日記

2022/12/04

早稲田松竹でシャンタル・アケルマンの『私、あなた、彼、彼女』と『アンナの出会い』を見た。前者は美大生の卒業制作といった感じでとても見てられなかったが、後者は『ジャンヌ・ディエルマン』以降というのもあり、少なくとも画はきれいだった。が、後者も話としての起伏がなさすぎるので、なにもパンチのないミヒャエル・ハネケをずっと見ている気分だった。どちらも同時代のフェミニスト映画理論を持ち出せばあれこれ言える作品なのだろうが、そうやってテクい操作をしなければ面白みが浮き上がってこない作品という時点で、しゃらくさいと思ってしまうフェイズに入った。

早稲田松竹で見たもので覚えているのは、『ざくろの色』『火の馬』の二本立てと『ヴィタリナ』『イサドラの子どもたち』の二本立てだが、今回も含めて毎回睡魔に襲われている気がする。早稲田松竹に行くと眠くなるのか、眠いときにばかり早稲田松竹に行っているのか。シンプルに、二本立てというのがなかなか集中力・体力的に追いついていない、というのが答えなのかもしれない。映画もビールも、たま〜に一本嗜むぐらいがいいのだ。

2022/12/03

グリーンカレーのチャーハンを食べたがかなりお気に入りだった。タイ行きたい。

2022/12/02

自分がもう27なのにも驚くが、10年前に同級生だった人たちがみんなもれなく27というのは、ほとんど実感がわいていない。単純に、少数を除いてまったく会っていないだけだが、記憶の中では彼彼女らはみな17のままだ。同窓会という類には一度も行ったことがないし行く予定もないので、今後もそうなのだろう。

2022/12/01

最寄り駅のエスカレーターは各ホーム1列×1本しかないので、例の片側空けるかどうか問題は回避している。しかしながら、それはそれで、自分が立ち止まった場合に自分を先頭にして後ろの人々が全員立ち止まることを強いられるため、全員が同様の推論から、結局だれも立ち止まらず、全員で歩くということになりがちだ。身体的に本当に無理のある場合を除き、普段なら2列エスカレーターで立ち止まるような人もみんなもれなく歩くことになる。ことによると誰も本心からは歩きたがっておらず立ち止まりたいのだが、誰も立ち止まらないので(心理的に)立ち止まるわけにはいかない。エスカレーターを1列にすれば問題が解決されると考えるのは大きな間違いだ。みんなで立ち止まるための1列ではなく、みんなで歩くための1列が実現される可能性がおおいにあるからだ。

2022/11/30

みんなポケモンをやっている。私はいまだにRSE以降のポケモンを知らないし、オープンワールドが〜と言われても、オープンワールドものもひとつもやったことがない。スカーレット・バイオレットが出るということ自体、発売直前にコンビニのダウンロードカードで知るぐらいの疎さであった。こないだはみんなスプラトゥーンをやっていた。小さい頃はあんなにビデオゲームが好きだったのに、すっかり乗り遅れてしまった感がある。

2022/11/29

ちょっと前にはまって、1週間ぐらい作業中にたれ流していたナミブ砂漠のライブカメラだが、Togetterでバズって日本人がチャットに集ったときに、運営ボランティアがしつこく「英語を使え」と言っていたことをたまに思い出す。「ボランティアがユーザーの質問に答えているので、英語以外だと対応できない」という建前らしいが、それと非英語で書き込んではならないことに一見したつながりがなくて、ちょっと考え込んでしまった。ボランティアらの様子を見るに、対応できないことへの困惑というより、知らない言語がつらつら書き込まれる嫌悪と恐怖が主だったように思う。

おそらく、ネット文化の違いというか、ネットにおけるルールの認識に齟齬があるのだろうと思う。私のブログにいきなりアラブ語の長文コメントが書かれたらびっくりするし、しつこく書かれたらやめてくれと抗議したくもなるが、「日本語以外のコメントはお控えください」と宣言するのも変な気がする。私にできるのは粛々と無視したり削除したりするぐらいで、プラットフォームとして制限する機能がない以上、私から勝手にルールを定める権限があるようには思えないのだ。ブログにせよYouTubeにせよ、公園の一角を借りて遊んでいるようなもので、そもそも私の私有地ではないのだ。そういう認識から言えば、「英語を使え」にはたしかに不当なところがある。日本人は日本人同士でチャットをしたがっているわけだし、運営の都合なんて知ったこっちゃないのだ。インターネットのコメント欄なんてそういうものだ。

同ライブカメラのチャット欄で、「そんな要求はレイシズムだ」いやレイシズムではな」みたいなやり取りも目にしたことがある。レイシズムはちょっと大げさとも思うが、それへの応答として運営が「レイシズムではなく、みんなが平等に気持ちよく使えるためのルールだ」と言っていたのはナチュラルに排斥者のマインドで、悪手だろと思った。

それはそうと、「英語を使え」と言い出す日本人も少なからずいたあたりが、極めて日本人らしいなと思った。学級委員長タイプというか、郷に入っては郷に従えというか、ルールと聞けば脊髄反射で遵守し、遵守を他人にも要求するタイプなのだろう。

2022/11/28

過集中で食事しなくなるのか食事しないことで頭が冴えるのか、おそらくはその両方なのだが、そういうのがよくある。いまのところ健康に害はないのだが、食事の時間が不規則なのは長期的にはよろしくないのかもしれない。

2022/11/27

「マーベル映画は映画じゃない」は言い過ぎだが、マーベル映画のファンと、ツァイ・ミンリャンやらキアロスタミやらを見ているシネフィルは「実のところ同じ趣味の持ち主ではない」とは言えるだろう。価値づけも、コミュニティも、ルールも規範も、伝統も慣習も、その両者とでは大きくかけ離れているのだ。大衆向けの娯楽作品が後世においては玄人好みの古典名作扱いされるのは珍しくないので、広い目で見れば作品自体に根本的な差異があるとは思わないが、〈同時代においてどう同じ趣味の仲間を探すか〉という狭い問題に関しては、両者を区別して考えることがさしあたり重要だと思う。好きな映画3選に『ショーシャンクの空に』が入ってくるような映画好きと、『牯嶺街少年殺人事件』が入ってくるような映画好きの間で、仲間意識が芽生えることはあまりないだろう。相手が「映画好き」だからといって気を許さず、自分と同じタイプの映画好きなのかどうか確認するステップが常に必要である。

私はかつて、この対比は単純に見ている本数の違いに起因するだろうと思っていたが、そうでもないらしい。タルコフスキーやらベルイマンなんぞ歯牙にもかけず、マニアックなものを含めヒーロー物やコメディやホラーを何千も何万も見ている人がよくいる。やはりそれは、素人玄人の対比ではなく、根本的な趣味の違いなのだ。

個人的には正直なところ、自分と同じタイプの映画好きであっても、好きな映画や監督について語り合うことが楽しいと思えた経験はほとんどない。とりわけ、Wikipediaに載っているようなうんちくの交換になってしまうのは惨めだと思う(し、そういうバックグラウンドの話ばかりしてくる相手との会話は早めに切り上げたいと思う)。最近の共同体主義美学は、コミュニティやらアイデンティティやらについてふわっと楽観的なビジョンを示すばかりで、この美的会話におけるぎこちなさ、分かりあえなさ、気まずさを意図的に無視していてよくないと思う。あるいは、そういうネガティブさを経験したことのないような著者ばかりで、ノリが合わないと思う。

2022/11/26

恋人との記念日でご飯を食べてきた。ビル15階は高所苦手勢にはなかなか凄みがあったが、出されたものはどれも美味しかった。お祝いの定番なのか、2時間の間に20人ぐらい誕生日を祝われていた気がする。みんな生まれてよかったよねぇ。

2022/11/25

じっくりと1ヶ月ちょい焦らしたかいあって、Grammarlyから55%OFFのブラックフライデークーポンがきた。これで、1万円弱でまた一年使えそうだ。Nice。

5年ぶりにパーマをあててくるくるになった。

2022/11/24

今日は料理DAYだった。壺ニラときゅうりのポン酢漬けを仕込み、ちゃんこ鍋をこしらえ、チーズケーキまで仕込んだ。今回はオレオチーズケーキということで買いに出かけたのだが、東急ストアにもまいばすけっとにも私が知っているオレオがない。たしか9枚×2パックの箱で売っていたはずだが、6個×2パックの箱と、3枚×10パックの小分けされたやつしかない。契約終了かなにかでノアールと分裂したことまでは知っていたが、その後もマイナーチェンジを続けていたらしい。そもそも、一食の適量は3枚らしい。

2022/11/23

小学生だったか中学生だった頃の音楽の授業、班に分かれての歌の発表かなにかで、他の班の発表を腕組みして見ていたら「そんなのは人の発表を聞く態度ではない」と先生に注意されたことがある。まれに思い出すが、当時も今も「人の発表を聞く態度」として要求されていたものがなんなのかよく分かっていない。批評家的な、分析し、論評するような態度のことではないのはたしかだろう。というのも、批評家は腕を組んだりして偉そうにしているのがふつうだろうからだ。

2022/11/22

ネットにおいては、好きや楽しいよりも、なんらか嫌な経験や鬱憤とした感情に沿って人が集まることがよくある。誰しも多かれ少なかれネガティブな面を持つのは疑いえないが、私はそれを利用して仲間を得ようとは思わないし、積極的にそれを表明することは、実際のところ期待されるようなセラピーとしての機能をちゃんと果たすのか懐疑的である。SNSのプロフィールに病名や飲んでいる薬や持っている手帳や受けた災難を記し、定期的に死んでみようかとほのめかすような人の周りにはそういう人が集まっていくばかりで、問題が解決されるわけでもないし病が治療されるわけでもない。一日一日をよりfeel goodに過ごすという以上にやるべきこともできることもない、というところから出発して合理的に選択できるのは、そもそも大して苦しみを経験していない人間の特権である、と言われればそうかもしれないが、ルサンチマンは相手にしていられないというのが正直なところである。トラウマやディプレッションはなんらかの対処を要する問題であって、アイデンティティの一部に組み込んだり、定期的に前景化させてしみじみと苦しむのが好きな人に対して、ケアもなにもないだろう。

2022/11/21

基本的に、べらべらと思弁的なことを喋る映画やビデオアートがめちゃくちゃ嫌いだ。ゴダールだかベルイマンだか知らないが、それっぽいことをそれらしく棒読みしていればミステリアスな質が得られると思っているのがうすら寒い。そんなのはレジュメもスライドもない口頭発表のようなもので、ふつうの人にはついていけないのだ。

まったく同じ内容でも、小説で提示されれば誠実度はぐんと上がるように感じる。やはり、思想とは本質的には書かれたものなのだと思う。とりわけ、それを公に共有しようとする場合には、間違いなくそうなのだ。独白がたらたらと続く作品には独りよがりなところがあって感じが悪い。一般的に言って、本人しか体系的に分かっていない事柄を、聞き手の理解度を考慮することなくたらたらと話すことは感じが悪いのだ。その点、書かれたものはどれだけ難解で衒学的で破綻していても、その種の感じの悪さからはある程度逃れている。「読んでも分からないのはお前が悪い。分からないなら読むな」というのがアリでも「聞いても分からないのはお前が悪い。分からないなら聞くな」というのはナシな気がするし、「俺に分からない話をするな」というはアリだが「俺に読めない文章を書くな」というのはナシな気がする。そこになんら根本的な原理がないとしても、私はそういう非対称性を感じるし、私は私がそうであることからみんなそうであることを推論している。だからこそ、論文を書くときの態度と、講義で教えるときの態度が一緒ではまずいなと思うときがある。

2022/11/20

お寿司を食べた。 まぐろ、はまち、あぶりえんがわ(みそ)、あぶりえんがわ(塩レモン)、うなぎ、合鴨ロース、カニ味噌軍艦、海苔すまし汁。最近は鴨にハマっている。

2022/11/19

ミッケラーのバーストIPAを飲んだが、そんなだった。あっさり系ではあるが、ガムを噛んでるような苦味と甘みがしつこくて、なかなか料理と合わせにくい。なぜなら、ガムを噛みながら料理を食べるということはないからだ。

2022/11/18

『現代存在論講義』のとくにIIはすごい本で、ひさびさに読み返すと、直近で気になってることを取り上げてくれていることがかなり多い(私がいかに読んだ本の内容をすぐ忘れるか、という話でもあるのだが)。Evnine (2015)は性質群からなる普遍者ではなく、ファンやコミュニティを含んだ個別者としてジャンルを理解することを提案しているが、これは種に関する個体説とおおむね同じアプローチみたいだ。自然種のHPC理論についてもぼんやりとしか理解していなかったが、手短な解説がついてて助かった。芸術のカテゴリーの話は、あたりまえだが種についての存在論とかなり親しいので、しばらくはそっち方面のものを勉強しようと思う。

2022/11/17

ぷらっと渋谷に出て、ラーメンを食べ、Loftで買い物して帰ってきた。ラーメンはなかなか美味しかったが、1000円前後の「丁寧に作られたんだろうな〜」という感じのラーメンはどれも似通っているため、ふと思い出して再訪することがあまりない。高いし。

夕方からぷらっと渋谷に出て立ち寄れる場所がもっとあった気がしたが、とくに思いつく当てもなく、買うもの買ってすぐに帰宅した。ミッケラーで一杯やりたかったが、なんでもない日にそういうのをやり始めたらきりがないので自重した。

渋谷は玉石混交のあれこれをギチギチに詰めた汚らしい街だ。思い出はたくさんあるが、いい思い出ばかりではない。

2022/11/16

疲れ目なので蒸しタオルをやったらいつもより3倍すやぁと入眠できた。最近買い直してなかったけど、またあずきのチカラでも買って使うか。

2022/11/15

Abell (2015)のジャンル理論を読み直した。ジャンルとは目的と結びついたものだとする、(Malone 2022の言葉で言えば)機能種説だ。あらゆるジャンルには本質的な目的があり、このことがジャンルを規範的にしている。すなわち、目的に照らして手段がどういう手段なのか解釈したり、適切な手段なのかどうかで評価されるというわけだ。キャロルのカテゴリー論ともかなり通ずるところがあると思うが、キャロルの場合目的は作品ごとに個別のものであり、カテゴリーはその重要な手がかりとして知られている。実際、後のキャロルはカテゴリーの重視をやめ、作者が作品に担わせた目的にまっすぐ向かうことにしたらしい。

「あらゆる個別作品には目的がある」というのは目的を広くとる限り無茶な観察ではなさそうだが、「あらゆるジャンルには目的がある」はどうだろうか。少なくとも私の観察では、物語芸術に限定しても、ジャンルは①目的(とりわけ鑑賞者に与える感情的効果)によって個別化されるものと②表象内容によって個別化されるものに分裂している。「コメディはジャンルである」というときの「ジャンルである」と、「西部劇はジャンルである」というときのそれは、中身がぜんぜん異なるのだ。この後者、常識的に考えれば表象内容によって個別化されているジャンルたち(具体的には西部劇、ファンタジー、SF、恋愛もの、犯罪もの、戦争ものなど)についても、エイベルはジャンルの中心的な目的を帰属しようとしている。しかし、「議論の余地があるものの[arguably]」と留保を付けながらエイベルが記述するSFや西部劇の目的は、余地どころかほとんど受け入れがたいものであり、見たところアドホックに指定したものばかりだ。曰く、SFの目的とは〈論理的に一貫した別世界を記述すること〉であり、西部劇の目的とは〈制度的な社会秩序がない状況の道徳的行為を主題とすること〉らしい。しかし、「SFとは未来や別の惑星におけるテクノロジーを描くもの」「西部劇とは開拓時代のアメリカ西部を描くもの」といったフォークな説明に対し、これら目的を中心に据えた説明のほうが適切だと考える理由がなにもないのだ。

さらに、音楽ジャンルのことを思い起こせば、①②だけでは済まないことに気がつくだろう。ヒップホップはサグい気分にさせてくれるからこそヒップホップであるわけではないし、ストリートでの暮らしについて歌っているからこそヒップホップであるわけでもない。すくなくとも、それだけではないし、そこが中心ではないように思われる。音楽ジャンルは、ほとんどの場合③非美的な音楽要素・構造や④美的性質によって個別化されており、常識的にも理論的にもそこがポイントなのだと考えざるを得ないと思う。

2022/11/14

ちゃん読でビアズリーの創造論文を呼んだ。創造プロセスに関して、よく想定されがちな推進モデル(インスピレーションや明確でない感情を得て、それに突き動かされる)と目標モデル(成し遂げたいことがあってそこへ向かう)をどちらも拒否し、トライアルアンドエラーで進行するような創造観を推している。あらかじめかっちり持っているアイデアに突き動かされるのでもなく、最終的にかっちり定まっているゴールに向かうのでもなく、その都度やるべきことをやって行けるところに行く、というわけだ。それなりにもっともらしい立場だと思う。

面白いのは、そうやってトライアルアンドエラーするなかで重要となる能力とは、批評をする能力にほかならないと考えている点だ。その都度なにがエラーなのか認識し、どう修正すべきなのか分かるためには、現在の暫定的な状態が持つ美的価値を判断する能力がなければならない。フォークな考えでは創作力とは手を動かす能力(テクニック)のことなのだが、ビアズリーが正しければその重要な部分とはむしろ批評力・鑑賞力なのだ。この2つの能力(operateする能力とselectする能力とでも言うべきか)の対比は面白い。ディスカッションではメディアによる違い(絵画制作はoperate重視だが写真制作は主にselect)や、AI絵画(operateしているだけでselectはしない)に関する話も出て面白かった。

2022/11/13

Being for Beautyはまだちゃんと読めていないが、Philosophy and Phenomenological Researchに載った要約論文を読んで、ネットワーク理論への理解が深まった。〈ある事実「対象xは美的価値Vを持つ」がある命題「人物Aは行為φすべきである」に重みを与える〉というゴツい説明がなかなか分かっていなかったが、要は〈Vを持つならばφする〉といった条件付き戦略が効用を最適化する、みたいなことらしい。条件部の方にはある美的価値が、帰結部にはある行為が入る。なんでそのような条件付き戦略の選択が効用を最適化するのか、という点で美的快楽主義とネットワーク理論は分かれる。前者によれば、美的価値とは価値ある経験をさせてくれる能力のことなので、鑑賞すべし、ということになる。いわずもがなの前提は、みんな価値ある経験をしたがっている、だ(プレーンバニラな快楽的規範)。

後者の考えはもっと込み入っている。「美的プロファイル」というのがかなり気の利いたアイテムだと思う。Lopesがそう説明しているのかは定かでないが、見たところ、それはおおむね芸術のカテゴリーに相当し、非美的性質群からある美的性質(ここでは美的価値)への関数のようなものとして与えられている。ある美的領域のエキスパートたちは、分業(すなわち、帰結部に入る行為φが人それぞれ異なる)しつつも同じ美的プロファイルを共有している。この社会実践においては、美的プロファイルがいわば規範となっており、これに沿って、かつ自らの能力を発揮して行為し成功を収めることが「達成」となる。ここにプレーンバニラな実践的規範、すなわち、みんなやるからには達成したがっている、が加わって先程の条件付き戦略の選択が最適とされるわけだ。

見たところ、美的快楽主義もネットワーク理論もうまいこと美的価値を説明できているように思われる。Lopesによれば前者は、帰結部の方に入る行為φがもっぱらappreciateなので狭い、ということになるのだろうが、ここはやっぱり納得がいかない。なんか勝手に話題を広げといて伝統的な理論は狭いと言っている風なのが気がかりだ。おそらく、美的問題を脇に置いて[punt on]しまったことが、こことも関わっているのだろう。

そしてやはり、達成を目指すことは快楽を目指すことに還元されるような気がしてならない。とりわけ、Lopesは快楽を価値ある経験として広くとっているのでなおさらだ。あるいは、どちらも合理的選択理論の下にあり、ペイオフが快楽なのか達成なのかは大した違いを生じさせない、ということなのかもしれない。

2022/11/12

アイブロウサロンというのに行ってきた。ブラジリアンワックスでの脱毛は初体験だったが、事前に痛いと脅されていた1/10も痛くなかった。注射のように異物が入ってくる不快感がまったくなく、むしろ不要物が回収されるだけなので、そこの意識の違いがかなりあると思う。

2022/11/11

今年新たにやり始めたこととして、マルチデスクトップを使い始めた。仮想デスクトップといえば、昔はフリーソフトのキューブみたいなやつを導入していたのが懐かしい。Macになってからぜんぜん使わなくなったが、ChromeやNotionなどつねに立ち上げているアプリを全画面で出しておくほうが作業しやすいという当たり前のことに気がついた。よくアクセスするサイトはつねに固定タブで開いておく、というのも今年からやりはじめたことだ。PC歴は長いが、逆に変な癖が多くて、非効率的なことをたくさんしているような気がする。

2022/11/10

生きてる間も亡くなった後も、ゴダールの映画とどう向き合えばいいのか分からずにいる。大学1年の私がキューブリックと並んで貪るように見ていたのはゴダールであり、前者にはない後者のミステリアスな質にサブカル魂をくすぐられていなかったら、ここまで映画にはまることもなかっただろう。われわれは少なからずゴダールが好きな自分が好き、という時期を経てシネフィルになっていくものだし、それが悪いことだとも思わない。他方で、サブカルを自省できるメタサブカルになるにつれ、あの衒学的な態度が鼻につくようになったのも事実だし、もっと体系的になにかを学ばなければ十分に理解できる対象ではないと謙虚にもなってきた。『ウイークエンド』や『アルファヴィル』の表面的な楽しさを指摘する以上に、ゴダールについてなにか語ることは私には難しい。

そして、いろいろ読んで勉強しようとは思うのだが、ゴダールについて語る者を、単にゴダールが好きな自分が好きというナイーヴなサブカルによるそれと、ちゃんと勉強した上位のメタサブカルによるそれとに区別することは容易ではない。みんな衒学的でポエムな文体を好んでおり、中身がピンきりなのだ。現代思想もそうだが、フランス文化にはなにかを明晰に語ることへの恐怖があるのではないか、と勘ぐってしまう。

2022/11/09

鶏もも肉のソテーを作ったのだが、タークがご機嫌斜めで革がベチャベチャにこびりつき、あっちゃこっちゃしているうちに消え去った。鶏皮部分がきれいさっぱり消えたのだ。どういう理屈なのかはわからないが、現に失われてしまった。

2022/11/08

あらゆるケースがそうだとは言えないが、例えば、「寝起きはだるい」という観察に対して、[citation needed]などとつけるのはどこか役所仕事的で、ばかばかしいだろう。著者としても、「周囲や自分を観察してみろ!」としか応答しようがないではないか。それ以上にばかばかしいのは、適当になにか参照文献を挙げておけば、要求に誠実に応えたことになるという事実のほうだ。実際には、参照先の文献で別の誰かが同じ観察をして同じことを述べ、そちらの校閲者はそれに突っかからなかっただけなのだ。誰もなにか実証的な調査をしたわけではなく、ただ日常的な観察を報告しているだけなのだが、後になって報告する者が先立つ報告を参照しなければならないのは意味不明だし、参照によって後の報告がjustifiedされたかのような雰囲気になるのも意味不明だ。まぁ、そういう過度に突っかかるべきではない日常的な観察、(著者や校閲者が属する共同体において)みんなふつうに認めるだろうし省みる理由もとくにない意見を、証明の必要な主張から区別するのは、それはそれで難しいことなのかもしれない。

2022/11/07

紅白にK-POPのアーティストが出て、老人や愛国主義者や愛国主義の老人の反感を買うのはいまに始まったことではないが、出るべきではないという理屈をどれだけこねようが、数字を出せるというただ一点においてキャスティングされていることを完全に見逃しているのがきつい。紅白歌合戦というのを、その年に日本文化に貢献した名誉ある日本人アーティストたちを称える場だと考えているのだとしたら、あまりにもナイーヴだろう。

それはそうと、IVEが出るということから、LE SSERAFIMも出るだろうという推論は、あまりセンスがない。両者には、日本デビューしており、日本語曲を持っているかどうかの決定的な違いがあるからだ。誰が誰にケアっているのか内部事情は知らないが、K-POPアーティストがふつうにやってきてふつうに韓国語で歌う、というのはまれだ。日本デビューしているかどうかで、日本で数字が出せるかどうかが大きく左右される、というのが事実だとしたらその事実には驚くが、"内部事情"に陰謀論的なものを嗅ぎ取るよりはもっともらしい説明になるはずだ。

2022/11/06

はてブやnoteでまれに記事への質問をもらうが、回答することはなく、頃合いを見て削除するか非表示にしている。とくに深い理由はないのだが、〈質問すれば回答が得られる〉という風に考えているのだとしたらそんなことないぞ、というぐらいの気持ちではいる。質問されること自体に不快感はないのだが、質問に応えなかった場合に反感を招きそうな可能性には不快感がある。こういう自意識過剰を自覚しているので、もう一律回答しないことにしたのだ。

当人のブログで言及してもらったり、メールで直接質問が来た場合には、もう少し対応しようという気になるかもしれない。それにしたって、まずは挨拶と自己紹介からだろう。立場も関心も謎なまま的確な回答をすることは困難だし、そうやって匿名のまま人に絡もうとするのは失礼に相当しないのか、といつもながら思ってしまう(もちろん、インターネットでは必ずしも失礼ではなく、向いていないのは私のほうだ)。勉強会も、はじめに本名と所属を明かさないアカウントからの参加希望はぜんぶ無視している。

2022/11/05

宇宙には、秩序へと向かう原理と、分散し多様化する原理がある。そこまで思弁的でなくても、人間の生活には、ランダムな刺激による不確実性を排除し、安全圏を確保しようとする努力と、あえて多様な刺激にさらされることで、安全圏を増やそうとする努力がある、というのはもっともらしいだろう。われわれはなるべく美味しいと保証されている味を繰り返し食べたいし、たまには違う味にも冒険してみたいのだ。

Lopes (2022)による美的価値の説明(冒険説)は、2つ目の観察に依拠している。それが美的生活の豊かさの一部であることはおおいに説得的だが、同じものばかりにこだわる美的生活をただちに貧しいものだと断定するわけにもいかないだろう。思うに、問題は「豊かさ」がほとんどつねに多様性と結びつき、強度を無視して理解されてしまうところにある。消費社会において価値とは差異なのだから、そのような「豊かさ」観にも一理はあるのだが、冒険し続ける人生だってオルタナティヴがなければやりきれないだろう。

こう考えてみると、結局いつもの、西洋的な発展モデルと非西洋の循環モデルの対比に帰着してしまいそうなものだ。私はそれが気の利いた対比だとは必ずしも思っていないが、美的生活論にはその辺の検討をわりと期待している。そもそも、日常美学とは西洋的な価値を見直し、非西洋の価値を組み込む試みだったはずだ。最近の美的生活論と日常美学の接点は正確には分かっていないので、そろそろ誰かサーベイを書いてほしい。

2022/11/04

クラフトビールがもりもり売られているイオンリカーが近所にあることを知ってしまった。もうアラサーなので、ビールは卒業しようと思っていた矢先に、だ。夢ならばどれほど良かったでしょう。

とりあえず、ぱっと見でよさげなIPAを2本買ってきた。473mlとはいえ、1本1000円前後するので安い買い物ではない。しかし、文句なしにうますぎる。正味な話、うまいビールが与えてくれる快をほかのなにかで代替しようとするなんて無理があるのだ。もうIPAしか受け付けない舌になって、最終的にインドの青鬼で妥協する未来が見える。

2022/11/03

文化の日なので、無料で常設展が見れる国立西洋美術館にやってきた。目当てのハンマースホイ《ピアノを弾く妻イーダのいる室内》は彫刻エリアと合流する曲がり角にひっそりかけられていて、人だかりもなかったのでじっくり見れた。この、ひっそりとしている感じが絵の主題にとっても適切でうれしい。モネみたいに照明ででかでかと照らしていたら台無しだっただろう。

私はずっとマネを贔屓にしているが、この常設展のストーリーでいくと、モダンアートへのゲームチェンジャーはクールベだと印象づけられる。あまり強いマネがない分、クールベの《罠にかかった狐》が異彩を放っていた。

図らずも良かったのはナビ派のボナールとヴュイヤール。スコットランド国立美術館展でもヴュイヤールに目が止まったので、私はこの辺の描写が瓦解するスレスレの描き方が好きなのだろう。新たに心惹かれたのは、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ《貧しき漁夫》と、ウィリアム・アドルフ・ブーグローの《音楽》だ。前者は象徴主義的な、ミニマルなのに意味がギチギチに詰まっているような緊張感があり、対峙する楽しさがある。後者は、《ヴィーナスの誕生》で有名な女体職人として認識していただけに、このポストモダンな絵にずいぶん動揺させられた。この訳のわからなさに対してなんの説明もないあたりが笑える。

時代順になっている展示では、序盤の宗教画や古典主義をじっくり見すぎて、本当はちゃんと見たい19世紀以降をさらっと流すだけになりがちだ。

浮いたお金で昼は牛カツを食べ、夜は鴨ラーメンを食べた。

2022/11/02

世界美猫大会というのをベルギーでやっていたらしいが、はてブでおおいに嫌悪されていて興味深かった。「趣味については議論できない」の動機づけはやはり愛なのだと再確認させられる。〈うちの猫がいちばん可愛い〉のマインドは、いかなる批評的試みにも容赦しない。私も犬に関してはうちの子が当然いちばんだと考えているクチだが、それはそうと、世界美犬大会なる場でどのような個体がなにゆえ評価されるのかを楽しむ余裕はある。猫派にありがちな、自分ん家の子を過度に偏愛、神格化、崇拝するノリときたら、まったくうすら寒いなといつも思っている。

ところで、中身を見てみると、さっそくヘアレスのスフィンクスが飛び出してきてぎょっとさせられる。しわしわぶにぶにの脳みそみたいな肌に、焦点の合わない目、なかには威嚇するように牙をむき出した写真もある。当の記事が話題に上がったのも、ひとつにはアイキャッチとなっている当の猫種が一般的に言えば美しいどころか醜い点にあったのだろう。流暢性仮説に従えば、人間はカテゴリー的により範例的な見た目をしたものを好むので、それで言えばスフィンクス猫なんかは猫カテゴリーの周縁も周縁だ。生き物なのか屠殺された食肉なのか定かでない質感も、カテゴリー逸脱的で不浄である。もちろん、これらは一般的かつ部分的に醜さを支持する要因というだけで、個別的かつ全体的に見てあるスフィンクス猫が美しさを持つことを妨げるものではない。それにしたって、スフィンクス猫がエントリーする美猫大会は、言ってしまえば逆張りである。それは〈一見醜いが、実は美しいのだ〉という価値転覆の試みであって、端的に美しい猫であるわけがないのだ(飼い主や審査員はそう説明したがるかもしれないが)。

スフィンクス猫が、平均的なカテゴリー処理能力を持つわれわれにとって異常で不浄だという前提のもとで、あえて逆張りして「美しい」と述定することになんの意味があるのだろうか。そこにはどうも、ポリコレ的な多様性を推し進める自分たちへの陶酔があるように見えるので、批判されるべきだとしたらそこだろうと私は思う。みんなで醜い猫を並べて美しいと逆張ることで、自分たちがpoliticallyにcorrectな感性を持っていると相互確認し、安心したいのだ。そもそも、美人コンテストは多様であるべきだという考えをそのまま動物コンテストにも持ち込もうとするのはとんでもない誤りだ。人種の多様性と違って、猫種や犬種の多様性は人為的に創造・維持されているものであり、本猫本犬たちにとってなんらありがたいものではない。自然界なら淘汰されてあたりまえな突然変異体を、グロテスクにもあれこれ交配させて存在せしめたのがあの猫や犬たちである。私は、それを人間の残酷として切り捨てるほどモラリストではないし、歴史的に短足を強いられたうちのダックスフントを可愛いと評価する程度にはアンチモラリストである。しかし、ペットの犬猫たちの歪んだ"多様性"と、人種における多様性(一般的に、自然界の多様性)を無邪気に類比してしまう感性とは、なるべく距離を取りたいと思っている。

2022/11/01

キムチ鍋を作ろうとしたが、直前で天啓をうけ、コチュジャンの代わりに麻辣醤をぶちこんでマーラー鍋にしてやった。具材として入れる予定だったえのきが虫の息だったので急遽レタスを登用したのだが、ちゃんと美味しかった。

2022/10/31

ちゃん読でWalton章を見ていただいた。邦訳もあり、たいへん有名な議論であるにもかかわらず、専門家を集めて4時間半討論してもいまだ謎が残るような、わけわからん論文だ。

2022/10/30

駒沢公園でやっているラーメンフェスタに行ってきた。こってりからさっぱり、細麺から太麺まで、津々浦々のラーメンを味わえるイベントだ。おまけに、ふわふわからつるつる、大型から小型まで、津々浦々の飼い犬たちが見れる。

「秋刀魚だしらーめん」「札幌芳醇炙り じゃが白湯味噌らあめん」「黄金真鯛出汁の極上塩そば」という順にいただいたが、どれも個性的で食べごたえのあるラーメンだった。日曜ということでごっそりと人間がおり、ひさびさにガッツリと大行列に並んだ。駒沢公園は開けた場所にでかい建造物を置く構成で、私好みのSF的空間だった。

2022/10/29

白のタートルネックとジーパンを買った。図らずも、ナダルのコスプレセットになった。

2022/10/28

『「美味しい」とは何か』を読み終えた。主観vs客観、言語化の意義など、面白い問いは複数あるのに、それらを差し置いて最後にちらっと触れられる「ラーメンは芸術か?」が帯のアイキャッチになっているあたりに、出版社の戦略がうかがえる(『ビデオゲームの美学』もそうだった)。いつまでたっても〈Xは芸術か?〉式の問いにばかり注意が集まるのは不健康だと思うが、致し方ない部分もあるのだろう。

そして、任意のXに関する〈Xは芸術か?〉に対してYESと答えようがNOと答えようが、だからなんだと言えばだからなんだではある。ラーメンやビデオゲームが芸術でないとしても、それらは紛うことなき文化であり、それでいいではないか。

ともかく源河さんの答えはYES、「料理も芸術」だ。その根拠は、おおまかには二点ある:①料理を芸術から排除するいくつかの理由は退けられる、②現に芸術であるものと料理の間には重要な共通点がある。思うに、「料理は芸術だ」は「高級レストランで提供される創作料理から、われわれが日常的に食べるインスタントラーメンまで、ありとあらゆる調理された飲食物は記述的な意味において芸術である」でとられるべきではないのだが、著者はまんざらそれを否定したいわけでもなさそうなのが気がかりだ。

ちょっと解釈を加えれば、その主張は「料理という形式は、絵画や彫刻や写真や演劇と並ぶ、芸術形式のひとつだ」というものなのだが、そこに「ある芸術形式に属するメンバーはいずれも芸術作品である」が伴っている点に問題がある。ここには、Lopesがコーヒーマグ問題と呼んだ問題がある。《モナリザ》は芸術だが私の落書きは芸術ではなく、《地獄の門》は芸術だが小学生の粘土細工は芸術ではない。活動やその産物には重要な類似があるにもかかわらず、一方は芸術であり他方は芸術ではない。この観察は、単に「芸術」の記述的用法と評価的用法を混同しているわけではない。私の落書きや小学生の粘土細工は、価値の低いbad artですらなく、芸術作品の事例として認めるべきではないのだ。その違いを説明するのは、基本的には慣習、制度、手続き、「アートワールドの雰囲気」だろう(Xhignesseによる説明については2022/10/05を参照)。英語のpaintingにはおそらくないが、日本語の「絵画」には、このような慣習を要件とするような含みがあるはずだ(皮肉以外で、私の落書きを絵画と呼ぶ人はいないだろう)。

ということで、「料理という形式は、絵画や彫刻や写真や演劇と並ぶ、芸術形式のひとつだ」という主張は適切でも、同時に「芸術作品である個別の料理もあれば芸術作品でない個別の料理もある」は認めざるを得ないと思う。すると、芸術作品を芸術作品たらしめる本質にはたどり着いていない点で、前者の主張もトリヴィアルになってしまう。現代アートにおける素材の多様さを踏まえれば、ほとんど任意の人工物カテゴリーXについて「Xは芸術形式のひとつだ」と言えてしまいそうだからだ。ことによると、著者はここに書いたもろもろの懸念に無自覚というわけではなく、自覚した上で「料理も芸術だ」といったキャッチーな言い切りをより好んでいるのかもしれない。それはそれで、帯のアイキャッチと同様あまり教育的ではないように思う。

最後に、仮に私の食べるサッポロ一番みそラーメンが《モナリザ》や《地獄の門》と同じ身分において芸術作品であったとして、それのなにがうれしいのか。価値含みの事実でないとしたら、芸術作品を食べていることが私の尊厳を引き上げるということもなさそうだ。

2022/10/27

ぶんぶん革命が起きた。チョッパーのことだ。掃除機と同様、それがなしで済ませていた以前の暮らしを力強く否定してしてくれるアイテムだ。一人暮らし7年目、玉ねぎのみじん切りという人道的に許しがたいタスクからようやく解放されたわけだ。

解放されたいまになって思うが、私の場合玉ねぎのみじん切りの嫌なところは、「まな板からボロボロこぼれ落ちる」というのが9割を占めていた。ちょっとでもこぼれ落ちると気になってしまい、それをまな板に戻すのに一旦手を止めることになる。一般的にそうかは自覚がないが、玉ねぎみじん切りに関してはパラノイアといっていいほどの完璧主義なのだと思う。

2022/10/26

『「美味しい」とは何か』3章まで読んだが、美学、とりわけ批評の哲学の優れた入門書だ。芸術批評という絡みづらいトピックが、食に取り替えるだけでこんなにも馴染みやすくなるのか、という驚きがある。

「味への評価は人それぞれで正誤が問えない」という主観主義に対し、客観主義からふたつの応答が紹介されている。ひとつは、端的な客観性を諦めても、文化相対的な客観性なら認められるかもしれない、というやつ。よくあるムーヴだが、傾向性[disposition]から説明されているのは新鮮だった。傾向性は、顕現していない性質一般としてなんとなく理解していたが、顕現のための条件付き性質として考えられているみたい。

もうひとつは、シブリーにおける①純粋に評価的な美的用語と、②記述込みの美的用語の区別を、バーナード・ウィリアムズにおける薄い/厚い概念の区別と対応付けて、前者はともかく後者なら客観的な正誤が問える、というやつ。「美味しい」に正解はなく、好き勝手に言ってもらって構わないが、「こってり」かどうかには正解があり、好き勝手には言えない、というわけだ。こちらもよくあるムーヴだが、実のところ、あまり有効な応答ではないのではと思っている。というのも、それで言えるのはせいぜい「記述込みの美的用語の記述部分については正誤が問える」であって、記述を除いた評価部分については依然正誤が問えていないからだ。(記述部分同じ)「こってり」か「くどい」かについて正誤が問えない限り、評価に関する客観主義は擁護できていないように思われる。

もちろん、ここで記述と評価がセットになった性質帰属を端的に「評価」とつづめるなら、この厚い意味での「評価」については確かに正誤が問えることになる。しかし、これはもともとの問いからは離れてしまっているのではないか。

2022/10/25

BJAに投げていたメタカテゴリー論文、残念ながらrejectだった(ざんねん!)のだが、丁寧に査読してもらえたのはよかった。一人目はstyleに関する文献をたくさん教えてくれたし、二人目はうっすら自覚していた議論の穴をテキパキと指摘してくれた。ちゃんとした専門家から的を射たコメントを貰えるのには感動すらある。

今回はずいぶん早く結果が帰ってきた印象を受けたが、ゆうても投稿したのは3ヶ月前なので平均的といえば平均的だ。例の帯状疱疹で半月ほど闘病していたのもあり、ここ数ヶ月はまったくあっという間に溶けた。

2022/10/24

名画になにやらぶちまける類の抗議活動が、なんらかの点で非難されるのは当然だが、「こんなやつらの命より、数億する絵のほうが価値が高い」といったコメントを平気でする人は品性が貧しいなぁと思わずにはいられない。燃える美術館から救い出すなら名画か人か、という定番のジレンマを持ち出さずとも、上のような人は単純な金銭的価値であらゆる価値を一元的に評価しているにすぎない。資本主義には外部がない、という前提に立つなら、そういうものの見方も不正確ではないのかもしれないが、それにしたって貧しい品性はやはり貧しいのだ。はてブを追っていると、醜悪なことをした人間より、それについてなんらかコメントする人間のほうがしばしばはるかに醜悪であることを学べる。

2022/10/23

ITZYは2019年にデビューしてから今日に至るまで、一種類の曲しか歌っていない。「あんたみたいな男なんていなくても、私はやっていけるのよ」という趣旨のそれだ。毎回内容が同じすぎて、歌詞だけ出されてもどれだか当てられる気がしない。ずっと追っているのだが、このグループにはK-POPに対する私の愛憎が詰まっているように感じる。徹底的にスムースなのだ。それがありきたりで退屈に転ぶか、消化しやすく快適に転ぶかは毎回紙一重でしかない。全ての元凶はガールクラッシュ傾向だと思っていたが、それでなくても、グループ単位でかっちりコンセプトを決めてしまい、豆腐屋は豆腐しか売らないスタイルになってしまっているのが厳しい。ジャルジャルのコントに「何曲歌っても一曲とみなされる奴」というのがあるが、シーン全体がそういう状態になってしまっている。〈なにを見たって同じに見えて楽しめない病〉はNanayも取り上げていたが、問題の5割が私側にあるのだとしても、残りの5割はやはりシーンにあるだろうと思ってしまう。

2022/10/22

今月もシーシャに行ってきた。持ち込んだ瓶ビールを栓抜きで攻めども攻めども開けられなかったのだが、ふつうに回すタイプだった。今日はライチ×グァバ×タンジェリンでお願いしたが、好みはやはりナッツやスパイス系統だな。

ガチ中華はある意味でプロパーな真正性の例だと思っている。つまり、贋作かオリジナルかといった存在論の問題ではなく、権威があるかどうか、オーセンティックかどうかが問題となる例だ。権威はもちろん、部分的には存在論的な真正性にも由来するわけだが、それだけではない。もろもろの広告(NHKのルポを含む)や、中国人客が足繁く通っているといった伝聞が、総体として作り上げているようなイメージが、ガチ中華を"ガチ"にしているのだ。そもそも、「中華料理」というのは日本人向けにアレンジされ日本において発展してきた伝統を指し、現地で食べられているものおよびそれに近似したものは「中国料理」と呼んで区別したいたはずだ(長年中国料理教室を運営している母がそう言っていた)。まぁ、ガチ中国と呼ぶわけにもいかないので、ガチ中華は要は中国料理なのだとパラフレーズして理解したいところだが、ガチの台湾料理も入ってくるとなるとやはりミスリーディングだ。一般的に、日本には中華文化圏の多様性を捉えるだけのボキャブラリーがぜんぜん足りていないと思う。

2022/10/21

外干しするより暖房直下に当てたほうが洗濯物が早く乾く季節になってきた。

2022/10/20

エピグラフというのはヒョーショーすぎて投稿論文にはつける勇気がないのだが、新しいことについて書くたびこっそり妄想しては楽しんでいる。ダントー「アートワールド」が引用する『ハムレット』なんかはバッチリ主題にハマっていてクールだし、ウォルトンは「芸術のカテゴリー」でヴェルフリン、「透明な画像」でバザンを引用していて、非ブンセキ論壇との接続がうまい。私が特に好きなのは、前者のような、フィクション作品を使ったエピグラフだ。

先日ちゃん読で読んだストルニッツは、フィクション作品の伝達する"真実"や"知識"がしょうもないとdisっていたが、少なくとも、教訓や価値観を学ぶ窓口としてフィクション作品が現に利用されていることは否定しようがないと思っている。「映画が発明されて人生が3倍になった」というのは『ヤンヤン 夏の想い出』に出てくる素敵なセリフだが、そこまで大げさでなくても、フィクション作品のおかげで私が得たものは、現実世界において見知ったものの量に劣らないはずだ。ストルニッツが述べるように、フィクション作品それ自体は知識が知識たるための確証を与えてくれない。だからこそ、エピグラフ付きの論文は、ある意味ではその確証に相当するのだろう。そこには、知識獲得に関する適切な主従関係があるように感じる。

2022/10/19

Grammarlyの年間契約期限が迫っていたので、溜まっていたドラフトを急ピッチで訳した。去年はちょうど40%ディスカウントのタイミングで契約できて、$86.40(当時のドル円114ぐらい)だったのが、いま更新しようものなら値上げ+きっちり100%+円安で、$150(ドル円150)かかる。1万円でお釣りが出ていたものが一気に¥22,500とはさすがに厳しいものがある。

なければないでどうにかなる暮らしでもないので、どうにかディスカウントに再度あやかろうとしているのだが、それにしたって$90に円安が合わされば¥13,500だ。いやはや。

2022/10/18

現代文を教えていて環境美学的な文章を読んだ。思想や文化に先立つ大事なものとして「風景」というのがあるんだ、という趣旨の文章だった。その手のふわっとした議論をどう相手取ったものかいまだに分からないが、ともかく、私の人間形成にとって重要な風景があるとしたらなんだろう、と考えていた。行くたびに変化し続けていて、もはや私の知っている姿を失いつつあるが、横浜駅西口はそのひとつだろう。いまだに、東京を歩いていると、人を避けて足早に通り抜けなければという切迫感があるのに対し、横浜駅はひさびさに行っても地に足のついた感覚がある。

2022/10/17

実家の老犬と遊んできた。この1ヶ月ですっかり目が弱ってしまい、あちこちにぶつかる。まだガツガツご飯を食べるし、ガウガウ吠える体力があったのはよかった。彼を通して、私は毎月老いについて学んでいる。

2022/10/16

昨日はパツンパツンになるまで博多ラーメンを食べたが、今日は準パツンパツンになるまでまぜそばを食べた。

2022/10/15

みんな美学会へ行っているのをよそ目に、岩盤浴というのに行ってきた。かなりエンターテイメントだった。帰宅した段階ですでに風呂には入った状態が達成されているのはうれしさがある。

2022/10/14

銀行口座の名義変更チャレンジDAY2。ディテールは割愛するが、クソこと三菱UFJにてたっぷり1時間待たされたあげく、3年ぶり2度目の却下をくらう。久々にしっかり"""怒り"""を経験したが、喧嘩しても仕方がないので、諦めて帰宅。もう一度行こうという気になるのに3年はかかるだろうな。

アンガーマネージメントができる大人なので、喫茶店でナポリタンをやけ食い、コーヒーをやけ飲みした。

2022/10/13

絶妙に面倒で、かれこれ5年も放置していた〈銀行口座の名義変更〉というタスクを、1/2やっつけた。学部4年の途中に日本国籍を取得し、姓と読みはそのままで「名の漢字だけ」変わったのだが、別になにも困りゃしないだろうと放っておいたらサラサラと5年が経過した。とはいえ、まだ銭清弘になってからたかだか5年なのか、という意外性もある。今日も、変更前の名前を書いてくれと言われて、我ながら「こんなんだっけ……?」と思った。手続きに1時間ちょいかかり、非常勤の時間が迫っていたので、もう1/2は倒せなかった。明日、天気がわるくなければ倒しに行く。

実は2年前に一度名義変更チャレンジしにいって失敗したことがある。そのせいで余計面倒になって、+3年経過したわけだ。そのときももろもろの身分証を用意していったのだが、「新しい名前と以前の名前が併記されている書類」、具体的には戸籍謄本の類をとってこなかったので変更してもらえなかった。通帳とクレジットカードがあり、届け出の印鑑があり、が同じで、姓名の読みも同じで、その他登録情報はなんでもかんでも答えられるのに、かつての私との時空間的連続性を証明できなかったのだ。テセウスの船の甲板一枚張り替えた程度の違いではないか。窓口も仕事でやっているので恨みっこなしだが、まぁ変更しなくてもこっちは困りませんよ、ということでふてくされているうちに3年経過。きっと私みたいなのが病気の早期発見かなわず突然死するのだろう、と思うと身が引き締まる思いだ。健康診断は行こう。

2022/10/12

grooveのない一日だった。昼前ににゅるっと起きて、不要不急のもろもろを読んでいたらあっという間に日が沈み、早くも酒飲んで寝るかというムードになってきた。こう、曇りや雨の日はカーテンを閉め切って人工光のもとで一日過ごすわけだが、そうなってくると時間感覚および活動意欲が失われてしまいよくない。持論として、0時過ぎて考えたり書いたりしたものはたいていしょうもないので、さっさと寝たほうがいいのだが、人工光のもとではそんなダウンタイムが前倒しになる。冬はこういう灰色でまとまりのない日が多いので困る。雪国に生まれていたら、私は何者にもなれなかっただろう。

2022/10/11

感動を与える」は、考えてみたら確かにちょっと変な表現である。

  • チャリタブルにパラフレーズすれば「受け手が感動するきっかけを与える」「感動させる」というので、なんら変ではない。

  • ふつう、「XがYにZを与える」はそれに先立って「XはZを持っている」を含意しそうなものだが、スポーツ選手などがまずもって感動を所有しているわけではない。(プレゼントに類比的な「与える」ではない)

  • おそらく、英語のgiveにはその含意があるので、情動喚起ではgiveを使わず、第5文型のmakeを用いるのだろう。

  • 中国語でも「给」ではなく、使役の「让」で「让人感动」とするのが一般的な気がする。「给人带来了感动」と言ったりもするが、この場合は「もたらす[bring]」のニュアンスに近いか。

  • 「Zを与える」にしっくりはまる情動とそうでない情動のグラデーションがあるのも面白い:Google検索のヒット数を比較すると、「喜び>>>恐怖>>驚き>興奮>怒り>悲しみ」 といった感じだった。(ちなみに「感動を与える」は「驚きを与える」よりやや頻繁で、「恐怖を与える」よりだいぶまれだった。)

なんにせよ、感動という現象がもっぱら受け手側の問題であって、送り手側はなんら関わらない、といった論旨は筋が悪すぎる。「感動を与える」というのが、スポーツ選手にとっては本質的課題ではない(求めすぎても気負いすぎてもよくない)、という趣旨はふつうに飲み込める。

2022/10/10

この日記の初日から言っているように一度冷凍した米が嫌いなのだが、解凍後もそこそこ美味しく食べられるたったひとつの冴えたやりかたを最近ようやく知った。丁寧に浸水させる、これに尽きる。まったくの我流で長年一人暮らしをしているが、今年になってはじめて浸水というのをやりはじめた。実際、贔屓にしている青天の霹靂は浸水させようがさせまいが美味しく炊きあがるので、浸水の必要性をほとんど感じてこなかった。しかし、研いだ後で15〜30分ほど浸水させるかどうかは、冷凍米のクオリティを大きく左右する。浸水せずにボソボソガチガチの餅みたいになっていたのが、丁寧に浸水させるだけで卵かけご飯に使ってもストレスのないスムースさを保てるのは、すごいことだ。

あと、こちらは有名だが、炊きあがったら食べる分以外は即冷凍だ。一旦落ち着かせてしまうと、解凍したときパサパサになりやすいので、湯気ごと冷凍するイメージが大事だ。たったふたつだった。

2022/10/09

3〜4時間かけてパキスタンカレーを作った。先日サリサリに行ったばかりなので、レベルの違いというか、そもそも料理としての違いをひしひしと感じる。どうしてもパサパサしてしまうのだが、おそらく、もっと油を大量に使ってコンフィしないとあの柔らかさは実現できないのだろう。あと、火加減が難しいのでどうしてもスパイスを焦がしてしまう。とはいえ、独立した料理としてはそこそこ美味かった。本家にならってチャイも作った(今日は休肝日)が、がぶがぶ飲んだせいで夜なかなか寝付けなかった。

2022/10/08

ひさびさに晴れたので、自転車でその辺をぷらぷらしてきた。山手通りから目黒駅までの界隈はすっかりお馴染みだと思っていたのだが、三田のおしゃんな住宅街で迷いに迷った。目黒住みも7年目なのでこの手の高級住宅街は見慣れたものだが、どれもこれも無機質な塀に囲まれていておどろおどろしい。

カレーを食べ、リキュールとスパイスを買って帰宅。帰りに寄生虫館の前を通ったが、ビル・ゲイツ効果でひっきりなしに人が入っていた。

2022/10/07

ホラーとの対比で言えば、マジックリアリズムはアンチ好奇心なジャンルと言えるかもしれない。なんらかの宙吊り状態が発生し、キャラクターは戸惑い、観客は好奇心でもってその解決を期待する、というのがホラーを駆動しているのだとしたら、マジックリアリズムは一見したところの宙吊り状態が発生しているにもかかわらず、キャラクターは平然としており、観客の好奇心はそれによってくじかれる。人が飛んだり、死者が現れるのは作品世界において「当たり前」であり、なんら解決を要する事態ではない。観客は、それ以上の開示や解明を期待できないのだ。

2022/10/06

いきなり寒いし、いぎなりさみぃ。2022/09/28にふとんのレベルを②にしたと書いたばかりだが、もう③になってしまった。冬服やヒートテックをはやめにスタンバイさせておかなければと思うのだが、連日の雨に阻まれている。

今日は博論計画書の英訳をした。提出するのは日本語版で、英語版はもっぱら指導教員のために用意するのだが、自分の思考の整理にもなる。日本語で書いているうちはメイクセンスなつもりでも、英語にした途端収まりが悪くなる、みたいなことがしばしばある。日本語上では省略されている主語はなんなのか、その語は単数形か複数形か、定冠詞か不定冠詞か、などなど。おおむね、日本語だとなあなあでも通る表現が、英語だともっとspecifyしなければならないことが多い。

ふわっとした思想とカチッとした思想というよくある対比が、使用言語の性質に対応しているというのはわりともっともらしい仮説だと思う。日本語や中国語が前者をもたらし、英語が後者をもたらすのは腑に落ちる。(フランス現代思想がふわっとしていると仮定して、)フランス語が前者をもたらすような言語なのかは分からない。フラ語は学部のころに入門書を一冊やっただけで、なにもかも忘れてしまったが、「Je ne suis pas étudiant.」だけはいつでも使える(いまのところ真理値は偽だが)。語学は好きなので、時間があったらいくらでも勉強したい。韓国語は、K-POPを追っていてある程度発音にも馴染んでいるので、いいかもしれない。こういう展開を脱線と言う。

2022/10/05

近々ブログにしたいネタなので、いつも通り備忘録として日記に書く。(この使い方が、個人的に一番効用が大きい。)

Michel-Antoine Xhignesseの「What Makes a Kind an Art-kind?」(2020)という論文。タイトルの通り、なにがある種を芸術種にしているのか、という問題を扱っている。一年ほど前に、DiA論文の査読者におすすめされた一本だが、関心にどんぴしゃで、何度も読み返しているお気に入りの一本だ。ただし、Xhignesseの表現と構成にはちょっと癖があってなかなか読みにくく、最近になってようやく全体像を把握した。(failed-artについて書いているやつも難しくてまだ読み切れていない)

あらすじ。芸術の定義論もいい加減落ち着いてきて、Lopes (2008)が「芸術一般の理論なんて手に入らない(し必要ない)ので、諸芸術(絵画とか音楽)の理論をやろう」と言い出す。「Xが絵画、音楽、彫刻、映画……など、芸術種のどれかに属しているならばXは芸術である」ということで、芸術種まで説明の負担がバックパスされてきたのだが、そうなってくると、じゃあどの種がなにゆえ芸術種なのかが気になる。備前焼は芸術種であり個別の備前焼は芸術作品なのに、マグカップや個別のマグカップがそうではないのは、一体なぜなのか。

芸術種から、それをとりまく芸術「慣習」へとさらに説明負担をバックパスすべきだ、というのがXhignesseの主張になる。結論を一言で言えば、ある実践を芸術実践にし、別の実践を非芸術実践にするのは慣習の違いでしかない。備前焼を芸術扱いし、マグカップをそう扱わないのは、これまでもそうしてきたし、いまもみんなそうしているから、という以上の話ではない。芸術の身分は、根本においてはまったく恣意的で偶然的なのだとXhignesseは考えている。この手の話題でここまで恣意性を強調する論者も珍しいだろう。比較として、恣意的だとdisられがちなDickieの制度説でも、「鑑賞の候補」というのである種の本質的機能が規定されている。Xhignesseはそういう機能すら求めない。

ただし、重要なのは、慣習が先例に基づいて複製されていくことで成立・維持されていくという性格を持つことだ。この点、Xhignesseは慣習の基盤には解決すべきコーディネーション問題があるとするルイスの慣習概念を退け、より自然主義的なミリカンの慣習概念を採用する。あるふるまいがコピーされ、その間に反実仮想的な関係(モデルが別様であれば、必然的にコピーも別様である)が成り立っているのだとすれば、ミリカン的な意味においてそれはすでに慣習である。芸術慣習においても、「芸術作品を作ろう」「絵画を作ろう」といった意図は不要であり、すでに存在する先例に基づいて作られたものは、芸術慣習の(一部であるいずれかの芸術種の)一部であるという意味で、芸術作品である。先例に基づいていることが必要なので、完全に恣意的というわけではない。

私の考えている制度説との比較で言えば、Xhignesseはそういった慣習がかっちり固まって、ルールなどが明文化された状態をどうやら「制度」として理解しているらしい。Xhignesse説においては、芸術(種)かどうかは慣習の時点で決まっているので、制度は必要ではない。とはいえ、制度はルールによってさらに恣意性を小さくする、と考えているようだ。この辺は、制度をグァラ説で理解したり、暗黙的な「制度」を認める分には、Xhignesseの考えている「慣習」と両立可能なように思われる。

チューリップバブルを引き合いに出しているように、Xhignesseの考えるアートワールドは、本質において投機的なものだ。内在的な機能や価値はさておき、注目されることで注目され、流行することで流行していくと、次々に人々のふるまいが複製され、慣習を形成する。チューリップ以外の花がバズってもよかったし、いまある活動以外の活動が芸術種として定着していてもよかったのだ(例えば、数学が芸術の一分野だったかもしれない)。慣習は本質において恣意的なのである。

ほんまかいな、というのが正直な感想だ。私は、アートワールドがそこまで強く恣意的であるとは考えていない。どちらかというと、「鑑賞」のような本質的課題を中心に据えるLopesやDickieのほうが腑に落ちること言ってると思う。先例に基づいて複製していればよし、というのは明らかに広すぎる。私が鼻歌で歌う第9を芸術慣習から排除する理屈を、Xhignesseは用意していないように思われる。雑ではあるが、「鑑賞の候補ではない(鑑賞されることを意図していない)」といった説明は、そういった理屈になるだろう。作品のカテゴライズ実践についても、〈鑑賞経験の価値最大化〉というコーディネーション問題をわりと勝手にでっち上げて使ってきたつもりだったが、こうやって見てみると意外と支持されている案なのかもしれない、という発見もあった。

2022/10/04

グレートファイアウォールと戦いつつ、中華圏の分析美学論壇〉を調べるのがちょっとした趣味なのだが、2009年に『分析美学史』という本を出している刘悦笛に続き、三峡大学の章辉なる人物が分析美学のイントロダクションビアズリーの紹介美的経験論について書いているのをみつけた。どちらも中堅の教授といった趣(ふたりとも1974年生まれ)で、最新のJAACやBJAを読むというよりは、歴史的関心から分析美学を見ているっぽい人ではある。

上のイントロダクションで章辉が書いていたが、中国では分析美学といえば「ウィトゲンシュタインに影響を受けた一派」として誤解されがちらしい。刘悦笛の本も、ビアズリー、ウォルハイムを差し置いて第1章にウィトゲンシュタインが来ている。また、中国であまり分析美学が好かれない理由として、分析美学は芸術にまつわる客観的現象への科学的志向が強が、中国の伝統美学は主体の美的生活の意味や価値に注目しがちで、ゆえにドイツの大陸美学や現象学のほうが親和的だと述べている。まぁ、それで行くと日常美学は東洋的な価値観に接近しているので、こちらは好かれるという話にもなりそうだが。この論考は結構見どころが多いので、ちゃんと紹介してもよいかもしれない。

あと関係ないが、DeepLが一回に訳してくれる上限が原文で5000文字(単語ではない)ずつなので、英語よりも中国語を投げたほうがサクサク訳してくれて新感覚だ。

2022/10/03

親子丼を作った。予熱をなめていたせいで、半熟に仕上げるのに失敗。

2022/10/02

『ブラック・ミラー』のシーズン1をちょちょいと見たが、3話目『人生の軌跡のすべて』の〈記憶を鮮明に保存し、いつどこでも再生できる埋め込み端末〉をめぐるSFは、私が昔からたびたび妄想している話に近いものだった。相手の心理や意図を推測する上で、認識論的に強すぎるテクノロジーを手に入れてしまったことから、疑心暗鬼が生まれ、知らないほうがよい真実を知ってしまう、みたいな話だ。私にとっては、この「知らないほうがよい真実」(別のバリエーションとしては「やさしい嘘」)が少なくともいくつかあると考えている人々を、どうにかこうにか論破したいというのが、学部時代いちばんはじめに湧き上がってきた哲学的意欲だと言っても過言ではない。法定で宣誓される「the truth, the whole truth, and nothing but the truth」は二の腕にタトゥーで入れたいぐらいだ。『人生の軌跡のすべて』では、まさに私のような価値観を持つ主人公が、価値実現のため理想的なテクノロジーを携え、真実かつ真実のみを求めた挙げ句に破滅する。これが全体として、「やさしい嘘」の上にこそ幸福が築かれる、というメッセージになっているのだとしたら嫌だが、ラストは多義的だ。Netflixでさくっと見れるのでおすすめ。

『人生の軌跡のすべて』の人々が、いまだ真実かつ真実のみの世界に耐えられないのは、それがつまるところ過渡期だからだとは思う。当のテクノロジーが最終的に普及し、人々の意識も含めて完成された真実かつ真実のみの世界は、適度どころか節々に嘘を含むわれわれの世界と比べて、なにが損なわれているというのか。美的に画一的な世界に関する直感もそうだが、こう全体主義的で管理された世界に対する警戒心が薄い自覚はある(もちろん、立証責任は警戒すべき派にある)。

2022/10/01

白楽までプチ遠出して、サリサリカレーからの珈琲文明をハシゴした。友達のバンドが白楽の歌を作っているが、まんまそのコースだ。サリサリは日吉時代に一度行ったきりで、ひさびさに行ってみると移転していたのと、記憶ほどいかがわしい雰囲気ではなくレトロな洋食屋という感じになっていた。パキスタンカレーは自分でもよく作るのだが、流石に本家本元はたいそううまかった。珈琲文明もサイフォンが小粋だった。

散歩で寄った白幡池公園〜篠原園地ものんびりしていてよかった。電線の上をリスが駆けてった。

2022/09/30

死はひたすら畏怖し、遠ざけ、見て見ぬ振りをするほかないものだと思っているので、それについてはなにも語れない。

2022/09/29

いつだったか中国に行ったとき、親戚のおじさんに盲人マッサージ院なる施設へと連れて行かれたことがある。見てないが、ロウ・イエの映画『ブラインド・マッサージ』に出てくるような施設だ。盲人は目が見えない分、人一倍指先の感覚が鋭く、足裏マッサージにかけては達人なのだという触れ込みだったが、嬉々として勧めてくるおじさんを含めてなんだか気味が悪く、ぜんぜん乗り気ではなかった。視覚障害者の就労機会ということで間違いなくえらい院なのだが、コンテンツとして消費するのはなにかわるい気もして、温室育ちの私にはとっさに倫理的な態度形成ができなかったのだ。

マッサージがどうよかったのかはぜんぜん覚えていないが、スタッフの手際はとてもよいどころか、あまりにもよすぎた。後でおじさんに「あの人たち見えているよね?」と尋ねると、「たぶんね」と言うではないか。そういうものらしい。あの手のマッサージ師のなかには、盲人のフリをした健常者もふつうにいて、付加価値として「盲人マッサージ院」を謳っているだけであり、おじさん含め中国の消費者たちはそれを知りつつ割り切っており、そういうものらしい。

2022/09/28

先日実家でおとんにもらった中華製麻辣醤でちゃちゃっと作った麻婆豆腐を前に、わりと上出来だと自負していた自己流麻婆豆腐がボロ負けした。やはりこう、赤い油が浮くぐらいに辛くしないとダメなんだな。敗北の悔しさはあるが、簡便さを手に入れたうれしさもある。

近頃は夜中の気温が申し分ない。私の使っている無印良品の掛け布団は、中身を取り替えることで四段階(①カバーだけ/②薄いのを詰める/③厚いのを詰める /④薄いのと厚いのを詰める)まで厚みを調整可能だが、レベル②の時期がいちばんfeel goodだ。①は風邪を引くし、③以降は重い。

2022/09/27

今日、中学生に国語を教えていて、納富信留の文章を読んだ(こちらに全文公開されているのを見つけた)。著者は「ことばがツールとみなされている」ことを問題視しており、効率や有用性といった道具的価値ばかり優先するのはダメだと述べる。そういった合理化は、つまるところ労働のためになされるのであって、人文学はそういうのに抗わなければならないという、よくある言説だ。著者によれば、ことばを大切にしないと、人権や民主主義や自由といった大切な価値が損なわれてしまうらしい。

これこそ、私が昨日も書いた「教育」にほかならない。おそらく、一部の人文学者は労働がクソである理屈を一生懸命考え出し、労働がいかにクソであるか伝導することを責務と感じているのかもしれない。実際、効率性に対する彼らのアレルギー反応は、マルクスの古典的な疎外論から一歩も外に出ていない。常套句でもって言説を再生産している様は、遠目に見れば工場労働そのものなのがおおいに皮肉だと思う。だが、まぁ、労働がクソであることに異論はないので、その辺は脇に置こう。

なによりむかつくのは、この手の人が効率主義を批判する場面でしばしば取り上げるのが、「人権や民主主義や自由といった大切な価値」である点だ。これが毀損されるべきでないことについては、少なくとも私は手放しで同意する。むかつくのは、目下の課題(この場合は、国語教育において文学よりも論説文の比重を挙げるべきか)に対してある種の選択をすることから、数段飛ばしに、それがリベラリズムの毀損であると批判してくる点だ。国語教育において論説文の比重を挙げることと、民主主義が脅かされることの間にある具体的な因果関係について彼らが思いを巡らすことはほとんどなく、前者に効率主義の気を読み取って、「そんなお前は反リベラルだ」と一方的に裁断を下しているのだ。目下の課題にその選択をすることと、懸念なさっているリベラリズムが(なんらかの変容を強いられるにせよ容認可能な形態で)維持されることが、まったく両立可能であることには、中学生だって思い至る。

昨日一昨日の話題にもういっちょ噛みすると、哲学史不要論で問題となっているのも効率性の是非にほかならない。上のような反効率主義を内面化した人に、例えば分析哲学のディシプリンを分かってもらうことは根本的に無理なので、あまり期待しないほうが失望を最小化できる(効率的な判断)。それはそうと、けなすことだけを意図して「そんなお前は反リベラルだ」といったことを直接/間接的に言ってくるのも、それによって「自分のほうが人権・民主主義・自由を重んじるリベラルだ」といった印象操作をするのも、本当に不当なので勘弁してほしい(2022/09/10や2021/11/28も参照)。そういったハラスメントになにか名前をつけるべきではないか。

最近BJAに載ったErlend Lavikによる論文「Towards a Pragmatist Aesthetics」にも、同類の価値観が見て取れる。Lavikは批評における客観性の追求に懐疑的で、ローティの反本質主義を引きつつ、批評とは対話でありプロセスが重要なのだと主張する。とくに目新しい主張でもないが、そういった批評観の正当化としてLavikは再度ローティを引きつつ、それがリベラルな社会(自由、民主主義、多様性を重んじる社会)の促進になるからだ、と述べる。美的評価における客観性は、反リベラルな、全体主義的なイデオロギーのもとでしか達成可能でない、とまで言う。この見立てのもとでは、キャロルの芸術鑑賞ヒューリスティックなんかはまったく独善的な効率主義で、反リベラルな批評観ということになるのだろう。対話やプロセスが重要で、最終的な客観性を期待すべきでない、という主張までは同意できるのに、たちまち政治の話にスライドさせて他方を反リベラルだと断じるやり方は、まったく尊敬できない。みんな、もはや政治とは独立になにかを論じることができなくなってしまったのかと、心配になってしまう。

私が効率主義に対して基本的に寛容な見方を持っているのは、言うまでもなく経済学部出身だからだ。より正確には、受験生時代からこのような価値観を持っていたと思う。

2022/09/26

現代哲学の研究に哲学史は必要なのか」について書くのがはばかられると昨日書いたばかりだが、「この手の哲学観にいい顔しないだろうな〜」と私が予想した一連の表象文化論者たちが、案の定昨日の今日で抗戦的な姿勢を示していて、改めて「哲学」における分断を意識させられた(分析vs大陸のいがみ合いが三度の飯より好きなので、ニコニコしながら断面を眺めているのだが)。以下の数段落は、Sauerの問いにはほとんど触れることなく、普段からきらいな人たちのきらいな理由について述べるだけの、informativeでない文章だ。

私がまさにそういう教育を受けたから知っているのだが、駒場ではどんな講義を受けても、進歩や普遍性を神話として疑い、歴史を重んじるように仕向けられる。今回のSauerの主張はどう控えめに紹介するにしても、ベクトルとしてはとにかくそれとは真逆のことを言っているので、上述の教育を信条として内面化した者を脊髄反射で怒らせるには十分だ。彼らは、哲学史不要論の主張にどれだけ慎重な留保があるとしても、方向性そのものを言語道断として批判する。私がその手の現代思想ヤクザに直面するたび本当に不愉快なのは、多くの場合、受けた教育の後半部分、すなわち「歴史を重んじる」という部分を具体的にどう実践するのか明確な考えも持たないうちから、受けた教育の前半部分、すなわち理性とか近代性とか普遍性とか進歩といったタームを見つけたらとりあえず批判するという、しょぼすぎる行動パターンを示してばかりいるからだ(学年が上がるにつれてこの手のしょぼい人は減っていくが、一部は先鋭化されていく)。「歴史を重んじる」こと正当化が必要だと自覚できる程度には謙虚だった場合でも、その手の人たちが繰り出すのはヘーゲルやらニーチェやらデリダやら固有名詞をねっちょり並べて権威づけた、当人たちも理解できているのか疑わしい怪文ばかりだ。

もちろん、彼らのやっていることがまったくナンセンスだというつもりは毛頭ない。私が無知なだけで、彼らは彼らなりになにか"アクチュアル"なことを言っているのだろう。しかし、われわれ(僭越ながら、分析哲学者たちをreferさせてもらう)のやっていることに対して彼らが言うことは、まったくナンセンスだし、ただただ失礼だ。誰だって、「あいつはカントを読んでないからダメだ」とマウントされることなく哲学をする権利がある。

被害者意識マシマシで書くとざっとこういう文章になるわけだが、こういう物言いはこれはこれで加害性があることは意識している。分析哲学嫌いの現代思想の人たちは人たちで、ブンセキサイドからの「もっと明確に物を語れ」圧を日頃から感じていて、被害者意識を持っているのだろう。ということで、結局は対称的、どっちもどっち、われわれはみなTwitterで小競り合い、マウントを取り合うだけの悲しい生き物なのだ。

2022/09/25

「同じ日本人として恥ずかしい/申し訳ない」と言える人は、普段から一民族の倫理観を代表していてしんどくないか、と思うのだが、もちろん発話の要点はそこではなくて、実質として「日本人がみんなこういう恥知らずなわけではないので、どうか一般化しないでほしい」という欲求の表出なのだろう。そういう一般化をされてしまうのは、当該集団がマイノリティであるほど死活問題なので、身内として批判を示さねばという切迫感もある程度は想像がつく。しかしこう、どうしても国をまたいで身内と他者という線引きが意識させられるのは、いい気分ではない。無礼なふるまいをしたのもされたもの主体性を持った大人なので、一方の個人を個人として非難し、他方の個人を個人として尊重するという以上に、属性を問題にする必要などそもそもないのだ。もちろん、これは理想論である。

現代哲学の研究に哲学史は必要なのか」についてもなにか書こうという気になったが、この手の「教養」が絡む話題に対して上から物申す有象無象にいつもながらウゲーッとなりつつ、傍から見たら自分の書いたものもそれらと同類なのだろうと謙虚にも自覚したため、心に留めることにした。

2022/09/24

内実として「最近の日本の若者は〜」ぐらいの話なのに、それだと顰蹙を買うから「Z世代は〜」ということにしている言説がほんとうに多くて、感じがわるい。そもそも、あの区分はアメリカの人口推移や経済状況を踏まえた区分なので、日本にZ世代なんていないのだ。最近の若者論はうざがられるが、無意味とまでは思わない(一般化自体に罪はない)。それをなにやらキャッチーなタームでパッケージングしているのが小賢しいのだ。

基本的に日本で言われる「Z世代」はカテゴリーとしてあまりにも貧しく、「SNSやってる若者」ぐらいの内包しか持っていない。そういう、世界認識においてほとんど役に立たないカテゴリー、ちゃんと役立てるために中身を反省する者がほとんどいないカテゴリーが、キャッチーというだけでなんとなく使われ続けるのは、これぞシミュラークルという趣がある。

2022/09/23

高田さん訳の『ホラーの哲学』を着手した。本当にいい本なので、近いうちに書評なり書きたい。アマレットミルク、うまい。

2022/09/22

ずっと買おう買おうと思っていたアマレットディサローノをようやく入手した。はやく買えばよかった。ゴッドファーザーを作りたくて買ったわけだが、分量適当でも混ぜてロックにするだけで最高の飲み物が出来上がる。最初は少し甘みがキツイが、氷がほどよく溶けると角が取れていい感じになる。700ml瓶がけっこうデカかったので、当面の間、晩酌はこれで落ち着きそうだ。ジンジャーエールやミルクやコーヒーで割っても美味しいらしいので、これからいろいろ試してみたい。

はじめてゴッドファーザーを飲んだのがいつどこでだったのかさっぱり覚えていないが、どうせ渋谷あたりの学生向け激安バーなので、家で作るほうがよっぽどハイクオリティだ。ウイスキーを愛しすぎるあまり、そういうところに行ってもたいていウイスキーベースのカクテル(あとはモスコミュールとかシャンディガフとかそういうかわいいやつ)にしか手を出さなかったのは、ちょっともったいないと思っている。30代までにはショートカクテルを頼めるような余裕がほしい。色んな意味で。

2022/09/21

『天井桟敷の人々』を見た。3時間なので、ひさびさに割と長い映画だ。三角関係でドタバタするのは『アンダーグラウンド』っぽかったし、ガヤガヤした画面もクストリッツァっぽい。ラストはちょっとホドロフスキーっぽいなと思ったが、『エンドレス・ポエトリー』に本作ちょっとだけ引用した場面があるのを調べていて思い出した。そもそも、ホドロフスキーがパントマイムをはじめたきっかけは本作らしいので、かなりコアな影響源のようだ。戦前のクラシックを見ても、そういう影響関係ばかり気になってしまうが、『天井桟敷の人々』は単独でもなかなか見応えのある映画だった。

2022/09/20

自分が心の底からつまらんと思っているコンテンツがもてはやされることへのムカムカは、ジャンルごとに程度さまざまだが、個人的にはお笑い芸人やYouTuberに対するそれは結構ムカムカするほうだ。個人的なそれを超えて、一般的にもそうではないかと思う。彼彼女らは大声を出したり、事物をバカにしたり、子供じみたことをするのが仕事なので、そもそもジャンルとして綱渡りなのだろう。ダサすぎる曲を作ったり、しょうもなさすぎる映画を作ったからといって、その生産者やそれをありがたがっている消費者に対して軽蔑の念がわくことはそんなにないが、つまらん芸人やそれを面白がる視聴者とはご縁のなさを実感しやすい。評価の対象が人格により近いのだ。きっと研究生活もそうなのだが、アンチがたくさん湧いて嫌になるのを回避するためには、コンテンツの基本単位が人にならないよう気を配る必要があるのだろう。言うまでもなく、手っ取り早い自衛の手段はSNSを控えることだ。

ところでその反対、自分が心の底からおもろいと思っているコンテンツがバカにされることへのムカムカは、少なくとも個人的にはまったくない。自分が心の底からおもろいと思っているコンテンツがバカにされムカムカする人へのムカムカならある。

2022/09/19

正しい方向へ向かっているのかどうか分からないまま、一ヶ月ほど髭を伸ばしている。周囲からの評判はわるくないが、いよいよアラサーという感じがしてくる。

2022/09/18

「殺したも同然だ」という言明が真になる範囲はどこからどこまでなんだろう、とちょっと気になっている。なんらかの因果的関与について言っているのだろうが、一方の極には「それは同然というか、ふつうに殺しているだろう」という関与があり、他方の極には「殺したも同然、は言い過ぎだろう」という関与がある。運転中に飛び出してきた人を轢き殺すのは文字通り殺しているが、医療ミスで死なせてしまうのは「殺した」というのは言い過ぎでも「殺したも同然だ」とは言われるべきなのか。自身の不倫が原因でパートナーが自死を選んだ場合は、「殺したも同然だ」の典型的な例のようにも思われるが、私としては自責としても他責としても言い過ぎだろうと思わなくはない。喧嘩したせいでデートが中断になり、帰り道の途中でパートナーが事故死した場合は「殺したも同然」か。こちらも映画なんかでよく自責しているのを見るが、さすがに言い過ぎではないか。過失致死の範囲と「殺したも同然だ」の範囲が一致するのか、というのも気になる。

2022/09/17

最寄りに良さげなシーシャ屋があったので行ってきた。カルダモンとアーモンドのミックスでお願いしたが、居心地もホスピタリティもかなりよかった。やたら濃厚なココアが飲めると思ってたら、氷で割ってアイスにする用だった。差し支えないのでそのまま飲みまくった。また行くと思う。

2022/09/16

実家で犬と遊んだ。ソファでヘソ天で寝ているのを俯瞰で写真を撮ったら、《ウルビーノのヴィーナス》みたいなのが撮れた。

2022/09/15

まだ9月だが、ちゃんこ鍋ばかり食べるゾーンに入っている。白菜も大根も旬ではないので、お味は及第点といってところだ。ぶっちゃけ具もスープもなんでもよくて、茹でたうどんをポン酢につけて食べるのがうまい。

2022/09/14

右利きだが、スマホの操作は左じゃないとしっくりこない。ガラケーの頃から、文字入力は左のほうがやりやすかった記憶がある。なので、ズボンの左後ろにポケットが付いていなかったり、改札を通るのにちょっと手こずるたび、なるほど社会は右利きに最適化されているなと感じる。

2022/09/13

高田さん訳の『ホラーの哲学』ももうすぐ出るし、気持ちを高めている。この3日ほどで一気観したが、Netflixの『ザ・ホーンティング・オブ・ヒルハウス』がバチバチに良かった。ホラーかつ家族ドラマというふたつの課題を有機的にこなしているすごい作品だ。そしてばっちり怖い。呪われた館、という噛みしだかれてけちょんけちょんの題材で、なんでこんなに面白くて怖い話になるのか。

2022/09/12

近頃はみんなペンキをぶちまけるイカに夢中らしいが、私はバンドのほうのイカに夢中だ。UKのポスト・パンクはようやく聞き方が分かってきたのだが、なかでもSquidは色んな音が鳴っていて面白い。とくにツインギターで分担しているリフがどれもキショくてお気に入りだ。カッティングやらアドリブソロやらいろいろ経てきた後で、エレキギターというのはやっぱりリフを刻むのが一番格好いいというのに戻ってきつつある。Arctic Monkeysも新譜を出すということで、昔懐かしのアルバムを聴いたりしていたが、アレックス・ターナーはまだピアノにハマっている様子なので、新譜でギターロックを期待することはできそうにない。(少なくとも私が追いかけているような界隈において)ギターはもうすっかりスポイルされて、長いこと誰も見向きもしなかったパートなので、新しい音を探しているなら逆にいまこそギターなのだ。(こうして、人は毎年のように「今年はギターロックが来る」とか言い始めるのだろう、と思う。)

2022/09/11

すごく当たり前のことに最近ようやく気づいたが、OCRのめちゃめちゃな論文PDFをShaperやらで頑張って磨いてDeepLに投げるより、ジャーナルのウェブ上のテキストをそのままDeepLに投げれば済む話だ。最近のやつ限定だが。

2022/09/10

なんとなく昔のツイートを見ていて、ジュディス・バトラーの講演を聞きに本郷に行った日のことを思い出した。どういう話だったかはすっかり忘れたが、ざっくり関係性が大事だと述べたバトラーに対して、「それは突き詰めると全体主義なのでは」という質問が出ていたことを当日の私が報告している。

大意として「お前の立場は、突き詰めると全体主義/西洋中心主義/男性中心主義/レイシズム/etc.なのではないか」というケチのつけ方は、まったく面白くないのに、言う側も言われて答える側もようやるわと、いまだからこそ思う。表象文化論研究室では(まぁ似たような人文系の研究室ならおそらくどこでも)、本当に些細なディテールを捕まえてそういうことを言う人にわんさか出会える。私もなんかしらで言われたことがあるし、白状すると、ろくに勉強しないうちにリベラル風の批判フレーズだけ身につけはじめた頃の私も言ったことがある。

もうちょっと棘をおさえて「あなたの立場は、政治的・倫理的によろしくない方向へ向かっているのではないか」と言われたとしても、どう答えるのが正解なのかわかったもんじゃない。「政治的・倫理的な方向性は目下の関心の埒外なのだ」というのが常に本音なのだが、それで納得してもらえる可能性は低い。質問者は哲学にせよなんにせよ、なんらかの立場を取ることは常に政治と倫理の問題だと前提しているはずだからだ(言うまでもなく、こんな前提はあほらしい)。

「いいえ、政治的・倫理的によろしくなくないですよ」と返す準備ができている人は、たいていの場合理屈として用意ができているというより、修辞的に話をそらす用意ができていることが多いのだとも思う。そりゃたいていの考え方は、突き詰めれば(極端化すれば)なんらか政治的・倫理的によろしくないものになると考えるほうが当たり前であって、ビシッとよろしくなさを消去できる理屈なんてふつうはないからだ。

いっそのこと「突き詰めたらどうなるかという仮定の質問には答えられない」とでも言いたくなる。ともあれ、それで政治的・倫理的に無責任だと評価してくるような人は、上のような面白くない質問をする時点ですでにあなたのことをそう評価している見込みが高いので、失うものはほとんどない。

2022/09/09

疱疹跡がヒリヒリしてかゆいぐらいで、もう痛み止めなしでも人間生活ができる程度に回復してきた。油断せず薬を飲みきれば、来週には平常運転に戻れるだろう。ここ2週間はなかなかハードだったが、たいして熱が出なかったのがせめてもの救いだろう。そういう意味では、コロナワクチンの副作用よりは一人でもギリギリ対処できる苦しみだったわけだ。

帯状疱疹で調べると、これが増加しているのはコロナワクチンのせいなのだ、という言説にたくさん出会う。ワクチンのせいで免疫がバグって帯状疱疹が出てくる、という説明はまぁもっともらしい(つまり、なるほどそうなのかと直観的にすとんと落ちる説明になっている)。私はそこに因果関係があるともないとも判断できる立場にはいないので、専門家に究明をがんばってもらうしかない。

仮にワクチンと帯状疱疹に因果的関係があるとしても、その場合には、コロナ感染と帯状疱疹にも因果的関係がある見込みが高いだろうから、反ワクチン派の主張がサポートされるわけではない。どっちに転んでもリスクしかないのなら、そのときそのときの苦しみを引き受けるしかないだろう。今回この病気にかかって、改めて身体はクソだなと実感した。

2022/09/08

とりわけ日本人はレビューですぐ低評価をつけがちなのかどうかは知らないが、そもそもチャリティとして発表されている情報なりコンテンツに対して、「もっとこうしてくれなきゃダメだろ」というコメントを書いてしまう人は、〈そもそもチャリティとして発表されている〉という部分を十分に理解できていないのだと思う。具体的には、個人ブログでまとめられているゲームの攻略情報なんかに対し、「そのまとめ方じゃ見づらい(俺のためにもっと見やすくしろ)」といった趣旨のコメントをしてしまうケースだ。対価として得たサービスがなってないので苦言を呈するという、場合によってはもっともな態度がスライドして、ろくに対価もなく得ているサービスに対しても文句を言ってしまうのだろう。批評的態度のバグだ。

こういう、コストリターンで考えたらコストがほぼないので常にプラスなのだが、それだけ見たら出来が悪いものに対して、われわれは批評家になる権利があるのかという問題はありそうだ(美的というよりは倫理的だろうが)。浮浪者は炊き出しの味に文句を言えるのか、フリーゲームを酷評する権利はあるのか。実際には、チャリティのように見えてこちらが間接的にコスト(税金とか広告費)を払っているケースもあるだろうから、難しそうではある。

2022/09/07

セブンイレブンの「たんぱく質が摂れるグリルチキン弁当」というのを初めて食べたが、なんとも味が薄いのと、やけに米が少ないのとで、機内食みがすごかった。beef or chickenのチキン。機内食っぽいものを食べたいときにおすすめだが、¥600ぐらいするのはかなり割高だ。

2022/09/06

楽園のイメージといえば、草原にぽつんと木があって、鳥がさえずって、太陽がさんさんと照っているというのが相場だろうが、虫多そうだし、芝生がじょりじょりしそうだし、日陰少なくて嫌だなぁといつも思っている。天国があるとしたら、そして死後永遠の時間をそこで過ごすのだとしたら、美術館みたいに天井の高いコンクリ打ちっぱなしのモダンな空間であってほしい。近くに海があったらなおよし。地中美術館とか完璧だったので、あそこに座り心地のいいソファでも置いてもらって、私の死後行き着く場所ということにしてほしい。

2022/09/05

ということで帯状疱疹だったので、抗ウィルス剤を飲んでおとなしくしている。

闘病日記を書くのにも飽きたので、informativeなことを書こう。いまは博論の第二章を書いており(一章は書いていない)、毎日のようにWalton (1970)とにらめっこをしている。Laetz (2010)が強調していた、「知覚的に区別可能なカテゴリー」に関しても考えが固まってきたので、書いていることを小出ししていこう。

ウォルトンのカテゴリー論は、心理学的テーゼ=「美的にどう見えるかは、どういうカテゴリー(およびその標準的/可変的/反標準的特徴)を踏まえるかに左右されるよね」という、わりと直観的なテーゼから始まる。ミステリアスなのは、その準備として、まずは知覚的に区別可能なカテゴリーと、それにとっての標準的/可変的/反標準的特徴」というのを導入している点だ。ここには「media, genre, styles, forms, and so forth」が含まれ、具体的には「絵画、キュビスムの絵画、ゴシック建築、古典主義的ソナタ、セザンヌの様式の絵画、後期ベートーヴェンの様式の音楽など」が含まれる。定義は「ある作品がそのカテゴリーに属するかどうかは、ただ、その作品が通常の仕方で経験されたときにその作品のうちに知覚されうる特徴のみによって決まる」⇔知覚的に区別可能なカテゴリー、として与えられている。見たり聴いたりするだけで、それに属していると分かるようなカテゴリー、というわけだ。

「セザンヌ作品」「贋作」など、出自に関する歴史的事実がメンバーシップにからむようなカテゴリーは、この限定によって排除している。問題は、ちょっと考えれば分かりそうなものだが、media, genre, styles, forms, and so forth」のなかにも知覚的に区別可能とは限らないものがわんさかあることだ。ウォルトンが例に挙げている「絵画」も、つねに目で見るだけで絵画だと分かるとは限らない。アート&ランゲージによる《絵画/彫刻》(1968)は、ふたつのまったく同じ見た目を持つ灰色の直方体が、キャプションひとつでメディアを左右される(一方は絵画であり、一方は彫刻である)という文脈依存性を暴露している。「セザンヌ作品」を回避して、知覚的に区別可能な「セザンヌ様式」に撤退したのと同じように、ウォルトンは「絵画」ではなく「絵画風[painting-style]」「絵画っぽいもの[apparent painting]」へと撤退せざるをえない。実際、ウォルトンは製造工程という知覚的に確認できない事実がからむ「エッチング」から、そうではない「エッチング風」へと撤退することを選んでいる。スーパーリアリズムは「写真風」の「絵画」であり、フォトレアリスムは「絵画風」の「写真」だが、ウォルトンはそれぞれ前者のほうのカテゴリーを問題にし、後者は問題にしないことを選んでいるのだ(この例はウォルトンが挙げたものではないが)。

この限定が論文の最後まで通底し、ウォルトンを形式主義に対して譲歩的な立場にしている、というのがリーツの解釈だ。この限定は解除して差し支えないし、解除すべき独立した理由がある、というのがDavies (2020)の解釈で、私もデイヴィスに同意している。私が持っている理由は複数あるが、ここではそのひとつを紹介しよう。

知覚的に区別可能なカテゴリー」のいち解釈として、先日書いた「芸術のメタカテゴリー」にからめて私が主張したいのは、そういうカテゴリーがあるというウォルトンの説明はきわめてミスリードであり、より正確には(結構多いだろうがすべてではない)一部のカテゴリーにそういう用法がある、ということだ。ある作品に対して、私は実際にセザンヌによって作られたかどうかを気にせず、セザンヌ様式だなぁと判断できるし、実際に印象派展に出展されていたかを気にせず、印象派様式だなぁと判断することができる。これらは、私の説明では「セザンヌ作品」「印象派」というカテゴリーを、プロフィール用法ではなく様式用法ないし形式用法で用いている例に相当する。ウォルトンに反して、「セザンヌ作品」「印象派」とは別に「セザンヌ様式」「印象派」のようなカテゴリーがあるのではなく、前者たちに出自を問題としないような、偏った用法があるのだ。問題としているカテゴリーは同じなのである。これはウォルトンとしても望ましいことだろう。

カテゴリーの様式用法と形式用法の共通点は、どちらも作品に備わっている性質だけに基づいて「この作品はCだ」というような分類的判断をくだすケースをカバーしている点だ。このうち、ウォルトンの意図により近いのは、非美的な性質の所有を問題とする形式用法だろう。筆触分割を用いているから「印象派だ」、というのは形式用法で「印象派」カテゴリーを用いている。しかし、私が思うに、ウォルトンは意図せず美的な性質の所有を問題とする様式用法の例も念頭に置いてしまっている。全体的な雰囲気が「印象派だ」というのは、筆触分割のような個々の非美的性質があることの指摘にとどまらない。それはそれ自体として、「印象派っぽさ」という美的性質を持つことの指摘なのだ。実際、ウォルトンはカテゴリーの知覚が美的性質の知覚と同様にゲシュタルト的であり、全体の絶妙な絡み合いの知覚に基づくと言っている。美的性質を知覚する準備としてカテゴリーの知覚を取り上げたものの、その一部の内実はそもそも美的性質の知覚である、というのが私の解釈だ。

おそらく、このことはウォルトンの枠組みにとって、そんなには不都合ではない。しかし、いくつかの説明は改められなければならない。「知覚的に区別可能なカテゴリー」に話を限定した時点で、ウォルトンにおけるカテゴリーの知覚は、作品のうちに非美的性質のセットないしそれらに基づいて創発した美的性質があることの知覚と、交換可能なものとなる。カテゴリー知覚はカテゴリー知覚でも、あるカテゴリーの形式的側面ないし様式的側面だけを知覚しているのだ。ここから、標準的/可変的/反標準的の重み付けがなされたテンプレート上に作品の性質を位置づけ、さらなる美的性質を出力することが、プロパーな美的知覚になる。のだが、ここで召喚されている標準的/可変的/反標準的のテンプレートは、「知覚的に区別可能なカテゴリー」として知覚された単なる性質を超えた、規範的なものである。私の用語法では、ここに至ってカテゴリーは一種のジャンル用法として新たに用いられている。

私の考えでは、形式や様式としてあるカテゴリーを同定する能力と、そのカテゴリーの規範を踏まえて知覚を行う能力(それをジャンルとみなす能力)は、ひとまず別物である。あるカテゴリーを知覚することと、あるカテゴリーのもとで/を踏まえて/として知覚することは、別問題なのである。悩ましいことに、おそらくウォルトン自身はこの区別にほとんど気がついておらず、知覚の訓練を問題にしている場面でも混同してしまっている。しかし、「芸術のカテゴリー」を結論部まで読むと、ウォルトンにおいてとりわけ重要なのは、後者の「カテゴリーのもとで知覚する」ことだと分かる。これは、「知覚的に区別可能なカテゴリー」という限定を、(仮にウォルトンが外したがらないとして)最終的には解除しても差し支えない、独立した理由になっていると考えている。知覚的に区別可能でないカテゴリーに関しても、教えられたりして同定し、それをひとつのジャンルとして踏まえて美的性質を知覚する、という議論は問題なく通るからだ。私は、モノだけ出されてもどれがレディメイドなのかは分からないが、ひとたび教えてもらえれば、どういう規範のもとで知覚すればいいのかは分かる。こうすれば、よくある文脈主義者の主張にまとまるというものだ。

上の引用でもお借りしている森さん訳の「芸術のカテゴリー」は最近バージョンアップされたので、まだ未読の方にはおすすめだ。

2022/09/04

病気(翌日、やはり帯状疱疹だと診断される)で元気がないのをいいことに、土日はずっとゲームをやっていた。『ファイナルファンタジー・クリスタルクロニクル』。小学生のころはなんて難しいアクションゲームなんだと思っていたが、この年になってみると大半は作業だ。ヒットアンドアウェイで適時ケアルを振っている限り、ゲームオーバーになることはまずない。小学生の頃に苦戦していた印象があるのは、コンテンツのレベルで結構シリアスな話が続き、でかいモンスターに襲われたり大勢に囲まれたりといった精神的プレッシャーによるものだろう。でかかろうが大勢だろうがやることは変わらない、というのは今だからこそ思える。

ラスボス含めてあまり難しいゲームではないのだが、コナル・クルハ湿原のドラゴンゾンビ戦だけは例外だ。脇に控えるストーンサハギン×2があほみたいに硬く、針で氷結されて動けない間にドラゴンゾンビから遠距離攻撃をかまされるので、気を抜くとすぐにハメ殺しされる。勝利するためには、逃げつつタイミングを見計らってサハギンにグラビデを打ち込み、すきあらば回復し、サハギンを処理できたらホーリーでドラゴンゾンビを実体化させてしばき、サハギンが復活したら最初から同じことを繰り返す、ということでかなり集中力がいる。そういえば足場が狭いのもあって、モンハン2ndGのヤマツカミ戦とはゲームのメカニクスがわりと似ていることに気がついた。あれも苦手だった。

2022/09/03

ヘルペスに似たプツプツが首から耳にかけて出現してきたので、やっぱり帯状疱疹な気がする。リンパ腺まわりが、親知らず抜いたときぐらい腫れている。何年か前に手足口病という赤ん坊の病気にかかったが、帯状疱疹なのだとしたら今度はおじいおばあの病気にかかったことになる。私はいったい何歳なのだろうか。

2022/09/02

しばらくは闘病日記になりそうだ。

頭痛は慣れつつあるが、リンパ腺の腫れがかなりしんどめなので、耳鼻咽喉科にやってきた。症状は帯状疱疹っぽいが、断定できないといった感じで、とりあえず抗生物質と痛み止めで様子を見ることになった。検査の一工程として鼻から喉へとファイバーを突っ込まれたのがそこそこ苦しかったが、大人なので文句は言わなかった。

ロキソニンは偉大で、効いている間は人間生活ができるため、Debates in Aesthetics論文のもろもろを返信対応した。長らくお待たせしたがぼちぼち出版らしい。こう、書いてから1年も経つと、加筆したいところだらけになるので悩ましい。

2022/09/01

体調がかんばしくない。例の神経痛がしつこいのに加え、同じ左側のリンパ腺が3箇所も腫れだした。吐き気とめまいがあり、やたらと汗をかく。とりあえず冷やしてみたのが不正解だったのかもしれない。安易な解決を求めて、ソルティライチ、野菜ジュース2種、キレートレモンを買ってきたが、どうにもならなかったら明日病院に行こうと思う。

グロッキーにもかかわらず栄養補給を怠っているのか、これがすでに食欲のなさの現れなのか定かではないが、今日はパンばかり食べた。トラスパレンテのクレーマ(「酸味とコクのあるクリームがたっぷり入ったデニッシュ」)はほんとうに美味い。

2022/08/31

先日無印で買った人感センサーライトが、そこそこいい仕事をしている。トイレに設置しているが、夜中に行くときに照明の眩しさでウッとならずに済む。どういう原理か分からないが、普通に照明をつけているときには人を感じてもつかない(きっと、私の想像力が足りないだけで、ごくごく単純な原理なのだろう)。

2022/08/30

連載コンテンツに対する「考察」「解釈」が、内実として、作者のまだ開示していない情報に関する予想に過ぎないのだとしたらつまらないだろう。当たっていようが外れていようが、だからなんだとしか思わない。しかしこう、物語コンテンツがどれもこれも謎・伏線・ダークな世界観の側に傾いていっているなか、情報を握っている作者が特権化されていく流れがあるのは分かる。新しい話が出るたびに答え合わせのように読まれていくのはしょうもないだろう、と思うばかりだ。

その一方で、キャラクターが物語から切り離されて消費される動向もきしょいと思うので、総じて、私は現代のフィクション文化に向いていないのだろう。

2022/08/29

ここ数日頭痛が続いているが、調べたところ神経痛が一番症状に近いようだ。数分おきにつむじあたりをグサッとされるような痛みがあり、周辺は髪に触っただけで頭皮に同程度の痛みが走る。首の左側がずっと寝違えたような感じで張っており、喉の左側もものを飲み込むときに違和感がある。もっぱら、悪い姿勢でずっと座っているせいらしい。心当たりがありすぎる。

たしかにこれなのだとすれば、1週間ほどで自然に治るらしい。そうだと助かるし、そうでなければ困る。

2022/08/28

Sauchelli (2013)の機能美の論文を読み返していて、彼がウォルトンのカテゴリー論を要は期待の認知的侵入だとまとめている箇所を思い出した。ウォルトンを認知的侵入として読んでいるものとしては、Stokes (2014)のほうが有名だろう。ところが、ウォルトン自身は自分の理論が認知的侵入ではないと後に明言している。Ransom (2020)のまとめのほうが正確で、あるカテゴリーとして見ることが知覚学習を経て体制化されるという枠組みらしい。ここでは、信念レベルのものは絡んでおらず、一貫して知覚の水準でカテゴリー知覚・カテゴリーとして知覚が展開される。

そこで、「期待」は定義上認知的なものでなければならないのか、無意識で非認知的なやつもありなのか、というのが気になった。音楽鑑賞における期待なんかは、むしろ無意識的で非認知的なものがなような印象がある(ほとんど読んでいないので適当な印象だ)。知覚的体制化を経た人が、ある種の特徴を見て別のある種の特徴を無意識に期待し、それが満たされたり裏切られることで感情的な反応を返す、というのは全体としてふつうに「期待」の働きなように思われる。だとすれば、Sauchelliがそれを認知的侵入のモデルでしか使えないと考えたのが誤りで、ウォルトンのカテゴリー論を要は期待なのだという主張を維持しつつ、知覚学習のモデルでも使えるのではないか。

2022/08/27

ユーロスペースで『みんなのヴァカンス』を見て、オンラインQ&Aを聞いた。映画はいつものギヨーム・ブラックといった感じで無難に良かったが、Q&Aは残念なクオリティだった。ただでさえ翻訳をまたいだ意思疎通、それも観客という第三者にも内容を共有しなければならない意思疎通(@Zoom)に困難があるのに、監督も役者もたらたらと喋り、「もういいから一旦翻訳させてくれ…」とハラハラしっぱなしだった。中身も映画作りに関する一般論(e.g.「私はそのときどきの条件を活かして撮ります」)で、ギヨーム・ブラックからしか聞けないような話はなにひとつなかった。

もっとどうにかできなかったのかとは思うが、そんなもんだろうとも思う。講演的なものを長らく学会発表しか摂取していなかったせいでやけに期待してしまったが、思い返せば聞いたことのあるトークショーはたいていグダグダだったような気もする。まとまった、新規性のある話をしてくれるトークショーは、よほど準備されたトークショーなのだろう。では、人はなぜ準備されていないグダグダトークショーにまで足を運ぶのかと言うと、動いて喋る有名人を生で見たいからだろう。オンラインだとそのありがたみも薄れてくる。

2022/08/26

こうしてアッバス・キアロスタミもキャンセルされたわけだが、あらゆることを考慮に入れた上でも、『クローズ・アップ』のような名作が上映機会を失っていくのは、とても耐え難いことだと思ってしまう。それは、作者がどれだけ倫理的に極悪だとしても、美的に重要なものなのだ。他方で、配給も商売としてやっているので、リスクヘッジとして「やめておく」のも頷ける。じゃあもう今後は聖人君子の作ったものしか鑑賞できないのか、という極論も気持ちは分かる。倫理的に許しがたい人間の作ったものが公的に宣伝され、受容され、称賛されることが許しがたい、というのも分かる。キャンセルしろ派もするな派も気持ちは分かるからこそ、どうすればいいのかはさっぱり分からない。キャンセルカルチャーというのはもはや乗らざるをえないバスだが、どこに連れて行かれるのか分からなくて不安、というのが唯一の正常な認知だとすら思っている。

民間形式主義も今回ばかりは元気がないが、キアロスタミを見る層は相対的にリベラルが多く、ポジション的にこういった件を許容しがたい、というのが少なからずあるだろう。なぜ人は民間形式主義に走るのか長らく謎だったが、キャンセルカルチャーに対する心理的自衛というのはひとつ理にかなった説明だと思う。

2022/08/25

ウォルトンとキャロルはどちらもカテゴリーが大事だという話をしているが、話の水準はけっこう異なる。ウォルトンは美的性質を知覚するレベルの話をしており、現象学的経験や認知的判断といった後期のレベルは問題にしていない。一方、キャロルは批評という、かなり後期に形成される表象の正誤を問題にしている。私の印象では、キャロルはこの「考える」レベルをかなり重要視する論者だ。一般的に、意図や文脈が大事だと言われがちなのは、キャロルのような後期レベル(判断とか批評)だろう。対してウォルトンは、シブリー以来のやり方を引き継いで、かなりニッチな「美的知覚」の話にフォーカスしている。これはまったく「考える」レベルではない。

ややこしいのは、シブリーやウォルトンも「美的判断」の語を用いている点だ。今日のわれわれにとっては、「美的知覚」の話をしていると言ってもらったほうがよっぽど分かりやすいのだが、おそらくはカント由来の伝統が用語をややこしくしている。美しいものの判断は推論によらないというのが大前提なので、「美的判断」といっても論理的判断のニュアンスは「判断」から解除される、ということなのかもしれない。ということで、知覚し、なんらかの現象学的経験を抱くことを、単に「判断」と呼んでいるように思われる。キャロルら現代の論者は、「判断」ということで知覚よりもずっと後ろの認知的な話をしがちだが、このカント的伝統に忠実な論者からすれば、それはもう美的なもの話ではない、とすら言われるかもしれない。

源河さんの本を読んでいて思ったが、知覚と判断の境界線は最終的に取り払われるとしても、出発点として用意しておいたほうがいい。でないと、ウォルトンとキャロルみたいに似て非なる話をしている場面で、存在しない対立点を見出してしまう恐れがある。

2022/08/24

一人暮らし7年目にして、ついに掃除機を手に入れた。アイリスオーヤマのコードレスのやつ。手軽さと効率が違いすぎて、これぞテクノロジー革命だ。クイックルワイパーとコロコロで事足りると言っていた連中は嘘つきだったわけだ。

2022/08/23

Staff Diffusionやらmidjourneyがあれこれすごくて、新時代到来のごとく騒がれているが、どれだけ実用性があるのか明らかでない段階から「テクノロジーに対する肉体の完敗」がポルノのごとく消費されていて、気味の悪さがある。イラストレーターは廃業だ、みたいに結論を急ぐのがみんな好きなんだなぁ。私としては、写真の認知的価値がさらに落ちるなぁ、というのと、いらすとやにない図をぱっと用意できたら便利だろうなぁ、と思う程度だ。

2022/08/22

フェスを声出しなしでやりましょうというのがそもそも馬鹿げているので、ロックな俺たちが風穴を空けてやるぜ、という態度は、後半はともかく前半はよく分かる。叫び、ぶつかり、汗を流すことがその楽しみの要点なのだとすれば、声出し無しのフェスなどというのはつまるところ、リモート飲み会とかリモート修学旅行のような痛々しいその場しのぎの類なのだ。

旧来の、すでに困難となった楽しみに関して、現在のわれわれが採りうるオプションはおおきく三つだ。①危険を顧みず旧来の仕方で楽しむ、②対策しつつ新たな形式で楽しむ、③楽しむのを諦める(別の楽しみを探す)。問題は、現状多くの場面で選択されるのが②であるにもかかわらず、当の「新たな形式」がまったく楽しくなく、本質を失っている点にある。また、その場しのぎや妥協にはどうしてもみじめさがある。そのみじめさを自覚することなく、これは依然として楽しいものだ、というのはどこか自己欺瞞のように響く。

実際、②ではいたたまれないので開き直るか諦めるかという点では①も③も同じだ。だからこそ、私は①な人の選択には決して共感しないが、動機には共感してしまう。あれもこれも諦めるばかりではやるせない、というのも分かる。どうすればいいのかは分からない。

2022/08/21

やっぱ「邦ロック」聴いても音楽聴いたことにならなくない?」は、中身はともかく釣りとして秀逸なタイトルだ。「邦ロックなんてレベルの低い音楽をまだ聞いてんの?」という話では必ずしもないのだが、ろくに読まない人、またはカテゴリーへの愛が強すぎる人はそう読み取ってしまうのだろう。

著者の主張は、①サマソニでの邦ロック勢(具体的にはKing Gnuとホルモン)の言動は感じが悪い、②彼らの言動は音楽としてダメ、③一般的に、邦ロックは音楽としてダメ、という観察→評価→一般化の形式を取っている。社会性が欠如しており、無意識に差別的で、いわば「意識が低い」ことが問題となっており、そういう意識の低いケースとして今回のキングヌーとホルモンが批判に値する、という部分まではある程度同意が得られるとは思う。「邦ロック界隈には意識の低い人もいる」というわけだ。

しかし、この主張を一般化していく前提として、「ポップ音楽聴いた結果できあがるのは、差別や表現や人間関係、社会について考えを巡らせた人物なのだ。逆にいえば、ポップ音楽を聴いた結果、社会への無関心や差別を表明する人がいるのだとすれば、その人は音楽を聴いていない、大事な何かを聴き逃している、ということになる」というのは論点先取であり、実際ほとんど同意を得られていないようだ。むしろ、「ポップ音楽とは政治社会とは切り離され、イケてればそれでいい」という民間形式主義があるなかで、反直観的なことを言ってしまっている。もちろん、そういう民間形式主義が健全かは別問題だ。

また、例を探せば探すほど、「①邦ロック界隈には意識の低い人もいる」「②邦ロック界隈には意識の高い人もいる」「③洋ロック界隈には意識の低い人もいる」「④洋ロック界隈には意識の高い人もいる」のいずれをも支持する言動がいくらでも見つかるはずなので、ことさらに①と④を強調しても説得的ではない。チャリタブルに読めば、「①邦ロック界隈には意識の低い人もいる」、それも洋ロック界隈に比べてそういうダメな人が比較的多い、と言いたいのだろう。実際そうなのかは体感としてよく分からないが、そういうこともありうるとは思う。

という風に、煽りや誇張なしに穏当な主張にまで切り詰めたら、ブログ記事としてはここまで伸びることはなかっただろう。

2022/08/20

八丈島4日目、最終日。荷造りをし、バスの時間まで古民家喫茶を再訪した。アイスコーヒーに塩キャラメルプリンをつまみながら、なかなか落ちない蚊取り線香を観察する。お昼はポケットという洋食屋で、ハンバーガーを食べる。テイクアウトだけで営業中なのを知らなかったが、こちらの様子を見て二階のテラス席を貸してくれた。

空港まで徒歩で移動し、昼過ぎの便に乗って羽田に戻る。がーっと帰宅し、一休みしてから中目黒に出て三宝亭の麻婆麺を食べた。文句なしにうまかったが、しっかり辛めで、水をがぶ飲みしていたら胃袋がかなりぱつんぱつんになった。小雨のなか、ふらふらしながらカフェ・ファソンに移動。さすがにうますぎるカフェオレグラッセと月心(いい感じの甘いコーヒーに練乳をのせたもの)をたしなむ。今年の秋は喫茶店巡りして、こういう小洒落たコーヒーを飲みまくろう、という決意を固めた。

歩いて帰宅しシャワーを浴びたら、もう睡眠欲以外の欲がなくなったので、寝た。

2022/08/19

八丈島3日目。天気にも恵まれ、八丈富士に登る。ペーパードライバー×2なので、登山口までどう登ったものか悩ましいところだったが、ふつうにタクシーを配車できた。山腹のふれあい牧場では牛たちとふれあった。牛しかいない。でかくてモウモウゆうてる。そろそろ登山するかと引き返していたら、前方から逃げ出した(?)牛が接近してきて、飼育員も「逃げてください!」と叫び、バタバタする一幕があった。都会じゃあまりしない経験だ。

登山口から、いざ山頂を目指して登り始める。1280段、約1時間ひた登る。文系院生のデスクチェア哲学者にはとても対応できない運動量で、ところどころ休みながら満身創痍でたどり着く。文系院生のデスクチェア哲学者ではない恋人は、まぁ疲れるね、という手応えだった。火口は二重火山になっていて、ほんのり霧がかっていたのもあり、さすがにこの旅一番の景観だった。ぐるっと一周回るお鉢めぐりコース(所要時間1時間)もあったが、脚がプルプルだったのでやめておいた。開けた感じの草地は、ドライヤー『奇跡』の名シーンを真似て写真を撮るのに最適だったが、疲れのため頭が回らなかった。道中も山頂もカナブンが大量にいておぞましい。この島のカナブンは活きが良く、ブンブンと飛び交っている。下りはさすがにeasierで、ふれあい牧場でポカリスエットをがぶ飲みした後、タクシーを呼んで下山した。

遅めの昼食は、一休庵でうどんを食べる。たぬきうどんは、鰹節たっぷりのつゆが美味しかった。特産品らしい明日葉は、天ぷらにすると癖のないしそといった感じで、いくらでも食べられる。土産屋でお酒を買った後、ジャージーカフェでソフトクリームを食べた。バスに乗ってガーデン荘に戻る。

古民家喫茶でベーグルとチャイをいただいてもまだ17時だったので、海岸沿いにある裏見ヶ滝温泉&やすらぎの湯まで歩いていった。前者は水着着用の混浴露天風呂で、湯はぬるめ。人は少なかったが、海辺によくいるゴキブリとダンゴムシのハーフみたいなやつがもりもりいて、早めに退散した。後者は温泉というか銭湯みたいな、小綺麗な風呂だった。湯の温度は平均的で、ここだけ海水ではなく真水だった。懲りずに足湯を経由した後、丘を登って宿に戻る。疲れは溜まっていたが、八丈富士でメンタルを鍛えられたので、初日ほどは苦労しなかった。

夕飯は天ぷらとハンバーグが出た。この日は若い男友達二人組が泊まっていた。部屋で金曜ロードショーのトトロを見て、就寝。

2022/08/18

八丈島2日目。底土海水浴場にやってきた。バスを降りた瞬間に畳み掛けるような豪雨が始まり、以後ふったりやんだりに悩まされる。海の家に停まっているカフェスタンドで、チャイとナチョスをいただいた。大雨のなか、恋人はダイビングをしに行った(私は泳げない)ので、私は海岸沿いを2時間ぷらぷらすることになった。この日は木曜日だったが、八丈島は定休の店がかなり多い。海の写真を撮ったり、ヤドカリを観察したり、ぜんぜん誰もいないので歌を歌いながら散歩して1時間つぶし、残りは屋根のあるところで本を読んでいた。底土は砂浜も黒い砂なので、晴れていたとしてどれだけ映えるのかは定かではない。

なんだかんだダイビングを堪能し、ウミガメにも会えた恋人と合流、歩いてバス停まで向かう。道中はさびれたリゾート地といった趣で、ヤシの木沿いにでかい廃ホテルがあった。バス停近くのパン屋でカレーパンとクリームパンを食べた。

島の東エリアにやって来た。名古(なご)の展望台は、小雨になっていたのもあり、なかなかの景観だった。みはらし台よりも、手前のほうが開けていてよかった。およそ人が歩くことを想定していなさそうな車道をひた歩き、みはらしの湯へ向かう。海を一望できる露天風呂があり、途中からはほぼ貸切状態だったのでかなりよかった。内湯があつあつ。

ガーデン荘に戻り、夕飯。2日目は夫婦と、原付一人旅の兄ちゃんが泊まっていた。メインはとんかつで、肉を欲していたところだったのでうまかった。部屋に戻り、寝る。

2022/08/17

8/17から8/20まで恋人と観光で八丈島に行ってきた。

1日目。羽田でケバブプレートを食べてから搭乗。親戚にパシられ、空港でも機内でも羽生くんグッズを買う。

八丈島空港から八丈植物公園まで歩く。温室で諸植物を鑑賞し、ビジターセンターでソフトクリームを食べ、キョンという小型の鹿を見た。キョンはつるつるしていてかわいかったが、千葉では害獣として近隣住民を悩ませているらしい。あと、うまいらしい。

気合いを入れて八上一周道路まで降り、バスに乗る。バスは、温泉とセットのパスが発行されており、全日それを利用した。泊まったのはガーデン荘という気さくなばあちゃんがやっている民宿で、島の南側にある。チェックイン、荷解きし、手頃なバスで引き返し、ふれあいの湯へ。このバスの時間というのがなかなかの曲者で、一日に数本しかないのを上り下りチェックしつつスケジュールを調整するのが、私の主な担当となった。ふれあいの湯は露天風呂が混んでおり、さっさと洗って出たのであまり覚えていない。

バスで宿に戻り、夕飯。夜はいつも多めに出たので、フードファイトしてばかりの旅だった。夕飯は食堂でみんなで食べるスタイルで、ばあちゃんが焼酎片手に島の豆知識などを語ってくれる。初日はスナックをやっている泥酔ママさんと、付き合って2ヶ月という同年代のカップルが来ていた。島焼酎は飲み放題で、初日は2杯ほどいただいた。昔は焼酎好きだったが、今はそうでもないので、二日目以降はコンビニで買ったビールを飲んだ。食事は、島寿司というのが出たが、私は刺し身のほうが好みだった。刺し身は毎日出たのでお得だ。

夜な夜な繰り出して、近くの足湯へ向かう。この足湯、歩いて15分程度のところにあり、夜21時までやっているので通いつめようと思っていたのだが、高低差100m強下った先の海岸にあるので、帰りがたいそうしんどかった(翌々日のしんどさに比べたら物の数に入らないのだが)。足湯は夜中で景観もなにもなかったが、完全な闇を前にして入るのも悪くはなかった。宿に戻り、就寝。

2022/08/16

卒業研究やりたくないんだが、大学の教授は勘違いを改めろ」は、表現の乱暴さと、接続詞の通りのわるさを除けば、前半も後半も多少は頷けることを言っていると思う。少なくとも、問題提起を無視して教養マウントをかます奴のほうがよっぽど醜悪だろう。

問題は見かけよりもシンプルで、学生からすれば、一方ではちゃんと勉強するインセンティブがなく、他方ではそれでも大学に行くインセンティブがあるのが問題なのだ。大学というのが、学問を修めたい人だけが行き、そうでない人が行く必要のない場所として成り立っていない。「こんな奴は大学に来るな」とか平気で言える者は、大学が現に就職予備校として社会に組み込まれているという事実を無視しているか見逃している。

慶應経済にいた最初の1ヶ月で、たいていの学生は履修を楽単で埋め、講義はサボれるだけサボり、出席は代返を頼み、試験は後ろの方に群れてカンニングし合う、というスタイルをよしとしていることを知り、おおいにショックを受けた。それでもって、勉学における真面目さと、就職先の良さにはほとんど相関がなかった。少なからぬ学生にとって大学生活とはそういうものでしかない、という認識から始めないことには、問題は解決しようがないだろう(解決を要する問題なのだとして)。

卒業研究はつらい。大学院に進んだ私は客観的に見て奇特なので、卒論2本をうきうきと書いたのだが、一般的に言って何万字も書いたり実験したりというのは労力のかかることだ。卒業研究が、その労力に見合うだけのスキルを養う機会になるというのも、私には誇張に聞こえる。それはたしかに大切なスキルだが、なければ生きていけないものでもないし、他では身に付けられないものでもない。私はわりとずっとこういうスタンスだが、研究というのは好きな人が好きなだけやればいいのであって、そんなに役に立つものでもないし、役に立たなければならないわけでもない。「やる気のない学生に研究室や教授の資源を割くよりもやる気のある学生に資源を使ったほうが研究室の利益や個人の幸せの観点から見ても良い」という増田に、私はかなり賛同できる。

なんだかんだ、歪んだインセンティブを学生に与えている「就職活動」が諸悪の権化に思えてきた。

2022/08/15

帰省を終え、目黒に戻ってきた。実家では3泊したが、親も犬も元気でよかった。

2022/08/14

神奈川県立美術館の葉山館でアレック・ソスを見た。ストレート写真の系譜とは聞いていたが、多くの作品はウィリアム・エグルストンと並べられたらどっちがどっちか分からないぐらい、まさにあの時代のあの感じだった。由緒正しきアメリカン・ジャーナリズムの写真家というわけだが、とりわけ人物写真に見られるデッドパンな冷たさは彼ならではの持ち味だろう。人物の立ち方や画面上での置かれ方が人工的で、作り物じみている。蝋人形っぽいな、と思っていたら実際に蝋人形の写真もあり、こちらはむしろ生身の人間っぽい撮られ方をしていた。ドキュメンタリーとフィクションの絶妙な緊張がある(書いてしまうとずいぶん安っぽいが)

1時間ぐらいで回れるサイズ感で、人も少なめだったのがよかった。葉山の海には海水浴客がたくさんいた。

2022/08/13

実家でティラミスを作ったが、生クリームというのは調子にのって混ぜすぎると、分離してボソボソになることを知った。

2022/08/12

「芸術のメタカテゴリー」を書き上げたので、次に書く論文は「芸術のサブカテゴリー」にしようと思って、読んだり考えたりしている。抽象的な性質と具体的な性質のスペシフィケーション関係についてはよく理解していなかったが、どうも次のが基本的らしい。

  • 連言を加えるスペシフィケーション[conjunct-conjunction relations]:FであるXよりも、FかつGであるYのほうがspecific。属-種関係もこれ。

  • 選言を外すスペシフィケーション[disjunction-disjunct relation]:FまたはGであるXよりも、FであるYのほうがspecific。

  • そのどちらでもない、いわゆるdeterminables / determinates関係:典型例としては、「色がある/赤い」や「赤い/緋色である」の関係。

determinables / determinatesはふつうに抽象的/具体的の言い換えだとざっくり思っていたが、ぜんぜん違った。この特殊な関係をどう理解すべきか、なにか別の関係(流行りのグラウンディングとか)で還元できないか、というのはSEPを見る限りかなり論争的みたいだ。

ある芸術ジャンルの(定義はどうにもうまくいきようがないので)大雑把な特徴づけがあったと仮定して、それとサブジャンルが取り結ぶ関係は、上のどれにもっとも近いのだろうか。前に松永さんとお話したロッツェの概念モデルもからめて、一度整理できればなと思っている。

2022/08/11

ネット論壇におけるwhataboutism(近頃の流行りは「共産主義だって…」だろう)はことごとく醜悪なのだが、よくよく考えてみると、キャロルなんかも『批評の哲学』でしょっちゅうこれをやっている。作品解釈における意図の推測は難しいとする反論者に対して、「日常生活ではふつうに意図を推測して生きているではないか」と返すし、作品の良し悪しはカテゴリー相対的に「そこだけ見れば[pro tanto]」語れるというキャロルに反論してpro tantoな一般性じゃだめだとする反論者には、「科学ではpro tantoな基準がたくさんあるではないか」で返す。

whataboutismは、要はアナロジーなので、対応付けがうまくいっているかが肝心だ。「映画を倍速で見るやつは、音楽も倍速で聞くのかよ」みたいなのは、映画を見ることと音楽を聞くことが重要な点で重なっていない限り、なにも言ったことにはならない。そして、ちゃんとした対応付けのあるアナロジーであっても、なんらかのディスアナロジーを見出すことはほとんどの場合において容易だ。「作品解釈と話者の意図推測は違う営みだろう」「芸術と科学はぜんぜん違う分野だろう」などなど。

オチはとくにない。whataboutismは良くないが、informativeかもしれないアナロジーを「whataboutismだ!」と言って黙殺するのもそれはそれで良くない、とは思う。

2022/08/10

いつの間にか失効していた運転免許証の再発行手続きをしに、鮫洲まで伺い奉り差し上げ申した。きっとまた忘れて失効するので、備忘録として書いておこう。

当方はまごうことなきペーパードライバーである。以前は住民票が神奈川にあったので、車関係は二俣川に行っていたが、今回ははじめて鮫洲に行ってきた。やむを得ない理由なしの更新し忘れで、講習だけ受ければ試験なしで再発行してもらえる6ヶ月以内だった。私のポスト管理がずさんであることは認めざるを得ないが、はがきでお知らせなどというアホらしいやり方はやめてメールしてくれ。次回も忘れること必至なので、2025年の自分に向けて予約メールを設定しておいた。

警察関係者にありがちなデフォでタメ口という態度には疑問符が浮かんだが、事前に段取りを調べておいたのもあって手際よく手続きは済んだ。①総合受付で申請書をもらう、②申請書を記入し(申請用の写真がいる)、失効手続きの窓口に提出、③別の窓口で5000円弱を支払い、なんらかのパスワード4桁を設定し、視力検査、④再度失効手続きの窓口で受け付けてもらったあと、写真ブースで撮影、⑤別室に移動して講習を受け、⑥出たところの窓口で免許証を受け取って終了。所要時間は合わせて2時間ぐらいだった。二度目の更新(をするはずだった)ので、講習は1時間で済んだ。

鮫洲の受付時間は「午前8時30分から午後2時00分まで」とあり、結局何時に行けばいいのか謎だったが、その間であればわりといつ行ってもいいみたいだ。講習は始まるまでに20〜30分ほど待機したが、それなりの頻度で開講しており、直近の回を受講できる。私は10時前に付いたが、だいぶ空いていた。また、更新よりも失効手続きのほうが若干早く受け取れる。

鮫洲は中目黒からバスで40〜50分で行けるが、帰りのバスはない。品川シーサイドから恵比寿に出て、1000円の焼肉ランチを食べ、帰宅。早起きすれば、これらをこなしても13時なので素晴らしい。

2022/08/09

東急ストアのパクチーサラダ、これまでオリーブオイルとバルサミコ酢で食べてきたが、ナンプラーと塩コショウのほうが合うことに気付いた。

Xは自然種と言えるかという議論で、①自然種は恒常的性質クラスターから理解でき、②Xは恒常的性質クラスターから理解できるので、③Xは自然種だ、というムーブをわりによく見るのだが、ボイドを読む機会がないので前提①をなかなか受け入れられない。そもそも、「Xは自然種だ」と言えてなにがうれしいのか明らかでなく、また恒常的性質クラスターから理解できることにうれしさがあるとしたら、議論は②で終わって良いのであって、「Xは自然種だ」という結論が冗長になるのではないか。

2022/08/08

自家製ティラミスというパンドラの箱を開けた。もっと手間かと思っていたが、生クリームを泡立てる工程を除けば、混ぜて冷やすだけなのでお手軽だ。生クリームは、電動の泡立て器がないので、冷凍庫で数分冷やしては混ぜ、冷やしては混ぜを繰り返してどうにかした。明日はきっと筋肉痛だろう。

2022/08/07

JAACの「Categories of Art」50周年記念号に載った、Madeleine Ransomの「Waltonian Perceptualism」を読んだ。「知覚的に区別可能なカテゴリー」という、例の悩ましいくだりについてのいち解釈を提示している。

ウォルトンは、アイデア的には文脈主義者寄りなのだが、ところどころで形式主義者に寄ったことを書いている。美的性質は推論されるのではなく知覚されると言っているし(これはシブリーを引き継いでいる)、美的性質知覚を左右するカテゴリーも、ゲシュタルトとして知覚されると論じている。詳しくはLaetz (2010)のレジュメを見てもらえればいいが、結局ウォルトンは作品を見るだけでは分からない歴史的文脈などを、自身の美的知覚論に組み込んでいない点で、従来の文脈主義とは異なるのではないか、という疑いがずっとあった。

従来の文脈主義ならば、作品の正しいカテゴリーはまず知識として持っており、これが美的知覚に認知的侵入する、という説明をするところだが、Ransomは「知覚的に区別可能なカテゴリー」という縛りを維持するために、「知覚学習」に訴える。カテゴリーは、具体的な事例との接触を通し、プロトタイプとして学習されていく。これがあるおかげで、キュビスムの絵をキュビスムとしてカテゴライズするのは、(知覚した特徴を元にした推論などではなく、)端的にカテゴライズ=知覚なのだと言える。こうして、①キュビスムだとカテゴライズする、②キュビスムとして見る、③しかじかの美的性質を見て取る、というのがいずれも「知覚」の範疇で説明されることになり、ある意味では「知覚によって知り得ない事柄は美的判断に入り込まない」という形式主義者のテーゼが維持されるのだ。ウォルトン解釈としての結論はLaetzと一緒だが、Ransomの説明のほうがクリアかつ実証的で説得的だと思う。

そういうこともありそう、というのは確かだ。問題は、知覚学習によるカテゴライズは、ウォルトンが担保しようとした美的判断の「正しさ」を担保できるほど規範的なものとなりうるか、だと思う。Ransomも認めるように、知覚学習はそもそも学習プロセスが間違っていたりすると、分類ミスを引き起こしうる。結局のところ、正しさを担保するのが意図やら歴史やら、知覚によっては知り得ない事柄なのだとすれば、ウォルトンは美的判断に関する文脈主義として位置づけたほうがより適切だろう。この場合、文脈は生の知覚を左右するというより、正しい知覚に関して決着をつけるものとなる。ウォルトンがこの水準の「美的判断」を問題にしていたのかはおおいに疑わしいが、一般的に言って、そういうことは普通にあるだろうと思う。

2022/08/06

自由が丘のTHE LAB TOKYOという小洒落た甘味処で、ティラミスを食べ、チャイを飲んだ。ガトーショコラが有名らしいが、私は選択肢にある限りティラミスを選ぶことになる。演出も含めてなかなかのものだった。

2022/08/05

期末レポートの採点をしている。みな期末の記述よりはよく書けている。

2022/08/04

Hans Maesによるインタビュー集でレヴィンソンが言っていたが、バーネット・ニューマンの有名な「芸術家にとっての美学は、鳥にとっての鳥類学のようなものだ」は、「for the birds」がそもそもイディオムとして「くだらない、どうでもいい」の意味らしい。するとニューマンは、二重の意味で美学を貶めていたことになる。これは知らなかった。

実際の文脈を踏まえるとニューマンの発言はもっと建設的なものだったらしいが、批判は批判だ。「XはYの役に立っていない」に対しては、「Xは実はYの役に立っている」か「Yの役に立つことはXにとって必要ではない」で返すことになるわけだが、前者は実情を踏まえるとどうしてもアドホックになり、後者は閉じたアカデミアへ向かっていくことになる。

ひとつありだと思う応答は、直接的には芸術家の訳には立たないが、広くアートワールドの役に立っている、というものだ。いかなる意味でもアートワールドの役に立たない美学は考えにくい(なんにせよ、「決して〜ではない」を証明することは難しい)。腰を据えて、じっくりXの本質を考えようとする分野が、Xにとって役に立たないわけがないのだ。むしろ芸術家こそ、「創作の役に立つ」ものを探して右往左往する自分をたまには反省してしかるべきではないか。よく言われていることだが、いきなりアドルノとかバタイユとかハイデガーを読もうとするのは、たいていの場合本人のためにならない。

2022/08/03

「芸術のメタカテゴリー」という論文をBJAに投げた。まだまだ詰めるところは多いのだが、どうせ査読に3ヶ月も4ヶ月もかかるのだから、とりあえず渡してご機嫌をうかがう、というのでいいのだと最近は思いつつある。根本的に内容が面白くなければ、ディテールを詰めたって仕方がないのだ。さすがにいきなりBJAは厳しいと思うが、一流誌に査読をやってもらえるなら御の字だろう。なので、コメントなしrejectというのにならないことを祈るばかりだ。

タイトルページ、カバーレターなども、見様見真似で作ってみた。メールでのやり取りがメインだったDiAはもう少しゆるめだったが、BJAはその手の書類一式を投稿サイトから提出するよう求められる。この投稿サイトがかなりしっかりしていて、査読や修正もサイト上でやり取りすることになるらしい。

2022/08/02

バイトが早上がりだったので、米を炊いて味の素の冷凍餃子を焼いた。食生活がずさんなときには、そうでないときにどうずさんでないのかなかなか思い出せない。

ちいかわに触発されて、家で水風呂をやった。さすがにサウナはないのでたかは知れているのだが、塩梅わるくなかった。クーラーが苦手なので、夏場の暑さを水風呂で乗り切るのもありかもしれない。

2022/08/01

私が高校時代にやり残したことのひとつは、学食から野球部を追い出すことだった。われわれが高校に進学した年あたりに、本校舎からやたら遠い旧学食がなくなり、「カフェテリア」という鼻につく名称の新施設ができた。それは、ただでさえ生徒数に対してあまりにも座席が少ないしょっぱい施設だったのだが、その1/5だか1/4だかを、常に野球部員が占めていた。しかも、連中はほとんど全員が学食ではなく、弁当を持ち込んで食べていたのだ。野球部より早く着いたとしても、ふだん野球部が陣取っているスペースには座らない、というのが校内の暗黙のルールとなっていた。バカバカしいし、本当に不当だ。特段、野球部が強い学校ではぜんぜんまったくない。

野球部のなかにはまともな奴もいた(「〜もいた」に過ぎない)のだが、諸悪の権化は顧問だ。「チームの団結力を高める」という名目で毎日学食に全部員を集め、われわれを故郷なきユダヤの民に仕立て上げたのはそいつだ。半グレ風のいかつい小男で、学食では常に必ず女子マネージャーたちを左右に侍らせ座っていた。体育会系の生徒が威圧的なのは、自分らが普段顧問にしごかれている腹いせだ、というのはよく聞く話だが、まさにそのような生態系がうちの高校では成り立っていたのだろう。私は信頼できるあらゆる教員職員に抗議し、なんらかの改善を求めたのだが、そういうリベラルなやり方でどうにかなる相手ではなかったらしい。 一度も話したことがない人物をあれほど憎み、不幸を祈ったのはあれが最初で最後かもしれない。

2022/07/31

ズラウスキーの『コスモス』を見た。昨日の『リコリス・ピザ』が愛おしく思えてくるほど支離滅裂な映画だったのだが、ズラウスキーのようなぶっちぎれ方には毎度ながら呆れつつも最大限の賛美を送ってしまう。つまるところ、「(作者は)なにがしたいのか」という問いを気にするどころではない作品を見るのは気楽で楽しいのだ。

そんな楽しい映画を見ている最中にまたしてもやってきた、セールスマンが。今回はWi-Fiではなく不動産だ。インターホンでの開口一番「お住まいの件で参りました、入れてください」とずいぶん舐められたものだったので、用件はなんでしょうと尋ねるも、「玄関先でお話する」といって譲らない。操作ミスのふりをしてインターホン切っても(これはここまで連戦連勝だったのだが)、直後にかけ直すという胆力のあるやつだった。オートロックの内側に入れるつもりは毛頭ないため、こちらから出向いて話をどういうつもりか聞いてやることにしたが、玄関先でなければ話せないなどと意味不明な理屈をこねくり回す。ごにょごにょ言いつつも、「お住まいを売ったり買ったりすることに関して皆様にご周知して〜〜」というので言質を取れたと思い「要は勧誘ですよね」と尋ねるも、「いいえ、勧誘というか〜〜」と返してくるのは新パターンだった。なんだか知らないけど間に合っています、でゲームセット。

人に取り入るだけの愛嬌も誠実さもテクニックもなく、横柄にしていればこちらがビビって萎縮する、という態度を隠そうともしない個体だった。いい加減こんなブルシットジョブ駆逐してくれよと思うのだが、一人暮らし歴も長くなってくると、いかに手際よくセールスを断るかが一種の競技として楽しくなってきた感もある。日本語分からないふりして外国語で返すのが効果的、という情報を得たので、今度来たら中国語で対応してみようと思う。

2022/07/30

『リコリス・ピザ』を見た。80点ぐらいのよくできた映画なのだが、ポール・トーマス・アンダーソンには9兆点のものを期待してしまう。『マグノリア』も『ブギーナイツ』も『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』も身震いするほどよかった。本作は主題も画面もすごくPTAらしい分、行儀よくまとまりすぎている感がある(話はぜんぜんまとまっていないのだが)。あと、タランティーノが『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』を撮ったときにはずいぶんとテンションがあがったが、こう似たような映画を後出しされると多少は冷めるというのにも気がついた。

2022/07/29

朝から腹痛に見舞われ、ひとしきり悶えた。小学生のころから謎の腹痛が定期的にあるのだが、なに原因なのか未だに分かっていない。身体の不調は慣れでごまかしているところが多すぎて、知識がまったく形成されていない。例えば、どのような食べ物がどの程度日持ちするのかといった知識がまったくないので、知らずしらずのうちに食あたりになりまくっているのかもしれない。

午後には持ち直したので、散髪して、ラーメンを食べた。

2022/07/28

期末試験をやった。採点をしているが、事前にかなり釘刺したにもかかわらず、出典の記載がないコピペがそれなりにある。普段そんな難しい表現使わないじゃん、というのですぐにバレる。見ていると、バレないように設えた形跡すらないので、そもそもダメだというのを理解していないのだろう。


一言一句コピペしてくるのは論外として、助詞などをちょっとだけ変えるのも小細工にしかならない。コピペチェッカーか、それでなくても文単位でGoogle検索にかかれば、すぐに見つかってしまう。統語論的な配置なんかがそのままなので、これではダメだ。などと、採点しているうちに、バレないコピペ術について理解が深まった。


こちらとしては粛々と減点していくので構わないのだが、それとは別に奇妙なことに気づいた。


かなりの人数が、段落と段落の間に無意味な改行を入れているのだ(今日の日記のように)。おそらく、ウェブ記事やブログの類に慣れているため、「読みやすさ」の配慮として適時行を空けているつもりなのだろう。そういえば卒論を書いていたころ私も注意されたことがある。節の終わりに行を空けてからまとめの段落を続けていたら、「論文ではふつうこういう改行はしない」と言われて、ぜんぜんピンとこなかったのをうっすら覚えている。学部生とはそういうものなのかもしれない。

2022/07/27

非常勤の期末試験準備をしていた。ついぞ履修生の顔すら知ることはなかったが、どうにかこうにか半期終えられそうだ。コンテンツもノウハウも一通りそろったので、秋学期はもっと楽できそう。論文書こ。

生命に必要な栄養素を摂取できていない自覚があったので、とりあえず野菜ジュースとキレートレモンを飲みまくっている。結構ほんとに調子がよくなりつつあって、人体は不思議だなぁと実感する。

2022/07/26

表象の博論中間発表を聞いてきた。学会発表よりはだいぶ穏やかな雰囲気なのは、教授陣vs院生という構図上、時代的に強く出れないからか、とか考えていた。ちゃんと表象表象な研究をされている先輩たちだったので、先生方との話もおおむね噛み合っていたのだが、自分の場合にどうなるのかやはり心配はある。が、修論発表のときはそれなりにメイクセンスなやり取りができたので、なんとかなるとは思う。

噛み合っていたとは書いたが、それはやり取りの表面的なスムーズさの話であって、やり取りの中身がどう噛み合っているのか私にはなかなか理解できなかった。あまり内容を共有するわけにはいかないが、例えば、あるふわっとした概念Xに関して、よく知られている(時代なり地域なり集団)AのXではなく、BならではのXを扱う論文に対し、「そもそもAのXは無条件に前提できるのか」みたいなコメントが出ていた。ほかにも、BのXについて扱う論文に対し、「私はAこそXだと思うんですが」といったコメントもあった。問題は、そもそもXがかっちりした内包を持った概念ではなく(少なくともその場で意味が共有されているわけではなく)、どれにどう適用されるかなんて、おおよそ言ったもん勝ちだという点だ。1つ目の質問に対しては「Aの周辺文脈について再調査してみます」、2つ目の質問に対しては「そうですね、AもXかもしれません」あたりが(実際になされてもいたし)真っ当な応答になるかと思うが、そのやり取りがどれだけ執筆のヒントになるのかは不明だ。いずれにしても、書き手はBについて書きたがっているのだから。

2022/07/25

宗教の説法なり説教の動画を等速でじっくり見る信者と倍速でたくさん見る信者は、どちらが信心深いのだろう、という問いを思いついた。そういうコンテンツがあるとしての話だが、こんなご時世だしあってもおかしくないだろう。前者には敬意という美徳がありそうだが、後者は後者で勉強熱心だと言っていいのではないか。私がキリスト者だったとしたら、神父に聞いてみたくなるかもしれない。

2022/07/24

いわゆる主題論、蓮實重彦がやっていたような、特定のモチーフや身振りを「」で括って、それが作品において反復されていることを指摘する批評は、とどのつまりなにをやっているのかずっとよく分かっていない。私自身、そういう見方をすることが多いにもかかわらず、である。つまるところ、小津安二郎の映画で人物たちがしばしば「食べる」身振りを繰り返していたり、アキ・カウリスマキの映画にたびたび「犬」が出てくることを指摘したからといって、だからなんだではあるのだ。

もし、指摘されるモチーフや身振りが容易には気が付かないものなのだとすれば、記述としての認知的価値があるだろう。また、それが個別作品やある作者の作品に通底していることを指摘し、全体性や一貫性があると言うのであれば、評価したことにもなるだろう。問題は、「X」というモチーフを指摘した上で、作品とは直接的には関係のないXについてのエッセイが延々と続くような批評(?)だ。なんにせよ、目的に対して遠回りすぎるように思われるし、そういう書き手は大抵の場合目的などないのでは、とすら思ってしまう。それっぽい文章を書く、という目的を除いて。

というのは、まぁ「理屈としては」の話だ。実際、提示された批評文を読めば、ふつうに面白いことも少なくない。そういう批評も、作品の経験や理解になんらか資する点がある、という感覚はあるが、どういう理屈でそうなのかが分かっていない。私はそういう理屈として分かっていないものを分かりたいのだが、表象の映画の講義なんかで質問しても腑に落ちる回答を得られた試しはない。大抵のトピックについて言えることだが、「言葉にした途端にそれはこぼれ落ちてしまう」などと言われても私は信じない。

2022/07/23

朝から哲学若手研究者フォーラムを聞いていた。昨年は参加しなかったので二年ぶりだ。そういえば修士1年の2018年、知り合いもいなかったのにふらっと参加したのはなぜだろう。結局その年も翌年も宿泊することはなく、いつの間にかオリンピックセンターとは切り離されたイベントになってしまった。

伊藤さんの真正性の発表は、前からうかがっていたアイデアの全体像が知れてよかった。やはり、時間をかけて用意されたスライドがあるかないかで人の発表を聞くモチベーションが段違いだ。伊藤さん以外にはとくに参照があったわけではないが、なんだか言語行為論的な世界観をあちこちで感じる一日だった。最後に社会存在論の講演があったからかもしれない。倉田さん三木さんはやはり先生なだけあって、話して聞かせて分からせる技量がさすがに一段上だった。社会存在論の勉強会もやりたいな。

今年は聞きたい発表が1日目に密集していたので、明日は自分のことをやろうと思う。

2022/07/22

『チ。―地球の運動について―』のたいそうパワフルな批評を読んだ。書き手は、本作のエンターテイメント/ドラマとしての秀でた点を十二分に認めつつ、史実との齟齬が本作の目的に照らすとやはり欠陥であることを、長大な科学史語りによって示している(結果として、『チ。』に劣らないほどの科学エンタメ記事になっているのも素晴らしい)。知的探求や真理への忠誠といった『チ。』の中心的な主題を踏まえれば、史実における文脈のディテールを省いたり、「科学vs宗教」のような対立構造へと単純化するのは、たとえそれがエンターテイメントの優先なのだとしても、やはり自己矛盾だろう。筆者の論旨は明確であり、説得的である。

本批評は①『チ。』を評価するためのフレーム(作品の目的、カテゴリー)を設定し、②作品において行われていることを特定し、③その一貫性や矛盾から良し悪しを語る、というキャロル的なアプローチを採用していて、私としても馴染み深いものだった。結果として出てきた「歪で不誠実で不愉快」という結論を否定したいなら、書き手の設定しているフレームが不適切か、記述されている作品性質が正確でないかを示すほかない。その点、書き手は無理のない前提に立って、妥当な評価を導いているように思われる。

書き手も繰り返し留保しているように、上述の欠陥は『チ。』がエンターテイメント作品として抜群に面白いことと矛盾しない。むしろ、抜群に面白いからこそ、欠陥は単なる不備ではなく歪さというより深刻なものとなる。このような割り切り方を知らず、作品愛に駆動されて「フィクションは面白けりゃなんでもいいだろ」と言う人は、思いのほか見当たらなかった。6〜7万字という分量に圧倒されて、下手に退けられないのだろう。ぜんぜん関係ないが、たしかに、量には圧倒されてしかるべきだ。

2022/07/21

コロシテくん改めミャクミャク様は、何度見ても強烈なルックスだ。とても国を上げたイベントの公式キャラクターとして採用されるルックスとは思えないが、そうなったからには私の常識が古かったということなのだろう。

考えてみれば、この血みどろの肉塊に目玉をたくさんつけた生き物が「気持ち悪い」のも、文化的な刷り込みでしかない。私は知らず知らずのうちに、こういう奇形を気持ち悪がらされていたわけだ。無垢な目で見れば、色合いもポップだし、やわらかそうだし、目という親しみやすいパーツがたくさんついているし、素敵な笑顔ではないか。なので、言われているほど子供を怖がらせるようなルックスではないのかもしれない。モンスターズインクにも奇形の生物がたくさん現れるが、あれらは「かわいい」ではないか。

書いているうちに認知が調整されて、ふつうにかわいく見えてきた。公式サイトの「キャラクター展開案」なんかは、不定形であることをかなり活用できているし、こうやって使うのかという意外性がある。少なくとも、東京オリンピックのミライトワみたいな、完全に置きにいったキャラクターよりだいぶ見どころがある。

2022/07/20

大学で本を買ったついでに、院生自習室でしばらく作業していた。17時で生協がしまったあとに気づいたのだが、駒場キャンパスはどこにも自販機がない。日吉は塾生会館にあったし、なんなら校内にファミマがあった。三田も中央広場の側に自販機コーナーがあったはずだ。カピカピになりながら15分ほどあちこち探し回ったが、本当にぜんぜんなかった。一体全体どういうつもりなんだ。

と、かなり激昂していたのだが、家に帰ってからよくよく考えたら、中央のミニ生協的な売店の脇にあったのを思い出した。ふつうにあった。久しく通わないうちに、私がすっかり忘れていただけだった。

2022/07/19

セブンでケンタッキービスケットのジェネリックを売っていることを知ってしまってから、毎日1袋(2個)食べてしまっている。やってしまっている。

2022/07/18

昔から音楽を聞くときにはアートワークをかなり重視していた。ジャケットがダサいアルバムは中身がよくても、なんだか聞く気になれないのだ。Al Greenなんかはたいそういい音楽なのに、アートワークが総じてダサいので、『Call Me』ぐらいしか聞かない。一方、収録されている曲の性質とアートワークの性質に一貫性があるのはうれしい。マルチモダリティというやつなのかは分からないが、視覚的なものと聴覚的なもののハーモニーは私に大きな美的経験を与えるような気がする。

2022/07/17

先日のちゃん読でかなり学びになったのは、ある概念の定義(必要十分条件の提示)をやろうとしている議論と、それの存在論をやろうとしている議論の区別だ。前者に対してはその条件は必要じゃないとか十分じゃないといった反論が意味を成すが、後者に対してはせいぜい必要じゃないという反論しか意味をなさない。類を明らかにして、種差はさておく議論(e.g.「人間は動物である」)は、この手のものだろう。なんとなく区別はしていたが、後者のプロジェクトと存在論という語が結びついたおかげで、見通しがだいぶよくなった。「ジャンルは伝統である」が十分条件になっていない、みたいな反論は藁人形論法になってしまうので気をつけたいところ。

2022/07/16

中目黒でたいそううまい酸辣湯麺を食べた。ほんとは都立大で食べる予定だったが、目星をつけていたお店のメニューが思てた感じとやや異なり、急遽探したわりには💯なお店だった。都立大でついでに買ってきたチーズケーキもねっとり重めで美味しかったし、セブンで買ったケンタッキービスケットのジェネリックみたいなやつ(これは翌日に食べた)もうまかった。講義資料作成の進捗はまずまず。

2022/07/15

意図主義と反意図主義の論争で、互いが互いを「言語モデルに依拠していて適切ではない」と言っている、奇妙な事態についての手短な解説。

意図主義が反意図主義の言語モデルを批判するときに念頭においているのは、「意図を推測しなくても、言語的慣習で意味は定まるだろう」という慣習主義だ。具体的にはビアズリー。キャロルは、このような立場では、言語的慣習のような外部装置の存在しない芸術形式(絵画や音楽)の意味を説明できない、とする。

反意図主義が意図主義の言語モデルを批判するときに念頭においているのは、「言語表現が意図を介して意味を持つように、芸術の意味も意図次第だろう」というコミュニケーションモデルな意図主義だ。印象としては、グライスを読んでいる意図主義者がよくこういう立場をとる。ガウトは、このような立場では、芸術作品が意味を持つ多様な仕方を捉えきれない、とする。

つまり、ここではモデルとされている言語に関して、「言語の意味は慣習で決まる」「言語の意味は意図で決まる」というそもそもまったく異なる前提がある。結果、慣習だけじゃダメだという意図主義者は「言語モデルじゃダメだ」と述べ、意図だけじゃダメだという反意図主義者も「言語モデルじゃダメだ」と述べる。

2022/07/14

パフォーマンス・アートを教える回だったが、ヴィト・アコンチとかマリーナ・アブラモヴィッチのエログロな作品は、どこまで講義内でシェアしていいのか悩ましい。皮膚をフックで吊り下げる、みたいなレベルになると私も見たくないので見せないが、私にとってはセーフだが生徒にとってはNGな過激さの場合、どう判断すればいいのか分からない。なんとなく、ダミアン・ハーストのホルマリン漬けされたサメはOKで、ぶった切った牛はNGぐらいのつもりで紹介している。

2022/07/13

我ながら「あれっ?」と思ったのだが、次の瞬間にはカレー屋でばくばくとナンを食べていた。まぁ、これを白米のように食べている文化圏だってあるのだから、とりたてて奇特なことではない。ナンはいくら食べてもうまい。一昨日はバターチキンカレーとエビカレーを食べたが、今日はマトンカレーとほうれん草チキンカレーを頼んだ。

2022/07/12

「適切な」芸術鑑賞に関して私がとる立場は穏当すぎて面白みがないが、「ちゃんと調べてちゃんと見る」ことだ。調べるだけで実物を見ないのはもったいないし、なにも知らずに「ただ見る」のももったいない。

それはそうと、まったく芸術鑑賞に馴染みのない人に向けてこの楽しみや興奮を共有するには、もうちょっと工夫が必要なのかもしれない。例えばそれは「まずは自由に見て感想を言ってみよう」といった敷居下げから始まるかもしれないし、まずはアーティストの面白エピソードを紹介するところから始まるかもしれない。この「まずは」が抜け落ちて、偏見を養うのは教育上問題だが、初手から「ちゃんと調べてちゃんと見る」ことを要求するのは、あったはずの興味をしばしば削ぐことになる。「適切な芸術鑑賞」というのは、すでにアートワールドに参与している人にとってのもっとうまくやる方法であり、参与するかどうか決めあぐねている人にとってはほとんど助けにならない。なんにせよ、「やるならこうやりましょう」という話は比較的しやすく、「これをやりましょう」という話はしにくい。

ところで2022/03/17ぶりに雨のなか自転車こいで帰宅した。とんでもない大雨で、誇張なしに水中を泳いで帰ってきたも同然だ。

022/07/11

腹をすかせてから、カレー屋でばくばくとナンを食べた。血糖値スパイクで眠気がとんでもなかった。

2022/07/10

AirPods Proの故障で、Apple渋谷に行った。けっこう前からザラザラ(ときには爆音のザーーッ)というノイズがあり、さすがにやってられなくて調べたら、ある時期以前のモデルにはその不具合があるらしい。持ち込んで見てもらったところ、やはりそれらしく、無償での交換となった。Appleの販売員はみなプロフェッショナルで、茶でも勧められる勢いだった。我ながらチョロいと思うが、こう満足度の高いユーザーエクスペリエンスを提供され続ける限り、私がWindowsやAndroidに手を出すことはないだろう。

2022/07/09

駒場を散歩し、ティラミスを食べた。改めて歩いてみるとずいぶん小さなキャンパスだ。そういえば一度も降りて見たことがないが、炊事門のそばにある池は一二郎池と言うらしい。本郷の三四郎池をもじったネーミングらしいが、ずいぶん安直だ。今日も結局見ることはなかった。

2022/07/08

インターネットを見ていても、心身が疲弊するばかりの一日だった。元首相が襲撃されたことに関していろんな人がいろんなことを言っていたが、共感したり反感を覚えたりしているうちに、そうやって感情的に反応しているのが自分であって自分でないような気がしてきた。「暴力は許されない」という最低限度のモラルでさえ、私のモラルなのか私というキャラクターのモラルなのか分からなくなり、誰がなにを言ってもパフォーマンスに聞こえ、どんな映像も見世物に感じられてきたので、さすがにまずいと思い、昼過ぎには一旦ネットから離れた。「ショッキングな事件を見聞きしてつらいときには、一旦テレビやインターネットから離れて」という注意喚起ですら、“お約束”の一部なのがかなりつらかった。つらい、と言いつつ実際のところ大してつらくないのもつらかった。

隣町まで自転車で出かける。ふだんは目にも止めない八百屋が当たり前のように野菜を売っていたのを見て、多少生活を回復できたような気がする。自転車屋で、ずっと破れっぱなしだったサドルを交換してもらった。

2022/07/07

ジョン先生とミーティングをした。メタカテゴリー論の論文を見てもらっているが、ネイティヴだけあってgenreやstyleに関して向こうの自然な用法を共有してもらえるのがうれしい。反例合戦は、そもそも問題となっている事物や、その言語的な扱いに関する直観が必要なのだが、非ネイティヴだとよく分からなくなることが多い。あと、styleと様式はけっこう違うことに気づいた。

2022/07/06

選挙シーズンになると毎度思わずにはいられないが、若者の投票率を上げるための「投票ついでに美味しいごはんを食べて…」「投票用紙の質感が面白くて…」「選挙はワクワクする…」みたいな言説は、とどのつまり小細工であって、それを認めないなら欺瞞だろう。若者がそれで心惹かれると本当に思っているのだとしたら、子供扱いが過ぎる。それによって促される行為(たいていは、野党候補者への投票ということになるのだろうが)にどれだけ大義があったとしても、小細工というのはやはり格好悪いものであり、子供扱いはそこだけ取ればわるさがある。コンビニトイレの「いつもキレイにご利用いただきありがとうございます」みたいなものだ。

選挙にかかわらず美味しいごはんは食べに行けたり行けなかったりするし、投票用紙の質感の面白さはたかが知れているし、オンライン投票すらできず列に並ばされるイベントはそうワクワクはしない。釣りなのだとしても、餌が貧相すぎるだろう。

2022/07/05

人にせよ芸術作品にせよ、分類するのはダメだという言説が今も昔も根強いが、そういう人たちへの嫌がらせとしてカテゴリーを研究している部分が5%ぐらいある。habitとしてbadかどうかはともかく、分類と期待が人間の世界認識のデフォルトなのだとしたら、それとどう付き合っていくかを考えたほうが生産的だろう。思うに、重要なのは期待はずれを楽しむ余裕と適時カテゴライズし直す素直さを持つことであって、はなからなにも期待しないことではない。おそらく分類はダメ派の言いたいこととは、「あるカテゴリーに固執し、ディテールを見逃してはならない」という程度のことなので、よくよく考えてもらえればこちらとの対立点はほとんどない。とにもかくにもカテゴライズとはわるいものなので、あらゆるカテゴライズを拒め、みたいなモードを推し進めるほうがよっぽど弊害が大きいと思う。作者の死もそうだが、そうやってナイーヴなままに尖っていくムーヴに、なにか名前がないものか。

2022/07/04

先日の講義でアプロプリエーション・アートを教えながら、ポピュラーカルチャーにおけるパクリについても生徒たちの意見を聞いてきたのだが、「作風をパクるのはNGか」という問いに対して、「作者本人に許可を取ればOK。勝手に商業利用するのはNG」という線引きの人がかなり多かった。

私はあまり共感しないが、それはともかく考察ポイントはいくつかある。

  • 作風が特定の作者と結びつくことや、オリジナリティについてはナイーヴに捉えられがちで、どんなスタイルであれ寄せ集めのエクリチュールなのである意味ぜんぶパクリなのだ、みたいな芸術観はぜんぜん受け入れられていない。

  • 作者というのは、連絡して許可を取れる相手として想定されていることが多い。おそらくは念頭においている作者とは、Twitterやpixivで活動しているイラストレーターのようなもので、距離的にかなり近い人物なのだろう。

  • 金銭が絡むと不当さを感じる人が多い。単純に、そのほうがわるさが分かりやすいからだろう。

  • パクリは悪なので、なんにせよ許してはならない、という極端にナイーヴで尖っている人がもう少しいるかと思ったが、ほとんどいなかった。Twitterのトレース警察みたいなの。

ふたつ目なんかはなるほどなぁと思った。

2022/07/03

ちょっと歩いたところでずっと大規模な工事をしていたが、今日見に行くとでかい道路ができつつあった。目黒通りまで貫通する予定らしい。なんだかストーリーを進めたことで、前まで使えなかったショートカットが使えるようになったという趣だ。生活の動線としては、塾まで行くのに狭苦しい商店街を走らなくて良くなるので、わりと期待している。

2022/07/02

お寿司DAY。今回はたいそうお腹が空いていたのでばくばくと食べた。行きつけの店舗、数年前にできたばかりでいつ行っても空いてるのがhappyだったのに、いつのまにか行列店になっていた。待ち時間でぷらぷら本屋を見れたのでそれはそれでよかった。

2022/07/01

遅ればせながらトム・ヨークらのThe Smileを聞いているが、尖ってるのにめちゃ聞きやすいアルバムでびっくりした。いくつか書かれているのを見たが、最近のUKジャズ〜ポスト・パンクとも呼応するような曲が多くて、「面白そうじゃん、俺らも混ぜろよ!」な趣がある(Sons Of Kemetのドラマーが入っているのでそりゃそうだが)。それが大御所の「やってみた」感にとどまらないのは、いつもながらトム・ヨークの歌声によるところが大きいのだろう。パンクやマスロックっぽい音(どれもblack midiがやってそう)が目立つが、トム・ヨークがファルセットで歌うとぜんぶトム・ヨークになる。私は前半終盤のThe SmokeThin Thingみたいなタイトな音がとくに好きだし、ちょうど折返し辺りにOpen The FloodgatesFree In The Knowledgeというグッド・メロディな弾き語り曲が配置されているおかげで、構成としてだいぶと安心感がある

2022/06/30

今日の講義で簡易的にとった投票では、「批評は①作者の意図を踏まえるべき、②鑑賞者の自由である」の比率が6:4で、「倍速鑑賞は①あり、②なし」の比率が7:3だった。僅差ではある&前後の話でやや誘導してしまったところがあるが、今の大学生たちはどちらかというと作者を尊重するが、どう鑑賞しようが人の自由なのでとやかく言う気はないし言われたくない、というのがデフォルトなのかもしれない。割と予想通りの比率にはなったので、秋学期でも同じ質問をして、サンプル数を増やしたい。

しかしこう、ネットの人にせよ生徒たちにせよ、「映画を倍速で見ることのなにがわるいのか」をただちに「人に迷惑をかけていて、咎められ、差し控えるべき行為なのか」という問いでとってしまうのは問題だと思う。こちらの問い方にも問題があるのかもしれない。きっと、「わるい」という言葉がわるいのだろう。欠陥、不備、至らなさ、不適切さあたりで言い換えたほうが、議論のポイントが伝わりやすいかもしれない。とはいえ、実際の選択や規範を脇において、ある行為のわるさなり不適切さを語るというのもおかしな話ではあるので、そこを切り分けて考えている哲学者のほうが変なのかもしれない。

2022/06/29

掘り出してきた『どうぶつの森 e+』をポチポチしていたが、初対面からオラオラと乱暴な言葉づかいで、始終不機嫌な狼がいて腹立たしかった。私がなにをしたというのか。きっと、小学生なんかはこういうキャラクターをキャラクターとしてすんなり落とし込めるのだろうが、私は変に人と人のコミュニケーションを求めてしまったせいで、腐れ狼の態度に対する閾値が低すぎたのだろう。近所の温厚な雌羊が「言葉づかいは乱暴ですけど、本当はやさしいんですよ」とか言っていたが、乱暴な言葉づかいがevilであることに変わりはないし、おまえ羊が狼にそんな油断してていいのかよとしか思わなかった。明らかに私がどうぶつの森に向いていないのだが、件の狼が不快であることに変わりはないので、つきまとったりアミでしばいたりして、早めに引っ越してもらおうと思っている。

2022/06/28

アメリカンプレスで水出しコーヒーを作るのにハマった。なんでいままでこの用途に気づかなかったのかというぐらい快適にgood vibesなコーヒーを獲得できる。注ぎ口だけ空いてて困るので、キッチンペーパーを詰めている。

2022/06/27

ちゃん読で昨日の日記の話を松永さんとお話し、ウォルトンの言う可変的特徴に関して学びを得た。芸術のカテゴリーは標準的/可変的/反標準的な特徴のセットと紐付けられているが、可変的特徴はさらに、そのカテゴリーにとって美的に関与的なパラメータと、どうでもいいパラメータとで区別がある(あるいはグラデーションをなしている)。ホラーにとって標準的でも反標準的でもない特徴のなかに、ホラーの事例としての特殊性(個性や、その作品ならではの工夫)につながるようなパラメータとそうでないパラメータの区別があるわけだ。すると、概念の抽象度を落としたときに起こることは、①可変的特徴が標準的ないし反標準的特徴として振り分けられるというのに加え、②可変的特徴の重み付けが変わることで、一部のパラメータが強調されるというのもあるのだろう。

あるいは、「可変的特徴」を美的に関与的なものに限定するならば、そもそも特徴群はカテゴリーに従って標準的/可変的/反標準的/美的に関与的でない特徴の四つに振り分けられることになる。この場合、概念の抽象度が落ちると、可変的特徴は“増える”ことになる。重み付けで考えるか、線引きと増減で考えるかは好みだが、この辺をウォルトンがどう考えていたのかは気になる(細かく考えていない、という可能性はそれなりにあるが)。

2022/06/26

松永さんのエントリーを読んで考えていたが、概念(カテゴリー)は抽象度を落とすと、可変的特徴だったものが標準的特徴か反標準的特徴のいずれかに振り分けられて減っていく、というイメージがいいのかもしれない。あるレベルのカテゴリー、例えば〈ホラー〉は一連の標準的特徴反標準的特徴を持ち、それ以外可変的特徴において事例の差分が比較される。そのサブカテゴリー、例えば〈ゾンビ・ホラー〉は、なにを表象するかという可変的だったパラメータを「ゾンビを表象する」という標準的特徴として固定することで、可変的特徴を減らしている。〈ゾンビホラー〉の事例たちは、残った可変的特徴において、それぞれの個性を発揮することになるもっとも抽象度の低い絶対的にdeterminateなカテゴリー、すなわち〈ある個物aと同一である〉というカテゴリーは、aが持っているあらゆる性質を標準的とし、aが持たないあらゆる性質を反標準的とするため、可変的性質がまったくない。determinableとdeterminateの区別は前からよう分からんかったが、こういう理解の仕方があると知って自分もかなりすっきりした。

ややこしいのは、数学に出てくるような概念(例えば、四角形>台形>平行四辺形>長方形>正方形)とは違い、芸術カテゴリーのような類は標準的特徴を論理的な必要十分条件として期待できない点だろう。ウォルトンもそう考えたように、標準的特徴や反標準的特徴は芸術カテゴリーのメンバーシップにとって論理的な条件にはならない。そうなると、カテゴリーの階層関係だとみなされているものを下る際に、可変的特徴の振り分けが行儀よくなされるとは限らなくなる。〈ホラー〉のサブカテゴリーを下っていくと、どこかの段階で、〈ホラー〉としての標準的特徴を可変的ないし反標準的特徴として持ったり、反標準的特徴を可変的ないし標準的特徴として持つようなサブカテゴリーに出会うかもしれない。上位概念と下位概念同士がきれいな入れ子になっておらず、はみ出していることがあるのだ。それはもっぱら、芸術のカテゴリーが細分化されたコミュニティやそのメンバーたちの信念によって成立する、社会的な面を持つことに起因するのだろう。厳密に正方形であることは厳密に四角形であることを含意するが、厳密にフリー・ジャズであることは厳密にジャズであることを含意しない。階層関係がなあなあであることは、芸術のカテゴリー(というか、社会的なカテゴリー一般)考える上でかなり面白ポイントだと思う。

2022/06/25

近代美術館でゲルハルト・リヒター展を見て、日比谷のTOHOで『ベイビー・ブローカー』を見た。その前後でミロンガ・ヌオーバに行ったり眞踏珈琲店に行ったり牛カツに行ったりしたので、盛りだくさんの土曜日だ。激暑で移動がしんどかったが。

リヒターは、フォト・ペインティングと写真の上に絵の具載せるシリーズがバキバキに良かった一方で、抽象画はどれもそんなに興味がなかった。出展作品のけっこうな部分を占めるアブストラクト・ペインティングは、何個見たって同じだろうとやさぐれそうになる。私がリヒターに期待しているのは、絵画と写真を脱構築するような、モダニズムの歴史と不可分の作品であって、その期待が先走りすぎたのかもしれない。大きいキャンバスに巨大なへらで絵の具をベチャベチャ塗る作業は、画家にとってよほど楽しいのだろうが、そういうアナログな楽しみに留まっている印象を受けた。

『ベイビー・ブローカー』はそこそこだったが、映画館で映画を見る楽しみがおおいにあったのでOK。シメの串カツ、うまかった。

2022/06/24

今回の健康診断で、コロナ禍に入ってから1cm身長が伸び、7kg増量したことが明らかになった。もともとBMIが基準値を下回っていたのでこれでようやく標準体型ということになるのだが、どこから7kgもやってきたのか。数年前の身体に7kgのおもりをつけて生活していると考えると、これは結構たいしたものだ。

2022/06/23

〈他所で書いたものと一貫しているかは分かりません〉という文言がふと頭に降ってきて、すっかり気に入ってしまった。物書きするたびにこの注を入れておきたいし、Twitterのプロフィールなんかにも掲げておきたい。首尾一貫性が美徳であるのはその通りだが、現代の文壇に必要なのは矛盾を認める寛容さと、手元の議論だけを相手取る公平さだろうとつねづね思っている。死んだ後に墓石を設置されることになるとしたら(希望はしていないのでその可能性は低いのだが)この言葉を刻んでもいいかもしれない。死という結果は、おそらく私が生きているうちに書くことになるどれかしらと矛盾するものであろうから。

2022/06/22

私がはじめて美学という学問に触れたのは、三田で履修した西村清和先生の美学講義だ。あの講義はすごく感じがわるかった。西村先生は大学生に(慶應生に?)よほど恨みがあるのか、教室の前方2列ぐらいにしか届かない声量でぼそぼそと喋り、資料も板書もなく、デュシャンの便器がアートかどうかをたらたら話していた。当時の私にとってそんな問いはまったくどうでもよかったので、結局2回ぐらいしか出席しなかった。成績評価は期末試験だけだったので一応受けたのだが、それもデュシャンの便器についての記述問題だった。ふつうに落単したが、なんの知識もない大学3年生が《泉》に関してでっち上げた文章に単位をあげない程度にはちゃんと採点しているんだなぁ、と関心したのを覚えている。過ぎたことにもう恨みはないのだが、あのとき私がどんな文章をでっち上げたのかまったく覚えていないので、どうにか答案を見れないものかと思ったり思わなかったりする。

2022/06/21

講義で現代アートを教えているが、よくもわるくも、わけわからん作品を提示して生徒を戸惑わせることが主旨となってきた。難解であることは現代アートの一部であり、戸惑うことは芸術経験においてごく基本的な反応だ。それは、なにもかも明瞭に理解したい人にとってはストレスかもしれないし、とくに試験でちゃんと点が取れるのか不安にさせるかもしれない。が、少なくとも、高校までのお勉強とは異なることをやらされているという自覚を与えることが、大学での講義にとって課題となるだろう。

2022/06/20

家でおとなしくしていた。Joseph Kosuthってふつうにコースーだと思うんだけど、なぜコスースが定訳になっているんだろう。

2022/06/19

今日も今日とて美味しいもの(ステーキランチにティラミスとプリン)を食べに行ったが、朝から喉に痛みがあり、夜には微熱も出た。

2022/06/18

鎌倉へ遠足に行った。紫陽花見頃の土曜日で激混みだったが、行きたいところはおおかた回れた。帰り際に寄ったディモンシュではオムライス、プリンパフェワッフルを欲望のままに注文し、コーヒーで流し込むと脳汁がすごかった。タイミングが合わず、オクシモロンのエスニックそぼろカレーにはありつけなかったが、あれは似たようなものを自宅で作れるのでOK。

2022/06/17

文化的盗用のわるさが実際のところよくわからない。

2022/06/16

なんとなく『リア王』を読み直していて、なぜラストのシーンにはフランス王がいないのか気になった。イングランドへの侵略戦争を、イングランドから娶ったばかりの新妻にまかせ、自身は関与しないというのはふつうなのか。それも、勝ち目のある戦争ならともかく、コーディリアらはあっけなく敗戦し、悲劇が悲劇たるラストへとつながっていく。第一幕では、地位も持参金も顧みずコーディリアを救う良識ある人物だったのに、その後は一切登場せず、最後は妻を見殺しにしているようにも読める。

そもそも、あのタイミングでフランスが突然侵略してくるのも不可解だった。一応、ひどい扱いを受けているリアを救出するというポーズで話が進んでいくのだが、合流できた後も撤退せず、イングランド軍と全面衝突となったからにはやはり侵略戦争だったのだろう。いろいろ鑑みるに、おそらく物語の冒頭からしてイングランドとフランスの関係はよろしくなく、コーディリアの縁談も多分に政治的なものだったのだろう。もし、戦争を見越して後々利用するためにコーディリアを娶ったとしたら、フランス王はいくらなんでも狡猾すぎるが、さすがに考えすぎだろうか。それにしたって、結果的にイングランドは瓦解し、一番得をしたのはフランスだ。ありきたりな推理だが、密かに得をした奴はやはり怪しいのだ。

2022/06/15

先日のちゃん読での学びのひとつは、道具的価値-内在的価値の説明打ち止め問題に関しては、われわれが日常的にそれ以上説明しない辺りで適当に打ち止めればよいのであって、究極の内在的価値までたどる必要はない、ということだ。ビアズリーは内在的価値を認めないが、それでも価値について語れるのは、そういったプラグマティズムを採用しているからっぽい。これは割と説得的な話だ。価値の話になるたび、それ以上追及される余地のない究極的価値に基礎づけを求めなければならないのはたいへんだろう。

では、内在的価値ではないにもかかわらず、快楽や幸福を説明項として使えることをなにが担保しているかと言うと、集合的信念なり、ある種の思考の均衡なのだろう。Xには価値があるという常識が、価値に関してそれ以上追及することを免じている。これは、私があまり好きではない「議論におけるジョーカーカード」たちがジョーカーカードたる所以でもある。

あるいは、価値の源泉に関してそれ以上追及すべき場面と、しなくていい場面というのがあるのだろう。それがどう区別されるのかは、まだよく分からない。

2022/06/14

中学のころはJ-POPを聞いて、歌詞を調べてはノートに書き写したり、といった作業をしていたのだが、それというのも公認で掲載している歌詞検索サイトがどれもコピペをさせてくれないからだ。当時はそんなもんか、と思っていたが、改めて考えてみると馬鹿らしい文化だ。現行の著作権は多くの点で馬鹿らしいと思っているが、歌詞に対するそれは最たるものだろう。音楽や映画の違法アップロードが、商売にとって不利益であることは明らかだが、歌詞を転載することのなにが困るのか。そして、なにか困るのだとして、コピペ不可能にすることでどれだけ保護できるというのか。ひと手間かけて手打ちすればよいのだから、個人ブログでもYouTubeのコメント欄でも好き放題に転載されている。転載されたものは当然、コピペ可能だ。

走行速度もエスカレーターの乗り方もそうだが、実際に落ち着いている均衡と、制度が定めるルールに齟齬があるケースには、なんらかのイタさがある。もちろん、イタいのは制度設計側であり、行為者側ではない。

2022/06/13

親知らず②をぶっこ抜いた。すでに勝手が分かっているものはずいぶん気楽だ。風呂にビールがNG、というのがきびしい。

2022/06/12

実家で犬と遊び、ティラミスを食べた。

2022/06/11

山下達郎がサブスクを一生解禁しないことのなにがわるいのか。

幸い、これはまったく切羽詰まった問いではない。山下達郎を聞く人は山下達郎がそういう精神性でやっていることに賛同するだろうし、山下達郎を聞かない人はサブスク解禁によってなんら利得がない。私は山下達郎を聞く人であり、また、ああいう職人気質の人が何人かいないと、世の中回らないだろうと思う。数年前に生で聞いたヤマタツは本当に素晴らしかった。

それよりも、話の流れで「サブスクは搾取だ」といった趣旨のことを述べたのが、一部の人の気に障ったらしい。あんなの使ってるリスナーも搾取の加担者だ、ぐらいに深読みして怒っているのだろう。いつものインターネットだ。ちなみに山下達郎は、自作のサブスクは解禁しないが、人の曲を聞くのにSpotifyを使っているらしい。

こう書いてみてもどこにもオチのない話だった。怒りたくて怒っている人は怒らせておくほかない。

2022/06/10

右上の親知らずをぶっこ抜いた。初診はとりあえず見てもらうだけかなと思ったが、即日で問題の1/2が解決した。麻酔のチクッは記憶していたよりだいぶ余裕があったが、力を入れてメリメリと引っ剥がす音が記憶していたよりけっこう嫌だった。私は中学のときに矯正で歯を4本ぶっこ抜き、下の親知らずをそれぞれほじくり返し、それらに際して何本も麻酔をぶっ刺したので、口内の拷問に関してはそれなりの権威だ。地動説で異端審問にかけられてもそこそこのところまでは粘れるだろう。来週の月曜に左上も抜くので、ようやく私というアバターの歯の部分が完成するわけだ。長い道のりだったし、ずいぶん課金した。

2022/06/09

コミュニタリアン(共同体主義的)な美学理論がポツポツ目立つようになり、私も広い意味でここに足並みを揃えていると思うのだが、共同体の価値や規範の話を聞いただけでうげっとする気持ちは私にもある。イメージが悪いのだ。理念としてのcommunitarianismは全体主義も共産主義も含意しないと分かっているのだが、直観はどうしてもそこに滑り坂を見て取ってしまう。共同体の中でポジションを持つことがアイデンティティにとって重要だとか、あるものがどういう身分を持つのかは共同体次第だとか、私にとっては当たり前すぎるほど当たり前なのだが、他方で、うるせぇ自由意志だ!というふつふつ湧き出るものもある。シラー=リグルの美的自由のような議論が、まさにその両立可能性を論じているのだとしても、湧き出てくる個人主義はもっと天の邪鬼で、「両立」なんて解決とみなさなそうとしない。私ならそれを「サブカル」精神と呼ぶだろう。「あなたの好きはみんなと共有できるんですよ」というメッセージはまったく的外れであり、誰も理解してくれないからこそ私にとって大切なものが、少なくともいくつかある。反快楽主義は分業なのだという割ともっともらしい前提に立てば、こういった特殊な価値づけを説明する理論もひとつはあったほうがいいだろう。

2022/06/08

久々にホットサンドを食べたが、BASE BREADとは格が違った。後者はもう一年ちょいちまちまと食べてきたが、いい加減飽きてきた。栄養があるのは確かなので(確かなのか?)、3食に1食はこれにしようかというぐらいの気持ちではいる。

2022/06/07

昨日の日記で愚痴ったことから勇気を得て、今日はスーパーに行ってきた。タコライス、ビビンバ、焼き肉漬け、サルサホットサンド、トマト卵炒め、きゅうりのにんにくポン酢漬けなどの食材と、サッポロ一番みそラーメンを買うてきた。8000円ぐらいしたが、私の計算では15〜20食はこれで回せるはずだ。米とビールは買いきれなかったのでバイト帰りに買ってきたが、5kg+2kgちょいは「重い」ということを見逃しており、帰り道が筋トレとなった。

2022/06/06

先日の意図WSでの村山さん発表に関連して思いついたことだが、創造的行為における「意図の明確化」という現象は、私の場合、昼食の選択において最も頻繁かもしれない。ほぼ毎日のように作業しすぎでランチタイムを逃すのだが、15:00ごろになると空腹にもかかわらず、自分がなにを食べたいのか自分でも分からないゾーンに入ってくる。そして、Googleマップを開いて行きつけの店を吟味し、コンビニ弁当という妥協案を検討し、どれもこれもピンとこないうちに不毛すぎる30分が過ぎていく。

この場合も創作行為と同じように、何が失敗なのかは、すなわち何を食べたくないかははっきりしている。ある選択肢が目に止まっても、それを口に入れることを想像した途端、生理的嫌悪感に「蹴られる」のだ。そして、これだと決めてアクセスしても、本当に「それ」だったのかは舌で批評するまでは分からない。失敗によるコストはたいして大きくないのでさっさと妥協してしまったほうが時間の節約になるのだが、私の「その瞬間もっとも食べたいものを食べたい欲」がそうさせてくれない。

これはなにかのパラノイアかもしれない。梅雨が始まったので、昼食選択の問題はより一層深刻になる。明日も明後日も明々後日も「何を食べようか。あれでもないこれでもない」という時間を迎えると考えると、ちょっとしたホラーだ。

自炊のいいところは、ひとつには作り置きしてしまえば、日持ちという制約が選択をシンプルにしてくれる点だ。よく日記で愚痴っているが、実のところ私は時折のカレー地獄に感謝している。その週は、食べたいもの探しという認知的課題をサボれるのだ。しかしこれは、売れ線の作風で量産するアーティストと同じで、創造的ではないし、自己欺瞞ですらあるかもしれない。

2022/06/05

ズーラシアに行ってきた。目当てはヤブイヌだ。野毛山ぐらいの規模感を想定して行ったらだいぶと広くて、閉園時間ややオーバーでどうにか一周回れた感じだ。雨予報は回避できたが、どうもアニマルたちにはオネムな日だったようで、おとなしめの子が多かった。オランウータン、オットセイ、ライオンは迫力があったし、チーターはすごく近くで寝ててもふもふだった。セスジキノボリカンガルーは園が推すだけあって、シルバニアファミリーのような毛並みが愛くるしい。ピグミーゴートはめっちゃ賢い。ミーアキャットが駆け回っていたのは大興奮だったし、犬っぽいやつ(ドール、リカオン)は総じてわれわれ好みだった。ケープハイラックスという意味不明な生き物も個性的でよかった。マレーバクがすっかり寝てたのと、カワウソが見つからなかったのは痛手だったが、カワウソは昨年の油壷マリンパークで見たのでよしとしよう。

そして肝心のヤブイヌはといえば、寝ていた……!ぐっすり!小屋の中で……。寝顔もキュートだが、やや消化不良のまま次へ。帰り際にもう一度立ち寄ったところ、飼育員さん待ちでうろちょろしているところをちょっと見れた。ぼてぼてしていてかわいい。こんなにかわいいのに、まったくグッズ化されていないのが不可解だ。

2022/06/04

作者の意図を再訪するワークショップをしていた。内容的にはだいぶ余裕を持って準備できた発表だった。原さんは、仮説意図主義と現実意図主義が実のところかなり似通った立場であることを、村山さんは、制作における意図のあり方はもっとダイナミックであることをそれぞれご発表されていて、どちらも個人的に同意できる内容だった。

「作者の死ガー」な現代思想ヤクザはいなくて始終快適な回だったが、逆に言えばそういう尖ったスピーカーもオーディエンスもおらず、分析美学の作法と議論史をふまえた人たちのクローズドな会になったのだとしたら、ちょっと残念な気もする。が、殺伐よりは和気あいあいとしたほうが気分がいいのは確かなので、難しいところだ。私は(Twitterによくいる)極端な意図主義者も極端な反意図主義者も全員論破するつもりで意気込んでいたが、全然そんな必要はなかった。

2022/06/03

「作者の意図、再訪」ワークショップに先駆けて、ラマルクの再構成した「作者の死」を読んでいた。序盤の「私が興味を持っているのは議論であって、作者たちではない」というくだりも、終盤の「authoredなテクストに統制された意味や構造を求めることと、威張りちらした権威主義の作者の復位はなんら関係がない」というくだりも、たいへん鋭くてお気に入りだ。こういう態度をとりたいと思うし、こういう態度をとる人とのみ付き合いたいと思わされる。

2022/06/02

『経済学の哲学入門』にしょっちゅうアマルティア・センが出てくるのでふと思ったが、Senだけ見るとインド人っぽさがあるし、なんならKiyohiroもヒンドゥーの神にいそうなスペルだ。ちなみにインドではサンスクリット語の「軍隊[Sena]」に由来する名字らしい。それで特に困ることはなさそうだが、そういえば銭の中国語読みのQian(あるいはChien)で活動する選択肢もあったな。

2022/06/01

なぜか私のPCは昔から重い(なぜかといいつつ心当たりは少なからずあるのだが)。今日は片っ端からいらないファイルを見つけては削除していた。とくに、中高時代にレンタルCDからリッピングしまくった音楽をごっそり削除した。一体だれがこんなもの聞くんだ、というEDMやポストロックがぎょうさんあって恥ずかしかったのは、昔の私がセンスなかったからなのか、今日の私がスノッブになったからなのか。

ふとMUSEが目に止まり、「MUSEってバンド、いたな〜〜〜〜」としみじみ感じた。ほんとうにもう7、8年はMUSEのことが意識に上らなかったように思う。みんなそうなんじゃないか。スタジオ練なんかで唐突にStockholm Syndromeのリフなんかを弾き出したらユーモアとして機能しそうだが、スタジオ練の予定はない。

2022/05/31

美的自由や自律性といったアイテムが内在的価値を持つことに対して私は懐疑的なのだが、そこには私が小論文を教えるときにしつこく念を押している「自由やら平等やらを議論のジョーカーカードにしてはいけない」と同根の問題意識がある。あまり自主的に論証を構築したことのない生徒は、しばしば主張の理由づけに際し、そういった西洋近代の一般的美徳を持ち出しがちだ(もっとひどい場合には、単に違法であることをジョーカーカードにしてしまう小論文すらある)。たしかに、哲学者のように「よろしい。ではなぜ〜」と問い続けるときりがないのだが、心のノートで仕入れたような概念で話が済むなら、はじめから問うべき問いなどなかったも同然だろう。

2022/05/30

健康診断のため、ひさびさに駒場に出向いた。もはや大学には人がほとんどいないのが当たり前だと思っていたのだが、対面授業も再開した平日の昼間はわりと賑わっていた。生協で『経済学の哲学入門』と『論証の教室』を買った。まだそれぞれ2章ほど読んだ程度だが、とくに前者は美的快楽主義や価値や理由に関して私が考えていることの整理にも使えそうな内容で、美学者にもおすすめできそうな本だ(ちょっと難しいが)。

駒場の近くにはティラミスホームメイドといううますぎるティラミス屋があり、欲望にまかせて二瓶も買って帰ってきた。

2022/05/29

日曜の渋谷はとんでもなく人が多かったが、うまいアフォガートも食べたし、シャツも買ったので収穫の多い一日だった。冬の間は夏のギラギラした感じを心待ちにしていたが、この暑さだともう冬のひんやりした感じが待ち遠しい。

2022/05/28

発表してきた。ビアズリーを対象説に親和的な立場として読もう、という内容。ツメツメでだいぶ駆け足になってしまったが、去年よりは心持ちに余裕があった。人の発表を35分聞くのはずいぶん長く感じるが、自分が喋っている分には35分なんてあっという間だ。学生は毎週私の話を90分聞き続けていることになるので、心中お察しする。

ビアズリーを対象説として読むという本筋に大きなツッコミはなかったが、統一性・複雑性・強度の身分に関する松永さんのコメントはなかなか悩ましかった。ICUがつまるところ経験において立ち現れる性質だとしたら、対象説をどう維持していくのかはちょっと考えなければならない。私個人としては、ICUがもっと実在寄りの身分を持っていることを直感しているし、仮に実在論を諦めたとしても維持可能な立場だと思う(Shelleyは実在論にはコミットしていない)のだが、理屈とセットのディフェンスはとっさには思い浮かばなかった。

ホットトピックというのもあって、快楽主義とその論敵に関する問題設定レベルでの疑問を多くいただいた。この辺はまだまだ勉強不足で、いくらか議論を単純化しがちな自覚があるので、もっと時間をかけてすり合わせたいと思っている。ひとつ、になって自覚したのは、私自身がサポートしたがっている立場を「美的快楽主義」と呼ぶのはややミスリードで、心配されやすいという点だ。2022/02/112021/09/13にも書いたように、私が考えているのは「誰もが利得に突き動かされて行為選択をしている」という、ゲーム理論の前提になるような合理主義でしかない。「ロペスやリグルのアイテムも、要は快楽につながるから規範問題に答えられるのでは」と述べるときにも、快楽ではなく利得の語を用いたほうが共感してもらいやすいかもしれない。ともかく、これは今回の発表では二次的な話題だ。

森さんコメントへの応答のなかで、思いつきで喋った対象説ディフェンスは、わりとありかもしれない。対象説は規範問題にどう応えるのかという点だが、われわれが「美的」規範と仰々しい形容詞を付けて論じている規範性は、いろんな場面でいろんな都合があって生じている、源泉も強度も種類も異なる規範性のカオスなんじゃないか。美的価値とは対象側のイケてる性質ゆえの価値に過ぎず、そういった対象への関与に義務や権利が伴うのは、セカンダリーな事情による(快楽主義も、反快楽主義も、そのバリエーションについて述べていることになる)。思うに、真であることの価値もそういうものだが、認識論はレベル0なのでとやかく言わないことにする。

2022/05/27

明日は応用哲学会なので、せっせとレジュメを切っている。減量という意味での「切る」だ。早め早めで準備を進めると、当日までに喋りたいことが増える一方なので、締め切りギリギリから動き出すぐらいが丁度いいのかもしれない。

2022/05/26

ピザを食べた。皮膚科帰りにピザを食べるのが、私のルーティンとなっている。相変わらず、サラダにかかってる謎ドレッシングがうまい。夜には激辛麻婆豆腐も作って食べた。あれもこれも作り置きのカレーからの一次逃避であり、プレッシャーは日に日に高まるばかりだ。

2022/05/25

欲望にまかせて、近所で評判のプリンを買ってきて食べた。たいそううまいが、それなりに手間暇かけたプリンは一般的にいってたいそううまいので、感動するほどではなかった。映画もそうだが、ほんとうに意表を突くような傑作はごく稀にしか出会えない。たいそううまいものを食べれる人生はすでにたいそう豊かなものだが、私は強欲なので、たまには感動するほどうまいものも食べたい。

2022/05/24

最近のロペスみたいな、可愛げのあるオリジナルタームを散りばめた論述は、好きか嫌いかで言えば嫌いだ。理由は、論文を読んでいて知らない単語が出てきたり、妙に凝っていて解釈を要するような表現が出てくるとむかつくからだ。それは思考を停止させ、なくて済んだような知的負担を読者に強いている。そして、その目的はたいていの場合、書き手の格好つけだったりウケ狙いでしかないのも、付き合いきれないなと思う。いつも述べていることだが、基本的に私は「論文」というカテゴリーにおける修辞的要素を一律憎んでいる。真水のように透明で、DeepLに流し込めば外国の中学生にも飲めるような文章を絞り出すよう努力すべきではないか。

複雑な言葉でしか説明できない事柄を複雑な言葉で説明するのはなんの問題もない。しかし、人文科学では不必要に難しい文章が多すぎる。そして、「難解さにとどまることこそが人文科学の味わいなのだ」とそれっぽいことを述べる輩がそれなりにいることは、悲惨だと思う。

2022/05/23

学部時代にはあんなに嫌々読んでいたのに、いまでは経済学の話が面白くてしょうがない。あるものを面白がれるかどうかはタイミング次第、というのは生きる上で無視できない事柄のように思う。そのときどきの偶然的なプリセットが、目下のものを面白がれるかどうかを左右し、面白がったかどうかが次のプリセットを左右する。そのフィードバックループが好循環をなしているのが、やりがいないしwell-doingのある人生というものだろう。経済学を面白がれるタイミングは私にとってずいぶん遅かったようだが、結果としてそれを面白がれるプリセットを得たことは、なんにせよめでたいことだ。

2022/05/22

倍速鑑賞の話題でとりわけ不可解なのは、「倍速で見るのは自由だが、分かった気になって批評しないでほしい」というそれなりに人気の意見だ。

第一に、「倍速で見るとちゃんとした批評はできないから、やめておけ」ということであれば、「倍速で見てもちゃんとした批評ができる場合がある」で十分差し返せる。『死霊の盆踊り』が下品なうえに不必要なダンスシーンだけで構成された駄作であること、『東京家族』が伝統的な日本家族の崩壊という主題を端正に扱い、優美な構図を練り上げた傑作であることは、4倍速だろうが分かる。速度とは関係のない作品性質だからだ。倍速だろうが、作品については多くのことを知りうるのであり、それに基づいた批評は真正で気の利いたものとなりうる。問題があるとすれば、「動きやセリフが速すぎて不自然だった」「展開のテンポがサクサクしていて良かった」のような、倍速ゆえに得ている偶然的性質を評価の理由づけとして用いるケースだけだろう。しかし、そんなことをあえてしようとする人はまずいない。

第二に、倍速否定派は前提として、隅々まで目の行き届いた、作品の良さ/悪さを余すところなく引き出した批評のみを批評として期待しているのかもしれない。「倍速で見ると十全な批評はできないから、やめておけ」というわけだ。確かに、「倍速で見ると十全な批評はできない」は認めざるを得ない。速度が関わる作品性質もあるからだ。しかし、批評に十全さを求めるのは明らかに理不尽だ。間が大事な作品の間に言及しないからといって、その作品の真正な批評にならないというわけではない。批評は選択的でいいのだ。(「倍速で見ると、真正だろうがあまり面白みのない批評になる見込みが高い」ぐらいなら、言いたいことは理解可能だ。)

第三に、「倍速で見たくせに作品の良し悪しを語るなんて、傲慢だ/ずるい/不当だ」ということであれば、情動表出以上のものではないので、言い返せることはない。「作品に対する誠意のない人とは付き合いたくない」というのは、誠意の基準について対立しうるが、十分に理解可能だ。そのようなことを言う人は、作品への愛が強すぎるので、そもそも批評を嫌っている見込みが高い。実際、倍速で見ただれかが作品についてとやかく批評したところで、上のような見解の人にとって実質的な損害はなにもない。しかし、愛は功利主義では説明できそうにない。

ということで、「倍速で見るのは自由だが、批評はダメ」という線引きを持ち出すのは悪手であり、無根拠であるか単にお気持ち表明であることがほとんどのようだ。倍速によって取りこぼされる重要ななにかがあるとすれば、それは知覚・経験のレベルにあるのであって、批評云々はぜんぜんまったくなんの関係もない。

2022/05/21

キャロルの「Forget Taste」(2022)を読んだ。基本的には「Art Appreciation」(2016)の話を趣味概念の批判として再構成したもので、特に新しい話はしていないが、詳細な説明が加えられ分量は倍ぐらいになっている。キャロルのアプローチには全面的に同意できるわけではないが、私にとっては何度も立ち返るデフォルト理論となっている。

キャロルによれば趣味概念は(たいてい理想的批評家が基準となるような)快楽概念と結びついたものであり、ラフに言えば作品を好むか嫌うかの問題だ。実際になされている芸術批評は明らかに好き嫌いや快楽の問題ではないので、趣味概念はいらないというわけだ。この点、キャロルは芸術的価値に焦点を合わせているものの、最近の反快楽主義と同じ方向を向いている。アートワールドにせよ美的生活にせよ、価値を快楽で一元的に説明するにはあまりに多様なのだ。キャロルの主張は、美的経験を快楽や価値ある経験に訴えず定義する内容アプローチとも一貫していて、ざっくり要約すれば、クールな芸術批評を推し進めたい人なのだろう。キャロルの師匠筋にあたるディッキーもそういう論者だった。

キャロルは代替案として、作品の構成的目的およびこれを実現する手段に基づいた、趣味ナシ評価を好んでいるが、「美しさや優美さを追求する」のような目的を持った作品はどうするのか、という反論は気になっていた。今回読んだ論文では面白いことを述べており、曰く、美的性質の検出にも趣味は必ずしも必要ではないとのことだ。これはシブリーの前提と真っ向から対立する見解のように読めるが、はっきり決着がつけられているわけではなさそうだ。おそらく、美的性質(美しさや優美さ)を検出する心理的プロセスが、なにかを好んだり快楽を感じるような心理的リソースと不可分であるかどうかが争点なのだろうが、この場合、ときにはそうでないと述べるキャロルに対し、つねにそうだと考える趣味論者のほうが不利にはなるだろう。キャロル的にはたいていそうではない、ぐらいの主張をすることがフェアだと思う。

別の話として、「好き嫌いはともかく──」というスタンスを広めることが、アートワールドや美的生活を豊かにするのかは分からない。「『死霊の盆踊り』は大傑作であり、大好きだ!」という人を捕まえて、「お好きなのはおおいに結構だが、駄作なのは認めてください」というのは、いかがなものか。それは客観世界のより正確な表象を手助けしている点では認識論的に美徳があると思われるが、当人の経験世界を否定している点ではふつうにハラスメントだろう。必要なのは、教育する側のケアなのか、教育される側の割り切りなのか。これもよく言われる(真偽不明の)話だが、西洋人は「好き嫌いはともかく──」に慣れており、日本人はもっと感情的な尊重を求める、という背景もある。どちらのスタンスが人生を豊かにするのか、なんていうのはでかい話すぎて私には分からない。

2022/05/20

近所のフランス料理屋で食べたパプリカの冷製スープとチーズパンが美味しかった。家の近くに小洒落た店がいくつかあるのは、東京に住む利点のひとつである。

2022/05/19

美的なものを考える上でappreciationを中心に据えるのは狭すぎ、という(最近よく聞く)見解は、実のところ話題を変えてしまっているのではないかと思う。少なくとも私には、アジェの写真を収集・保存する営みと、アジェの写真を鑑賞する営みが同種であり、包括的な説明を要するというのがいまいち飲み込めていない。美的な生活の多様性を強調するのは結構だが、美的なものへの関与と美的関与を混同してはならないだろう。あるいは、混同しているわけではなく、意識的に話題をシフトさせようとしているのかもしれない。

少なくとも私の関心はダンス教室やスケボーや洋服選びより、芸術鑑賞や批評にある。

2022/05/18

あらゆる学問は意義があるという前提のもとで、しかし中高生の貴重な時間をとって学ばせ、受験で競わせるのは不当だろうという科目はいくつかある。個別の評価は人それぞれだ。私にとって不当なそれは古文漢文であり、別の人にとっては三角関数だったりするのだろう。

まず、教育を設計する側が怠惰であり、これまでやってきたことを見直したり修正するのを面倒がっているせいで、優先順位の低い科目を教え続け、優先順位の高い技量を教えていないというのは、紛れもない事実だろう。必要に迫られて古典を紐解いたり、三角関数を用いた計算を行う人は、正味な話まれだろう。その辺を過大評価している人は、単に世界を誤表象している。また、まれであることを暗に認めた上で、それが重要となる個別の場面を列挙し、「ほら、必要知であろう」と示そうとするのも悪手だ。争点はいずれにしてもその優先順位が低いことにあるのだから、まれに役に立つことを示されても不毛なのだ。

そうは言っても保守は人間にとって自然なシステムなので、「Xはいらない」式の議論を精緻に展開し、改革につなげることはたいてい無理がある。だいたいそういうのは「XよりYのほうがいらんだろう」と脱線していったり、個人の思い出話に流れたり、果ては教養をめぐる人格攻撃合戦に転じるので、救いがない。理不尽を押し付けられるのは中高生なので、どうにかならないものかとは思う。

2022/05/17

ガクシーンの応募資格を誤解していたせいで、朝から方方に問い合わせ、頭を捻り、一日が終わった。それでなくても私は雰囲気で博士に属しているようなところがあるので問題だ。反省した。

2022/05/16

ちゃん読でビアズリーの美的経験論をちゃんと読んだ。来週末にはビアズリーについて発表する予定であるにもかかわらず、ビアズリーのことがますますわからなくなってスリル満点だった。

美的快楽主義といえば、美的価値を美的経験から説明するビアズリーが代表だと思っていたのだが、どうも後期のビアズリーは「美的経験≒美的な性格を持った経験」を快楽には還元したくないそうなのだ。踏み込んだ説明はないので、実のところ美的経験(≒美的楽しみ≒美的満足)=快楽の一種だと考えるのが無理なく整合的なのだが、どうなのだろうか。快楽じゃないとしたらなんなのか、そのことは規範問題をどう説明するのか。

2022/05/15

今年もせっせと学振を書いている。学振に受かるとうれしいことのひとつは、向こう2年は学振を書かなくていいということだ。

2022/05/14

中華を食べに行ったら平日しかランチをやっていなかったので、近くにある別の中華に行った。カサゴの唐揚げに甘酢あんをかけたものを初めて食べたが、THE中華料理といった感じの味付けで美味しかった。

A WORKSは、7年前に行ったときには古民家風の落ち着いたお店だったが、いつの間にか移転し、行列のできる映えカフェと化していた。テイクアウトしたチーズケーキはしっかりうまかった。

中目黒にあるバカ高ジュース屋さんにも行ってきた。さすがにかなり美味しいジュースだったし、お店の向かいにあるペットサロンでパピヨンとテリアの子犬がじゃれていたのでかなり得をした。

2022/05/13

なんで新譜に収録されていないのか謎だが、ケンドリック・ラマーの「The Heart Part 5」はヒップホップについぞハマれたことのない私にとってもかっこいいトラックだ。すごいすごいとは何年も聞かされてきたが、ようやくケンドリック・ラマーを聞き始めるきっかけを得た気がする。それにも増して、マーヴィン・ゲイの『I Want You』を聞くきっかけを得たことがラッキーだった。『What's Going On』『Let's Get It On』ばかり聞いてたが、アルバムとしては『I Want You』が一番好きかもしれない。

2022/05/12

アンディー・ウォーホルのマリリンが20世紀の作品としては史上最高額で落札されたというニュースを授業で紹介した。ついでにちょっと前のサザビーズの話もしたが、アンケートをとったところ、ウォーホルのマリリンよりもマグリットの《光の帝国》が欲しいという人が倍ぐらいいた。純粋にインテリアとして考えるなら、マグリットのほうが色も落ち着いているし、ちょっと風変わりなのも「アート」な感じで好まれやすいのだろう。どでかいマリリンの肖像画なんてけばけばしくて趣味が悪いと思われているのかもしれない。

2022/05/11

均衡したルールというのは怖いもので、一旦定着してしまったからには、そこから逸脱する人に対してオートマチックに反感を抱かせる。具体的には、マスク生活がデフォルトになってしまった今、隙あらばすぐマスクを外したり、なにがなんでも鼻だけは出しておきたい人を見ると、なんてわがままで非常識な人なんだろうと、とっさにそう思ってしまう。実際、そのような反感は自分への健康リスクに基づいている点では合理的であり、またノーマスクを推進する人のなかにはやばめの人が相対的に多めである点でも合理的なのだが、全面的に合理的とは言えない。いまさらマスクを嫌がるのは単に忍耐力の欠如であり、そういう輩はどうせ他の場面でも短気でずぼらで自民党支持者なのだろうと思っているうちは自分へのリスクなど考えておらず、相手の品性を勝手に裁断しているだけなのだ。お腹が空いていたり天気が悪いときには、私もすぐそういう思考モードになってしまう。もしかしたら彼/彼女らには呼吸器系の疾患があり、マスクをつけ続けると危険なので、人に迷惑をかけないタイミングを必死に探して、申し訳無さとともにマスクをずらしているのかもしれない、という風に想像力を働かせることは容易ではない。

それはそうと、空気を気にすると言われがちな日本人が、一度定着してしまったマスク生活からはたして脱却できるのか、なにがきっかけで脱却するのかは、社会科学的に大注目の事象だろう。私は本当にどっちでもいいのだが。

2022/05/10

ミュージカルの「突然歌い出すのがきしょくてイヤ」問題は、作品をミュージカルというカテゴリーで見ておらず、突然歌い出すことのない作品をも含むより一般的なカテゴリー(映画)で見ているから、というのが無難な答えになるだろう。リアリズムとして期待しているからだという説明だと、それは単にカテゴリーミステイクだという話になるのだが、より一般的なカテゴリーとして期待する分にはカテゴリーを誤っているわけではない。稀な可変的特徴にうまく反応できていないだけだ。能やオペラはそのカテゴリーに精通したマニア向けであり、それらを含むより一般的なカテゴリー(舞台芸術)のもとで見られることが相対的に少ないのだろう。ミュージカルは、ミュージカルを期待しておらず単に映画を期待している人が見るからこそ、きしょくてイヤという評価になることが相対的に多くなる。

それだけではない。そもそもの話として、人が突然歌いだしたり踊りだすことを標準的特徴としているカテゴリー自体が馬鹿げている、という見解のミュージカル嫌いもいるだろう。これはカテゴリーのもとでの評価ではなく、カテゴリーの評価だ。その人は、人が突然歌いだしたり踊りだすのを見聞きすることが愉快であったり、あるいは人生にとって有意義な経験であることを飲み込めていないだけなのだ。この場合、「突然歌い出すの不自然だ」とか言う必要はなく、それはそれでそれとして自然なことだが、だからなんだという話になる。このようなミュージカル嫌いは、ジェットコースター嫌いやホラー嫌いと同類であり、対立は人生において求めているもののレベルにあるので、説得の余地も必要もない。

2022/05/09

批評の中心は解釈か評価かというちょっとした話題があり、ダントーは前者推しキャロルは後者推しなのだが、解釈にせよ評価にせよ(そして記述やら分類やら分析にせよ)、現になされたりなされなかったりするような作業のどれかひとつだけが中心なのだ、と言ってなにを言ったことになるのかいまいち分かっていない。「解釈なし評価」「評価なし解釈」の一方だけが批評と呼ばれるに値するとして、どちらがそうなのかという点で対立があるのだろうが、美学者が「批評とはこっちだ」と言っても仕方がなかろうし、そういう物言いをするから疎まれるような場面もあろうと思ってしまう。

「たいていの評価には解釈が伴う」「たいていの解釈には評価が伴う」「たいていの解釈や評価には○○が伴う」といったテーゼを立てるのは、まだ面白くなりようのある論じ方だろう。

2022/05/08

カレー屋さんに行ったらクリームのダックスちゃんがいてお得だった。アイスクリーム屋でアフォガートも食べた。

2022/05/07

不道徳なアーティストのキャンセリングはほとんど意味がないどころか、美的エイジェンシーとしての自律性を脅かし、芸術作品による豊かな経験を没収するだけなのでやらなくていい(やらないほうがいい)という議論をMary Beth WillardがWhy It's OK to Enjoy the Work of Immoral Artistsでしている。思うに、そのようなキャンセル観は、利他的なキャンセルを想定しており、利己的なキャンセルを見逃しているのではないか。ボイコットが制裁としてほとんど有効な手段でないというのはその通りだろうが、なんでもかんでも粗を探してキャンセルしようとする類は、実のところ社会正義実現のための制裁にほとんど興味がないのだろうと思うときがある。キャンセラーにとって重要なのは正義ではなく正義感である。自らが道徳的に無誤謬であり、立つべき場所に立っているという感覚を得るためにキャンセルという身振りするのだとしたら、それが実用的に不毛だと言われても止まるわけがないだろう。むしろ、彼彼女らは、エイジェンシーとしての自律性のためにこそキャンセルを行うのだ。もちろん、寄り添うべき側に寄り添っている感覚、と言い換えればいくぶん温かみのあるものではあるが、利己的なインセンティブであることに変わりはない。そして、そのインセンティブは単にしばしば美的に利己的なインセンティブを超える、という話だ。それは全体としては、合理的な判断と言わざるをえないと思う。

もうひとつには、2022/04/29の話だが、美的価値と道徳的価値は比較しようがなく、加点減点で前者が大きければ鑑賞してよいなんていうことにはなりようがない。

さて、では不道徳な芸術家の作品をエンジョイするにはどうすればいいのか。ひとつには、自らがエイジェンシーとして自律的でも無誤謬でもなく、しばしば無意識に加害者であり、搾取する側であることに開き直る、というオプションがあるだろう。私にはそれがほとんど唯一の選択可能で、現に選択されている態度だと思われるのだが、誰もそんなヒールではない、そんな態度を公言するヤツこそキャンセルしてしまえ、という社会に向かっていくのは、まずもって欺瞞だし、ひどくグロテスクだと思う。

2022/05/06

実家の庭でバーベキューをした。両親の選ぶ肉は、脂肪分が高すぎて一家誰も得をしないがちなのだが、おそらくは部位やら産地やらを吟味するのが億劫なのだろう。とりあえず高い国産ものを選んで買う結果として、毎回脂肪分の高すぎる肉が食卓に並ぶ。私はアメリカ産の豚バラにタレびしゃがけでよい(がよい)のだ。焼肉屋に行っても、とりあえず特上カルビばかり頼むので、ハラミや豚タンの美味しさを知ったのは大学に入ってからだ。なんにせよ、一人暮らしで牛を摂取することは稀なので、油にまみれながらばくばくと食べた。母が唐揚げ用に漬け込んでいた手羽先を即席で焼いたやつは、かなり美味しかった。

2022/05/05

キャベツを一玉買ったが、紙袋に入らなかったので素手で抱えて持ち帰った。

2022/05/04

友人の赤ん坊を見てきた。ちょうど今月来月で二足歩行を習得しそうな段階で、いちいち勢いのある一挙一動が一同大注目のパフォーマンスと化していた。私のメガネが気に入ったらしく、執拗に付け狙われた。ただ動き回り、積み上げたものを破壊し、ティッシュを引き抜きまくるだけで周囲を笑顔にしてしまうのだから、赤ん坊はすごい。

2022/05/03

ねぎしの牛タンを食べた。あの米をかっくらうためだけに設計されているセットが、本当に好きだ。しばらく食べていなかったが、ねぎしも寿司ぐらいの頻度で食べたいもののひとつだ。

2022/05/02

東京都美術館で、スコットランド国立美術館展を見た。先日のメトロポリタンに比べたら、よく知らない画家が多くて学びが多い。ベラスケスとゴーギャンがたいそう良かったが、ナビ派の画家エドゥアール・ヴュイヤールを知れたのがかなりお得だった。どこかで聞いた名前だなと思っていたら、Abell (2009)が事例として作品を挙げていたのを後で思い出した。

上野に行くのもずいぶん久々だ。カヤバ珈琲のサンドイッチとルシアンは相変わらず美味しかったし、初めて頼んだアフォガートも絶品だった。今年の夏はアフォガートを食べまくる夏にしたい。

2022/05/01

東京タワーの台湾祭に行ってきた。雨で屋根のある席が大混雑だったため、難民祭になりかけたが、どうにかこうにかじゃんじゃか飲み食いできた。ビーフンと胡椒餅が美味しかった。ずっと台湾のちゃちーポップスが流れているのがかなり屋台感があってよかった。

2022/04/30

ダントー『アートとは何か』を読んでいたら、マネの画面手前にギチギチに詰まった空間は写真の影響だという話が出てきた。遠くから望遠レンズで撮ると、本来は離れているものが密着しているように映る。野球中継や江島大橋みたいなやつだ。《皇帝マキシミリアンの処刑》が異常に近くから発砲しているように見えるのも、写真からの影響らしい。また、マネ独特のグラデーション処理のないベタ塗りも、写真の効果を真似ているとか。真偽は定かではないが、そうだとすると従来とは異なるモダニズム観が得られて面白い。写実主義のプロジェクトを写真が最終的に終わらせて、絵画は抽象へと向かっていった、というのがよくある説明だろう。しかし、ダントーが正しければ、マネはむしろ絵画による写真の模倣を通して、結果的に奥行きのない画面へと接近していったことになる。絵画におけるモダニズムは、写真からの離反ではなく、写真への接近に始まった、というのはびっくりだがわりと腑に落ちる話だ。こういう話ばかり聞きたい。

2022/04/29

『ゴールデンカムイ』まわりの「センシティブな主題を中立的かつ誠実に描いている」という道徳的期待は、度を越していてきついと常々思っている。『ゴールデンカムイ』がアイヌ文化に対して誠実なものかどうか、私には判断できないし、当事者か専門家でもなければたいていの人には判断できないだろう。あの暴力だらけの殺伐とした漫画に、なおかつ文化への道徳的な期待を寄せるのはあきらかに相性がわるいし、なんらか疵瑕が見つかるのは当然といえば当然だ。そもそも道徳的かどうかをゼロイチで判断するほうが変なのだが、(前に勉強会でも話題に上がったように、)道徳的価値というのは加点減点方式ではなく、ひとつでも深刻な欠点があると−∞に落ち込むような、ヤバすぎる領域なのだろう。「良いところもあるし、悪いところもある」というのはほとんど任意の事物に当てはまる真理なのだが、そう言わせない雰囲気がある。どうにかしようという話にはなりようがなく、どうにか凌ごうという話にしかならない。

2022/04/28

今日の講義で、学生から「Zoomでの講義映像がVTuberの配信みたいで面白い」というコメントがあり、ちょっと嬉しかった。実際、VTuberではないが、顔出しのゲーム実況などにインスパイアされた講義形式で、スライドをバーチャル背景にする機能を使っている。まだベータ機能らしいが、それなりに見栄えがいいので、今後の学会発表などでも使っていきたい。私はもう勉強会ですっかり慣れてしまったのだが、そうでない人にとって、顔の見えない相手の声だけを聞き続けるのは、やはり苦痛を伴うのだろう。実際、生身の肉体であるところの顔である必要はそんなにないので、アバターを用意して喋るのも割とありなのかもしれない。

2022/04/27

ハウスダストにまみれながらコタツをしまった。日記によると、出したのは11月半ばなので、半年そこにあったわけだ。なんとなく、冬の間の3ヶ月ぐらいしか出していない印象があったので、年に半分はコタツが出ている、という事実にはちょっと凄みがある。いろいろと片したら、部屋がずいぶんすっきりした。コタツは温かいが、美的にはないほうがいい。

2022/04/26

映画は1960年代フランスとイタリアの白黒モダニズム映画しか見ないとか、美術館行ってもポップアートの部屋は避けるとか、両思いの女の子の家に行ったらダサい音楽をかけられて萎えたとか、Bence Nanayのスノッブエピソードはたくさんあって面白い。見た目も相まって、私のなかでは狩野英孝的なキャラクターなんじゃないかと思っている。

ナナイの立場は、私の理解ではもはやピュアな快楽主義者なのだが、ポイントはむしろ理想的鑑賞者説へのアンチにあるのだろう。理想的鑑賞者説が、おのおのの主観的な経験を超えてものの客観的な価値を規定するためのアイテムなのだとしたら、ナナイはそういう価値を端的に諦める立場なのだと思われる。価値とは個々人の経験であり、経験にヒエラルキーがないのだとしたら、価値にもヒエラルキーはないのだ。

美的生活はまったくの自由、というのは耳障りのよいテーゼで、私も大きく異論はない。しかし、それは話をハイアートに限定せず、広く美的生活一般を問題にしているからこそ出てくるテーゼなのではないか。こう雑多な領域を統制する規範がそもそもないので、自由が唯一の規範になるのは当たり前といえば当たり前だろう。芸術、あるいは芸術でも広すぎるなら各芸術実践には、依然としてshouldやmustがつきまとうように思われるのだ。

私がAesthetic Life and Why It Mattersの三者いずれにもあまり共感できないのは、彼らが反西洋中心主義を掲げつつ、しばしば自由や個性といった最近の欧州でpoliticallyにcorrectな規範に訴えて話を落としがちだからだ。ブレイクアウトで、まさにこの話をナナイがリグルに振る場面があるのだが、リグルがごにょごにょとシラーの話をしていたのはかなり残念さがあった。

2022/04/25

授業準備でデュシャンのレディメイドをいろいろ見ていたが、どれも抜群に面白い。視覚的に面白いのだ。こうデジタル時代に生きていると、ふつうの櫛やスコップですら視覚的関心の的になるのは、デュシャンも予期しなかったことだろう。ボトルラックなんかは、もはやありふれた日用品として見ることのほうが難しい。

2022/04/24

暗い部屋でカービィのエアライドをやっていたらめちゃめちゃに車酔いした。

2022/04/23

前に、美的快楽主義に関連して「美的に画一的な世界」という記事を書いたが、それとほぼほぼ同じ話をAesthetic Life and Why It Mattersのイントロダクションで見つけた。どちらも有名なネハマスの悪夢にインスパイアされているので珍しいことではない。誰もが同じものに美を見出し、好み、美的な意見対立がもはや存在しない世界は悪夢ではないか、というわけだ。Lopesらは、デヴィッド・フォスター・ウォレスの小説に出てくるアイテムをちょっとアレンジして、「面白すぎて一度見てしまえばもう他を見る気になれなくなる映画」を挙げている。いくら面白いと言われても、われわれはそれだけを見る生活をきっと選ばないだろう、というのが著者らの見解だ。この思考実験は、反快楽主義を動機づける直感ポンプとして機能している。

私の思考実験は、もうちょっと工夫している。第一に、「最後の美的対象」を鑑賞するには、知識や経験を備えた理想的鑑賞者でなければならない。それは、受け身でも快楽を与えてくれるLSDのようなものではなく、能動的に価値を見出す必要のあるものだ。Nanayのように、能動的な努力による達成を持ち出す論者には、これがいくらか予防線になるだろう。第二に、私が問題にしているのは、「「最後の美的対象」を選択することは、個々人にとって望ましいか」ではなく、「誰もがそれだけを選択することになった世界Zは、われわれにとって望ましいか」だ。前者の問いにおいてどうしても心理的抵抗があるのは、Lopesらの映画や「最後の美的対象」がもたらす画一的な美的生活を、いまだ十全に想像できていないからだろうと思わずにはいられない。いいものだと言われても、なかなか信用できないだけなのだ。問うべき問題は、世界Zにおいてあらゆる人が至上の美的満足を報告しているなか、そのような世界が美的に欠けているとしてなにがどう欠けているかだ。Riggleのように個性を持ち出しても、Lopesのように冒険心を持ち出しても、それがとにかく価値なのだというのはわれわれの世界Aに限った話で、世界Zでもそうなのだ(そして世界Zではそれが欠けているのだ)と述べるのは論点先取だろう。

記事にも書いたが、私は美的に画一的な世界のほうがよいとはまったく考えていない。この思考実験は、 しばしば反快楽主義に都合のいいように細部が隠されているか、十全に想像された場合にはもはやわれわれの直感では手に負えない。反快楽主義を動機づける直感ポンプとしては不当だ、とまで言えれば私は満足である。

2022/04/22

一昔前のJ-POPによくある文言だが、「君との出会いは運命」と「偶然だらけの世界で君と出会えた」の両方がロマンチックなものとして歌われるのは、よくよく考えてみると奇妙でおもしろい。どちらも特定の人間関係に価値があり、維持・促進すべきものだと伝えたいわけだが、ある出会いが必然である(あらゆる可能世界において出会っている)ことも、偶然である(一部の、おそらくはごく限られた可能世界においてのみ出会っている)ことも、同様に価値づけられるとはどういうことか。ひどい場合には、一曲の間に両方が歌われることになる。「偶然君と出会えた これはきっと運命」といった具合だ。(というか、「偶然の出会い」と「運命の出会い」はしょっちゅう交換可能なものとして使われているような気さえする。)

もちろん、形而上学的により正確なのは偶然性を述べるほうの文言だ。どう考えても、任意の出会いについて、出会わなかった可能世界が少なくともひとつはあるだろう。もっとも、歌われているのはそういったトリヴィアルな事実ではなく、出会っている可能世界が極小であり、おそらくは「貴重である」ということだ。もっともらしいかはともかく、「レアなものには内在的な価値があり、維持・促進すべきだ」という価値づけ規範が背後にはある。一方、運命や必然性を述べるほうの文言は、それとはぜんぜん違う価値づけ規範に則っているはずだ。正直、私にはこちらがなぜロマンチックなものとして機能するのかが昔からあまりピンときていない。天命を授かった高揚感ぐらいしか思いつかないのだが、それが価値であるためには、自由意思を差し置いてでも絶対的な導きに従って生きることを価値づけていなければならないと思うのだが、はたしてそうなのか。

あるいは、よりもっともらしい解釈としては、民間形而上学(撞着語っぽいが)では、運命とは必然性とは別のなにかなのかもしれない。それはむしろ、数ある可能世界のなかで、まさにいまここの世界にたどり着いてしまった不可解さをより直接的に指し示す語であり、偶然であることと両立可能な事態なのかもしれない。

さらにもっともらしいが面白みのない解釈として、「君との出会いは運命」「偶然だらけの世界で君と出会えた」も単なる表出だ。そこに「好きだ」という以上の含みはない。

2022/04/21

昨晩書いた「グルーヴとはなにか」の記事が、はてブでそこそこ伸びていた。書いたものが読者に恵まれるというのはやりがいを感じさせられるが、それと同時に多方面からマウントが飛んでくるのは、毎度ながらどうにかならないものかと思う。「グルーヴ」という主題もちょっと地雷ではあった。「考えるな、感じろ」という蒙昧がはびこっている分野だからこそ、ひとつひとつ概念を解剖し、整理し、反省可能な仕方で提示しているのに、そのような作業まで含めて野暮だとちゃぶ台返しされたらお手上げだ。「芸術」という概念がそもそもそういう人々に囲まれているので、批評にも美学にも救いはない。基本的に、まともにものを考えたり、長めの文章(言うても5000字ぐらいのブログ記事)を読むのに難がある人は、難を自覚してもっと謙虚になってほしい。

ということで結構むかついたのだが、実のところむかつくようなことを述べるコメントはそんなに多くなく、せいぜい5〜6個といったところだ。しかし、その5〜6個の存在が、数百の肯定的なコメントにもかかわらず書き手を直ちにむかつかせるというのは、ネットで活動している人であれば誰でも経験したことがあるだろう。今日は友人と『TITANE/チタン』を見てきた。序盤、無実の人々が理不尽に殺害されるのだが、見ていてしんどかったので、私にむかつくコメントをしてくる連中だということにして見た。

2022/04/20

スーパーでお菓子をドカ買いしてきた。カラムーチョ、ピザポテト、かっぱえびせん、フラン、チョココ、たけのこの里、鈴かすてらという欲望メンツだ。お菓子というのは、買わなければ買わないで別に不都合ない食べ物だが、家にお菓子があると生活にメリハリが出るのも確かだ。

2022/04/19

美的経験に関する分析美学上の論争といえば、ビアズリーvsディッキーと、ステッカーvsキャロルが有名だ。ビアズリーは経験に特別な内在的性質がある(統一性、強度、複雑性のある経験)と論じたのに対し、ディッキーはそんな現象学は疑わしいと考えた。ディッキーによれば、統一されていたり強度を持っているのは、美的対象(典型的には、芸術作品)そのものであって、経験ではない。ビアズリーとディッキーの立場は、ほとんどそのままステッカーとキャロルの立場に投射できる。ステッカーは美的経験には「それ自体のためになされる[for its own sake]」という内在的性質があることを重視するが、キャロルは美的対象側の美的な形式や質に注目さえしていれば十分に美的経験だと考えた。

こう見ると、内在主義定義をとるビアズリーとステッカー、外在主義定義をとるディッキーとキャロルで陣営ができており、このことはキャロルがディッキーに教わっていたことを踏まえるとかなり腑に落ちるものだが影響史はもうちょっと複雑だ。外在主義定義のルーツは、意外にもビアズリーであり、とりわけ、ディッキーに批判されて自説を修正したビアズリーなのだ(前に訳した「美的観点」(1970)なんかは、ディッキーに対してかなり譲歩的な定義になっている)。キャロルの立場はビアズリーvsディッキーの論争全体から引き出された、かなり分析美学分析美学した立場であり、対するステッカーは近代美学に由来したより伝統的な立場をとっているものと見られる。

伝統的に「美的経験」としてラベルづけられていた現象Xsがあるとして、それは単に対象の形式や質に注目することなのかと言われれば、キャロルの内容アプローチにはいくらか厳しさがあるように個人的には思う。一方で、伝統はともかく、今日の多様な美的生活におけるある特別な現象Ysを、包括的に捉える定義としては、ステッカーのように「それ自体のためになされる」という方が大げさで狭すぎるのだろう。ここでも、定義によって捉えたい現象のレベルで、いくらか対立があるように思われる。

こと美的価値を問題にするとき、ビアズリー=ステッカー的な価値ある経験を踏まえて、ものの価値を道具主義的に規定する(快楽主義)のがデフォルトではある。これに対し、改ビアズリー=ディッキー=キャロル的に美的経験を空虚に定義するとしたらどういう帰結が出るのか。そういう話を、今度の応用哲学会でする予定だ。

2022/04/18

デスクチェアのガスシリンダーが音を立てて昇天した。ハイデガーのハンマーばりに、壊れてはじめてガスシリンダーという仕組みを理解したのだが、そもそもこんなんで人の尻を持ち上げようというのがおこがましいのではないか。まったく、使えば使うほど安物を実感させられる椅子で、二年なら存外持ったほうだが、これを捨てる手間と新たに買う手間を考えるとうんざりする。これが生活だ。私はきっとあれこれ面倒臭がって、この壊れたままの低〜い位置からディスプレイを見上げる生活を、なんだかんだ二年ぐらい続けることになるのだろう。それもまた生活だ。

2022/04/17

今日も今日とてホットサンドを焼いている。私の朝食はすっかり、かの器具におんぶに抱っこだ。

2022/04/16

27歳になった。15歳の頃には、早々にロックスターになって、27歳にはジミヘンやカート・コバーンのように早死にするものだと信じて疑わなかった。残念ながらロックスターにはなれなかったが、幸運にもまだ生きている。

土曜の世田谷公園は人ん家の犬をたくさん見れるのでお得だ。とんかつも食べたし、激ウマチーズケーキも食べたので、休日の過ごし方としては言うことなしだろう。

恋人がおしゃれなテーブルランプをくれた。こまごまとしたものを片したらデスク周りがかなりすっきりした。27歳も張り切って読み書きしようと思う。

2022/04/15

Aesthetics: The Key Thinkersでウォルハイムのことを勉強した。精神分析にも明るいとは聞いていたが、人間の心にかなり関心を寄せていた哲学者らしく、理解が深まった。創作も鑑賞もある種の心の働きであり、画像表象も芸術表出も、①鑑賞者による心的関与+②芸術家による意図(画像表象だったら、seeing-inと正しさの基準)というふたつの契機から説明している。図式としてはダントーの芸術観に近いような印象も受けた。ダントーはこれから読む。ビアズリーはもう読んだ。ビアズリーについてはほぼ知っていることしか書いてなかったので、かなりイタコに近づいてきていると思う。

2022/04/14

非常勤の講義、初回のイントロダクションをしてきた。予定では1時間で一通り喋るつもりだったが、当日のタイムキープがガバで、後半のディテールを切りつつなんとか90分で喋りきった。基本的には、資料を上から下へと読んでいけばいいものだが、Zoomの虚無に向けて喋っているとなかなか相手の理解度が掴めず、不必要に説明を足してしまいがちだ。論文に注をつけまくってしまうのは読者への不信だというのをいつぞや書いたが、それと似ている。とはいえ、コメントシートを読んだ感じの手応えはまずまずといったところ。あとは場数だろう。

それにしても、こう授業後に質問やコメントが寄せられることには特別な充実感がある。mixiをやっていた頃(mixiをやっていた頃!?)はバトンというリレー式の自己紹介文化があったし、Twitterには質問箱文化がある。恥知らずにも前者に参入していたのは質問への回答が充実感を与えたからであり、後者に参入しないのはその充実感が自己承認欲求と結びついているのを自覚し恥じるようになったからだ。ちなみに、自己承認欲求を恥じるようになったら、いよいよ自意識過剰というやつだ。まぁ、そんなバックグラウンドとはなんの関係もなく、寄せられた意見のいくつかはシンプルにおもしろくてためになる。

ところで、「ティツィアーノとルーベンスの《アダムとイヴ》、どちらが好きですか」という投票は、きれいに半々に割れた。これはちょっと予想外だった。

2022/04/13

散髪してきた。もうかれこれ3年は「いつも通り」で注文している。なんらか新しい髪型を試す機運がないわけではない。学生で誰からも文句を言われないうちに、坊主をやってみたさはある。

2022/04/12

なんとなく『BLEACH』を読んでいたが、記憶していた以上に「難しいことはわかんねぇけどよぉ」な精神のマンガだった。ジャンプのバトル漫画の主人公は悟空にせよ花道にせよルフィにせよナルトにせよ、いわゆる「バカ」なのだが、ここぞというときに物事の本質を把握してすぐに行動できる、そんな人物ばかりだ。黒崎一護はもう少し精神年齢の高い人物なのだが、それでもごちゃごちゃ考えるのが苦手なタイプで、考えなしに突っ込んでは大怪我してばかりだ。無責任な一般化として、平成とはそういう人格が尊ばれる時代だったような気もする。頭だけいいやつもうGood nightというわけだ。

最近の竈門炭治郎とか緑谷出久はもっと理性的に行動できる人物として描かれている(虎杖悠仁はバカだが)。別に子供は好きなのを読めばいいのだが、模範となる人物像がこのように相対化されたのは、教育的にはよいことだと思っている。「竈門炭治郎が長男の生きづらさを再生産している」なんて言う人々は、ろくにマンガを読んでいないのか、よほど暇なのか、その両方なのだろう。

2022/04/11

アルヴァ・ノエのStrange Toolsについて、ノエル・キャロルが書いた書評を読んだ。キャロルの紹介だけ読むとノエの立場は、われわれの組織化された日常を異化し、意識に上らせ、反省させ、再組織化を促す点に芸術の本質的目的があるとするものらしい。発想源はもちろんハイデガーの壊れたハンマーだ。道具は生活へと有機的に組み込まれており、普段は自覚なしに使われるが、壊れたときのみそのメカニズムに注意を向けられる。芸術ははじめから壊れた日用品「奇妙な道具」として提示され、生活を異化するというのが基本的な図式らしい。もちろん、そんなアヴァンギャルド偏重の一般論がうまくいくはずもなく、キャロルもその点を問題視しているのだが、個人的に気になったのは、ノエの立場がほとんどそのままグレアム・ハーマンのそれである点だ。オブジェクト指向存在論における「魅惑」や「代替因果」あたりの発想源もハイデガーのハンマーやシクロフスキーの異化だったはずだ。どうもこう、芸術や美的なものを左翼革命的な図式で理解したい人はどこにでもいるらしい。

キャロルの立場は、芸術の非前衛的機能、たとえば宗教的な機能や政治的な機能をフェアに認めるもので、端的にいってほとんどの芸術は「奇妙な道具」などではなくふつうの日用品だと認める立場だ。批評におけるキャロルのヒューリスティックを見ても、そこには芸術作品とその他の人工物を区別せず評価する態度が見て取れるし、総じてノエル・キャロルは芸術に芸術ならではの本質やアプローチを認めたくない立場なのだろう。進化心理学的に見て、芸術とその他の実践で目的や手段がカブっているのは冗長性の担保であって、はっきり区別できると考えるほうがおかいという説明は、それなりに頷けるところだ。

2022/04/10

「○○に関する議論は、あらかじめある客観的な真実をめぐるものではなく、構築的な真実をめぐる交渉なのだ」という話の落とし方は、多くの場合○○という事象に関して正確なものだろう。しかし、そこから導かれがちな帰結「○○に関する議論は不毛である」を回避するために出される論証、すなわち交渉という活動の意義づけについては、あまり賛同できないことが多い。何度か書いた話だが、そうしてディベートすることに積極的な意義を見いだせるのは、健康的にディベートできるコミュニティに限られる。XがFであるかどうかは話し合い次第なので、ちゃんと理由を添えて主張せよ、という規範がいつでもどこでも成り立つと考えるほうが間違いだろう。理由付けられた主張をしたりされたりすることは、すでにひとつのスキルなのだ。そのようなスキルを養い養わせることは一種の啓蒙主義にほかならないわけだが、教育が○○に関する個々人の経験を豊かにしない限り、学ぶ意義は見いだされづらいだろう。

結局、声が大きく口先の回る人物の意見が構築的真実になる、という帰結も不都合だ(それもまた真実である見込みが高いのだが)。「エビデンスに基づいて議論しよう」という規範は、それはそれで気味の悪さを伴いがちだが、ともかく、その背景には「どうせ客観的な真実はないので交渉しましょう」というより一層気味の悪い規範への反動があるように思う。

2022/04/09

国立新の「メトロポリタン美術館展」に行ってきた。目当てのカラヴァッジョも良かったし、サムネイルのラ・トゥールも良かった。出展数はやや少なく感じたが、中世における宗教との結びつきから、絶対王政のバロック・ロココを経て、セザンヌやモネらの前衛に至る流れを作っている。土曜日で人も多かった。なんだか異常に早く一日が過ぎてしまい危機感を覚えたが、異常に楽しい一日だったというだけかもしれない。

2022/04/08

読み直していて、ウィムザット&ビアズリーによる「意図の誤謬」は実際のところ、表出説の誤謬なんじゃないか、という気づきを得た。意図主義というのは、作者がなんらかの命題的な心的状態を持ち、それを作品によってコミュニケートし、その事実が作品の意味論的内容を定める(正しい解釈によって引き出される意味とは、作者の意図した意味である)、というものとしてざっくり理解できる。一方、「意図の誤謬」で叩かれているロマン主義的な芸術観・批評観は、感情や精神性の現れとして作品を捉える立場のように読める。おそらくは、言語哲学やフィクション論に十分な積み立てがなく、作者による表出と意図伝達が同一視されていたのだろう。しかし、両者は区別すべき問題だろう。たぶん、「意図の誤謬」が言っていることを現代哲学の用語で要約するなら、作者の持った心的状態は、作品の表出的性質にとって必要でも十分でもない、ということだろう。厳粛態度で記されたからといって、小説が厳粛なものになるとは限らない。このことは、「意図の誤謬」のほとんどが(解釈と意味の話ではなく)評価と価値の話になっている点も説明してくれるかもしれない。意味論的内容は価値とはただちには結びつかないが、表出的性質はしばしば価値含みだからだ。

表象内容の帰属、具体的には「『インセプション』の最後でコマは停止したのか」は意図によって定まるのか、といった事柄は、どうも「意図の誤謬」の射程外のように読める。いずれにしてもこの読みに自信はない。そして、自信を深めるために精読するには、「意図の誤謬」は感じの悪いテキストだ。いちいち格好つけているのウィムザットのせいなのかビアズリーのせいなのかは分からない

2022/04/07

いつも17:00ごろに家を出てバイトへ向かうので、外の明るさで季節の移り変わりを実感している。昨日はほのかに西日が差していた。冬は辛気臭くてきらいなので、はやく夏になってほしい。

2022/04/06

Notionのプラグインがあったので、ポモドーロテクニックを導入して作業しているが、けっこうよい。25分集中して5分休むというペース配分も割と気に入っているし、その25分でやることを明確にして、それだけをやるという気持ちの引き締めが、飽き性にはいい薬だ。25分ごとに立ち上がって体を伸ばすのは、死を遠ざけている実感が具体的にあってうれしい。

2022/04/05

Evan Malone「ふたつのグルーヴ概念:音楽的ニュアンス、リズム、ジャンル」を読んだ。JAACでforthcomingになっている音楽の哲学論文だ。グルーヴに関する議論は、2014年に出たTiger C. RoholtのGroove: A Phenomenology of Rhythmic Nuance以降、じわじわ注目されている模様。グルーヴとは言うまでもなく、「Cold Sweat」や「Hang Up Your Hang Ups」に含まれるアレのことだ。

Maloneがふたつのグルーヴ概念と呼ぶのは、①Roholtらが扱っている、マイクロタイミングなどの音楽的ニュアンスを取り入れていることを指すgroove-as-feelと、②リスナーを踊りたくさせるような喚起能力を指すgroove-as-movementの区別だ(命名は正直イマイチだと思う)。前者は、個々のノートがオンタイムの演奏よりもわずかに(知覚はできるが言語化ができない程度に)早いか遅いかで、プッシュとかレイドバックと呼ばれる演奏法のこと。後者は、単にダンサブルであることでもあり、BPM100〜120のテンポ、パーカッシヴさ、シンコペーション、低音域の明瞭性など、さまざまな要因によって実現される。理論家や哲学者がしばしば取り上げるのは前者だが、心理学者が実験などで問題にするの後者らしい。心理学的実験では、①プッシュやレイドバックの採用が、必ずしも②踊りたくなるような感覚を与えないどころか、場合によっては低減することが報告されているらしく、これを根拠に①はグルーヴ理論として間違っているとも思われがちだが、そもそも異なるグルーヴ概念を扱っているのだ、というのがMaloneの主張になる。真理条件で言えば次のようになる。

  • ある楽曲/演奏/録音Xは、groove-as-feelを持つ ⇔ 特定の音楽的ニュアンス(マイクロタイミングにおいて早い/遅い)を持つ。

  • ある楽曲/演奏/録音Xは、groove-as-movementを持つ ⇔ そのリスナーに、踊りたくなるような感覚を喚起する(すなわち、ダンサブルである)

説得的な話だ。「グルーヴを持つ」「グルーヴィーだ」という帰属はこの意味で多義的であり、①特定の内的な形式的性質の指摘にも使われるし、②リスナーに与える特定の効果の指摘にも使われ、一方は必ずしも他方を含意しない、というわけだ。前者はさしあたり非美的性質だが、後者は美的性質ということにもなるだろうか。また、この区別や、語られ方の違いの由来を、ジャンルの違いに対応付けているのも面白い。楽曲や録音よりも、演奏を重視した実践であるジャズではしばしば①groove-as-feelが問題となる一方で、楽曲や録音も重要であるポピュラー音楽(この中にはポップスやファンクが含まれる)では②groove-as-movementが問題となりやすい。ある楽曲/演奏/録音に「グルーヴを持つ」「グルーヴィーだ」を帰属できるかどうかは、その音楽やミュージシャンやリスナーが属するジャンルに左右される。

ジャンルごとに期待される閾値が異なる(「パンクとしてはグルーヴィーだが、ファンクとしてはそうでもないね」)という話ではなく、ジャンルごとに適用される概念の中身が変わっているという話だ。Maloneは"なので"一般的に美的概念を考える上では(RiggleとかNguyenとかKubalaの)コミュニタリアンな理論を持っておいたほうがいいかも、という話に持っていこうとする。このムーヴは最後にちょっとだけ出てくるのだが、議論の流れ的に妥当でも必要でもないだろう。Riggleらのやっていることに関してはまだ全貌が見えているわけではないが、ここでMaloneがしている話とは主題においても道具においてもまったく別物の領域なんじゃないだろうか。あるいは、「美的なものは、ジャンルとか実践集団単位で考えるのが重要だよね」ぐらいの話でしかないのだろうか。ちゃんと読んでいないので分からない。

それよりも、Roholtはマイクロタイミングで性質としてのグルーヴを説明しつつ、その「知覚」に関しては、メルロ=ポンティを引きつつ身体動作との相互作用を必要条件としているらしく、そちらにも興味を持った。メルロ=ポンティは博論でも使おうと思っているアイデア源のひとつだ。

2022/04/04

星のカービィは、小さい・丸い・柔らかい・淡いなどの非美的性質によって「かわいい」という美的性質が適切に差し向けられる対象なのだが、その正反対、でかい・四角い・硬い・濃いものといえば、モノリスである。デデデ大王は、丸っこいしカラフルで柔らかそうなので、カービィとは好対照になっていない。もっとシリアスなラスボスは、黒っぽくて・非物質的で・スケールがでかい。煎じ詰めればその形態は物言わぬモノリスになるだろうし、カービィvsモノリスという対立は、赤ん坊と宇宙の対立にそのまま落とし込んで理解できる。かなり硬派な主題を持ったSFなのだ、星のカービィというのは。

カービィシリーズのゲームはたくさんやってきたが、あの赤ん坊のメタファーを操作し、宇宙のメタファーに打ち勝つ経験は、私の人間形成にとって少なからぬ影響を与えたと思う。小さい・丸い・柔らかい・淡いものが、でかい・四角い・硬い・濃いものを打ち勝つというのは筋が通っておらず、ほとんど夢物語だ。しかし、子供に必要なのは、「あなたは宇宙の崇高さに比べたらなんてことない塵なのだ」という正真正銘の真実よりも、耳あたりのよい夢物語であることは言うまでもない。カービィとは人間の肯定である。

2022/04/03

Frank Hindriksの「制度理論を統一する:ペティットのバーチャル・コントロール理論への批判」という論文を読んだ。話題的にはちょっと当てを外したが、哲学美学にも関わるメタ理論の話で面白かった。

話題は、競合するふたつの理論を統一[unify]するやり方に関するもので、調停[reconciliation]と統合[integration]が区別される。ヒンドリクスは統合推しだ。ざっくり言えば、理論Aが「事象Xは要因Aで説明できる」と述べ、理論Bが「いやいや、事象Xは要因Bで説明できる」と述べているときに、「事象Xのうち、X1は要因Aで説明され、X2は要因Bで説明される」みたいに被説明範囲を住み分けさせるのが調停による統一だ。ペティットの「バーチャル・コントロール理論」によれば、①人間はリスクの低いデフォルト状態では特に反省せずルールに従い、②リスクが高くなると自己利益を意識して行動する(仮想的な背景と化していた自己利益の原理が前景化する)。前者は制度の持続性を説明し、後者は制度の回復性を説明していることになる。ここでは、ルール遵守の原理と、ルールを破ってでも自己利益を追求する原理(これは均衡をもたらす)が、区別された状況の区別された事象(持続性と回復性)に即して別々に使われている。もともと競合しているとされた理論(ルール説と均衡説)は、別々の被説明項を持つ点で、もはやライバルではなくなる。

これに対し、ヒンドリクスの「ルールかつ均衡理論」は、ルール理論と均衡理論を統合する試みだ。曰く、制度とはルール(規範)によって支配された社会実践(=社会的規則性=繰り返し均衡)である。ヒンドリクスはグァラと仕事をしていた人で、二人のアイデアはかなり似ている(ヒンドリクスは相関均衡は使っていなかったが)。社会規範による社会実践の支配[govern]については、ルールによる動機づけを要件としており、行動選択においてルールと自己利益は同時に関与することになる。実際、本論文を読んだだけではヒンドリクスの理論は(とくにグァラとの差分)はあまりわからないのだが、ともかく、「ルールかつ均衡理論」は統合による統一を通して、制度の持続性も回復性も、おまけに脆弱性も説明できる。統合とは、「事象Xは、要因Aと要因Bの再構成によって説明される」ような統一を指す。

結論としては、事象をしっかり区別すべきだったり、異なる道具立てがどうしても必要でない限り、調停による「分割統治」よりも、統合による「解体・再構築」のほうが望ましい、ということになる。私のメタ理論的直観にも沿った結論だった。特定の個別者の描写は意図主義だが、性質・種の描写は非意図主義でやる、という私が持っていた描写の理論も再考の余地がありそうだ(最近はあまり描写のことを考えられていない)。

2022/04/02

金沢21世紀美術館の「フェミニズムズ」展に関してとやかく言ったら上野千鶴子に怒られた人のツイートが流れてきた。もろもろ目を通したが、いわゆる「評価に関しては合意しているのに、その過程において批評的対立がある」ケースだ。

上野論考の論点はいくつかあるが、①マジョリティ(男)としての安全圏からフェミニズム関連の諸々がこわい/こわくないみたいな価値判断をするな、という論点はともかく、②脱ジェンダー化への価値づけはクリシェだからやめろ、という論点はそれなりに学びがあった。「…男性には決して向けられない、「ジェンダーを超えた」という評価が、女性のアーティストに対する褒め言葉になってきた」というのはそれなりに実情に即している手触りがあるし、自分も気を抜くとそういったクリシェで作品を価値づけてしまうことは白状しなければならない。具体的には、『ジャンヌ・ディエルマン』に★5.0を付けつつ、「フェミニズム映画として意図された目的を十二分に達成していることは言うまでもなく、その枠にとらわれない大傑作だ」と述べている私もまた、上野論考の矛先にあるのだろう。

脱構築っぽいことを書いておけば締まりがいいだろうということで、批評的に楽を取っている点には反省があり、批評として新鮮味がないと言われれば私は両手を挙げて降参するだろう。それはそうと、であるとして、ヘテロ男性の立場から『ジャンヌ・ディエルマン』を褒めるにはほかにどんな言葉がありえたのかと、開き直りたくなる気持ちもないではない。いずれにしても、そのフェミニズム映画は私に特定の経験を与えたわけだが、それを言葉にする主体がヘテロ男性であった途端に、批評が挫折するとしたらあんまりだろう。にもかかわらず、上野論考の語り口には、まさにそう考えている感が見え隠れする。端的に言って、男は黙れ、というわけだ。(精神分析は趣味が悪いが、上野論考も半分ぐらいが人様への精神分析なのでイーブンだろう。)

任意の社会運動に関して言えることだが、特定の集団の経験を改善するという目標を忘れて、〈刺し違えてでも自尊心を守る〉フェイズに入ってくるともう救いがない。粛々とスモールワールドのことを優先し、欲望と理性の均衡において行動を選択し、好きなものを好きと述べ、意識できる範囲で道徳的に振る舞いつつも無意識に人を傷つけ、取り繕い、一日一日を過ごす。それ以上にpolitically correctな批評も生活も、私には思いつかない。

今日はちょっと歩いたところにできた評判のラーメン屋に行ってきた。抜群に美味しかった。

2022/04/01

新入社員の憂鬱がこちらまで伝播してきそうなタイムラインだが、いつもながら、怒鳴ってくる目上の人間というのが一人でも減れば、世界はひとつベターになりそうなものだ。人間はどんなミスをしたって、他人によって大声で恫喝されなければならない、なんてことはない。怒鳴る怒鳴られるは実存に関わる問題だ。我が子に対してもそんなことするべきではないし、法のもとに平等である赤の他人に対してそんなことができる人間はどこかひどく損なわれている。二十歳を超えて、不満に対して大声を出すことでしか対処できないなんてみじめ過ぎるだろう。無視するとか、見放すとか、あるいは粛々と経済的制裁を加えるといったハラスメントは、私が思うに、怒鳴るというハラスメントに比べると遥かに軽い問題だ(是正すべき問題に変わりはないが)。怒鳴らず、怒鳴られずということで生きていけるなら、私はそれでいい。

2022/03/31

年度終わりなので、幾人かの教え子たちとお別れをしてきた。かつての私と私が教わった塾講師のように、もはや互いに二度と会うこともなく、やがて顔も名前も定かではなくなっていくのだろう。忘れられた思い出はミオによってミルラのしずくへと変換され、ミルラのしずくがクリスタルを清めることで、世界は循環していく。

2022/03/30

カフェノマドで、AbellのFictionを読んでいた。この本は前に書評を書いたのだが、後ろのほうを読み込めていないので、4月上旬までにそちらを片付けられればいいなと思っている。今日は前のほうしか読めていないが、Abellの議論にはやや変な前提があるのが気になった。

Abellの関心はフィクションの認識論であり、鑑賞者がいかにして正しい虚構的内容にアクセスするかである。詳しくは書評を読んでくれれば結構なのだが、Abellを理論的に動機付けているのは、フィクション解釈の場合、現実のコミュニケーションみたいに発話者の意図へとアクセスする諸々の解釈戦略(会話の含み、合理性の前提など)が使えないことだ。ここで、Abellは現実の話者とフィクションの作者の間に、シャープな線引きをしている。それで、後者を相手取った解釈のガイドとして、フィクションの制度が持ち出されることになる。

その過程で、これはダメだとして退けられているのが、Waltonらが出している、「作品は、作者が属する共同体において、作者の虚構的発話内容と、矛盾しない範囲だと信じられている範囲の虚構的内容を持つ」という原則だ。あるキャラクターAがBと結婚している場合、明示されていなくても、作者の属するコミュニティーのメンバーにとってAみたいな人はふつうBとの結婚を後悔すると信じられているならば、「AはBとの結婚を後悔している」という内容を作品に帰属して構わない、ということになる。Abellが問題視するのは次の点だ。この原則を取った場合、作品の正しい虚構的内容は膨大に膨れ上がることになる。例えば、明示されていなくても、「Aにはへそがある」みたいな虚構的内容もまた真だろう。しかし、作品解釈において、「Aにはへそがある」みたいなどうでもいい内容を見落としたからといって、解釈が失敗したとは言われない。ゆえに、解釈のための原則は、実際の解釈が取り出すような内容の範囲内に即して、もっと限定的でなければならない。(4-5)

論証としては、おそらく次のようになるだろう。Waltonらの原則を「矛盾しない範囲」説と呼ぶ。

  1. 「矛盾しない範囲」説だと、虚構的内容は異常にリッチになる。

  2. 適切な・正しい解釈は、虚構的内容をきっちり取り出すべきである。

  3. 虚構的内容が異常にリッチだと、虚構的内容をきっちり取り出すのがほぼ無理。

  4. 2∧3より、虚構的内容が異常にリッチだと、適切な・正しい解釈がほぼ無理。

  5. 1∧4より、「矛盾しない範囲」説だと、適切な・正しい解釈がほぼ無理。

  6. 適切な・正しい解釈をほぼ無理にするような、虚構的内容の理論は間違っている。

  7. 5∧6より、「矛盾しない範囲」説は間違っている。

引っかかるのは前提2だ。Abellの言うとおり、「Aにはへそがある」みたいなどうでもいい内容を見落としたからといって、解釈が失敗したとは言われない。しかしそれを、「矛盾しない範囲」説では広すぎることを示す反例として読むのはいささか奇妙だろう。「Aにはへそがある」は依然として正しい内容であり、理論的に十全な解釈を行う上では見落としてはならない内容なのだが、実践的になされている解釈は断片的に正しい内容を取り出していれば十分に適切・正しいと言える(十全な解釈をする必要がない)、というのが実情ではないか。「矛盾しない範囲」説がどこまで有望かはわからないが、Abellはこの立場を十分に退けられていないのではないか、というのが最序盤へのツッコミだ。

2022/03/29

薬を飲むのが苦手で、n錠あるとn回飲む動作を反復しなければならない。薬を飲んでいるという事実が喉が緊張させ、通りがわるくなるのだ。おいしいうどんなんかは、一口2噛みぐらいで丸呑みしている。

2022/03/28

紙のノートをほんとうに使わなくなったのだが、紙になにかを書くこと自体は好きなので、(また、使うあてもなく買った良さげなノートをいくつか積んでいるので、)どうにか生産性の一部に組み込めないかと考えていた。紙でしかできないことを考えたが、とっさに図を書くことぐらいしか思いつかないし、それだったらメモパッドでよいのだ。そもそも、大学受験が終わって以後、ちゃんとコンセプトを守って一冊のノートを使い切った試しがないかもしれない。たいてい雑記帳になるか、使い切らないうちに押入れ行きだ。

この前、実家に帰ったとき、高校時代に使っていたモレスキンを発掘したが、それも雑記帳と化していたし、2/3ぐらいしか使っていなかった。Evernoteとコラボしたやつで、付属のステッカーを貼ったページを専用のアプリで読み込むと、タグ付きでデジタル化できるという触れ込みのモレスキンだった。結局、ステッカーはもったいなくてほとんど使ってなかったし、Evernoteはすっかり時代遅れになってしまった。内容としては、ライフログ、受験勉強のToDo、お絵かき、写真のクリップなど、わりに充実しており、楽しかった受験生活を思い出す

2022/03/27

ビールを切らしていると買いに行くのも億劫なので、しばらくの間禁酒できる。飲むとQOLが格段に上がるが、飲まなくても平均以上のQOLで暮らしている自覚がある。嗜好品が嗜好品と呼ばれる所以だ。

2022/03/26

天気がわるく、元気の出ない一日だった。

Darren Hudson Hickによる美学の教科書をちょっとだけ読んだ。解釈と意図の章だ。解釈において意図はどれだけ関わるのか/関わるべきかというトピックはもうほとんどデッドロックだと思っている。というのも、カバーすべき事例をカバーできているかで理論が評価される以前に、カバーすべき事例についてのコンセンサスなさすぎるのだ。Hickの挙げる例だと、トム・ウェイツは「Last Leaf」を「ただの葉っぱについての曲」だと語っているが、同曲はどう考えても死のメタファーであり、死のメタファーとして説明できないなら意図主義には問題がある、という流れになっている。問題はこの「どう考えても」の正当化だろう。それはもう、どの理論が事象をうまく捉えられるかの対立ではなく、肝心の事象とはどれなのかの混乱でしかない。Hickも章の最後にGautのパッチワーク理論を置いているように、ケースバイケースというのが恒例のオチになるだろう。ケースバイケースであることを認める慎重さは重要だが、「ケースバイケースである」という結論自体は正しいとしてもほとんど面白みがない。それは、問題設定のサイズが不適切であったことの告白ですらある。

2022/03/25

お寿司を食べた。はまち、えんがわ、マグロ赤身、あぶりえんがわ(塩レモン)。海苔すまし汁を二杯飲んだ。今日は直前にカフェでフライドポテトとトリカラを食べていたので、少数精鋭だ。

2022/03/24

親子丼はわりに好きな丼だが、特別美味しい親子丼というのは食べたことがない気がする。いつでもどこでも75点ぐらいの食べ物だ。感動するレベルの親子丼を一度は食べてみたい。

2022/03/23

Peter Shiu-Hwa Tsu「Of Primary Features in Aesthetics: A Critical Assessment of Generalism and a Limited Defence of Particularism」というずいぶん長いタイトルの論文を読んだ。批評的基準に関する三人の一般主義者(ビアズリー、シブリー、ディッキー)がそれぞれ失敗していることを示し、個別主義をちょっとだけ擁護する論文だ。各立場に対する反論は論争史的に既出のものが多く、目新しいツッコミはなかったものの、当のトピックについてさっくり読める良いサーベイになっている。

思うに、ビアズリーの一次的基準(unity、complexity、intensity)がうまくいかなかった理由のひとつは、欲張って三つも挙げたからだ。たしかに、どれもよい芸術作品の持つ性質としてしばしば言及されるものだが、あればあるだけ作品がベターになるというには、組み合わせたときの反例があまりにも多い。

例えばだが、つねに一次的基準となるのはもうとにかく統一性だけだ、という一元論ではどうだろうか。私には複雑性や強度がなんぼあってもいい性質というのがいまいちピンとこないが、統一性(首尾一貫性+完全性)というのであればまだ分かる。この場合も、「脱構築な作品にとって統一性は欠点である」という反例が残るが、そうして挙げられる反例が脱構築な作品という極端なケースぐらいでしかなければ、反例に対する直観を修正する道もいくらかは生きるだろう。すなわち、カオスな作品は、別の偶然的な長所において全体としてはよいのだとしても、カオスだけとればより悪い作品なのだとか、カオスなように見えて、実はそこには高次の統一性があるのだとか、言えそうなものなのだ。後者としては、例えば「カオスを生み出す」という中心的な目的に沿って、適切なパーツが適切に配置されている様を、目的に対する手段のunityとして語れなくもないような気がしないでもないかもしれない。

おそらくは、一面を単色で塗っただけの絵画のように、unityはあっても傑作とは言い難い作品のほうが、反例としては深刻なのだろう。これを回避する道はとくに思いつかないが、その価値のなさを論じるためにcomplexityの欠如を言い出すと、一元論は破綻することになる。実のところ、unityがないのだ、というのは結構無理があってしんどいと思う。

いずれにせよ、その一元論をとるためには気合を入れてunity概念を定義しなければならないが、あらゆるケースをカバーするためには内包的にかなりゆるいもので満足しなければならず、最終的には「統一性がある」と「(端的な)良い」がほとんど区別がなくなってしまうのではないか、という懸念もある。上述の論文にも、一次的基準の一元論が可能性として一瞬だけ触れられるのだが、歴史的に見てもこういった立場をとった論者はいないのかもしれない。

2022/03/22

ポモの悪口はそれなりに言ってきたほうだが、実のところ私はポストモダニズムとして総称される思想的文化的動向がそれなりに好きだし、そこに含まれるアイデアや視点には価値あるものが多いとさえ考えている。ボードリヤールを読んでいなければ、私が哲学をやることはなかっただろう。結局のところ私が憎悪しているポモは、ポストモダニズムの思想群というより、そこに傾向的に含まれる蒙昧主義なのだと言うのが正確だろう。蒙昧主義は必ずしも、ポストモダニズムの書き手に限った問題ではない。ろくにものを考えず、それっぽい雰囲気作りのために修辞を凝らすというのは、芸術作品のステートメントから政治家の発言まで、ろくにものを考えていない人々からなる現実世界においてありふれている。問題は、無知に対してどれだけ謙虚になれるか、言えることを言える範囲でどれだけ明瞭に言えるかであり、カオスを正当化することではない。

2022/03/21

実家で水餃子を食べた。実家で出る点心は、私が地上で最も上手いと思っている食物のひとつだ。夕飯にはすき焼きも食べた。どちらも、一人暮らしではまず食べることのない料理だ。

2022/03/20

意見対立や論争の意義に対して英語圏の論者がやたらと楽観的なのは、健康的でリスペクトフルな議論をしょっちゅうしているからにほかならないのだろう。「必ずしも意見の収束を目指したものではなく、互いの意見を交換することで、他者理解や世界理解が深まる」云々の見方は、最近かなり目にする気がする。しかし、そういった見解においては、自分とは異なる意見を提示されたときの被侵害感、自分の意見を(字面上だけにせよ)否定されたときの不快感を、まったくもって無視しているか、そういった感情を脇に置いてこそ理知的な現代人だと言わんばかりの趣がある。

日本人はそういう態度をとれないとか、大学を出ていない者はそういう態度をとれない、みたいな話に落とす気はないが、そういう態度をとれない人がいるのは事実だし、それもめちゃくちゃたくさんいるのだろう。それは必ずしも悪しきことではなく、「言い争っても友達」みたいなクールネスこそ、ヒトにとっては無理のあるものではないかと思うときすらある。もちろん、これらの反対にある「気を遣って意見を言わない」「意見対立はなあなあで済ます」は別の地獄に繋がっているので、どうしようもない。結局のところ、議論したければそこが否定共同体かどうかを適切に見定め、それ以外の場所での意見対立についてはもうちょっと感情に気を配る、といういつものオチになりそうだ。

2022/03/19

ドレイファスによる行為論を学んだ。私の一昼漬けの理解ではそれは、行為の一部は世界との関係においてアジャストされた身体が目下の状況に対して反応することでなされる、という説明だ。そのような反応は、命題的・概念的な計画や意図によらず、知覚対処[coping]の積み重ねによるフィードバックループに基づいている修士の頃に信原幸弘先生の講義で人工知能の哲学を学んだときにも同じようなアイデアがいくつかあった(ギブソンのアフォーダンス、私がレジュメを担当したティム・ヴァン・ゲルダーの力学系理論)が、いずれも源泉はハイデガーとメルロ・ポンティらしい。計算主義・表象主義的な知能観や行動観の乗り越えとして、世界内存在や肉といったアイテムが重宝されているのだろう。

芸術哲学に関しても、創作と美的経験はこの種の説明によっていくらか見通しが良くなるかもしれない。芸術家ははっきりと述べられる計画において創作することはまれであり、トライアルアンドエラーの積み重ねや、熟練によって自動化された運動、産物と自己が調和する感覚の役割が大きいのだろう。このことは、意図主義が念頭に置くような作者の意図についても見直しを求めるだろう(この辺は最近お話した感じだと村山さんの関心に近いようだ)。他方で、作品を見たときの美的経験にも、同じようなプロセスが言えそうだ。私は作品のうちになにかを求め、見逃し、探し続け、見つけ、ハーモニーを経験する。あるいは、作品と自己が調和する感覚こそが美的経験なのだとしたら、創作こそ部分的には美的経験なのだという、それなりに穏当で見栄えのいい主張も出てきそうなものだ。

2022/03/18

見逃していたが、存じ上げない方から一年前の倍速記事へのコメントをいただいていた。

彼/彼女の論は、私がざっと読んだところでは、「場合によっては倍速鑑賞は構わない」という結論を私と共有しつつ、私が倍速否定派に対して譲歩している前提「倍速鑑賞のわるさのうち少なくともひとつは、作者の意図した仕方(等速)ではない鑑賞をしている点に起因しうる」に反対し、私の退けた見解「意図とか真正性とか失礼とかどうでもいいだろ!」が正当であるような場面もあると主張するものになっている。基本的には、私の意図主義に対する譲歩を、意図主義に対する擁護として読んでいるようなきらいがある。

「これらの議論は、論者の立場上、作品の意義(芸術的価値)を不当に取りこぼす・損なうといった事態について大きな関心が払われており、だからこそ「真正でないかつまたは失礼である」という批判にまともに付きあうかたちで、こうした批判を回避するための道筋を探るものだった。

だが、ぶっちゃけた話、作者が前もって「意図」したような「真正な」鑑賞体験であるということは、そこから生まれる批評が正当なものであることをサポートしない。」

上に引用した段落で、彼/彼女はすでに私の記事の意図(!)を十分に汲んでいるはずなのだが、以下段落ではどうも意図主義への批判を私に差し向けているようで、そうだとしたら的外れというものだ。というのも、「倍速鑑賞は作者の意図を無視していてダメだ」という主張は、私において「たとえ〜だとしても[even if]」のスコープに入る仮定でしかなく、そうせずに倍速鑑賞を肯定できることは、私にとっておおいに結構だからだ。私が立てた論証は、「たとえ意図主義的に見なければならないのだとしても、倍速鑑賞が構わないようなケースがある」というものであり、「意図主義的に見なければならない!」なんて主張していないのだ(チャートに書いた文言がややミスリードだったことは認めなければならない)。「作者の意図を重視しない解釈実践があり、当の実践と相対的に言えば倍速鑑賞もただちにはわるいとは言えない」という趣旨の主張は私も完全に同意することであり、総じて彼/彼女の見解と私の見解にはなんら実質的な対立点がないのだ。

学びとしては、「たとえAだとしてもBだ」を「筆者はAだと言っている」で読んでしまうのはネット論壇にありがちな誤読なので、気をつけていきましょう、といったところだ。受験現代文の誤答でもよくある。

2022/03/17

2021/10/12ぶりに雨のなか自転車を漕いで退勤した。瀬戸内海はさんさんと日が照っていたのに、東京はねちねち雨が降っていてむかつく。

2022/03/16

最終日。連日の遅寝早起きのツケを払いつつ、朝風呂をいただき、チェックアウトして朝うどんを食べに行く。セルフのお店で、自分でうどんを湯がくスタイルだった。美味しかったので、お土産の半生うどんもここで買っていく。

高松港からフェリーで男木島へ渡る。目当ては猫だ。港では茶色い子に目をつけられ、熱烈な歓迎を受ける。私は犬派なのだが、あの甘え方をされては党派も揺らぐというものだ。

山に登ったところにある休憩所で、親切なおじさんの作ったタコ飯をいただく。港が一望できるテラスで、たいへん心地よい。さっき会ったのはミミちゃんという、島内外で大人気のスーパーアイドルだということを教えてもらう。島の猫たちはどの子も名前がついているらしく、おじさんの知識がすごかった。気配をかもしながら歩いていると猫の方から出てきてくれるらしいので、言われたとおりにしながら島を練り歩く。はじめの方はなかなか見つからなかったが、水辺の日陰にはくつろいでいる子がたくさんおり、存分にモフることができた。フェリーの時間ギリギリまでモフっていたので、またしても港まで走る。

高松港へ戻り、ベトナム料理店でバインミーを食べる。会計が間違っていることに後で気づいてバタバタしたが、なんとか解決した。空港へ向かう前に、うどん締めを執り行う。高松のうどんは最後まで最高に美味しかった。うどんという食べ物には、基本的に飽きが無縁だということを実感する。

成田までジェットスターで飛び、バスで帰る。終電近くだったので結構バタバタした移動になり、水分補給のチャンスがなかったので、二人してカピカピになった。溜池山王でやたらと車両が揺れていたので、なんてヤクザな駅なんだろうと思っていたら、バカでかい地震だったらしく、一時的に運休になってしまった。地下鉄は地震に強い構造になっている、というアナウンスが頼もしかった。

どうにか帰宅に成功し、シャワーを浴びて寝る。停電しておらず、ものも落ちていなかった。

2022/03/15

三日目。南珈琲店でお得なモーニングセットをいただいた後、岡山へ向かう。大きな町だ。

後楽園は時期がいまいちで大きな見どころはなかったが、ほどよい散歩スポットだった。タンチョウ、でかい。

倉敷へ移動。昼食はとんかつかっぱが目当てだったが、すごく並んでいたので断念し、みそかつを食べる。みそかつは美味しかったが、追加で頼んだ1200円のエビフライが2本で、「2本!?!?」となった。が、ブリッブリで美味しいエビではあった。

美観地区をめぐる。金沢よりももう少しモダンな町並みで、川もサラサラできれいなところだ。倉敷珈琲館でいただいた琥珀の女王も抜群に美味しかった。地ビールの独歩を購入し、高松に戻る。

夕飯は奮発して、スペイン料理のコースをいただいた。ステーキもアヒージョよかったし、パエリアも久々に食べたので美味しかったが、閉店ギリギリだったのやや急いで食べた。恋人の体調が優れなかったが、不屈の精神で晩酌を決行し、寝る。

2022/03/14

二日目。朝からうどんを食べ、小豆島へ向かう。香川のうどん屋は朝昼と夕夜で別れており、両方やっているところはめずらしい。朝から数百円でうどんがすすれるのは素晴らしいことだ。

昼はそうめんを食べる。小豆島はそうめんが有名らしい。たしかに、市販のものとは違い、極細うどんのような噛みごたえのあるそうめんだ。美味しい。

小豆島はかなりでかいので、さっさと歩いてエンジェルロードへ向かう。道中立ち寄ったカフェのコーヒーとチーズケーキも美味しかった。

エンジェルロードは干潮が予定よりも遅れており、海を見ながらぼんやり座って待つ。スケジュール的にギリギリになってもまだ道が現れ切っていなかったので、靴を脱いで渡ることにした。3月の水はまだ殺人的に冷たく、裸足で渡るには貝殻のギザギザがしんどかったが、どうにかこうにか向こう島までたどり着いた。たどり着いたからには戻らなければならない。

それで、フェリーの時間がギリギリになってしまったので、諦めるかレンタルサイクルを利用するか走るかで、走ることを選択する。文系の大学院生にとっては結構な距離だ。荷物を持って走るには遠い。この数年で最も過酷な移動であり、数分前の海渡りとあわせて、一種目除いたトライアスロンでしかなかった。15時前になんとか港に到着したが、なんたることかフェリーの時間を間違えており、まったくの走り損だった。ともかく、精神的にも肉体的にもいい思い出ではある。

予定よりやや遅で高松港に戻り、本日二食目のうどんをいただく。窯バターうどんは、うどん版の卵かけご飯といった趣で、おいしい。ドーミーイン近くの商店街でジェラートを食べ、骨付肉を買って帰る。骨付肉は、親鶏のほうが噛みごたえがあり、食べ物として面白かったが、シンプルに美味いのは雛鳥だ。スーパーで買ってきたビールを飲み、風呂に入り、寝る。

2022/03/13

実質的な一日目。高松港から高速艇に乗り、豊島へ向かう(とよしまではなく、としまらしい)。瀬戸内海は波が穏やかで、遠くにぼんやりと見える島々が美しい。全体的に空気がしめっぽいのに、陽は燦々と照っている感じが好みだ。広島は小学校2年生のときに去ってから一度も戻っていなかったので、瀬戸内海を見たのは18年ぶりだ。

海のレストランで昼食を食べる。トタン造りのクールなお店で、オリジナル果実酒の「ウミトタの麦とホップと檸檬のシュシュワっとしてるやつ。」もよかった。テラス席は景色が抜群によいので、当日予約が取れてラッキーだった。豊島を出て、直島へ向かう。

直島では、アカイトコーヒーでコーヒーとトーストをいただく。安くて美味しい。基本的に、香川の喫茶店はどこも安くて美味しかった。窓から向かいの家の玄関先で、でかい犬が2匹日向ぼっこしていた。

地中美術館。安藤忠雄によって設計されたコンクリ造の建物に、モネとジェームズ・タレルとウォルター・デ・マリアが恒久設置された施設だ。地中なのに陽の光が差し込む建物がほんとうに格好良く、設置されている芸術作品が半ば食われていたぐらいだ。モネは睡蓮シリーズから5作が展示されていたが、靴を脱いで入ったところの向かいに一番大きい作品を置いているのが、かなりよかった。ジェームズ・タレルはかなり好きなアーティストで、地中美術館ではくぼんだ部屋のなかに入り込む作品がよかった。奥まで行くと距離感が失われ、目は照明の色を追う以外の機能を奪われる。きれいな作品だ。ウォルター・デ・マリアははじめて見たが、教会のような広い部屋に、木でできた無数の柱と、中央にGANTZのような黒玉が設置された作品だった。木の柱は三角形、四角形、五角形のものがあり、3本セットで{三角、四角、四角}みたいな感じになっているのが計27セットあった。数列的なリズムがあり、不思議な作品だ。

ベネッセハウスミュージアムへの心残りとともに、直島から高松港に戻る。到着後24時間にしてようやく香川のうどんにありつく。うまい。うどんはもちろん、天ぷらも安くて盛々なのが最高だ。店員がこっぴどく叱り・叱られていたが、それは彼彼女らの問題なのでとくにできることはなかった。

せとしるべ灯台を散歩する。かなりの距離があり、夜なのに釣りをしている人が多かった。周辺はバイカーのたまり場になっていた。風呂に入り、部屋に戻り、寝る。

2022/03/12

3/12から3/16まで恋人と観光で香川〜岡山に行ってきた。

この日はLCCの夕方便に乗る予定だったので、荷物をまとめ成田へ向かう。銀座からバスに乗るのが行きやすいことを知った。

成田ではフレッシュネスバーガーを食べた。第3ターミナルはその他のふたつに比べるとしょっぱい施設だったが、時間をつぶすには十分である。私は飛行機が割と苦手ではあるが、ジェットスターは思っていたよりも揺れず、無事に目的地まで運んでくれた。

ドーミーインには9時に着いた。ご飯を食べに出かけたが、まん防もあってお店はどこもやっておらず、商店街にはとくになにかをしているわけでもないホストとキャバ嬢しかいなかった。ドーミーインに戻り、夜鳴きそばと大浴場を利用する。露天風呂に入っているとものすごい音量でバイカーが通り過ぎて行ったので、香川はよほど治安の悪い街なのでは、という疑惑を深める(最終的に、そんなことはなかった)。部屋に戻り寝る。

2022/03/11

シネマカリテでブレッソンの『たぶん悪魔が』と『湖のランスロ』を見てきた。ブレッソンはほとんど見ているが、めちゃくちゃ好きだと思えるのは一番最初に見た『ラルジャン』だけかもしれない。私はブレッソンのことを厳格な形式主義者だと思いこんでいたが、今思えばそのフレーミングこそ不適切だったのだろう。アキ・カウリスマキやジム・ジャームッシュにパクられている即物的なカットも、濱口竜介にパクられているセリフ棒読みも、ドラマを排除し、むき出しの理不尽を突きつけるための手段なのだろう。一度見ただけでその中心にある目的を拾い、手段を評価するのは厳しい。なにかが始まる直前にぶった切られたり、なにかが終わった直後から始まる場面が異常に多いし、人物のプロフィールに関する説明はどれも明示的でなく、顔と名前が一致したころには映画が終わっている。きっと私はいろいろ読んだ上で、もう一周ブレッソンを巡礼すべきなのだろう。そして、このような作業を要求する作家がいることは、ネタバレや倍速の否定派に対するミニマルな応答になるんじゃないかと思ったり思わなかったりする。