていの事柄には魅力と悪癖が混在している、これは端的な事実だ。

しかし、私にとって一番腑に落ちないのは「(1)哲学は論争ファーストのスポーツであるならばダメだ」という前提だ。もし批判者が〈論争ファーストな態度を持つ〉ことを貶しているのだとすれば、これは厳しすぎる。議論のための議論が価値ある事柄を明らかにすることは決してない、と考えるべき理由はなにひとつない。価値ある事柄が明らかになるかどうかは、態度とはほとんど関係がない。もし批判者が〈論争ファーストな態度しか持たない〉ことを貶しているのだとすれば、「(2)分析哲学は論争ファーストのスポーツでしかない」というのは一層疑わしい。だが、よしんば論争ファーストのスポーツでしかないとして、それでも「ならばダメだ」とはならない。

話はもっと単純だ。スポーツはやるのも見るのも楽しい。スポーツは制度化されることで、職業選手が生活の心配をする必要がなくなり、ファンが多くの好ましいプレイを楽しむことができ、経済と文化が発展する。スポーツは健康にもよいので、教育にも適度に取り入れるべきだ。私はスポーツ選手になりたい。「しかしあなたの営みは哲学じゃないのだ」と批判者が言うのであれば、私はこの営みに別の名前を付けて、哲学者の看板をおろすまでだ。

2021/05/03

批評はたいていいつも嫌われている。作品に点数を付けたり、他作品と比較して優劣を語るといった営みに我慢がならない人たちがいるのだろう。一方で、批評はときとしてたいそう神聖化されている。作品に点数を付けたり、他作品と比較して優劣を語るといった営みを批評とみなすことに我慢がならない人たちも一定数いる。

批評家アンドリュー・サリスによる『The American Cinema: Directors and Directions, 1929-1968』は、アメリカの映画監督・約150人を「殿堂入り」「一発屋」などでランク付けした本だが、本書が邦訳されることはきっとないだろう。これは残念なことだ。

2021/05/02

論文に100点のエピグラフを付けたので、今日はいい仕事をした。

2021/05/01

学部三回生のときに、自分にとって肝心な芸術形式を肝心な順番に並べてみたことがあり、たしか「文学>映画=音楽>>>美術>舞台」とした記憶がある。文学は中学のときから好きで、日吉にいたころはカート・ヴォネガットやらチャールズ・ブコウスキーやらリチャード・ブローティガンやらにどっぷり入れ込んでいたので首位にある。中国文学の卒論を書いた。映画と出会ったのはもっと遅く、大学に入ってから毎年100本を目標に見始めたのだが、今日に至るまで私の生活の数パーセントを占めている。音楽は物心がついた頃から聞いていたし、バンドもやっていたのでかなりコミットしていた分野だが、バンドもやっていたからこそいい思い出ばかりではなく、音楽には対しては愛憎の両方がある。ポピュラー音楽の卒論も書いた。大文字のアートや芸術史については大学院に入ってから気にするようになった(気にするよう強いられた)のだが、いまだにそんなには気にしていない。写真の修論を書いた。

哲学者が芸術について語るとき、無意識に念頭に置く芸術形式や個別作品があると思う。もちろん、慎重な哲学者は自説を他形式で検証することも怠らないだろうが、それはともかく、当人がどの芸術形式やどの個別作品を肝心なものだと考えているのかは、興味深い事柄だ。これは哲学のなかでも、芸術哲学を特異なものにしている一因だと思う。私が反意図主義を支持するのは、部分的にはロマン主義文学よりもポストモダン文学のほうが好きだからだ。理屈ではなく好き嫌いによって動機づけられることは、一般的に言えば哲学的悪徳だろうが、芸術哲学は多かれ少なかれ好き嫌いによって駆動する。しかも、その好き嫌いは、政治哲学者にとっての政治的立場よりも、一層バリエーション豊かで複雑なものだろう。特定の形式や作品を愛でたり呪ったりするユニークなアスペクトを持つことなく、芸術哲学をやることが動機づけられるというのは、私にはたいへん疑わしい。理屈の裏に好き嫌いが見え隠れする文章は、議論としてはともかく文章として面白いものだ。芸術哲学者にはもっと、「あなたはどれが好きなんですか」という問いに答えてほしい、という話である。

2021/04/30

講義でツィオルコフスキーの「宇宙の一元論」を担当し、ちゃん読でビアズリーの「美的観点」を担当したので、よく喋る一日だった。ツィオルコフスキーは死ぬのが相当いやだったらしいし、ビアズリーは海原雄山らしい。

2021/04/29

28時まで寝付けなかった。

2021/04/28

苦節一年、ついに光回線を手に入れた。爆速インターネットだ。昼間、講義があるかと思って大学に行ったら休講で、移動時間を無駄にしたが、すぐに元が取れそうなほどネットが速いのでまったく気にならなかった。ネットが速いと気持ちに余裕が出てくる。

2021/04/27

なんとなく買いに出かけるのが面倒で、ずっと切らしていたビールを買い込んだ。ビールは買うだけでも美味い。

2021/04/26

お昼過ぎに公園を散歩していたら、ターザンロープに興味津々のブルドッグがいた。目の前ですべってみせたら、「すげぇじゃん!」と言わんばかりに目を輝かせて駆け寄ってきた。なんだか本当にすごいことを成し遂げたかのような気がしてまんざらでもなかった。

2021/04/25

サムギョプサルを焼きながら、YouTubeでKinKi Kidsと山下達郎の「硝子の少年」を立て続けに聞いた。スマホが油でギトギトになった。

2021/04/24

フリッツ・ラングの『M』を見た。思えば、あれはなんだか悪夢のような話だった。私はたまに、なにかをやらかす夢を見る。犯罪だったり事故だったりと内容さまざまであり、ときには具体的な内容を持たず、抽象的な仕方で不可逆ななにかをやらかす夢も、見る。なにかがすっかり損なわれてしまった焦りと後悔だけを覚えるような、いやな夢だ。『M』のシリアルキラーは、内なる衝動を抑えきれず、犯行に及んだことを告白する。その理屈は支離滅裂で、話しぶりは狂気そのものなのだが、面白いのはそれを聴く人々の反応だ。一人目の白髪の老人は、謎めいた表情で何度もうなずく。二人目の帽子をかぶった男も頷いているが、口元には嘲りの表情を浮かべているようにも見える。若い娘はその母親と思われる女性の腕にすがり、恐怖の表情を浮かべている。母親は落ち着かない様子で、手元の布切れを弄んでいる。帽子をかぶった男、母と娘の反応はごく自然なものであるのに対し、白髪の老人はなにを考えているのか分からなくて気味が悪い。そうか、と思い至るのは、ここでシリアルキラーを裁こうとしている群衆自体が犯罪者の集まりだということだ。ここにも、悪夢のごとき対称性がある。夢において、罪と罰の主体はいずれも私なのだ。衝動に対して理解を示すのも、これを嘲るのも、これに怯えるのも、私の諸部分なのだ。やがて警察隊によって私刑が阻止される場面が続くが、警察隊の乱入は画面外において示唆されるだけで、その姿を見ることはできない。唐突な救済は、まるで朝日のようだが、その先にはまた別の罰が待っている。

2021/04/23

倍速鑑賞では飽き足らず、10分で見れるYouTubeのあらすじ動画をよく見ている、などと言ったらまたマウントかまされそうだが、私はよく見ている。ただし、一度見たことのある映画限定だ。たいていの人とおなじく、見た映画ぜんぶ覚えていられるほどの記憶力はないので、論文などで参照したいときにサクッとおさらいするにはかなり便利なコンテンツである(法的にグレーというのはともかく)。

ところで、ネタバレ否定派はしばしば、初回鑑賞時の貴重ななにかをネタバレ接触が損なうとするが、これは二度目以降の鑑賞についても言えるのだろうか。サスペンスの筋を忘れている限りで、二度目に見ても(肯定的な経験として)衝撃を受けるのだとすれば、それは美的に保護すべき貴重ななにかのように思われるし、あらすじのおさらいはまさにこれを損ねているように思われる。「初回鑑賞は特別だから」というのはまったく分かるのだが、「二度目以降は別にいい」というのではネタバレ否定派としてあまり一貫していない気もする。二度目以降もフラットに見るため、初回鑑賞後も情報に接触してはならない、というのでは当然厳しすぎるだろう。

2021/04/22

昨日、鶏むねとハーブ類(パクチー、大葉、三つ葉、万能ねぎ)をナンプラーとレモンで和えたサラダを作ったが、どうも気に食わず冷蔵庫に寝かせておいたものを、今日の夜食にサッポロ一番みそラーメンを食べようとしたときなにを思ったのかまるごと入れてしまおうと思い立ち、実際にそうしたのだが、それがあまり気の利いたアイデアではないことはすぐに分かった。

2021/04/21

いま「美的態度の神話」を訳しているのもあり、最近はジョージ・ディッキーのことを考えている。有名なのは芸術作品の制度説だが、その手前の仕事としてストルニッツやビアズリーに対する批判も重要であり、この辺をもっと勉強・紹介したいと思っている。ディッキーは一貫して、美的態度や美的経験といったものに懐疑的であり、それなしでやっていこうとする。無関心性のような古典的な論点に関しても、「そんな経験をしたことは一度もない」とあけすけに述べるさまは痛快だ。どんな話題にもひとりはこういう論者がいて欲しい。ノエル・キャロルがディッキーの生徒だったことも、さっきWikipediaで知った。

2021/04/20

言葉が足りないことはしょっちゅうだが、言葉では足りないことは決してない。まったくぜんぜんない。

2021/04/19

ひさびさに唐揚げに挑戦したが、なんともいえない仕上がりだった。基本的には、油を犠牲にするか味を犠牲にするかの二択らしい。場数を踏まなければどうしようもないんだろうが、上も下も油でギトギトになるような場はそんなにしょっちゅうは踏みたくない。キッチンペーパーが枯渇してしまったので、私はキッチンペーパーを買わなければならない。

2021/04/18

ロシア宇宙主義の講義で担当になったので、ツィオルコフスキー「宇宙の一元論」のレジュメを切った。ざっくりまとめると、

  1. 汎心論:あらゆる原子(宇宙の全部分)が感覚能力を持つ。

  2. 無限に続く宇宙の周期的循環:無機物や有機物の間を原子が渡り歩く。

  3. 完成された生命とその広がり:人類よりも上位の生命が宇宙を入植していく。

  4. 無限における幸福:有機体の生において原子は主観的な幸福を味わいまくる。

といったことを熱弁している。当然ところどころ胡散臭いながらも、自己啓発として読む分には個人的に結構ぐっとくる文章だった(なんにせよ分析哲学の読み方を仕掛ければいいものではないことを再確認)。とくに、楽観的だろうが理性に全ベットする姿勢はシンパシーを感じるところだ。悲観的すぎるあまり野性しか勝たんと言い出す類よりよっぽど健康的だろう。

2021/04/17

台湾料理屋でジーパイ(高い)を食べ、ジェラート屋でピスタチオアイスクリーム(高い)を食べ、家で『マグノリア』(長い)を見た。たいそう充実した土曜日だった。

2021/04/16

26歳になった。13歳の二倍だ。恋人からTurkのクラシックフライパンを頂いたので、さっそくシーズニングし、鶏もものハニーレモン焼きを作った。まだ勝手が分からないので結構こびりついたが、お湯で簡単にこそぎ落とせるのは新感覚で面白い。鶏もものハニーレモン焼きもしっかり美味しかった。レモンピールでライスをかきこむことに伴うドーパミンはたいしたものだ。13歳のときには、そんなこと知らなかった。13歳のときに知らなかったことはたくさんある。52歳には、26歳のときにはなにも知らなかった、ということになればいいと思う。

2021/04/15

今年もドクダミと戦う季節がやってきた。熱湯をかければそれなりに駆逐できる、という近年まれなライフハックをインターネットから得たので、さっそくかけ回している。効果があるとよいのだが。

2021/04/14

雨のなか自転車をこぐ、という結構いやなタスクを久々にやった。梅雨が思いやられる。

2021/04/13

一般的に言って、ある望ましくない事柄とそれに対する私の見方(「これは望ましくないぞ」)があるとき、事柄のほうに働きかけて変革を目指すか、見方のほうを変えてしまうか、という選択を迫られることがある。愚かしいと分かっている事物ならもう取り払ってしまおうというのが前者、なにがわるいもんか愚かしくなどないと考え直すのが後者である。世界をfixするのが前者で、自らをfixするのが後者である。

事柄にもよるが、多くの場合に私が嫌う「割り切る」というムーブは後者だ。なので、私は望ましくない事柄に際しては前者を推奨したいのだが、「文句があるならどうにかしてみせろ」という規範もまた、不当なものに思われてしかたがない。健康的にも制度的にも、どうにかできるケースばかりではないからだ。一般的に言って二者択一はたいてい不当なのだが、そこから逃れる術を見つけるのはたいへんだ。

2021/04/12

最近気づいたことだが、缶ビールはかたいもので横からつつかれると結構かんたんに破裂する。先日は冷蔵庫から持ってくるときに、キッチンの角にぶつけて破裂させた。今日はコンビニで買い物をしていたら、会計のときに店員の方がレジの角に半ダースパックをぶつけ、結構かわいそうなことになった。ついでに気づいたことだが、私はビールがたいそう好きなので、盛大にはねたビールが服にかかってもそこまで嫌な気持ちにはならない。もちろん、服による。

2021/04/11

4月だからか、無性にセッションがしたくなった。お金払って借りたスタジオでのセッションもいいが、私がいま思い出しているのは塾生会館の地下でやっていた新歓セッションだ。おどおどした新入生がいたかと思えばハナからイキってる感じの新入生もいて、なんとなく先輩ヅラしたくて同期と身内感のあるやり取りをしては、いつもより大げさに笑う。あの新入生は上手いねぇとか、どこの楽器使ってるのみたいな会話をして。ひとしきりSoul PowerとかSeptemberとかやって、飽きたら部室に戻って64のスマブラをやる(楽器のうまさとスマブラの強さにはそれなりに相関関係があった)。

2021/04/10

実家で愛犬と遊んだ。一休みしてふと庭を見ると、でかめのねずみが白昼堂々なにかを齧っている。最近よく出没するらしい。ねずみはたいへんリラックスしており、まさしくfeel at homeなご様子。昼間ですらこんなにふんぞり返っているのなら、夜中は友達を集めてカクテルパーティーといったところか。母はそんなに意に介していない様子だったが、父は嫌そうだった。父はこういうのをとても嫌がる。

2021/04/09

久々に自転車で大学まで行ったら、道中二回も転びかけた。一度目は、散歩中のテリア。もふもふでかわいいな、と思いながら接近したら、振り向きざまに殺意丸出しで吠えられた。びっくりした。二度目は、蚊柱。私が知る限り、大橋の業務スーパー前は年がら年中ユスリカどもがたむろしているのだが、一体どういう了見で野放しにされているのかはなはだ疑問だ。うんざりした。

駒場ではボードウェル&トンプソンの『フィルム・アート』を買った。まさか『論理学をつくる』よりもでかいとは思わなかった。今年度もやることはたくさんあるだろうが、合間合間に映画理論の勉強もできたらと思っている。

帰って『或る夜の出来事』を見た。まぁ、それなりだった。

2021/04/08

今日は映画を見なかった。見ようと思えば見れた、見たい作品のなかには、『海よりまだ深く』『戦場のメリークリスマス』『わたしはダニエルブレイク』『ゲームの規則』『或る夜の出来事』などが含まれる。明日はどれかを見る。

2021/04/07

『ビューティフル・マインド』で知ったが、ジョン・ナッシュは二十歳そこらでナッシュ均衡を思いついたらしい。恐れ入った。

2021/04/06

深夜にコーラ買いに出かけたら、たぬきがいた。アライグマかもしれない。

2021/04/05

寿司を食べた。そういうことだ。

2021/04/04

BASE BREADのカレーパンを食べた。なんか小さいくてゴロッと重いやつだった。ちいゴロ。

2021/04/03

近所の喫茶店でダーティチャイなるものを飲んだ。チャイラテにエスプレッソを混ぜた代物らしい。美味いものと美味いものを混ぜて美味いものになる、という申し分のないドリンクだった。安かったし、また行こう。

2021/04/02

フランク・シブリーの「Aesthetic and Non-aesthetic」について勉強していた。シブリーは趣味や感性の行使を条件とする美的知覚込みの美的判断にこだわる。一方で、美的知覚なしに「優美である」とか「けばけばしい」といった用語を適用できるだけでは、プロパーな美的判断ではない、とする。

この狭い意味での「美的判断」はヒューマニスティックなものだ。シブリーは論理的な推論によって導かれる性質帰属を美的判断から(それこそ、繰り返し)排除しようとしており、人間的なセンスを介した直接知覚を重んじる。この点で、シブリーもまた伝統的な美学=感性学の系譜に連なっているわけだが、これは美学という学問全体のミニマムベットなのかもしれない。

2021/04/01

海南鶏飯を作った。ベチャベチャになって萎えた。

2021/03/31

ファミリーマートのクリスピーチキンを探すもハントならず。ファミチキで我慢するが、ファミチキはふつうに美味いのでそれなりの満足感を得る。

2021/03/30

映画を倍速で見ることのなにがわるいのか」についたコメントを読みながら、おもいやりインターネットについて考えるなどした。

昼食に食べたとんかつがだいぶと美味かった。とんかつはやっぱり塩である。

2021/03/29

グリーンカレーを食べた。辛かったが、美味しかった。

2021/03/28

私の修士論文は、写真に関する本質主義的のいちバリエーションとして、「二面性説」という立場を擁護するものだった。それは、「写真は本質的に客観的である」というリアリズムと「写真は本質的に意図の産物である」という反リアリズムをともに退け、「ある面では客観的であり、ある面では意図の産物である。そのような二面性を本質的に持つ」という立場であった。従来、写真に関するリアリストとしてくくられてきたケンダル・ウォルトンからこのような二面性説を取り出す、というのが第三章の作業である。二面性説において写真を理解することは穏当だと今でも考えているが、とある箇所に関して完全に間違っていた。それは、二面性と写真の芸術性を結びつけようとする箇所である。

私はシンディ・シャーマンウィリアム・エグルストンという一見正反対なスタイルを持つ写真家を取り上げ、かの女らがともに「二面性をリソースとした操作」によって写真ならではの芸術性を達成していると肯定的に評価した。しかし今では、「性質Fが写真の本質であるならば、Fを活用した写真こそが良い写真である」という前提が危ういだろうと考えている。バザンやグリーンバーグが同様の手順で長回しや平面性を擁護していたことから、こういった主張は自然と可能だと思っていたのだが、少なくとももっと慎重になるべきだということをノエル・キャロルが気づかせてくれた。ということで、あそこの主張は撤回したい。こういった撤回は、思いつく限り今後もたくさんしていこうと考えている。

2021/03/27

冷蔵庫にレバパテがあったので昼食に食べようと思っていたのだが、どう食べればいいのか分からなくなった。分かっていたからこそ買ったはずなのだが、冷蔵庫から取り出してみると実家のわんこが普段食べている缶詰にしか見えず、テンションが上がらない。買う前に、その類似性を誰かに指摘してもらうべきだった。

逆転ホームランなアイデアは思い浮かばなかったので、家にあったもので即席のサンドイッチを作った。ベーコン、目玉焼き、炒めたオニオンと一緒にトーストではさみ、ナンプラーをたらす。味は及第点といったところ。レバパテの使い道を考える、というのをToDoリストに加えた。

2021/03/26

シン・エヴァンゲリオンを見てきた。こんな時勢に渋谷TOHOにすし詰めとはさぞ嫌な気持ちになるだろうなと思いつつ出かけたが、幸運にも左右空き席で、途中トイレに行きたくなることもなく、劇場を出たらぽかぽかと暖かい春の陽気だった。こう身体的に気持ちのいい鑑賞経験は肯定的な作品評価にも間違いなく入り込んでいるだろう。

2021/03/25

先日見つけたお店でソーセージを買って帰り、『よつばと!』のとーちゃんのソーセージ丼を作って食べたが、その過程でなにを考えていたのかまったく思い出せない。ダミーシステムみたいに、身体がオートモードでやるべきことをやってくれるときがたまにある。明日はシン・エヴァンゲリオンを見に行く。

2021/03/24

『死霊の盆踊り』からの『ライムライト』を見た。当たり前だが、差がえぐかった。

2021/03/23

中目黒のプリン屋さんに立ち寄ったついでに洋服店に入ったら、面白いアニマル靴下が売られていた。コビトカバ、クアッカワラビー、マヌルネコ、ハシビロコウ、ミナミコアリクイ(欲しい)といった個性豊かな面々のなかでもとりわけ異色を放っていたのはヘビクイワシの靴下。知らない生き物だったが、家に帰って調べたところ、長いまつげと両脚を持ち、ヘビなどを蹴り倒して食べる鳥らしい。サンジじゃん。

2021/03/22

ふと思い立ってミクロ経済学の勉強を始めた。価格理論の冒頭から知らないことずくめで、私も私だが、私に学士(経済学)を与えた大学も大学だな、と思った。

それはそうと、経済学といえば、理論化やモデル化は哲学の比じゃないぐらい定石の分野だが、同程度に反理論家からの攻撃を受けているようで苦労が伺える。逆に言えば、理論の意義についての説明/弁明がかなりちゃんとしていて、今回はそれを学ぶ目的で勉強しなおしている。現実を抽象化し、そこから重要な構造的性質を取り出すという作業の意義は言わずとも明白だと思うのだが、そうでないと考える人はなにを考えているんだろう、とよく考える。

2021/03/21

夜食買いにコンビニ言ったら、ベロンベロンに酔った兄ちゃんと、ブチブチにキレてる店員と、手がビショビショの店員がいた。ブチギレ店員の矛先は、ベロン兄ぃではなくビショ濡れ店員だった。レジはビショ濡れ店員が対応してくれたので、私の夜食は一通り濡れた。

雨上がりと同時にいつもより不都合な世界に迷い込んでしまったのか。ちょっといやな気持ちになりながら帰った。

2021/03/20

その日に聞いたアルバムを日記に記録しておくのも悪くないな、と思い、記しておく。朝、洗い物をしながらGeorge Benson『Give Me The Night』(1980)、出かけるときにJames Brown『Hell』(1974)と『Hot Pants』(1971)、帰りにTuxedo『Tuxedo Ⅲ』(2019)とTWICE『Feel Special』(2019)。

JBの「Hell」を聞いていたら、ちょっとしたことに気づいた。イントロ終わりにJBがシャウトして「It's Hell」でテーマに入る直前、ジジッと着火したような音が聞こえる。レコードノイズかと思ったが、タイミング的にも主題的にもたいへん好ましい効果音になっているのが面白い。

Hellといえば、相席食堂で流れて千鳥の二人がツボっていたBGMでもあるのだが、JBが娘と一緒に出てるSoul Trainはもっとツボるかもしれない。髭を伸ばしていた頃のJBはいろいろとダメだったが、髭をそった後はなおさらダメだったので、私はそれなりに髭JB期が好きだ。

2021/03/19

ブランダムの推論主義に関する論文を読んで、かなり勉強になった。意味論における推論主義や、コミットメントベースの語用論など、ブランダムの基本的なアイデアがおさらいできるだけでなく、推論主義をとる上での理由/動機が探られており、学びが多い。曰く、推論主義をとるべき積極的な理由は与えられておらず、そこにあるのはむしろ理論的な興味・野心らしい。一昨日書いたように、私が反意図主義について持っているのもまさにこのような関心だ。

つまるところ、ブランダムの立場選択は合理的人間観に対する実存的な“賭け”として読めるんじゃないか。私はこの手の精神分析をほんとうに不健康だと思っているので、言うのも言われるのも回避していきたいと考えている。言うまでもなく、ゲームは楽しいが、喧嘩はみっともない。

2021/03/18

塾で現代文を教えていて、次のような文章を読んだ。曰く、近代におけるブルジョワ的レトロ趣味、モダンデザイン、ナショナリズムは、いずれもある種のアイデンティティ不安に起因する。それらは宗教的・家族的な結びつきに対する補完の試みなのだが、いずれも十全には達成されておらず、自己の不確かさはつねにつきまとうのだ、と。

アリ・アスターしかり、奇妙な道筋を経て自己を実現し、新たな“家族”を得る類のホラーをよく見かける気がする(アリ・アスターしかり、『サスペリア』しかり)。今日見たアニャ・テイラー=ジョイ主演の『ウィッチ』も、共同体的・家庭的に疎外された少女が“本当の自分”を見つける物語だった。もっとも私としては、単線的な自己実現とは異なる別様の解決を見てみたい気持ちがなくもない。

2021/03/17

ノエル・キャロルの『批評について』を読み返している。キャロルはかなり現実意図主義寄りの論者なのだが、おそらくはかなり反意図主義寄りであっただろう私(2018)の辛辣な書き込みが散見される。この前、「反意図主義に寄っていく人はなにゆえに寄っていくのか」というメタ問いについて考えていたのだが、思うに以下のコンビネーションだろう:(1)偉そうな「作者」がうざい、(2)バルトやらフーコーを鵜呑みにしている、(3)読者優位の批評を正当化したい、(4)反意図主義であることを一種のリベラルな表明だと考えている。

血の通った他人がリソースを割いて生み出した人工物である、という不可避の条件を踏まえると、芸術作品に対して反意図主義的な立場をとることはさしあたり失礼なことだ。思いっきり矮小化するならば、この失礼さをどうにか許容する理屈を探すのが反意図主義というプロジェクトになるわけだが、最終的に失礼さを補うだけの利点が見つかるとしても、失礼であることに変わりはない。私(2021)はこの見方に同意している。私はそれでも反意図主義に立つつもりなのだが、その動機は純粋にゲーム的なものにシフトしつつある。この話はまた今度書くことにしよう。

2021/03/16

ハムやソーセージをリーズナブルに手に入れられる直売店を発見。QOLが上がった。

2021/03/15

久々にポケットモンスターエメラルドをやった。うちのBFパーティは以下。

  • 「ニーチェ」:ミノカロス。耐久型。メロメロ+どくどくからのじこさいせい&たべのこしでイライラプレイに持ち込む。

  • 「マルクス」:メタグロス。こだわりハチマキ持参。コメットパンチorじしんでのゴリ押し+だいばくはつオチ担当。

  • 「フロイト」:ラティオス。特攻型エース。めいそう積んでからのサイコキネシスor10まんボルトorれいとうビームでたいていの敵は落とせる。

ニーチェ育成にかかった時間で論文1本ぐらいかけたかもしれないが、それはそれ、これはこれだ。

2021/03/14

スキレットが欲しくて渋谷の東急ハンズに行ったが、なんだかそんなに欲しいわけでもない気がしてきて、買わずに帰ってきた。

いま欲しいキッチン用品は、Turkのクラシックフライパン(かっこいい)、厚手のマグカップ(くびれたやつ)、ホットサンドメーカー(トーストをよく食べるので)、フードプロセッサー(玉ねぎのみじん切りはもういやだ)。

2021/03/13

お昼に定食を作った。献立は、生姜焼き、なめこの味噌汁、ほうれん草のおひたし、白米。作り置きのチーズケーキも食べたので、お腹いっぱいになった。

2021/03/12

注にあれこれいっぱい書いちゃう人のことを「注に病」と呼ぶのを思いついたが、Twitter検索したらすでに思いついている人がいて悔しい思いをした。

説明不足のせいで誤解されるのはむかつくので、私もやたらと注を散りばめてしまう。他人もそういうつもりで書いているのだろうと思うと、注というのがなんとも殺伐で鬱屈とした空間に見えてくる。

こんなこと、わざわざ説明してやる義理もないな、という思いで注を[Delete]するときの手触りは嫌いじゃない。後からこれをやるために、ドラフトにはなるべく多くの注を付けている、みたいなところもある。

2021/03/11

隣駅からさらに少し歩いたところに、いい中華料理屋を見つけた。町中華のカウンターで食べる丼ものやラーメンもいいが、テーブル席で小皿大皿たくさん広げて食べる中華が好きだ。なんとなく、自分はハンバーガーやピザみたいな、それさえ食べればいい実直なメニューが好きだと思いこんできたが、ぜんぜんそんなことないのかもしれない。

2021/03/10

大和田俊之『アメリカ音楽史』を読み終えた。学部時代に大和田先生が断片的にお話されていたことがちらほら出てきて、自分のなかでの整理に役立った。

繰り返し強調されるのは音楽ジャンルと人種の結びつきに関する、一見したところ以上の複雑さである。社会的・技術的背景、産業的な対立、他者への〈偽装〉欲、といった微妙な力関係からジャンルの歴史を捉え直す作業はとてもスリリングで読み応えがある。

首を傾げてしまう箇所もある。とりわけ、ヒップホップのサンプリング文化を考える箇所で、いわゆるポストモダン思想との接続をされていたが、改めてこのようなムーブのうれしさについては考えてしまう。ある作品のある性質が「{任意の思想}的」であるという指摘は、いったいどういう美的判断なのか。ちゃんと評価の理由付けになっているのか。私の卒論はこういう記述ばっかりだったが、今ではこういう記述への文句ばっかりだ。

2021/03/09

一週間ぐらいブラックコーヒーのかわりにカフェオレを飲んできたが、なんとなく身体が重く、しゃきっとしないので、明日からブラックコーヒーに戻すことにする。

2021/03/08

愛用している16cmのフライパン、ずっと蓋がなかったんだけど、土鍋の蓋で代用できることに気づいてちょっと得した。

2021/03/07

今年も学振の季節が近づいてきた。「研究者」「哲学者」「美学者」としての自己認識について考えているが、総じて三文字の「○○者」には可愛げがなく(cf. 犯罪者、偽善者、感染者)、あんまり積極的に使おうとは思えない。また、「○○者」を自称するのはやっぱりどこか奇妙であり、それらはどうしても他人から他人へのラベルでしかないんじゃないか、とすら思っている。

自己紹介が苦手だ。他人にどう思われても構わないが、私は他人にはこう思われたいんですよ、ということを他人に知られるのは気まずい。

2021/03/06

バインミーにありついた。値段を考えると、可もなく不可もないバインミーだった。

2021/03/05

雨のなか夕飯を買いに出かけたら、ご自分はカッパを身にまとい、柴犬のために傘をさして歩いているおばあさんがいた。すごく歩きづらそうだったが、犬を濡らしたくないのだろう。犬は、別にどっちでもよさそうだった。

2021/03/04

二日連続でお腹をすかせている。 なぜこんなことになってしまうのだろうかと自分なりに反省した結果、①家に食べものを常備していない、②買いに出かけるのが億劫、③そもそもなにを食べようか考えるのが億劫、④食事よりもやりたいことがある、⑤食事よりもやらなければならないことがある、という感じで「そんなあなたに完全食!」の“そんなあなた”に成り果てたため、BASE BREADをポチった。これで暮らしぶりがどう変化するのかいまから楽しみだ。

日記を見返してみると、食べ物の話ばかりしている。私の一日はおおむね、なにを食べたか、なにを食べなかったかに尽きるようだ。このような要約は不適切ではないし、まんざらでもない。

2021/03/03

早稲田松竹で『ヴィタリナ』と『イサドラの子どもたち』の二本立てを見た。たいそう気に入ったというほどではないが、どちらも押し付けがましくなく感じの良い作品だった。ペドロ・コスタははじめて見たので、ほかの代表作もチェックしたい。

早稲田周辺はいくたびどぎまぎするが(日吉と三田に通っていたから、というのは自意識過剰だろうが)、今回は西早稲田から松竹へ直行したおかげで、嫌な感じはしなかった。感じが悪いのは高田馬場だ。高田馬場には知らない人たちの青春がこびりついていて、息苦しい。

2021/03/02

仕事帰りに自由が丘で電車を待っていたら、薄暗い車両がやってきた。いつのまにか窓ガラスに知らない技術でも導入されたのだろうか、と思ったら停電だった。すぐ近くで線路沿いの足場が崩れ、電線がやられたらしい。なんだかわからないがとりあえず乗り込むと、節電のためということでドアが閉められ、我々は薄暗い車両の中になかば閉じ込められるかたちになった。高所に比べたら閉所はそうでもないが、あまりいい気持ちはしなかった。

結局、10分ほど経っても出発の目処は立たず、先頭車両と最後尾のドアだけ開かれることになり、数人に続いて私も下車した。仕方がないので徒歩で帰宅する。暗くて寒くて風も強かったので、総じて嫌な気持ちになったが、少なくとも日記の話題にはなったのでよかった。

2021/03/01

風呂上がりにPatrice Rushen「Number One」を流してノリノリになるなどした。結局、パリッとシンコペーションしたディスコが一番なのだ。The Whispers 「Imagination」しかり、EWF「Jupiter」しかり。

2021/02/28

昨日からまぶたがピクピク痙攣している。今日の夕方ぐらいまでは左目だけだったが、いつのまにか両目になった。非対称でピクピクされるよりはマシなので、それはいいのだが。

目を休めようと思い、小一時間ほどギターを弾いていたが、よくよく考えても私の生活上、目を使わない活動はギターの練習ぐらいしかない。生まれ変わるなら一度ぐらい深海魚の暮らしをしてみたいが、ほかにも生まれ変わってみたいものがいくつもあるなかで、深海魚の優先順位はそんなに高くない。

2021/02/27

今日はバインミーを食べそこねた。朝から作業をしていて、気づいたらラストオーダーの時間を過ぎていた。

かわりに、マクドナルドに行ってテリヤキバーガーのセットを買う。マックはもう久しく行っていなかった。少なく見積もっても二年ぶりだろうか。ポテトをコーラで流し込むと、なんだか急に中学生のころを思い出した。中学の近くにあったマックは、デュエリストとモンスターハンターのたまり場と化して、まもなくつぶれた。

想像以上でも以下でもないテリヤキをかじりながら、食べそこねたバインミーについて、考える。

2021/02/26

アリ・アスター監督『ヘレディタリー/継承』を見た。『ミッドサマー』がだいぶとしょうもない作品だったので、そんなに期待せず見始めたが、しっかり怖かった。オカルトのホラーでもあり、家族崩壊のホラーでもあり、正統派でもありオルタナティヴでもある。いい映画を見た日は、いい日だ。

二年前ぐらいから熱心にホラー映画を見ている。怖いのは嫌で、嫌なことはなるべく避けて生きるつもりなのだが、ホラーは例外のひとつだ。「怖いのになぜ見ようとするのか」問題は分析美学でも定番トピックのひとつで、前に発表の関連で勉強もしていたのだが、いまだ自分のなかでしっくりくる説明は見つけられていない。ある意味では、分からないからこそホラーを見たがるのだろう。しっくりくる説明を見つけたとして、それでも私はホラーを見続けるだろうか。

2021/02/25

論文の手直しをした。「画像と言語のアナロジーはどこまで/どれだけ有効なのか」と題した描写の哲学論文で、昨年12月のはじめにドラフトをブログにあげてから、かれこれ3ヶ月ぐらいいじくり回していることになる。

自分の書いたものを手直しすることは楽しい。目障りな一文を取り除いたときにはすかっとするし、然るべき場所に然るべき句読点を置いたときには、実に正しいことをした気持ちになる。レイモンド・カーヴァーもエッセイでそんなことを書いていた気がする。

2021/02/24

朝食にバタースコッチのパンをみっつ食べた。バタースコッチといえば、私はテレキャスターの定番色バタースコッチブロンドとして知っていたが、パンははじめて食べた。オーブンで焼いたらほどよいさっくり食感で、甘すぎず、コーヒーとの相性も良かった。

そういえば、BSBのストラトキャスターは見たことがないな、と思い画像検索したら一応あった。が、違和感がだいぶ強い。誰がどういうつもりで選ぶんだろうか。

2021/02/23

いつものように自転車でアルバイトに向かったら、道中の信号すべてに引っかかった。それも、接近中に青から赤に変わりフル尺で待たされるというのが計8回ほど続いた。

日記にはなるべくこういう出来事を書こう、と思った。

2021/02/22

夕飯にキムチ鍋を食べた。日中に食べたものと言えばバリューブランドのやくざな炒飯と残り物のみそしる(白菜しか入っていない)、あとは温めたカントリーマアム五つだけだったので、少しは身体をいたわるものを食べようと思ったわけだ。キムチ鍋を毎晩食べる人のブログポストを見てから、このメニューには(栄養面に関して)相当の信頼を寄せている。しかし、一時期、完全食だからと連日食べ続けた(一人暮らしだとよくあることだ)末に、そんなに好きではなくなったメニューのひとつでもある。同じ運命をたどったメニューとして、お好み焼き。しこたま食べているけど、いまだ飽きのこないメニューは、カレーと、生ハムの冷製パスタ。今年の夏もパスタばかり食べるつもりだ。

久々に食べたキムチ鍋はなかなか美味しかったが、明日も食べなければならないというのが問題だ。

2021/02/21

頭がきりきりと痛くて、ずっとこめかみをこねている。こねることによって悪化しているのか改善しているのか分からないところがなんとも悩ましい。私の生活は、基本的にPC作業(夏場はデスク、冬場はこたつ)に尽きるため、頭痛のひとつやふたつは日常茶飯事だ。こめかみこねこねの是非に比べたら、頭痛自体はたいした問題ではない。

なんとなく作業用BGMとしてHenry Flyntの『You Are My Everlovin / Celestial Power』を流していたが、これはだいぶと頭の痛い音楽なのではないかと思われてきた。圧迫感のあるドローンが低音で鳴り続け、その上を予測不可能なストリングスがキュイキュイとねじく。一周まわって頭痛のきりきりと相殺するのではないか、という考えすら浮かんできた。そんなはずはなさそうだが、そうとも言い切れない。身体について知らないことはたくさんある。

2021/02/20

『ストレンジャー・シングス』のシーズン2を観終わった。終盤、いまどき珍しいぐらい露骨な死亡フラグをぶっ立てて、フルスピードで昇天した人物がいた。

あんまりだと思った。死んでしまったことも、死に方がクリシェだったことも。

クリシェと言えば『ストレンジャー・シングス』自体、80年代レトロによって駆動する諸コンテンツの仲間であり、そびえ立つクリシェだ。なんだか、Get LuckyからDynamiteまで時間が止まってしまったみたいだ。

「クリシェを擁護する」というのが私の支持する美学的立場だが、最近はクリシェに対する愛憎のうち、憎部分にも気がついてきた。それしかないならそれでどうにかやっていくしかない。問題は、ほんとうにそれしかないのか、だ。

2021/02/19

一度冷凍した米が嫌いだ。嫌い過ぎてそのまま食べるのは不都合なため、ラードと卵で炒飯にした(ネギも肉も入っていない炒飯が炒飯と呼べるかはともかく)。ごく控えめに言っても仕上がりは悲惨だった。美味しい納豆を載せてもダメだった。わるあがきしたって、冷凍した米は冷凍した米だ。

私の記憶において、母はいつも冷凍した米を食べていた。かの女はそれを好都合とも不都合とも考えていない様子だった。平気な顔で冷凍した米を食べられることは、私が母を尊敬する理由のひとつだ。